第1章 決別の水面 -1-
――そこに、勝利はなかった。
それでも、東城大輝はフェニックス・グレンフェルを退けた。ただ奪われたものを奪い返す。その為に抜いた剣を手に。
全ては、そこで終わるはずだった。勝利はなくとも、目的は果たしたはずだった。
なのに。
そのはずなのに。
柊美里は、何の前触れもなく意識を失った。
幽光のように、儚く何かが消えていく。
そんな感覚だけが、その場に残る――……
*
東城大輝の指先が、カタカタと震えていた。
十一月に入りすっかり寒くなったとはいえ、まだ昼前だ。厚めの雲の間を縫うように刺す陽光は、確かに温かい。
だから、彼は寒さで震えているのではない。
「柊……っ」
目を閉じ、祈るように彼女の名を呟く。
現在、彼女は地下都市の病院で、最高の肉体操作能力者の神戸拓海の診察を受けている。
東城と七瀬は診察室の前のベンチに座って、その結果を待っているところだ。
「……何か、飲み物は要りますか?」
極度の緊張にも似た様子で取り乱している東城に、七瀬は持ち得る限りの優しい声をかける。それほどに気遣わせてしまっていると頭では分かっていながら、しかし東城は小さく首を横に振るしかなかった。
自分が酷く脆くなっていることに気付かされる。
だが、東城の全ては柊に依存していた。彼女がいなければ初めて会った七瀬に殺されていたし、今までこうして彼が戦い続け、少なくない数の人を救えたのは、彼女の為にという想いがあったからだ。
その柱がいま、揺らごうとしている。
吐き気が止まらない。
目眩がする。
あとどれほど待てば、この診察室の扉は開くのか。開いたところで、そこで柊の命の保証はされるのか。
ただただ不安が募って、それは東城の心を押し潰していく。
それは顔に表れるどころか、全身からにじみ出ているのだろう。七瀬は柊よりもむしろ東城の方を心配しているようにただ見つめていた。
「……悪い。余裕がねぇんだ」
七瀬に短くそう言って、東城はただ祈りを続けた。
カチ、カチ、と響く時計の針の音が酷く耳障りだった。ぎりっと歯を噛みしめ、のしかかる暗い闇に耐える。
やがて。
何時間にも感じられた、実際にはほんの十分足らずの静寂を破って、その扉が開く。
姿を見せた神戸は、酷く疲弊しているように見えた。歳は十二、三といったところなのに、東城たちよりも老けて見えるほどに。
「神戸」
「そんな恐い顔で睨まないで下さいよ、先輩。柊先輩ならバイタルは安定しています」
その言葉を聞いて、東城はほっと胸を撫で下ろす。――だがその言葉は同時に、未だ彼女が目を覚ましていないということを指している。
暴れる心臓を抑えるように自身の胸の辺りに拳を押し付ける。それでも、次の東城から出た言葉は間違いなく脅迫めいた声音だった。
「……原因は何だ」
「落ち着いて下さい。そんな凄まれたって――」
「落ち着いていられるかよ……っ」
抑圧に抑圧を重ねても、その声はもはや怒号と取られかねないレベルのものだった。それでもまだ自分を保っていられるのは、彼が柊の病状を知りうる唯一の人間だからだ。
「早く教えろ、神戸」
そう詰め寄る東城。彼ならば、柊が何故倒れたのかを言い当ててくれると思ったからだ。
しかし、その信頼は裏切られる。
「……分かりませんでした」
酷く短い言葉だった。しかし対して、それだけでヒビだらけだった東城の足元を粉々に打ち砕く力を秘めていた。
「僕の持てる能力全てで、彼女の身体を詳しく検査しました。おそらく現代医療でも数週間かかるレベルの精密検査です。――それでも、原因の特定は不可能でした」
「どう、いうことだ……っ!? 何の異常もないっていうのに、柊が倒れるのかよ!?」
「完全に健康な人間などいません。もちろん直接的な意識障害に繋がる異常は見つけられませんでしたが、たとえばかつてのケガの治療痕、あるいは一般的にも無視されるレベルのごく軽度な数々の体調不良の要因。それらのどれかが、今回の意識障害に繋がっている可能性もあります。その診断は僕の能力を超える」
神戸はそう言って、東城をなだめるような、そして申し訳なさげな声で続けた。
「元々、僕は医者ではありません。肉体操作能力者ではありますが、その仕事はMRIのように体を見ること、あるいは外科・内科的な治療です。複雑な診断は僕の能力の埒外です」
言われれば、分かることだった。
超能力者は元々、軍事兵器として生み出された。つまり、彼ら、あるいは彼らの能力は道具として存在する。彼らを運用することこそが軍人の仕事であり、能力者自身は軍人ではない。
それでも自我を持っているのだから、道具を超えた判断は出来る。しかし高度に医療的な判断は、肉体操作能力者としての知識や能力だけでは補えない。
今回は、神戸でさえ力不足だったと言うただそれだけの話。
だけど。
そう、分かっているけれど。
「ざ、けんなよ……ッ!」
みしっ、と奥歯を噛み締める音が頭蓋を震わせる。もはや東城から理性というストッパーは弾け飛んでいた。
彼が戦ってきたのは、全て彼女の為だ。
自分は記憶を失くしてしまったから、彼女の涙を止める術を失くしてしまった。だからこそ彼女の為に自分は戦い続けると決めた。自分に出来ないことを、そのただ一つだけにする為に。その為ならどんな死地にも赴こうと、そう自分に誓いを立てた。
それが、目の前で奪われようとしている。
その事実が堪らなく恐ろしかった。
気付けば、東城は神戸の胸倉を掴んでいた。まだ自分よりも小さな彼の踵が、地面から離れてしまう。
「お前は最強の肉体操作能力者だろうが! その体はどんなことをされたって死なない不死身で、それを支えてるのはお前の能力なんだろ! それがどうして、柊一人の診断が出来ねぇ!?」
「大輝様……」
傍で見ている七瀬の方が、辛そうな声を出す。制止することさえ出来なくて、ただ名前を呼ぶしかなかったのだろう。
けれど、そんな声も東城には届かない。
既に頭に昇った血は、彼から最強の能力者としての尊厳を奪っていた。今の彼は醜く喚き散らす、弱者でしかない。東城はただ泣きそうな顔で、己の喉を引き裂き続けた。
「お前の能力で九千の能力者を生み出したんだろ! それだけの力がお前にはあるんだろうが! だったら――」
「いい加減にしなさい、バカ大輝くん」
言葉の直後だった。
視界が明滅したかと思えば、東城は真横に吹き飛んでいた。何をされたのかさえ理解できないほど、東城の思考や視界は狭まっていた証だ。
ずきずきと熱を持ったように痛む額から、どろりと何かが流れ落ちるのを感じる。それを抑えながら、彼は自分が立っていた場所を見やる。
代わりにそこで立っていたのは、一人の少女だ。白いボブカットの髪を揺らし、どこか東城にも似た瞳で、憐憫を混ぜて彼を見つめている。
「真雪姉……」
西條真雪。東城の唯一の血縁者にして、真逆のイクセプションという能力を持つレベルSの氷雪操作能力者だ。
柊のことを聞いて、駆けつけてくれたのだろう。そして無様な東城の姿を見て、叱りつけてくれたのだ。
「拓海くんが自分の能力を嫌悪しているのは、大輝くんも知っているでしょう? それを焦りと怒りだけで甚振るように言葉をぶつけるのは、おねーちゃんとしては見過ごせない」
はっきりと言われ、東城はぐぅの根も出なかった。
馬鹿な真似をしたのは東城の方だし、西條の言葉も至極真っ当だ。
神戸は、自分の能力に酷い罪悪感を抱いている。それは、彼の能力が原因で超能力の研究開発が進んでしまったからだ。一時期は、そんな自分を憎んで死する道すら選ぼうとしていた。その覚悟の結果は、東城大輝が記憶を失くしているということに繋がっている。
当事者でありながらそんなことを忘れて、こんな暴言を吐くなど許される行為ではない。
「――どう? 少しは昇った血は引いたかしら?」
そう言った彼女の手には、透明な棒状のものが握られていた。あれはおそらく能力で生み出した氷の武器の類だ。それで東城を殴り飛ばしたのだろう。
「……悪い、取り乱し過ぎた」
そこまでしないと止められない、と彼女が判断するくらいには自分は馬鹿な真似をしていたのだと東城は気付かされる。自分の無様さに羞恥と罪悪感、そして自己嫌悪を混ぜ合わせたような酷く気持ち悪い感情が押し寄せる。
「醜い言葉だった。本心でないとは言え、本当に悪かった」
「僕は気にしてないんで大丈夫ですよ。……というより、いきなり氷の剣でぶん殴った先輩のお姉さんの方にドン引きです」
「……え」
突然の矛先の方向転換に、西條が間抜けな声を出す。
「まぁそうだな。ぶっちゃけ私も西條の方がやりすぎに見えたぞ。――はい、ハンカチだ東城」
そう言いながら、西條の陰に隠れていた黒羽根美桜が、ポケットからさっとレースのハンカチを取り、投げるように――彼女の能力でそれが破けてしまわないようにであろう――渡してくれた。それをありがたく受け取って東城は額に当てる。
「お前も来てたのか。――掌は、いいのか?」
東城はそう問いかけたのは、彼女の能力のことだ。美桜の能力は制御できておらず、感情が高ぶれば周囲に危害を与える可能性がある。だから、彼女は基本的に西條の部屋に閉じこもっているのだ。
「拳を固く握りしめていれば、ある程度は問題ない。地下都市に来てしまえば、七瀬がいるしな。文化祭のときのように水の膜を張ってもらえば問題ない。――それよりも、東城よ。お前の今の傷の方が心配だぞ」
ゴスロリの服に身を包んだ幼い少女――と言っても、そこにいる神戸と同い年だが――は、心配そうに東城の怪我を見ていた。白けたように責める視線を西條へ向けつつ、ではあるが。
「み、美桜ちゃんまで……っ」
針の筵のような「やりすぎ」の視線に、西條が演技っぽく涙目になる。
「お義姉様の隠れた暴力性はさておくとして」
「七海ちゃんも!?」
驚愕する西條だが、そこまでが計算じゃないだろうか、と東城は思う。
この一連の流れで、東城が作っていたピリピリした空気はかき消されていた。そこまで見越していたとしたら、さすがは東城の姉だ。彼を彼よりも知っている。
「流石に、先ほどの大輝様の愚行は目に余りましたわ」
「……まぁ。自分でもバカバカしいほどに取り乱してたよ」
がしがしと頭を掻きながら、東城は七瀬のじとっとした視線から目を逸らす。
現状、柊が目覚めていないということに変わりはない。
しかしそれは東城が一人で焦り、空回り、八つ当たりしていて解決することではない。
「では、その冷静になった頭で、次は何をすべきか、大輝様が決めてくださいな」
七瀬に言われて、東城は考え込む。
いま必要なのは、柊が意識を失った原因を知ることだ。このまま回復しないかもしれないし、自然に回復したとしても再発するかもしれない。
何より、状況を考えるとグレンフェルとの戦闘の直後だった。異能力者側から何かをされた可能性もある。――もっとも、単純に何かの病気とも考えられるが。
どちらにせよ、正式な医者の診断は必要となるだろう。
ではそれを誰に頼むのか、という問題になる。
能力者は社会に秘匿されなければならない。いずれは能力者を社会に受け入れてもらわなければいけないとは言え、現段階では弾圧される恐れが高い。軍を放棄している日本にそんな非人道的な兵器が眠っているとなれば、下手をすれば世界を揺るがすレベルの大ニュースに発展しかねない。
しかし、それを隠した状態で診察を頼んで、正確な診断が出来るだろうか?
可能性の一つとして異能力による影響を考えておかなければならない状況で、それを排除してしまうのは得策ではない。
人選は慎重を要する。
しかし、神戸ですら分からない原因となると、要求される医師のレベルは跳ね上がる。
秘匿性を保持し、かつ、だれよりも優れた医師。
そんなものに東城の心当たりがあるとすれば、ただ一人だけだ。
「……オッサンに頼むしかねぇか」
それは、東城の保護者を買ってくれた人の愛称だ。
記憶を失った彼が一般人としての生活を一年以上も送ってこられたのは、彼が東城の面倒を見てくれたからだ。東城からすれば、オッサンほど信頼できる人間もそうはいない。
そして同時に、彼は非常に優れた医師だ。医神の異名を持つ、正真正銘の世界最高の総合医だ。
「……確認するけれど、その人は能力者に対する知識はあるのかしら?」
西條が不安そうに問いかける。それも当然だろう。いくら東城が信用しているとはいえ、一般人に能力を明かすことを彼女たちが忌避するのは当たり前だ。
「ねぇよ。けど、俺の保護者だ。俺が能力者である以上、いずれは言わなきゃいけないことだろ。隠し通すなんて不義理な真似はしたくなかったし、ちょうどいい」
「東城先輩。分かってるとは思いますけど、一般人に能力者の存在を知られるのは、色々と危険を孕んでいますよ」
「分かってるさ。けど、お前に診断が出来ない以上、他に手段があるとは思えない。たとえば地下都市にいる接触感応能力者に出来ることも、ほとんど神戸と同じだろうしな」
釘を刺すような神戸に、東城は整然と答える。そしてその考えを間違っているとは言い切れないから、神戸もこれ以上は追及しなかった。
危険な橋であることは、東城自身も分かっている。柊を助ける為とはいえ、これが絶対に正しい方法かと問われれば否だろう。
たとえほんの一パーセント以下であろうとも、九千の能力者を危険に晒すことになることに変わりはない。そのごく僅かな確率を引き当ててしまった結果、下手をすれば能力者の存在を言い訳に、適当な国が日本に戦争を仕掛ける可能性もある。そうなればもはや億単位の人間に危険が及ぶ。
絶対の保証がない以上、神戸たちが渋る理由も分かる。
しかし。
「良いではありませんか」
七瀬七海は、そう言った。
そのことに、この場にいた誰もが驚きを隠せない。
誰よりも冷静で、時に冷徹で、敵には冷酷な彼女だ。もちろん優しさや情熱も併せ持ってはいるが、彼女は本質的に理性の化け物のような存在だ。
その彼女が、世界を軽視してでも柊を護ろうと言っている。
「どの道、他に解決策がある訳ではないでしょう。――まさか、たった一人の危険を無視して他の能力者を万が一の危険から遠ざける方が優先だと?」
その言葉に、皆が何も言えなくなる。
そういう紙の上の計算のようなことを、東城大輝は嫌悪する。そして、彼らは皆その東城に憧れているのだ。そんな風に言われてしまえば反論できなくなって当然だ。
「わたくしは、大輝様の決めた道であるならどこまでも付き従いますわ。もし本当に能力者に危険が及んでも、わたくしも全力で護り抜いてみせますもの」
力強く言う七瀬に、東城は照れたように笑う。――だが、彼の瞳に宿る炎はそれに正面から応えるように燃えている。
「……そんな深刻に考えなくていいだろ」
軽い声音に見せかけて、それはいつもの東城の声だった。
柊を助ける手段がそれしかないのであれば、彼は躊躇なくその道を選ぶ。
もしその過程で他人に不利益が及ぶというのなら――
「万が一のときは、俺が何とかする。絶対に誰一人危険な目には遭わせねぇ。何たって俺は最強の超能力者だぜ。自分の我儘くらい、世界が相手にでも通してやるよ」
にやりと笑うその眼光は、先程までの不安で塗り潰されたものとはまるで違っていた。