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フレイムレンジ・イクセプション  作者: 九条智樹
第7部 オーシャン・ラビリンス
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第1章 決別の水面 -4-


 衝撃の事実を前に、空気が凍る。

 そしてその静寂を始めに破ったのは、当の東城大輝だった。


「……俺に、彼女がいたと?」


 ひどく上ずった声だったのが余程おかしかったか、神戸はくすりと笑う。


「えぇ。可愛らしい人でしたよ。東城先輩と同い年です。――と言っても、精神年齢はその限りではないですが。かなり甘えたがるタイプだったと記憶しています」


 すらすらと答えられる辺り、神戸の作り話などではないのだろう。――ちなみに、オッサンは空気を読んだのか、いつの間にか病室を出ている。気の利くところは素晴らしいことだが、今は一人でも助け船が欲しい場面なのだから、最悪の状況だ。


「……何故に、このタイミングでカミングアウトした?」


「面白そうだったので」


 神戸は一言であっさりと言い切ってしまう。なかなか薄情な奴だったが、しかしその神戸の予想は見事に的中している。


「た、大輝様に、かつてお付き合いしていた方が……? え、あ、う? あぁ、お赤飯とお線香の用意が――」


 七瀬は傍から見ている方が不安になるくらいに狼狽していた。その様はどこか既視感がある。


「落ち着け、七瀬よ。まずは落ち着いて包丁の場所を――」


「お前が落ち着け美桜。俺を殺すのだけはやめよう」


 そんな七瀬に対し、顔に影がかかり不敵に笑ってヤンデレ化する美桜を、養生は羽交い絞めするように抑える。――正直、そうでもしないと本気で刺されそうなくらいの殺気を放っていた。


「へーほーふーん。大輝くんってやっぱりモテるんだねぇ?」


「冷たい視線どころか本気で極寒の冷気を放つのもやめようか」


 まだ秋の終わりかけだと言うのに、病室の空気は真冬の北海道並に冷え切っていた。


「……軽く修羅場になりかけているんだが、これのどこが面白い?」


「先輩たちのリアクションは軒並み面白いですけれど」


「……お前、俺に絶大な恩義があったと思うんだが?」


「僕は元々、こういうことを楽しむ人間ですよ。今の先輩に初めてあったときも、だいたいそうだったでしょう? あの時は隠し事のせいで演技もありましたけど、七割方は素です。それに、恩の有無で対応を変える方が不誠実な気がします」


 言われて、東城は思い返す。

 確かに柊と七瀬の二人の間に挟まれている間にも、神戸は東城を助けようとはしなかった。適当なことを言って傍観者に回って笑っていたのだろう。


「腹黒い後輩だ……」


「えぇ。腹黒さに関しては自信があります」


 何故か胸を張る神戸に、東城は深くため息をつく。


「で、その彼女がいたとかいう時期はいつの話だ?」


「先輩が僕と同じ年くらいの頃ですよ。割と早く別れたのだけは記憶していますが、その後も普通に仲良かったですね」


「そうか」


 そっけなく東城は答えるが、しかしそれ以上に言葉が見つからない。

 正直、記憶がなかった頃の自分の交友関係について何を言われたところで、特に思うことなどなかった。あるとすれば、「その相手に自分は、今後どんな顔をして会えばいいのだろうか」くらいのものだ。


 それで、話は終わるはずだった。

 この場に流れる空気は、いつものものでなければならない。西條が悪戯気に自分を「妻です」と他の連中に説明したときのような、そういう類の話になるはずだった。――きっとそれは、簡単に熱くなる東城をクールダウンさせるための神戸の気遣いだったのかもしれない。


 だから。

 この場において、そのリアクションだけは全くの予想外だった。



「大輝に、元カノ……?」



 初耳だとでも言うように、その金髪の少女は驚愕に顔を染める。


「……は?」


 そして、それが東城にはどうしたって理解できなかった。


 何故なら。

 彼女は、記憶を失くす前の東城のことを一番よく知っているはずだった。恐らくは、神戸なんかよりもよっぽど知っている。知っていなければおかしい。


 なのに。

 その彼女が、東城にかつて交際相手がいたという事実を知らないという。

 たったそれだけの事実が、何よりも奇妙な現実を示している。


「神戸。それって、本気で言ってる?」


 確認するように、柊は言う。その顔は、どこか引きつって見える。


「僕はこういう嘘はつかないですよ。というより、柊先輩も面識あるじゃないですか」


 ざわりと、肌が粟立つ。

 何か得体の知れない恐怖が這い回る。


「……私は」


 ただの事実として以上の恐怖が、そこには内包されている。おそらくそれに気付いているのは、東城くらいなのだろう。


「私、そんな子知らないわよ……」


 決定的に、彼女はそう言う。

 ピシリ、と足元にヒビが走った気がした。


 東城大輝にはかつて交際していた相手がいた、と神戸は言う。

 しかし、柊はそれを知らないと言う。

 何かの勘違い、という線はない。何しろ、日常生活レベルであればこれはかなり大きな話題に入る。ほんの数年前とは言え、記憶に齟齬が生じるようなことは考え難い。


 神戸が嘘をついている。あるいは、騙されている。

 その可能性は十分にある。


 だが。

 この場の誰もが、そうは思わなかった。

 彼らに共通してよぎったのは、別の可能性だ。


「記憶が、消去されている……?」


 東城は自分で言って、酷く体が震えるのを感じた。

 その可能性は低い。そのはずだ。


 しかし。

 彼女は、現にこうして原因不明の意識障害を経験している。そのことと、まったく無関係に結びつけるのは無理な話だ。


 もしも二つが繋がっているとすれば、外部からの記憶消去以外に考えられない。


「……一年より前のことは、覚えてるか?」


「アンタと出会ったときなら鮮明に」


 柊の返答に、東城は安堵と共に「やっぱりか」とも思う。

 東城が記憶を失った原因は、神戸が行った『脳の回路を組み替える』ことによる記憶消去だ。そしてそれは、完全なデリートに等しい。

 東城は思い出や交友関係を一部たりとも思い出せない。思い出す為の仕組みが備わっていない、と言うべきか。


 例えるならそれは、書き込み用のDVDを古いものから新しいものへ取り替えてしまったようなものだ。新しいディスクでどれほど復旧を試みたところで、そもそも過去のデータはそこにない。

 だが、柊は過去のことを全て忘れた訳ではない。となれば、神戸やそれと同じ手法による記憶消去ではなかった、という結論になる。


 そもそも、神戸が東城の記憶を消したのは、彼が柊の怒りを買う為だ。自身の罪過を死で償う為、自分を確実に殺してもらう為に、記憶の消去を行ったのだ。

 故に、いま神戸には柊の記憶を消す理由がない。――第一、今では神戸はその行いに罪の意識を抱いているくらいなのだから。


 そこで考えられる原因は、おそらく二つだけだ。


「そのときの記憶がよっぽど辛くて、忘れてしまったか」


 西條がその意見を言う。実際、それが一番可能性は高いだろう。だが、この場の誰もがそうだとは考えてはいなかった。


「あるいは、誰かの能力によって、その林道ってやつに関わる記憶だけを消去されたか」


 自分で言って、それでも東城は驚きを隠せなかった。

 そんなことが起こり得るのか。

 もし本当にそうだったとしても、柊が失った記憶は本当にそれだけだったと言えるのか。これから先、彼女が徐々に記憶を失っていくような事態にならないのか。


 様々な可能性が頭をよぎり、その度に酷く吐き気がした。それはきっと、西條や美桜も同様だったのだろう。

 相手の存在がいたとしても、正体が掴めなければどうすることも出来ない。しかし彼女の身体の安全はどこにも保証されていない。いつどんな症状を発するのか、分からないのだ。


 誰もが、不安になっている。

 そのはずだった。

 だが、東城はほんの一瞬、それでも確かに見てしまった。



 柊美里の口元が、僅かに緩んでいたのを。



 直後だった。

 乾いた音が、病室に響く。

 鏡の如く澄んだ水面に石を叩きつけるような、そんな音だ。


「な……」


 東城にはそれ以上の言葉が出てこなかった。

 その音は、七瀬七海が柊の頬を打った音だったからだ。


「……何を、笑っているのですか」


 その言葉に、柊がハッとする。そして申し訳なさげに、ただ熱くなった頬に手を当てて俯いてしまう。

 その様子が気に食わないのか、七瀬の視線は更に鋭く研ぎ澄まされていく。ともすれば、それだけで人を傷つけかねないほどに。


「……おい、七瀬」


 思わず東城も咎めるような声になってしまう。だが、七瀬は決して東城の方を振り向こうとはしなかった。


「大輝様。申し訳ありませんが、退室していただいて宜しいですか」


 酷く冷めた声音だった。いつもは好意を向けられていた東城は、そんな声を随分久しく聞いていない。こんな声を聞いたのは、彼女が自分の命を刈りに来たときくらいだろう。

 この場を二人に任せるのは、常識的な判断ではあり得ない。片方が手を上げてしまっている以上は落ち着かせるのが先決だ。


 それでも、東城には「落ち着け」なんて言葉さえ言えなかった。

 その資格が、彼にはない。


「俺は、別に――」


「お願いします」


 それでも食い下がろうとした東城の言葉を遮ってまで、七瀬はそう拒絶した。

 東城は唇を引き結び、無言のままに西條たち三人を連れて病室を後にするのだった。


     *


 かたりと、戸がゆっくりと締められる音がした。

 それを確認してから、七瀬はもう一度柊に向き直る。


「今ご自身が何をしたか、理解していますわね?」


 七瀬の問いに柊は答えない。答えられる訳がない。だからそれは、肯定と全く同義だった。

 彼女は、自身の記憶が消されているかもしれないと知って、笑っていた。

 それは何故か。

 神戸のような物理的な記憶消去では、今回の『林道愛弥』のことだけを忘れているという事態にはなりえない。何らかの心因性によるものだとしても、そんな事態になっていたとは、神戸の口ぶりからは考えられない。

 しかし現に記憶が消えているとなれば、考え得る可能性は一つ。


 記憶を操る異能力が存在する。


 そこに思い至ったが故に、柊美里という少女は思わず笑みをこぼしてしまったのだ。


「……思い返せば、貴女は一度たりとも今の大輝様を見てはいませんでした」


 彼女は一度だって、今の東城大輝を求めていない。

 彼女が東城の心配をするのは、それが、自分の知るかつての東城大輝と同じ身体だからだ。


「いや、少し違いますわね。もうかつての大輝様とは再会できないと知り、貴女は今の大輝様で妥協していた」


「――ッ!」


 柊の表情が大きく傾ぐ。しかし、否定の言葉はない。


「だから昨日の貴女は、大輝様の姿を見て歓喜した。自分の良く知る大輝様にさぞ似ていたのでしょうね」


 昨日、東城大輝はフェニックス・グレンフェルを倒すべく、一つの力を手に入れた。

 炎を織り込み、布のように身に纏うことで絶対の防御としたのだ。

 そしてその姿は、僅かに違えども、かつて記憶を失う前の東城大輝と重なっていた。

 だから彼女はあのとき、喜びを隠せなかった。


「それでもやはり、貴女は今の大輝様には不満があったのでしょう。けれどここに来て、かつての彼と再会できる可能性が浮上してしまった。記憶を操作する異能力者がいるのなら、記憶を蘇らせる術があるかもしれない。そう直感したのでしょう?」


「……そう、ね」


 力なく、柊は頷く。


「私はたぶんそれに気付いた。それがどんなに最低なことか理解するより先に、心が動いた」


 だからあの瞬間、柊美里は笑みをこぼした。今の東城の全てを否定して、かつての東城へ執着してしまった。

 それを全て悟ったから、七瀬七海は激昂し、彼女に手を上げるしかなくなった。

 言い逃れの余地など彼女にはない。

 仮にあったとしても、七瀬七海はそんなことに耳を傾けやしないだろう。


「貴女の行いは、紛れもなく大輝様への裏切りですわ。二心を抱いていると言っても過言ではないでしょう」


 きっと柊も、そんな真似を望んでいた訳ではない。だがしかし、やはり柊はかつての彼への憧憬が捨て切れなかった。

 それを非難する権利は誰にもないのかもしれない。最低だと分かっていても、自分を含め、人の心など理性ではどうすることも出来ないのだから。


 それでも。

 七瀬七海は、それを赦すことだけは絶対に出来なかった。


「貴女は、大輝様を傷つけた」


 七瀬は侮蔑と共に柊を見据える。もはやそこにある熱量は、完全に失われている。

 東城は気にしていないと言おうとしていた。だが、それは嘘だ。


 彼はどこかで諦めている。二番目でも構わないと、そう甘んじてしまっているだけだ。

 本当は、東城大輝は、記憶を失う前の自分など見てほしくないに違いない。あるいはせめてちゃんと自分を見ていてほしいはずだ。


 そんな彼の心を踏み躙るなど、あってはならない。

 それは断じて許されざる悪性の塊だ。


「……貴女になら、と、思っていたのに」


 七瀬は彼女との一騎打ちに敗北した後、そう思った。やはり東城大輝に相応しいのは、彼女なのだろうと認めていたのだ。

 けれどそんな想いも含めて、柊美里は踏み躙った。


 だから。

 七瀬七海は、柊美里を蔑如し嫌悪する。


「――大輝様の御心がどうであろうと、今後わたくしは貴女を助ける為だけには絶対に手を貸しません」


 突き放す。

 もう戻らないと知りながら、それでも。


「良いですか。わたくしは貴女に失望し、絶望しました。わたくしは貴女に憤怒し、憎悪しています。ですから二度と、わたくしの前に現れないで下さいませ」


 その言葉を、柊は黙って聞いていた。口を開く資格さえ、今の彼女にはない。

 ただ重い空気の中、七瀬だけが、淡々とした口調で続ける。


「さようなら」


 背を翻し、七瀬は彼女の下を去る。

 決別と共に、薄い引き戸が閉ざされる。

 それはガラスが砕け散るような、取り返しのつかない音に似ていた。



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