第3章 木漏れ日 -2-
「あ、……」
そこまで東城を追いつめて、柊はようやく周りを見ることが出来た。東城の痛ましい背を見て自分のしてしまった事がどれほど酷い事だったのか、今さらながらに気付いた。
大輝が記憶を失ったのは、そもそも誰のせいなのか。
――一年前のあの日、大輝を護れなかったのは私だ。ならば責めるべきは大輝ではなく私に他ならない。元より記憶を失ったのはかつての彼であって、今の彼には欠片の責任も無いのだ。こんなもの、ただの八つ当たりではないか。
だがもう遅い。そんな事を思ってどれほど悔いたところで、それは取り返しのつかないところまで行ってしまった。
「私、最低だ……――」
東城を追うことも出来ず、ただ柊は呆然とその場に崩れるしかなかった。
「あーあ。酷い面ですわね」
土手の上から、七瀬が滑り降りて来た。一部始終見ていた様子で、七瀬はちらりと東城が消えた方を見た。
「……何よ。笑いたいわけ?」
柊は七瀬の目を見ずに少しだけうつむいていた。
「確かに笑えますわね。馬鹿が馬鹿やって馬鹿みたいな面を下げているんですもの」
はっ、と短く嘲笑する七瀬を柊は睨みつける。
「アンタに、何が分かるのよ」
「少なくとも馬鹿な貴女よりは分かっているつもりですわ」
柊は言い返せなかった。馬鹿と言われても認めざるを得ないほど、今の柊はそのような真似をしたのだ。自分が間違っていた事も自覚しているし、それを取り繕うなど出来なかった。
「このままにする気ですか? このまま大輝様を傷つけて、それで貴女は終われるのですか?」
「黙ってよ。今はアンタと話してる気分じゃないの」
柊は七瀬の問いに答えられなかった。いろんな感情がないまぜになって、自分でも処理できなかった。
「でしたら無視なさればいいでしょう? そうしないという事は、そういう事ですわ」
見透かしたように微笑みかけた七瀬に、もう柊は答えなかった。今は一人になって気持ちを整理したいと思うが、それでも今ここで七瀬にまで八つ当たりすれば、いよいよもって救いようのない馬鹿になってしまう。
「別にわたくしは構いませんわよ。わたくしが心奪われたのは貴女とは違い、今の大輝様ですから」
「だったら、好きなようにしなさいよ」
「ですがお断りします」
にっこりと笑う七瀬に、柊はいら立ちを覚えた。だがそれを表に出さない。それをしてしまえばさっきの二の舞だからだ。
「傷心の大輝様を慰める事くらいならわたくしにも出来ますが、それでわたくしが貴女に勝っても嬉しくありませんもの」
「何が言いたいの?」
「さぁ。わたくしは何を言っているのでしょうね」
「あっそ。要するに私をからかってるわけね」
これ以上会話を続けていては七瀬にまで当たり散らしてしまいそうだと思った柊は、立ち上がって早足で歩きだす。
「あら。どちらへ行く気ですか?」
「アンタには関係ないでしょ」
「……ですわね」
やれやれとでも言いたげに、ため息と共に七瀬は肩をすくめた。
「――もしアンタが大輝のところに行くなら、ついでに謝っといて」
「それもお断りしますわ」
その程度なら七瀬も引き受けるだろうと思った柊は、不審に思って振り返った。
そうやって向き合わせる事が七瀬の意図だったらしく、柊の目を見て七瀬は笑った。
「貴女の謝罪は貴女でしてくださいな。それを人に頼むという時点で、それは謝罪としての意味を成していませんわよ」
「じゃあ後で謝るから待っといて、ってだけでも伝えといて」
「その程度であればよろしいですが、それはさっきの事についての謝罪ですか? それとも、今からなさる事ですか?」
「……両方、かもね」
柊美里はもう覚悟を決めていた。東城と戦ったときとはまるで違う。その澄んだ瞳には揺らぎなど無く、整った顔にはただ一つの感情を乗せていた。
「私の口から謝るにはまず私が納得できないといけない。だから、私は戦う」
柊は今の東城を受け入れられない。たとえ先程の自分は間違っていたと理解していても、それはどうしても譲れない。
だから、取り戻す。自分が渇望するあの懐かしい世界を、この手で必ず掴み取る。
あまりに残酷な現実を前に、それでも彼女は立ち上がってしまった。その残酷さを認め、受け入れ、それを乗り越える覚悟を背負ってしまった。
だから彼女はもう引き下がらない。たとえその結果、その身と心が打ち壊されようとも。
「私は自分の手で、奪われた大切なものを取り戻す」
七瀬の横を通り過ぎて、柊は河原を後にする。
柊のその瞳には、あまりにも脆い覚悟の電光が走っていた。
*
「まったく……。わたくしも馬鹿になり下がったのですわね」
引きとめる事もできず、七瀬は深いため息と共に呟いた。柊のその覚悟を止める事ができるのは、同じだけの覚悟を持った者だけだろう。
柊がこれから何をしようとしているのか、それが七瀬には分かっている。だが同時に、その末路もまた……。
そこから助けたい、などと思ってしまった。目的の為には自分も相手も殺すような、それほど冷酷に徹する事のできる七瀬七海が、不覚にもそう思ってしまった。
今さらそんな正義ぶるのは間違っているとは分かっている。そんな真似をするのは自分らしくないとも分かっている。
それでも、柊を助けるために七瀬七海は立ち上がる。最悪の結果を止める事のできる、ただ一人のもとへ行く為に。
その末路の果てに誰がもっとも傷つくのかまで分かるからこそ、たとえ自分が辛い目に遭おうと構わないと切り捨てる。
「わざわざ辛く損な役割を選ぶなんて、わたくしらしくない……ですけれど」
さっと顔を上げて、その一歩を七瀬は踏み出した。