第3章 木漏れ日 -3-
地上に戻って来た東城は、ただぶらぶらと町を歩いていた。
目的など無い。家に帰って寝てしまえば楽になるのだろうか、などと思いながらもそこまで歩く気力も無かった。
既に体に走る痛みは和らいでいたし出血も止まっている。あれだけ感情をむき出しにしていながらも、柊は手加減をしていたらしい。
気付けば、東城はおととい柊と一緒にいた公園のベンチに腰掛けていた。
本物の蝉の嫌にうるさい音が鼓膜を叩く。なのに、あの最後の言葉は未だに、蝉に紛れることも時間で薄らぐことも無かった。ただ鮮明な、そして冷たい響きが耳から離れない。
ふとそこで聞き慣れた、そしてとても懐かしささえ感じる声が聞こえた。
「あれ、東城やないか。しかも制服? もう土曜の朝やぞ。よぉ補導されんかったな」
コンビニのレジ袋を下げてカップアイスを食べながら歩く、センスの欠片もない私服に身を包んだ白川と、その隣で大人し目ながらスマートな服を着た四ノ宮がいた。
「ていうか、いくらおじさんが夜勤だからって夜遊びは良くないよ? まぁ、理由は訊かないけどさ。雅也がうるさそうだし」
「……お前はあの茶髪の美少女さんと進展あったか? いや無かったら朝帰りなわけあらへんよな羨ましいなコンチクショウ」
「んなもんはねぇし、妙な勘繰りすんな。この格好でうろついてるのはまぁ別の理由だ」
地下都市とさして変化の無い街並みだが、先ほどとは違い白川と四ノ宮がいる。ただそれだけで、東城は日常に帰ってきた気がした。
もう戦う必要はない。ここはそんな事とは無縁の世界なのだ。
もしかしたらさっきまでの時間は全て夢だったのではないか、とさえ思ってしまう。今までこのベンチで居眠りをしてしまっていて、そのまま夢を見ていただけなのではないか、と。
「……元気ないよね」
できる限りの平生を装っていたはずなのに、四ノ宮はそれを一瞬で看破してしまった。
「何かあったんか?」
それに同調する白川も、おそらく同じ事を最初から思っていたのだろう。いつもは馬鹿なのにこんなときだけどうして鋭いのか、と心の中で毒づく。
「何を根拠に言ってんだよ」
「んー、女の勘?」
「俺がいつもツッコむと思うなよ」
いつもの調子を取り戻せるかと思ったのに、そのトーンはあまりに低く“いつも”などとはかけ離れていた。
「やっぱ元気ないよね」
「……あー、そうだよ。だからほっといてくれ」
東城が突っぱねようとするが、白川は頷かなかった。
「捨てられた子犬みたいな顔しとるのに、ほっとけるか」
いい奴らだ、と聞こえないくらい小さく呟く。
思えば、東城が編入してきたとき、真っ先に声を掛けてきたのも白川たちだった。記憶が無いという噂がどういうわけか広まっていた為に、根も葉もない憶測が飛び交っていた中で、それをものともせずに真っ先に友達になってくれた。
優しいのだ。彼らはどこまでも、優し過ぎる。
だが、今はその優しさを遠ざけたかった。悪いのは自分だから、優しくされるなど虫が良すぎるにも程がある。そう思えてならなかった。
「頼むから、今は一人にしてくれよ」
ここで白川や四ノ宮にまで当たるほど東城も愚かではなかった。だが、その声は二人を少なからず脅していた。
実際、一年間付き合ってきて初めてそんな東城の声を聞いた白川は目を丸くしていた。
だがすぐに表情を立て直し、東城と肩を組み横に座ると耳元で囁いた。
「何があったかは知らんし興味もない。けどな、俺はお前の友達やろ。相談せぇとも隠し事すんなとも言わへんけど、ちっとくらいは頼れや」
その声は親のように優しく温かい、いつもとはまるで違う声だった。
だがその優しさを享受してはいけない。自分には、そんな資格すらない。
「……悪い。それでももう少しだけ、一人にさせてくれねぇか?」
白川の腕をゆっくりと肩から退けて、東城は膝を抱えた。
いっそ泣けたら楽なのに、涙はどうしてか出なかった。
「阿呆が。こういう時に黙っとっても支えになれるから、友達やっとんやろ」
そう言って白川は東城の頭に手を置くと、ぐしゃぐしゃと撫でだした。
横に四ノ宮も座って、それからしばらくは無言でいた。一分か、五分か、それとも十分か。
その静寂を、聞き慣れてしまった丁寧な口調が破った。
「このような所にいらしたのですね」
振り返るまでもなく、背後に立つのは七瀬だろう。少し息が上がっているようだから、走って東城を探していたのかもしれない。
「……どうして、お前らは俺を一人にしてくれねぇんだよ」
「あら。本当に一人になりたい人間が地下都市を出て、そのまま外にいるとは思えませんが」
七瀬はそう言って、東城の正面に立って真っ直ぐ彼を見据えていた。その視線に応えられず、東城は目を伏せる。
「ジオフロント? 昨日の美少女さんは何言うとるんや?」
能力の事を当然ながら何も知らない白川は頭に疑問符を浮かべていた。だが東城は説明する気はもちろん、ごまかす気も起きなかった。
「お前、一般人の前でその話してもいいのかよ」
「あら。よろしいに決まってますわよ。この程度の名前から何かを探る事は出来ませんし、そもそもアルカナや能力名に至っては元々が外で能力者の情報のやり取りに使う隠語ですもの」
「あぁそうかよ。それで、俺に何の用だよ」
「あら。せっかく霹靂ノ女帝から謝罪に等しい言葉を預かって来ましたのに、冷たいですわ」
ぴくっと体が反応してしまったが、その事にさえ嫌気が差した。謝られるような事を自分はされていないと、東城は本気でそう思っている。
悪いのも間違っていたのも、全て自分だと。
「……謝られる意味が分かんねぇって言っとけ。言葉を預かったってことは話も聞いたんだろ? あいつの言う通りなんだよ」
投げやりに答えて、それで終わらせようと東城は思っていた。だが七瀬がそれでは済ませず、ほんの僅かに語気を強めていた。
「ではどうして貴方はその様な辛そうなお顔をなさっているのでしょうか。霹靂ノ女帝の言葉を真摯に受け止め納得しているというのなら、貴方は嘆いてはいないでしょう?」
「うるせぇ……」
「あら、全く以って子供の様な回答ですわね。図星だからといって相手の口を塞ぐ程度しか思いつかないのですか?」
「うるせぇって、言ってんだろ」
それは先程までとは変わらず腑抜けた声なのに、思わず身を竦ませるような威圧感も持ち合わせた、矛盾した気味の悪い声だった。
その声に困惑したのか、七瀬も他の二人も何も言わなかった。
東城は立ち上がり背を向けて歩き出そうとした。もう一人になろうと、家にでも帰って寝てしまおうと思った。そうすればきっとこの気持ちも忘れられるかもしれない。
だが、その手を七瀬は掴んで引き留めた。
「逃げる気ですか? わたくしに逃げるなと言っておいて、結局は貴方も逃げるのですか? ならば貴方はわたくしが愛するに足る方ではありませんわね。ただの卑怯者ではないですか」
「好き勝手言ってんじゃねぇよ」
その手を振り払って、東城は七瀬を睨みつけた。だが恐れる事もなく、むしろ七瀬はその目を見つめ返していた。
「言葉だけは立派で、自身の行動がまるで伴っていない。それを恥とも思わず生きる貴方を、卑怯者と呼ばずに何と呼べと?」
「もう黙ってろよ!」
頭が沸騰するような気がした。七瀬の言葉など無視してさっさと去ればよかったのに、そんな思考が起こるよりも前に東城は叫んでいた。
それでも七瀬の表情は微塵も崩れない。それすらもが、余計に腹立たしかった。
「俺があいつを護ろうと傍にいるだけで、あいつは泣いちまうんだよ! 俺がどう言おうと、何をしようと! 俺がいる限りあいつは傷つくんだよ!! だったら俺は傍にいない方がいいに決まってんじゃねぇか!!」
「そんな屁理屈だけを並べて目を背けないで下さいな、臆病者」
ただの一言で、東城の顔が歪む。
「テメェだって……っ。テメェだって、目を背けてたじゃねぇか! テメェだって逃げてたんじゃねぇのか! 自分の事を棚に上げて偉そうに言ってんじゃねぇよ!!」
言う必要はないと分かっている。八つ当たりだという事も重々に承知している。だがそれでも、言葉は止まらなかった。これ以上、七瀬に心へ踏み込まれる事が恐ろしかったのだ。
「散々目の前の辛いことから逃げて、強い奴に負けたからってそっちの味方につく。テメェの方が卑怯で臆病じゃねぇのか! そんなテメェに説教される筋合いなんかねぇんだよ!!」
理性ではこんな事を言うのを止めたかった。だが衝動が体を支配して、まるで自分とは思えない醜く情けない暴言を吐いていた。
だというのに七瀬はその程度の事を見透かしているかのように、ただ東城を見つめていた。そしてまだ、東城の中にずかずかと踏み込んでくる。
「拗ねたと思えば今度は八つ当たりですか? 本当に餓鬼ですわね。これを霹靂ノ女帝は護ろうとしていたのかと思うと、反吐が出ますわ」
心の内が抉られ、酷く痛んだ。
「ん、だと……ッ!」
気が付けば、東城は七瀬の襟を掴んで無理やり立ち上がらせていた。数本の繊維が千切れる細い音が聞こえた。だが、七瀬は眉一つ動かさなかった。その程度の八つ当たりで、彼女の芯が揺らぐなどありえなかった。
「分からないのですか? このまま放っておけば間違いなく霹靂ノ女帝は一人で神ヲ汚ス愚者と戦う。そうなればどうなるか、本当に分からない様な莫迦ではありませんわよね」
「うるせぇ……っ!」
思わず拳を握り締めていた。これ以上何かを言われることに、耐えられないと思った。
「ちょお待て。やめとけ東城」
「そうだよ。それに君も言い過ぎだ」
そこで見ていられなくなった白川と四ノ宮が仲裁に入り、東城と七瀬を引き離そうとする。
だが白川も四ノ宮も押しのけて、東城は鬼のような形相で七瀬を睨みつけていた。
「テメェに何が分かるんだよ! 偉そうに言うだけ言って、また逃げんじゃねぇぞ!」
「だから、やめなって!」
これ以上は殴りかねないと思ったらしく、白川が東城を羽交い絞めにして四ノ宮が無理やり七瀬から引き離した。
「テメェに、何が分かるんだよ……っ」
泣きそうに震える声で、白川に抑えられたまま東城は唸った。
「見てねぇんだよ。柊の眼は、俺じゃない東城大輝をずっと見てんだ。耐えられるかよ! その事に罪悪感を覚える柊の傍で、それでも俺じゃない東城大輝を望んじまうあいつの傍で! 俺のエゴで柊の心をずたずたに引き裂くなんて、そんなの耐えられるかよ!!」
みっともないと、自分でも思う。
最強などと言っておいて、柊を護るなどと言っておいて、今の自分のやっている事の幼稚さには腹が立つ。だが、自分ではもう止められなかった。
「本当、いい様ですわね」
侮蔑するような、憎悪するような、そんな醜い感情を七瀬は隠さなかった。
冷徹で残酷な顔で、東城に射るような視線を向けていた。
「……ッ!」
東城は白川をとうとう振り払い、七瀬を砂の地面に押し倒した。が、七瀬は欠片ほども怯える様子を見せなかった。いや、そもそも恐れてすらいない。
「霹靂ノ女帝は、この程度の男の為に戦っていたのですか?」
叫びも怒鳴りもしないのに、その声は東城の腹の奥に重く響いた。
「一年もの間わたくし達を退け続けた彼女が護っていたものは、この程度の男だったのですか? 記憶が無いと分かっていながら、自分の知る彼ではないと理解していながら、それでも彼女が護り続けた貴方は、この程度で全てを投げ出す様な男だったのですか?」
何も、言い返せなかった。もう怒鳴り散らす気力すら起きなかった。自分はそれほどの無様を晒している。誰に糾弾されても仕方ないほどに。
「違うでしょう」
それなのに、七瀬がそれを否定した。
「貴方はその程度のちっぽけな存在ではないでしょう? ただの一般人として生きてきたというのに、それでもわたくしに立ち向かった貴方が。どれほど自分が傷つけられようと、それでもなお彼女の事を想える貴方が」
七瀬は東城の肩を掴んで、東城と共に無理やり立ち上がった。
「逃げないで下さいな。眼を背けないで下さいな。貴方のするべき事は、貴方のしたい事は、貴方自身がもう分かっているはずですわ」
あぁ、そうだ。分かっている。
だがその答えが分かっているからこそ、その答えではどうしようもないと分かってしまうからこそ、東城は嘆く事しかできなかった。
「分かるかよ……っ! 俺のその答えは、結局何にも解決しねぇんだよ……っ!」
七瀬の肩に頭を置いて、東城は必死に歯を食いしばる。
「なん、で……。どうして、俺にはそんな事もできねぇんだよ……。最強なんだろ……。俺のこの力は、誰よりも強いんだろ……。なのにどうして、柊を苦しめる以外に道がねぇんだ!」
「……全てをうまく収める事など出来ませんわ。それが出来るのならわたくしはここに来ていませんし、そもそも貴方と戦おうとさえしていませんわ。だからこそ、人は選ぶのでしょう」
七瀬は温かい手でそっと、東城の頬に触れた。
それはあまりに心地よく彼の心を優しく包み込んだ。
「このまま行けば、霹靂ノ女帝は肉体的にも精神的にも死ぬでしょう。ですが、貴方ならそれを覆せるはずですわ。元より貴方はその為だけに、力を取り戻したのではないのですか?」
何故か溢れ出る涙を、東城は止められなかった。心をかき乱していたものが、熱を持ってその滴と共に溶けだしているような気がした。
「もう一度だけ、訊きますわよ」
東城は顔を上げた。崩れたその顔は、もう立ち直っていた。
全てを吐き出し、全てを曝け出し、それでも東城はその願いを捨てられなかった。その願いだけは、どうしたって心の奥から揺らごうとしなかった。
たとえ記憶を失っても、あの夢で見た情景だけは消える事が無かったように。
「あぁ……」
エゴでも何でもいい。開き直りだと蔑まれるのならそれでも構わない。
だが東城はそうしたいと思った。
ならばそれだけが東城に残された唯一の真実であり、覚悟なのだ。
「貴方には、柊美里を護る気はありませんの?」