下校時間
8話投稿。今回は平常通りの文章量です。
ぼんやりと残った陽の光が、校舎を優しく包んでいた。空には翌晩には満ちるであろう、円に近い月が昇っており、目を凝らせば微かに星が見える。
夜がすぐそこまでに来ていた。
校内では、下校時間を告げる放送が流れている。部活や委員会などで残っていた生徒は、もうほとんどが外に出ている。玄関に人はおらず、音一つもない空間には静寂だけがあった。
その静寂を乱すように、タン、タン、という二人分の足音が響いた。片方はほとんど足音のない、一切の無駄を省いたような精練された足取り。もう片方もあまり足音は響かないが、ただ単純に体重が軽いだけのもの。
足音の持ち主である二人の生徒、悠人と蕗は玄関にたどり着くと、今度はすのこの乾いた音を立てながら、外靴に履き替えていた。
あれから手を握り締め続けていた蕗は、唐突に手を離すと「そろそろ帰ろう」といった。
芽生え始めた恋心に翻弄されていた悠人は、初めはただ、手から温もりがなくなったのを未練がましく見つめていたが、すぐさま蕗のいったことに気づいて慌てて頷いた。
動かした机や椅子を協力して戻し、蕗が割れ物を扱うように、スケッチブックを大事に鞄に入れるのを見届け、悠人たちは美術室を後にした。
なお、鍵を職員室に返す際、まだ残っていた教師が、ありえない組み合わせに腰を抜かしそうなほど驚いたが、二人は自分に対するいつもの反応と受け取り、驚愕の理由に気づかず会釈して出て行った。
こうして今、外靴に履き替え、校門へと向かっている二人だが、美術室を出てから会話らしい会話をしていなかった。
蕗は無表情とまではいかないが、どこか感情に乏しい顔で口を一文字にしたままだ。よくよく見ると、頬が若干紅潮していたが、悠人は気づいていない。それどころではなかったからだ。
悠人は自分の心臓が爆発しそうなくらい、早い鼓動を刻むのを感じていた。隣にいる蕗に聞こえたらどうしようと、なんとか宥めようとはするが、一向に収まる気配がない。
おかしいと思った。
今ある蕗への想いは、恋心だと自覚はした。どんな言い訳も抵抗も通用しないほど、もはや疑いようもなく、自分は蕗に恋をしている。
でも、なんだか違った。
昔抱いた恋心は、もっとほんわかとしたものだった。ただ彼女と共に遊ぶだけで、同じ時間を過ごしているだけで、とても楽しく、幸せな気分になった。例えその恋心が粉々に打ち砕けた今でも、大切な記憶として残っている。
しかし、今のこの想いは、そんな幸せな気持ちとは間逆のものだった。
蕗と一緒にいると苦しい。心臓は意思に反して鼓動を高鳴らせ、胸を締め付けてくる。
でも、それは心臓に原因があるわけではない。
とてつもなく大きな感情が、潰れてしまえといわんばかりに、心を押しつぶそうとするからだ。それに連動して胸が苦しくなり、心音が高くなる。
もしかして、なにか別の感情を恋心だと勘違いしたのではとも考えた。しかしすぐさま否定する。
それなのに決して、蕗とは離れたくないと強く思ったからだ。会えないくらい遠くに離されると想像するだけで、この鼓動が嘘のようにとまってしまいそうになる。
この痛みの奥に、火傷しそうなくらい熱い感情が眠っているのがわかる。
以前の恋とどれだけ違っていようと、思い知らされてしまう。
悠人は確かに、蕗に恋している、と。
でも決して、それを表に出そうとは思わなかった。
悠人は、自分なんかが人に好きだと伝えてはならないと、盲信していた。
そんな事をしても相手に迷惑なだけ。こんな醜い自分に好意を寄せられても、嫌悪感しか湧かないだろう。
蕗ならばもしかすると、迷惑だと、嫌だと思わないかもしれない。振られても、今まで通りに接してくれると思う。あの時みたいな嘲笑とともに、切り捨てられる事はないだろう。
でも、そうじゃなかったら?
告白した瞬間、なにもかもを拒絶されたとしたら?
せっかく求めてもらえたのに、手の平を返され捨てられたら?
そこまで考えて、悠人は頭を振った。これ以上考えたら、駄目だと思った。
なにか大事なものが壊れてしまう。全身を駆け抜けた、身を凍らすような寒気がそう伝えてきた。重圧がかかったように、視線が下に向く。
それでいいの?
寒気とは真逆の、熱いものがそう問いかけるが、悠人は無理矢理にでも無視をした。
それで本当にいいの?
朝の姉の言葉と重なって響く。それでも悠人は聞き分けのない子供のように、聞こえないふりをした。
とにかく、しないものはしない。蕗を困らせたくない。だから告白なんて絶対しない。
理由をそうだと思い込んだ。思い込もうとした。
自分の足下を見つめたまま、静かに歩を刻んでいく。
不意に裾を引っ張られた。負の感情に傾きかけてた思考が、そこで途切れた。驚いて悠人が目線をやると、蕗がその細い指で、悠人の裾を引っ張っていた。
鼓動がドクンと跳ねる。どうして蕗がこんな行動をとっているのかわからない悠人は、ただ顔を真っ赤にすることしかできなかった。
蕗は無言で、鋭すぎる目で見つめてくる。それが脳に熱が行くのを助長する。
(な、なんで僕の裾を、こ、こう、可愛らしく引っ張って、く、くるのかな?)
恋という病に侵された悠人には、蕗の凶眼が恐ろしいどころか、可憐なものに見えている。猛禽類どころか、小動物に見つめられているようだ。恐ろしきは人の恋心か。
しかし、そのぽわぽわした幸せな空気も、脳裏に過ぎったものに殺される。
(も、もしかして、僕が考えていたことが、よ、読まれた?)
一気に顔色が青ざめ、かと思いきや、先ほどとは違う理由で顔が赤くなっていく。
蕗のような天才画家にとっては、外見を正確にトレースするだけでなく、人の心を読むことすら容易いのかもしれない。悠人の頬を冷たい汗が滴り落ちた。
(ど、どどどどど、どうしようどうしよう!? し、知られちゃった? 知られちゃったの僕の気持ち!? こんな気持ちの悪い僕が相田さんのこと好きだってことを!? いやいやいやいや違います違いますよっ! う、ううん、違うってことはないんだけど……こう、なんか星間的な差異が生じているので!!)
さんざん自分を卑下してきた悠人は、ついに自身を地球外生命体扱いし始めた。しかし、こんなへたれた宇宙人なら、市販の殺虫剤でコロリと死にそうである。
「長塚君」
「は、はいぃぃ!」
蕗に名を呼ばれ、直立不動で固まる悠人。鬼軍曹を前にした新兵そのものである。しかし実際に前にいるのは、鬼軍曹よりも恐ろしい目をした蕗だ。悠人の全身から、滝のような汗が流れていく。
「あの……」
「ご、ごめんなさーい!」
蕗の重圧に耐えていた悠人だが、とうとう蕗が本題に入る前に限界がきた。
いきなりバックステップしてバク宙するやいなや、地べたを舐めん勢いで土下座をした。バク宙が無駄に格好よく決まっていたのが、無性に腹が立つ。恒例の必殺技だが、いったい悠人の土下座レベルはどこまで上がるのか。
「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさーい! こんな、こんな気色悪い僕なんかが、ほんとーに、ほんとーにごめんなさーい! ゆ、許してなんて口が裂けてもいえません。いくら罵ってくれても構いません。足蹴にしてもらっても構いません。いいえ、むしろ踏んで下さい。踏んで、踏んで、踏みまくって僕に地面の味を覚えさせてください! お願いします! 踏んで下さい! さあ。さあさあさあ!」
始めは土下座で謝っていたのに、何故かM男の欲望をぶちまけているようにしか見えなくなってきた。自分を気味悪い気味悪いと言い張っていた悠人だが、今この瞬間、悠人はまさに自身の言を実行した変態であった。正直キモい。
そんな悠人の姿を見た蕗は、無論どん引きだった。それでも逃げずに一歩引いただけに留まったのは、蕗の優しさの表れか。逃げても誰も非難しないであろうに。
蕗は「さあ踏んで下さい、さあさあ!」と繰り返す悠人に、どうすればいいかわからずに固まっていた。その凶眼も泳いでいて、頭を上げさせようとしては手を引く。触りたくない気持ちはよくわかった。
このまま悠人がひたすら踏めといい、蕗が手を差し出しては引くという、不毛なやりとりが永遠に続きそうだった。
「いったいなにをやってるの、悠人?」
そんな時、悠人の土下座したままの頭に手をやり、声を掛ける者がいた。それは毎日聞いている凛々しい女性の声だ。
慌てて頭を上げると、そこには悠人の姉である菜樹が、心配半分あきれ半分という微妙な表情で、悠人の顔をのぞき込んでいた。
「えっ、お、お姉ちゃん?」
「貴方ねえ。こんな公共の場で僕を踏めなんて、TPOをわきまえなさいよ」
「踏めという言葉にツッコミはなし!?」
「あら。私は人の愛の形に文句をつけるなんて、野暮なまねしないわ。なんなら今度私も踏んであげようか」
「ち、ちがーう。僕はそんな変態じゃない!」
慌てて立ち上がり、ばつの悪そうな顔で服についた土埃を払う。ようやく我に返った悠人は、ハッとして自身の言葉を振り返る。そうしてどれだけ変態な行動を取っていたかを自覚した途端、「にょっほ~~~!」と謎の奇声を発し悶絶した。
「……長塚君」
蕗は憐れみを多分に含んだ目で、生温く見守っていた。その視線がより一層悠人を悶えさせる。
「こら、シャキッとする」
「は、はひぃ!」
菜樹に背中を思い切り叩かれ、悠人は背筋を綺麗に伸ばした。
「痛いよ、お姉ちゃん。叩くことないじゃないか」
「悠人が人様の前で、みっともないまねしてるからでしょう」
「ていうか、何でお姉ちゃんがここにいるの。仕事は?」
「予想以上に早く仕事が上がってね。気が向いて迎えに来てあげたの。悠人ってたいてい、下校時刻に帰ってくるから」
「いやいや、子供じゃないんだし。わざわざ迎えに来なくても良いよ」
「ところでこの子は?」
「って、僕の意見はスルー?」
そう文句を言われながらも、菜樹の視線の先を追う。そこには、所在なさげに顔を俯かせている蕗がいた。
「あっ、ごめん相田さん。家の姉が騒がしくて」
「むしろ悠人の方が踏んで下さいと叫んだり、奇声を発したりとうるさかったけど」
「うっ……」
何もいい返せず、黙り込む。
「ごめんなさい、家の弟が騒がしくて。私の名前は幸月菜樹。苗字は違うけど、悠人の実の姉よ。貴女は、悠人のお友達?」
悠人の文句を逆にそのまま返しながら、菜樹が尋ねた。
蕗は声を掛けられた事に、一瞬体を震えさせた。それでもなんとか返答しようとし、目線を少しだけ上げ、声を絞り出す。
「いえ、あの、昨日知り合ったばかりで……」
事実なのだが、どこか素っ気ない蕗の言葉に、悠人は地味にダメージを受けて顔を悲しげに歪めた。
「い、いえ。だからといって、悪く思っている訳じゃないです。むしろ逆で」
良心が痛んだのか、顔を上げてフォローを入れた。この時になって、初めて蕗と菜樹の視線がしっかりと交差する。
菜樹はその凶眼を間近で見て、珍しいものでも見たかのように、唖然とした表情をした。蕗は菜樹の反応に、申し訳なさそうな顔で再び俯く。冷たい夜風が二人の間を横切っていった。
「いや、あの、これは……」
悠人はどうにか割って入ろうとしたが、なんて言葉を掛ければいいのかわからず、声が尻すぼんでいった。
(やっぱり、お姉ちゃんでも相田さんの目は駄目か……)
その事が何故か無性に悲しくて、悔しくて、唇を噛む。
だが、悠人の杞憂も、ほんの僅かな間で消えることになる。
「へえー。なるほど」
そういって菜樹は蕗に近づき、顔をのぞき込んだ。今までの誰とも違う反応に、蕗は戸惑い一歩下がろうとするが、その分もう一歩菜樹が踏み込み、離れることを許さない。菜樹の口元は楽しげに笑っていた。
「ちょ、ちょっと、なにやってるの!」
姉のかなり失礼な行動に、悠人はどうしていきなりこんな親しげに? と混乱しながらも、慌てて止めに入った。
「相田さん、困ってるでしょ。まったくもう。社会人なんだから常識くらいわきまえてよ」
悠人の制止に蕗から顔を離したはいいが、今度は悠人の顔をじっと見つめてきた。
「な、なに?」
「ふーん、へーえ」
菜樹の笑みが楽しげなものから、意地の悪そうなものに変わった。あの幼なじみを連想させる笑みが、悪い予感を触発させる。
「メデューサアイの女の子かあ……」
悠人にのみ聞こえるくらいの声で、囁きかける。その途端、悠人の体が硬直した。
「……?」
固まって動かない悠人に、蕗が不思議そうに首を傾げる。
菜樹は反転し悠人に背を見せると、先ほどの悪意ある笑みを一転、綺麗な笑顔で蕗に笑いかけた。
「ええっと、相田さんだっけ。ねえ知ってる? 悠人って今朝、貴女の事――」
「わあー、わああーーー! だめ、許してそれ。勘弁して下さい! 何だってしますから、それをいうのだけはやめてーーー!!」
かなり本気の涙声で懇願しながら、腕にしがみつく。よく見たら目に涙の玉が溜まっている。いくら好きな子に悪口をいっていたのを聞かれたくないからといって、男としてみっともないとは思わないのだろうか。またも蕗が若干引いていた。
あまりにも必死な悠人の姿に、菜樹も困惑していた。今朝いった事への戒め程度のつもりでいったのに、何故か弟が涙目になるほど嫌がっている。
(なんで悠人は、こんなに必死でやめさせようとしているの?)
悠人がうっとうしく泣きついてくるのを、軽く流しながらしばし考え込む。
(……あっ、もしかして)
ふと悠人が必死になる理由に思い至った。しかし本当にそうなのか。またそうだとしてもこの娘の人柄はどうなのか。好奇心がむずむずと疼きだした。
でもそれを表に出さず、菜樹は逆に不自然なほど、さりげなくこう切り出した。
「そうだ。相田さん、よかったら今晩ご飯を一緒にしない?」
「えっ?」
蕗と悠人の声が、仲良く重なった。
あと数話投稿したら、ちょうど折り返し地点になります。