第2章 曇天 -4-
それからすぐに、黄金比を持っているのではと思うほどの美しい土下座を神戸が決めた事で事態は収束した。
「それで、今日は何のために集まったんだ?」
「決まってるでしょ。私たちがこれから先どうするかよ」
「はい。具体的には大輝様がどうするか、ですけれど」
七瀬のその『大輝様』というワードに柊の耳がピクリと動いた。
「大輝、様……?」
「はい。大輝様ですわ」
そう七瀬が繰り返すと、柊の東城に対する視線がどんどん冷たくなっていく。
「いや、俺が好き好んで呼ばせてるわけじゃねぇぞ?」
「ふーん」
肯定的な返事のはずなのに視線の温度は氷点下に突入してしまっていた。
「何をそんなに怒ってんだよ……?」
「うるっさい、バカ」
訊ねた途端、東城は側頭部を殴られた。それも戦闘に慣れている柊の拳だけあって、かなりの威力だ。
「イッテェ……ッ!」
あまりの痛さにリアクションはむしろ小さく、頭を押さえてうずくまるしかない。
「あら。大丈夫ですか、大輝様」
七瀬がそっと東城の傍に駆け寄って彼の頭をその胸に抱え、出来たばかりのたんこぶをそっと撫でた。
「まぁ、こんなに腫れて……」
優しい母親のような動作だが、どうしてか妙に優し過ぎる気が……。
「あ、あの、七瀬さん? 何をなされていらっしゃって……?」
突然の出来事に目をパチクリさせる東城。だがそれを見る柊の視線は、すでに絶対零度に到達しかけていた。
「ちょっと、何をしているわけ?」
吹雪のような声と共に柊のこめかみ辺りから嫌な音が聞こえた気がして、東城はびくっと体を大きく震わせた。
「命と自由の恩人となる御方ですから、この程度の心配は普通でしょう?」
七瀬はにやにやと笑いながら、柊と東城を交互に見て、さらにこう続けた。
「それにわたくし、彼に惚れてしまいましたの」
ぽっと頬を赤く染めて七瀬は言う。妙に腰をくねくねさせるのは何なのか。
「大輝を信じないんじゃなかったの?」
「そんな事を申した覚えはありませんわ」
ふてぶてしく七瀬はそう言い切った。
「しかもアンタは大輝の命を狙ってたし」
「一目惚れには経緯も理屈もわたくしがした行為でさえも関係ありませんわ。彼の強い言葉と瞳に、わたくしの心は奪われてしまいましたの」
無茶苦茶な免罪符を取り出して、七瀬は頬を赤く染めたまま東城の頭をぎゅっとその胸に押し付ける。
「迷い無く戦いに身を投じるどころか、背負う必要のないものさえ背負おうとするその強さに、心を奪われぬはずが無いでしょう?」
(し、心臓の音まで聞こえる……ッ! て、ヒトメボレ? 米がどうした?)
東城はあまりに予想外の事態に思考能力を完全になくしてしまっていた。というか自ら放棄した。
「あら。照れていらっしゃるのですか? 可愛らしいですわね」
にっこりとほほ笑んで、七瀬は更に押し付ける。それを見た柊はゆっくりと、ずん、ずん、なんて効果音が似合いそうなほど重い足取りで東城に詰め寄った。ちなみに、そんな柊を七瀬は勝ち誇ったような顔で眺めている。
「ちょっと、何を、してるわけ?」
二度目の問いに東城は答えられない。
どう答えたところで殺される。
だって、既に柊は全身から放電し始めているんだもの。
「柊先輩、さすがに地下都市でも店の中で放電は――」
「うるっさい神戸」
「はいすみません」
凄まれて神戸は縮み上がってしまい、とうとう東城を守るものは無くなってしまった。
七瀬に抱えられた状態で東城は冷や汗をだらだらと流す。目の前の柊は店内という事を一応は再認識したのか放電こそやめたが、握った拳からバキバキと不穏な音が聞こえていた。
「待て。これが俺の意志に見えるのか?」
「あら。ではわたくしの事はお嫌いですの……?」
七瀬が急にしょんぼりとして目を伏せてしまう。と言っても東城の方が位置的には下にいるので、そこからもしっかりとその潤んだ瞳が見えてしまった。
全く何も悪い事をしていないのに、どういう理屈か罪悪感が東城に襲い掛かる。
「そ、それはそれで違うけど……」
「まぁ、それは良かったですわ!」
ウソ泣きだった。高い演技力がなせる技なのかそれとも液体操作能力者というのを活かしたのか、とにかく目に溜まっていた涙は嘘のように消えてまた思い切り抱きしめてきた。
「大輝」
ソロモン72柱も土下座して道を開けそうな恐ろしい声で名を呼ばれて、東城は錆付いたブリキ人形のような動きでゆっくりと柊の方を見る。
笑っていた。それはもう恐ろしく笑っていた。その背後にはどす黒い炎が見える。その黒い炎は最強の発火能力者である東城でさえ平伏すしかないと感じるほどだった。
「な、何でしょう……?」
必死に笑顔を取り繕って柊の怒りを和らげようとするが、握られた彼女の拳は緩まない。
「はを……」
「はお?」
「歯を食いしばれ」
「どうして!?」
柊がにっこり笑顔で言って、ずどむ、というおよそ生きているうちに聞き得ない音と共に東城の腹に拳が突き刺さった。
悲鳴も上げられず、浜に打ち上げられた魚のように東城はぴくぴくと全身を痙攣させていた。
「あら。お可哀そうな大輝様」
「な、なぁ七瀬……。お前も原因の一部だって知ってるか……?」
何の事でしょう? ととぼける七瀬に東城はただ嘆息する。
「さて、バカは放っておいて」
「だから俺は悪くねぇ……。てか、カフェで人を本気で殴るお前の方がバカだからな……」
「うるっさい。それより、アンタどうするつもりなのよ?」
どうにか起き上って椅子に座り直す東城に、柊が問いかける。
「どうって?」
「研究所を潰すんでしょ。何か策くらいはあるんでしょうね」
またしても回答に困ってしまう。あの状況で策が思いついた上で研究所を潰すなどとのたまえたならそら格好いいだろうが、生憎、感情だけで動いていた東城にそこまでの頭脳があるはずもない。
「……気合と根性?」
「ホントにバカじゃないの?」
蔑むような眼で見られた。
「まぁいいわ。記憶が無いなら経験も無いんだろうし。こういう作戦立ては私と神戸、七瀬でやるわ」
「あら。勝手に決めないで下さいな」
心底不機嫌そうに七瀬が口を挟む。
「わたくしが付き従うのは大輝様のみですわよ。貴女とは話し合う気も協力する気も毛頭ありませんの」
ぴきっと、柊の顔が引きつるのを東城は見た。
「オーケー。アンタを負かして無理やり私にも従わせるから」
「あら。負けたから従えというのであれば、既に貴女はわたくしに負けているでしょう?」
「あんな卑怯な精神的攻撃しといてよく勝ち誇れるわね」
「相手を卑怯だと言うのは自分が負けたときだけですわよ。勝てばそのような事は言わないでしょう? ほら、さっさとわたくしを敬い従いなさいな。負け犬風情が、偉そうに口を利かない方がよろしいですわよ」
「人前だけでいいから、今は大人しくしてろ」
一触即発の状態にうんざりした東城が注意すると、七瀬はころっと殺気を消して東城に微笑みかけて来た。
この変わり身の早さはもう感嘆に値する。あまりの豹変ぶりに睨んでいた柊もため息をつくばかりだった。
「とにかく、大輝にもここに出入りしてもらわないと困るから、瞬間移動能力者への連絡方法を教えとくわね」
そう言って柊は紙のナプキンをメモ代わりにすらすらとペンを走らせ、それを東城に渡した。
「さて、本題の作戦ね。作戦立てって言ったけど、実際は無意味だろうし、行き当たりばったりの方がいいかもしれないわ」
「……人をバカ呼ばわりしておいて結局それか」
「無策の策ってトコよ。少なくともアンタの気合と根性とかいうふざけた精神とは根本が違う」
柊は半ば呆れながら、説明を始めた。
「私たちが潰そうとしている研究所には囚われているのではなく進んで加担している能力者が一人だけいる。それも私たちと同じレベルSの、化け物が」
柊の声が、いやに重くなる。空気が淀むような雰囲気さえ感じるほどに。
「本名は不詳。能力名は神ヲ汚ス愚者。それ以外で分かっている事はない。何一つとして」
「そう言えば、七瀬と戦ってたときにその名前出してたな。元に戻させるとか何とか……。わざわざ宣言するって事は、相当強いのか」
「当たり前でしょ」
柊は忌々しそうに呟いた。
「レベルSの能力者は三人しかいない。私とアンタ、そして、アンタに匹敵するくらいの強さを持ちながらにして思考の全てが歪み狂っている、最後の一人がソイツよ。弱いわけが無い」
そうして、柊はこう続けた。
「アンタの記憶を奪った張本人、って言えば分かる?」
血が、逆流した。
一瞬だが視界が赤く染まったような錯覚まで感じた。
「ソイツの能力は神戸と同じ肉体操作能力。ただしさっきも言ったけどレベルは無制限。はっきり言って、私たちが人間である以上勝ち目は限りなく薄い」
「……それでも、勝たなきゃいけないんだろ?」
「もう一度言うけど、当たり前でしょ。ただし相手の何もかもが分かっていない以上、私たちからどうこうする事はできない。どうしても受動的になっちゃう」
「問題なのは相手が誰かとかじゃねぇ。神ヲ汚ス愚者はどうやって戦うのか。一年前は完全な状態だった最強の俺がどうして負けたのか。大事なのはそこだ」
少し間違えれば自信過剰とも取られかねないような事をずばりと言った東城の台詞に、しばらく他の三人も考え込んだ。
「……筋力操作と超速再生と言ったところでしょうか。大輝様が負けてしまわれたのは、それ以前に精神的な面で揺さぶりをかけられた、というところでしょうね」
「そうね。それが一番妥当な上に、今も昔も感情に流されやすいのがアンタだし」
「……なんか馬鹿にされた気分だ」
少し拗ねたように言う東城に、七瀬はくすりと笑う。
「あら。霹靂ノ女帝はこれでも少し誉めているのですわよ?」
「そんなわけないでしょ。ていうか、話逸れちゃったわね。えっと、策を立てない理由だっけ?」
誤魔化すように早口になっていたが、東城もあえてはツッコまない。
「あぁ、そうだったな」
「理由は単純よ。レベルSの肉体操作能力者は相手の鼓動や呼吸、視線からも心理状態や思考を読み取れるかもしれない。下手に作戦を立てたところでばれると、無意味になっちゃうどころか逆手に取られかねない」
「無策の策っていうのはそういう事か」
「えぇ。ですので、わたくし達が考えるべきは『どうやって研究所に入り込むか』の一点のみですわ」
「……どっちにしても、七瀬は囚われの身って事は強制的に戻るんだよな?」
「概ねその通りですわ。研究所に残った精神感応能力者と瞬間移動能力者は外にいる能力者を追跡し回収しますから」
七瀬の言葉を聞いて、少し東城は考える。
「……逆探知って出来ないのか? それが出来れば俺たちが外側から研究所を攻め落とせるし、その混乱に合わせて中から七瀬に行動してもらえばすぐに決着は付くだろ」
「それは難しいわね。精神感応能力者のアルカナは地下都市側にいないし、研究所側の精神感応を逆探知するのは厳し過ぎるわ」
「そうじゃなくてさ、もっと物理的に……」
そう言って東城はじっと柊を見る。
「……まさか、ケータイの電波とか七瀬の身体から出る僅かな電場を頼りに……とか言い出す気なわけ?」
「イエス」
「バカじゃないの?」
露骨に蔑むような目で睨まれた。
「出来るわけないでしょ。瞬間移動した時点で物理的な接続は断絶するのよ?」
「……でも例えばさ、何か小型の機械かなんかで特殊な電波を放っていれば検知できるんじゃねぇか?」
「そりゃ街一つと離れてないくらい近ければ、たぶん出来なくもないけど……」
真っ向から否定していた声が、徐々に弱まる。
「なら、たぶん大丈夫だ」
そう言って東城は笑う。
「どうして言い切れるのよ。理論上は日本どころか世界のどこに研究所があってもおかしくないのよ?」
「理論上は、だろ? 研究所は一度能力者を取り逃してるんだぞ。瞬間移動自体が百パーセント成功する保証も無いのに、自力で回収できないようなところに能力者を飛ばすわけが無い。同じような失敗をしたくないって思うのは当然の心理じゃねぇか?」
「なるほど……。確かに、能力者がその事を知らなければ研究所の場所は分かりませんしね。――現に、わたくし達はこうして場所を特定できていませんし」
七瀬も納得し、神戸も頷いている。このまま東城の案は可決されるだろう。
「はぁ。分かったわよ。正直近くても屋内だと厳しいんだけど。知覚を拡げていくと頭が痛くなるし。ものすっごい気乗りしないんだけど」
「そこをなんとか」
両手を合わせて拝むように頼む。
「……まぁ、文句言ってる場合じゃないのも確かだからいいけど。とりあえず適当に電気街でも回って使えそうな送信機を探しますか」
本当に嫌そうながらも、柊も妥協してくれた。
「では、とりあえず機器の購入がてらにリフレッシュといきましょうか。大輝様は昨日の件と今朝の学校の定期試験で相当の疲労が溜まっているようですし、ぶらりとショッピングでもいたしましょう」
そう言って七瀬は東城の左腕に自分の手を絡ませて密着した。
「――っ! なら第0階層ね。今日の午後三時――あと二時間半くらいで七瀬が強制的に連れ戻されるし、早く行かないと」
柊はまくし立てるように言うと東城の手を取った。
「「……、」」
その後、柊と七瀬が無言で東城を間に挟んで、金剛力士像も背中を向けそうな視線でにらみ合う。両側から焼き殺されそうなほどの熱線だった。
「助けて神戸」
「すいません東城先輩。二人とも僕の敵う相手じゃないです」
薄情にも、東城が先程したのと同じように神戸は手を合わせただけだった。