第3章 木漏れ日 -1-
雲にさえぎられ弱まった日を肌に感じながら、東城はただ座りこんでいた。
小鳥も蝉もいない閑散としているはずの地下都市の中を、能力者が再現した疑似的な音が満たしていた。しかしそれもどこか寂しく聞こえる。
あの神戸との戦闘から一晩が経ち、既に翌日の朝の九時過ぎだ。
治療のために病院へ向かった三人は、そこで一泊するだけの休息を得た。しかしそれ以上留まる理由もない三人は、朝になった今は静かな河川敷に移動した。
しかし河川敷でも、屋内でなければ静かさに大差はなかった。昨晩の第0階層での戦いでライフラインに関わる能力者以外は家にこもってしまい、人などいないからだ。
怪我の痕など残っていないが、三人はそんな中でただうつむいていた。
誰も一言も発しなかった。
皆の瞳はただ闇に染まり、体が震えださないように押さえつけるので精いっぱいのようにも思えた。
だがそれでもいつまでもこうしてはいられないと思ったらしく、最初に七瀬が口を開いた。
「……駄目ですわね。時間がもったいないですわ」
柊も東城も、それに応えない。恐怖と絶望で乾いた喉がくっつき、相づちを打つ事もできなかった。
「治療も済ませましたし、一晩もの休息も得ました。なら次の動作は分かっているでしょう? 何もせずにいれば、次の結果など見えていますわよ」
それはつまり戦えという意味なのだろう。でなければ残された能力者も解放できない。だからたとえ恐れようとも立ち向かえと、そう勇者然とした態度を求めている。
「お前は、戦えって言うのか」
ここまでやられたのに、というあまりに情けない言葉はどうにか呑み込んだ。誰も致命傷を負っていないだけ奇跡というものだ。本来なら、もう殺されていてもおかしくはない。
しかし七瀬は東城の思いなど気付かないのか、それとも気付いていながらか、当たり前でしょう、と答えただけだった。
「いくら大輝様の意見といっても、その根底は譲れませんわ。わたくしは千七百の能力者を解放する義務がありますの。こうして一人反逆という形で自由を手に入れてしまったわたくしは、絶対にそれを成さなければいけません」
本当に立派だと、東城は思う。それと同時に、自分にはそんなものは無いのだと軽い失望が東城を襲う。
「相手は、仲間なんだぞ」
「仲間がわたくし達に牙を剥くのですか?」
東城は何も言えなくなってしまう。その通りだ。そんな事は言われなくとも分かっている。
「それにわたくしには『仲間だから戦えない』ではなく、それを言い訳にして戦いから背を向けようとしているように感じますが」
「――ッ!」
言い返せない。図星もいい所だ。
東城が恐れているのは仲間と戦う事でも、柊が傷付く事でもなかった。ただ自分が負ける事が、その果てに命まで落とす事が、恐ろしくて堪らない。
「……とりあえず、わたくしは地下都市の住人にもう一度警告をしてきますわ。まだ神ヲ汚ス愚者が中にいる可能性もありますし、勝手に安全だと思われても困りますから」
七瀬はそう言って立ち上がると、東城に背を向けて歩き出した。この中で一番弱いはずなのにそれでも強くあろうとするその寂しげな背中が、あまりに痛々しく東城に映った。
「……今さらビビる必要なんてないわよ」
七瀬の姿が見えなくなってから、酷くか細い声で柊は呟いていた。
「神戸と戦う。残った二千近い能力者を助ける為にも、大輝を護る為にも、アイツは倒さないといけない」
何と強いのだろうか。東城はたった一日しか知らないが、おそらく柊にとっては十分すぎる時間を共にしてきた仲間に裏切られたのだ。それでもなお立ち上がる姿はあまりに眩しく、東城にはどう足掻こうと届かないもののように感じられた。
「昨日、負けたばっかじゃねぇか……」
そんな自分との差に思わず、情けない泣き言が口を衝いて出た。
その瞬間、柊が歯を軋ませるのが聞こえた。
「ムカつくのよ……」
座りこんでいる東城の胸座を掴んで無理やり立たせると、柊はその綺麗な瞳に怒りを燃やして東城を睨みつけていた。
「アイツと同じ顔をして、そんな泣きごと口にしないでよ……ッ!」
柊の平手が、東城の頬を打った。
乾き澄んだ音が河原にひろがっていく。微かに水面が揺れた気がした。
意味が分からず柊に視線を戻し、そこで東城は言葉を失った。
泣いていた。
あれほど常に気丈に振る舞っていた柊美里が、その瞳から溢れる涙を止められずにいた。
「私の知る大輝は、たとえどれだけの傷を負っても、たとえフリーズしても、絶対に諦めたりはしなかった。たとえ私がどれだけの絶望を前にしても、大輝だけは希望を持っていた」
柊の言葉が、何故か胸に刺さる。ただ、痛い。それ以外に何も感じられなかった。
「もうやめてよ」
足元が崩れていく感覚があった。似たような感覚を随分前――七瀬に真実を告げられた時に味わったような気もするが、それとはまるで別物だ。ただ一人で闇に突き落とされるような、壮絶な痛みがあった。
「これ以上、私を苦しめないでよ!」
柊の顔が、ぐしゃぐしゃに崩れる。
何が起きているのか、理解できなかった。
自分は彼女を護る為だけに戦っていたはずだ。その為に能力を取り戻した。その為に七瀬を倒した。その為に研究所を潰す。
なのにどうして、こんなことになっている……?
「……いい加減、幻想を持つのはやめた方がいいのかもね」
柊は涙を拭った。そしてその後向けられた顔は、もう立て直されていた。
目元は少し腫れていて鼻先は赤いが、ほとんど先程までの可憐なあの姿と変わらない。それなのに、東城にはその顔がとても遠いもののように思えた。
「七瀬の言う通り、私はアンタに大輝を重ねていただけなのかもね。それを押し付けちゃってたみたい。挙句、私自身がこんなに不安定になってちゃ意味ないわよね」
心が、激しく軋んだ。
柊の瞳はもう、東城を見ていなかった。いや、そうじゃない。あの瞳はちゃんと自分を見ている。この弱さをさらけ出した醜い自分だけを。
見限られた、と思った。
「何、言ってんだよ……ッ!」
それが悔しかった。自分はここにいる。自分はそんな目を向けられるような奴じゃない。
そう怒鳴り散らしたかった。
泣きごとを言って柊を幻滅させたのは、自分だと言うのに。
「俺は、それでも東城大輝だ」
どうにかそう宣言する。だがその声は、昨日、七瀬の前で見せた強さなど微塵も感じられない、ひ弱な分相応の少年の声だった。
「……今のは売り言葉に買い言葉って事で、聞き逃してあげる。だけど、次にアンタがその名を口にする事は赦さない」
冷たく柊は東城の全てを拒絶した。今の東城とかつての東城は別人だと区切り、その上で、もう今の東城に用はないとそう言った。
八つ当たりではない。柊の心情など百パーセント理解する事などできないが、少なくとも東城はそう思っていた。
仲間であったはずの神戸に裏切られただけで、彼女の精神はもうぎりぎりのところだった。それなのに絶対の信頼を置いていた東城の脆く崩れる姿を前に彼女は絶望し、もう耐えきれなくなっただけなのだ。
むしろ裏切ったのは、東城なのかもしれない。
しかしそう理解したところで、それでも理性と感情はかみ合わない。
「――いくら俺でも、そこまで言われて引き下がれるかよ」
恐れる気持ちなどどこかに行ってしまった。彼女を護りたいとも、もう思えなかった。
怒りではない。今の東城の心の底にあるのは、そんな単純な色をしていない。だがそれが何かも分からない東城は、それを装ってでも柊と対峙しなければならなかった。
どんな形であれ自分は強いと見せなければ、きっと彼女の心は離れてしまうと思ったから。
「アンタなんかどうでもいい。私は戦う。その前にアンタが邪魔するっていうなら、アンタであろうとも私は容赦なく叩き潰す」
直後、柊の顔が怒りに染まる。柊の全身から起こる放電は辺りの空気を無作為に破壊し、爆発じみた音が河原を震わせた。
彼女はとある少年の為だけに生きて来た。
その少年を護りたいと願い、記憶を奪った者に復讐する為に戦い、そして今、その少年との思い出を汚す者をねじ伏せる為に彼の前に立っている。
何の矛盾も無く、柊美里という一人の少女は東城の前に立っていた。
柊にとっての東城大輝とは、今この目の前にいる東城ではないのだから。
「――悪いけど、本気で行くから」
酷く冷たい笑みを浮かべて、柊は東城に光の無い目を向ける。
首にかけていたリングのネックレスが、紫電の衝撃に耐えられずに切れて落ちる。それはほんの十数時間前に東城が買ってあげたものだ。その事に柊は気付かない。かしゃんという鈴の音のように澄んだ音が、儚く消えていった。
柊はポケットから何かを取り出し、軽く放り投げた。それはどこにでもあるようなパチンコ玉だった。片手の指に挟まる程度の量のそれは、放り投げられた直後、複雑な動きを見せた紫電に吸い込まれていく。
何かを察して、東城が右へ跳んだ。
直後。
彼の左の掌を、その小さな金属球の一つが掠めた。それだけで肉が抉り取られ、血が噴き出した。ぼたぼたと垂れた血で河原の石が赤く染まる。
「――が……ッ!」
「わざわざ電撃より速度を落としてあげたっていうのに、これか……。ただ放電を上手く操作してローレンツ力で球を撃ち出しただけなんだけど。――やっぱり、アンタにはこれでも荷が重いみたいね」
そう言いながら、柊は既にもう一掴み金属球を用意していた。
避けようとまた右に跳ぼうとした瞬間、丸い弾丸は放り出されずに直に紫電を受け、空気を引き裂き東城の左の太ももの肉を抉った。
東城は呻きながら、バランスを崩してその場に倒れてしまう。
だがそれで終わらない。
金属球で機動力を大幅に削がれた東城は、そのまま稲妻に貫かれた。感電し、強制的に体中の全ての筋肉が痙攣する。
その僅かな硬直の隙に柊は得意の高速移動で間合いを詰め、東城の鳩尾につま先をねじ込んだ。それもベルトの金具を利用して東城の体を引き寄せながら。
「――――ッごァ!?」
相対的に途轍もない速度の蹴りに為す術なく吹き飛ばされ、河原の丸い石に体を強か打ちつけた。もう呻き声を上げることさえままならない。
これが、柊美里。
全二十二種の能力中で総合的な速度で頂点に君臨する発電能力の、更にその女帝。最強の肩書を持つ東城とは別の立場に立つ、最速の名を冠する能力者。
「立ちなさいよ。その程度で大輝の体は倒れない」
柊は一切の容赦をしなかった。言葉から滲み出る感情は子供の八つ当たりのようにも思えるのに、それすら東城には止める力も資格も無かった。
空気が割れた。柊から迸る紫電が、辺りの空気を引き裂き続けていた。これを一度だが東城は見ている。七瀬に対して放った最も威力の大きな一撃の、充電から溢れた放電だ。
(倒れてる今の姿勢じゃ躱せねぇ――ッ。なら、防ぐしかねぇ!)
放たれる直前の独特の雰囲気を感じ取り、東城は一瞬で次の行動を選択する。
その直後、雷速で駆ける槍は東城に冷酷に襲い掛かる。それを防ぐべく、東城は業火の壁を生み出した。生み出された紅の壁はたとえ対象が何であろうと焼き尽くし、実際に電撃の槍さえも喰らう――はずが、電撃の槍は紙を破るかのように容易くその炎の壁を突き抜けた。
「――ッ!?」
声が詰まる。鼻の奥にきな臭いにおいが充満する。
信じられない現象を前に驚愕していたそのときには、既に東城の体は外からも中からもその紫電に破壊されていた。
「アンタの能力で電撃を防ぐ事は不可能よ。炎もプラズマも導体だから、それで防ごうって方が間違ってる。火事現場に灯油かぶって突っ込むのと同じくらい無謀な事よ……」
柊の瞳から見える感情は、あの八つ当たりのような怒りだけではなかった。東城では到底理解もできない複雑な感情が、渦巻き乱れている。
「そんな弱さで、私を護る? ふざけるのもいい加減にしてよ」
もう見ていられないその寂しげな姿に、心がかき乱される。柊を追いつめて何をしているのかと、頭の奥で誰かが怒鳴っていた。
その時、東城は掌に鈍い痛み――熱さを感じた。
「な、んだ……っ!?」
上位の能力者は自分の操る事象では怪我は負わないはずだ。それは今まで爆発や炎を生み出しても、火傷一つ負わなかった東城にも分かっている。
だが現実に、東城の手に在る炎はその皮膚を蝕むように焼いていた。
「クラッシュよ……。今みたいに心をかき乱されて集中を解いても、それは発生するわ。今のアンタのは軽いから気にするほどじゃないけど」
東城は記憶を失っている。その事をこんな形でまざまざと見せつけられて、柊はもう耐えられなかったのだろう。
「そんな事も……」
もしかするとかつての東城がクラッシュするほど戦った中には、忘れてはいけないほど大切な戦いがあったのかもしれない。
「――そんな事も、忘れてるくせに……」
とうとう、言ってしまう。
柊と初めて会った瞬間、それから共に過ごした時間、そして共に協力して能力者を救出した時の絆。
それら全て、東城は失ってしまったのだ。その事実が柊には耐え切れないほど重く圧し掛かっていて、そして今、彼女の心は崩れてしまった。
「何にも覚えてないくせに!」
その一言は東城の心を突き刺し、抉った。びくりと体が大きく震えた。
記憶喪失だという事を、悲観した事など無かった。現に七瀬にそれを追及された時でさえ、本当に何も感じなかった。ただ自分は自分だと、そう割り切っていたのだ。
なのに、柊のその言葉を東城は聞き流す事がどうしてもできなかった。
「……それは、本気で言ってるのか」
「本気に決まってるでしょ! アンタは、大輝じゃないんだから!」
もう柊は止まらない。止まるわけが、無かった。
「出てってよ! 地下都市から、私の居場所から! 私の傍から! 私をこれ以上、苦しめないで! アンタはもう、大輝じゃない!!」
その言葉に対して、怒りは不思議とそれほど起こらなかった。そこまで言われて東城が感じたのは、無力さだけだった。
目の前には辛さを必死に堪え、しかし耐え切れずに涙を流す柊の姿だけがあった。東城にはどうしようもない、その姿が。
誰の所為かなど問う必要もない。彼女が泣いているのは間違いなく、記憶を失ってしまった東城自身のせいなのだ。
傷つける奴を焼き尽くすなどと吠えながら、実際に泣かせているのは自分自身。
このまま彼女の傍に立ち続けて、怯えながらに神戸と対峙して、その果てで死に、それで一体何になるというのか。
柊はもう泣いている。神戸と戦ったところで、その涙を止める事はできない。強さを見せつけたところで、根本的な部分は何も変わらない。
自分が戦うと決めた覚悟はもう、この瞬間に潰えている。
「……悪、い」
それが声として聞こえているのかも怪しいほど、小さくか細い音だった。眼を伏せて、一歩、二歩と、よろけるように後ずさる。
「その通りだよな……。お前の傍にいるだけで、俺はお前を傷つけちまうんだ」
七瀬に立ち向かった時の、神戸に吠えたあの瞬間の思いなど、初めから無かった。それはただの幻想に過ぎなかった。
実際に在るのは柊の悲痛な顔だけで、そしてそれを笑顔に変える事など、東城には不可能だ。それができるのは、自分じゃない東城大輝だけなのだから。
「ほんと、悪い……」
背を向けてふらふらと東城は去っていく。体は痛むはずなのに、そんな事はもう感じられなかった。ただ胸の奥が、音を立てて軋んでいた。
――アンタはもう、大輝じゃない!!
ただその言葉だけが、東城の鼓膜に張り付いていた。