芽生え
7話投稿。ようやくラブコメ(?)らしくなります。
連綿と続く、刺すような痛み。それは針を刺すような激痛ではなく、小鳥がついばむような微かな刺激だ。
だが、くすぐったいなどといった生ぬるい感想は一切抱けず、何故か悪寒が駆け抜けていく。冷や汗が頬を伝っていった。
小鳥というより、えたいの知れない生き物の触手につつかれている方が、適切な表現かもしれない。とにかく何かが、悠人の表皮をチクチク刺していた。
それが実際は肉体に影響を及ぼしているものではない、幻痛みたいなものだと気付いたとき、ようやく悠人の視界に光が戻ってきた。
しかし、目の前に見える物が一体何なのか、認識できるほどクリアになっていない。カチカチと起動音を立てる一世代前のパソコンのように、悠人の脳が正常に作動するまであと5秒。
4、3、2、1――
目の前に、ギンギンギロギロという効果音では足りないくらい、破滅的に吊り上がった両の目が、こちらをじっと睨めんでいた。
同時にその手にとったノート状の物に、熱心に何かを書き込んでいる。
(……ここは地獄なの?)
まだ明瞭ではない意識でそう思った。
(……え、閻魔様が僕の罪状を、か、書いているの?)
悠人の覚醒に気付かず、作業を黙々と、だが熱を込めて進める人物を誤認した悠人は、とたんに小刻みに震える。
(ぼ、ぼぼ、僕、なにか悪いことしたの? も、ももももしかしてこの前ジュース買った時にお釣りの取り残し(30円)をラッキーってネコババしたから? ひ、ひー! つい出来心だったんですー! ちゃんと交番に届けますから、ゆ、許して下さーい!)
今までの己の罪科(つまみ食いしたとか、切れたシャンプーの代わりにお姉ちゃんのを使ったとか、主に身内でしょぼい)を心中で暴露した悠人は、そこでハッと気付いた。
(いや、まさか……僕があんまりにも気味悪くて、周りの人を不快にしてきたから?)
その瞬間、悠人は突如飛び上がり、地面に手の平と足とおでこを擦りつけた。今回はジャンピング土下座という高度な技である。
「ごごご、ごめんなさーい! 気味が悪くてごめんなさい。気持ち悪い顔しててごめんなさい。みんなを不快にしてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。生きててごめんなさい! ……って、ここ地獄ってことは、僕死んでる!?」
「はあ、長塚君」
曖昧な返事と名を呼ぶ声に、悠人はそろそろと顔を上げる。恐る恐る見てみると、蕗が鉛筆を持った手を頬に当てて首を傾げていた。
「あ、相田さん?」
そうと分かった途端、全身の強張りが解けた。土下座を止め、脱力したように座り込む。
「な、なんだー、びっ、びっくりしたぁ」
声にほんの少し震えが残っているが、安堵したように微かに笑みを浮かべた。
蕗を目の前にして、この反応である。その密かで大きすぎる進歩に、悠人は気付いていない。
「あの、長塚君、大丈夫? 頭」
さっき倒れた時に頭でも打ったと思ったのか、蕗は鉛筆とスケッチブックを置くと、悠人に近寄った。
さらさらと最上級の絹のような手触りがする、綺麗な濡れ羽の黒の髪に、たんこぶがないかと手を這わせる。蕗の細くしなやかな感触に、悠人の沸点が易々と突破された。
「い、いやいやいや。だ、大丈夫だよ、大丈夫。これ時々こうなるだけだから。ちょっとした持病なだけだから。害はないよ!」
「そうなの?」
「そう、ビョーキビョーキ、でもヘッチャラデスヨー」
「…………そう」
重たい声で、蕗は凶眼に哀れみの色をのせて見つめた。
「はは、あははー、だ、大丈夫ぅ。ほら、ほら」
可哀想な人と思われているのに露と気付かず、悠人は急ぎ立ち上がり、手足をパタパタ不思議な踊りを披露した。
蕗の哀れみの色の濃さが、五〇%増した。
「あははは、……え、えーと、ここは?」
ひとしきり踊り、ようやく落ち着きを取り戻してきた悠人は、辺りを見渡した。
まず目に映ったのは、井然と並んだ椅子と机だった。ただ一般の教室と違う点は、その材質は全て木製で、一回り大きく、ところどころ絵の具が付着しているところだ。今だけであろうが、悠人と蕗がいる区画だけ、机と椅子は隅に追いやられていた。
廊下側の壁には美術部員の作品だろうか、感嘆を誘う絵画が飾られている。ただそのどれもが蕗のあの絵ほどの心揺らすものはなく、自然と蕗の絵は飾られていないと見受けられた。
窓側には、窓と窓の間を縫うように、精巧な石膏像達が置かれた棚がある。その更に間に飾られた絵にも、蕗の作品は見あたらなかった。ここが美術室だと気付くと同時に、何故未完成でも、あれほどまでに素晴らしかった蕗の絵が飾られていないのかと、疑問が浮かんだ。
(一回、相田さんの完成した絵、見たかったのにな)
だが浮かんだ疑問は、そんな感想と共に打ち切ってしまった。
微かに鼻をくすぐる油絵具の臭いの中、頬を掻く。
「えと、確か僕廊下で倒れていたはずだけど。もしかしなくても相田さんが、その、運んでくれたの?」
その問いに、蕗が悠人の様子をまだ不安げに窺いながら頷く。
「ご、ごめん。重かったでしょ?」
「ううん、そんなに重くなかったよ」
「そ、そうなんだ……。あの、運んでくれてありがとう」
そう礼をいってから、アレ、これフツー男女逆なんじゃ? と悠人は男の尊厳がいたく傷つき、ズーンと落ち込んだ。
「本当に頭大丈夫?」
悠人の病気が再発したのか、または実は頭を打っていて奇言奇行をとっているのかと思ったのか、蕗はもう一度悠人の頭を撫でようとした。
「だ、だいじょうぶだいじょうぶ! 元気元気!」
バックステップで回避し、またもや不思議な踊りを踊る。蕗の不安を拭うどころか倍増させた。もはや蕗の哀れみは飽和状態だ。
「ど、どのくらい気絶していたのかな?」
少し無理に軌道修正する。蕗は上目遣い(※でも非情に怖い)で思案顔すると「30分くらい?」と答えた。
一瞬びくりと身体を震わせたが、悠人はそれでも平然とした態度で「ごめん、けっこう待たせちゃったね」と謝っていた。
「けど、それだったら起こしてくれても良かったのに」
「起こすと悪いと思って」
「でも、時間を持て余していたでしょ」
「大丈夫、長塚君の寝顔描いていたから」
それを悪いと思わなかったのー! と思わず悠人は叫びたくなった。
しかし悠人が唖然とする様を見て、凶器そのものの目がなければ可愛いであろう、理由も分からず首を傾げる蕗に抗議する力もなくなる。
「もしかして、悪かった?」
「うんまあ、悪いといったら悪いんだけど……」
「起こさなかったの」
「って、論点ズレてるよ! もう終わってるよそこ!」
やはり何が悪いのか把握できていない蕗は、首を傾げるだけだった。
「……いいもんいいもん、悪いのは気絶してた僕だもん」
床にのの字を書くという、漫画やアニメでしか見ないいじけ方をする。妙に様になっているのがなんとも悲しみを誘った。
「そんなことより」
「うはー、僕の抗議ってそんなこと程度?」
勢いよく立ち上がって文句をいうが、小首を傾げた程度で黙殺される。
「時間、まだ大丈夫だよね?」
「え? まあ大丈夫だけど」
室内の時計を確認しながら悠人は答えたが、漠然とした悪い予感がした。
「じゃあ、座って」
勧められるまま、机とセットの椅子とは一線を隔した、作りの良い背もたれのない椅子に腰掛ける。気絶している時に座っていた椅子だ。
あれ、これどこかで見たことあるなーと悠人が記憶をほじくり返していると、すぐに先ほど蕗が一所懸命運んでいたものだと思い出した。
(そうそう、あの時パレットナイフを解体用ナイフと勘違いしたんだったよねー。あの時はびっくりしたなー。まあ絵を描く準備だったんだけど)
そこではたと思考が止まる。
絵を描くための準備? ってことはまさか――
「じゃあ、始めるからじっとしてて」
「やっぱりそうきたー!」
鉛筆とスケッチブックを装備した蕗に悶える悠人だが、「動かないで」という短くも迫力ある声と、その数百倍圧力がある凶眼に押されて硬直する。冷や汗を流しながら目だけを動かして蕗を見やると、スケッチブックに熱心になにかを描き込んでいた。
そのなにかとは、もちろん悠人だ。
まだ話をしてから決めようと思っていたのに! と心中で叫んだが、悠人の心の声を蕗が聞き取れるはずもない。ただひたすら鉛筆を走らせるのみだった。
悠人の瞳に少しだけ涙が滲んだが、それでも律儀に大人しく座っている。
背筋は理想的に伸びていて、頑として微動だにしていない。なのに人柄からかむしろ柔らかい印象を与える。
初めてとは思えないほど悠人はモデルとして様になっていた。
蕗は一瞬だけ鉛筆をとめ、思わず悠人に見入った。しかし、流石は芸術家の端くれ、刺激された創作意欲の思うまま、霊感をスケッチブックにぶつける。
堂に入った創作への姿勢は、決して短くはない経験を積んできたことが自ずと知れた。
悠人を見つめる凶眼に今まで見たこともない真剣な色が宿り、その様は一挙一動を見逃すまいとする無慈悲な狩人を彷彿させた。同時に獰猛な獣が獲物を追走しているような、本能を理性で押さえずにありのまま見せている、そんな風にも感じる。
それは画家の視線にしては苛烈すぎた。普段でさえ凶悪な目が一層どころか数倍は鋭さを増している。人の心を抉るナイフのような目だ。それこそ人を病院送りにできそうな程に。
ほんの少し前の悠人ならば、同じ末路を辿っていたであろう。その薄弱な心では数秒も保つまい。しかし、悠人は恐怖心と緊張感が確かにありながらも、依然としてモデルを続けていた。
悠人は蕗の凶眼を、恐怖を打ち払い盗み見ていた。
その瞳に宿るのは冷徹な狩人のものでも、獣の野生でもない。以前に蕗のモデルになった人物には感じ得なかったことを、悠人はその凶眼に見ていた。
それは絵に全てを懸ける情熱。絵を描く事が好きというものを超越し、描き続けることこそ己であり他は考えられない。彼女の生き様が読み取れる、熱がこもった澄んだ瞳だった。
この情熱を誰も見ることは出来なかったんだな。そう悠人は思った。
何もかも凍てつかせるような凶眼しか見ることが出来ず、自身をも燃やすような光を宿していることに気付く者はいなかったんだと。
誰か一人でもその光を感じられれば、美術部に蕗一人だけが残ることもなかっただろう。
蕗のモデルになってくれる人が、いないこともなかっただろう。
そして自分がモデルになることも、きっとなかっただろう。
悠人は表情には一切出さずに、内心自嘲めいた笑みを浮かべた。
彼女は仕方なく自分なんかを描いているだけだ。誰も彼女のモデルになってくれないから。あんなにも素晴らしい絵を描けるのに、その凶眼のせいで。
たった一人でも彼女のモデルになっていたら、壊した絵の賠償にモデルになってくれないなんていわなかった。でも、実際誰一人としてモデルになんてなってくれないから、こんな自分なんかで我慢している。
そう思うとなんだか彼女が哀れで、それ以上に胸がずきずき痛んで悲しかった。
自分は仕方なくモデルにされているだけで、望まれてモデルになった訳ではない。いや、なったなんていう事さえおこがましい。
そもそもあれほどモデルになるなんて嫌だったはずなのに。なのに、なんで――
(こんなにも痛いんだ……)
胸を押さえて蹲りたい。言葉にならない叫びを上げたい。こんな気持ちになるくらいなら、遠くに逃げ出したい。
なのに頑として体は動いてくれず、道化のようにモデルを続ける。
それでもモデルを続けたいから、なんて前向きな気持ちなんてない。
あるのは痛み、悲しみ、後ろめたさ。それと全てに責められているような恐怖。それらが悠人の体を縛り上げ、呼吸すらままならない。
蕗に心配を掛けたくない一心で、表情には出さず荒れる呼吸を必死で宥めているが、心は負の感情に蝕まれ、苛まれ、平静を保てなくなる。
醜悪な姿をした自分を見て逃げる人々が、声を掛けても避けていく人々が脳裏に浮かぶ。
かつて幼なじみにいわれた、変な顔をしているくせにという言葉が蘇る。
自分を捨てて家を出て行く母の後ろ姿が、何度も網膜に再生される。
蕗に君にもう用はないといわれる、未来を想像する。
もう用はない。いらない。誰か蕗のモデルになってくれる人が現れたなら、自分は絶対捨てられる。いや、こんな醜いものを描いていられないと思われただけで、自分は捨てられてしまう。
そう思った途端、心を縛る鎖が一瞬外れ、縛り上げられていた痛みが霞むほどの圧倒的な暴力が駆け抜けた。
自制がきかず肩が、背筋が震え上がる。貪るように空気を吸い、異物を飲んだように吐き出す。
世界にお前は独りなのだと責められ、闇に囚われる。
悠人の異変は、瞬きする合間に何事もなかったように霧散する、短い時間のものだった。 スケッチブックに描き込んでいた最中だったので、蕗に見られてさえいない。
それでも悠人の心を、完膚なきまでに叩き潰すには十分な痛みだった。
いつまた、平常を取り繕う体裁が崩れてもおかしくない。いや持っていること自体おかしい。
無様な姿を見られたくないのに。心配掛けたくないのに。でも、もう駄目だった。
だったら逃げよう。失望させない内に。でも逃げられない。体が動かない。それでも逃げたい。逃げて、逃げて、逃げて、この痛みから逃げ出したい。
どうせ捨てられるくらいなら、心が致命傷を負う前に、全てを放り投げて逃げ出したかった。
しかし、無慈悲にも足に力が入らない。
今まで心地よくさえ思えた筆音が、自分を責めたてる声に聞こえる。臆病者の姿が、時を追うごとに紙に描き出されていく。
蕗の腕に分不相応な自分が、醜い自分が描かれる。
堪えられなかった。心が折れて、二度と真っ直ぐ立てなくなりそうだった。
醜い自分が描きだされることではない。
これが描き終われば、もういらないといわれるかもしれないことだ。
あれほどモデルが嫌だったのに、そう考えるだけで絶望がこの身を襲った。
何度も足に力をいれようと踏ん張る。逃げるために。心を守るために。
でも、何度試してみてもびくとも動かない。まるでただの飾りのようだ。だが震えが飾りでないことを証明している。
もう一度、今度は腹の底から力を入れて立ち上がろうとする。失敗しても、空回っても、何度も何度も。すると、足が震えではなく自らの意思で、ほんの少しだけ動いた。
行ける。もう動ける。逃げられる。これでこの痛みから解放される。開放感と喜びが湧き立つ。これでもう大丈夫だ。傷つけられない。拒絶されることはない。
でも――
逃げて、痛みから解放されて、それでいったいどうなるっていうの?
体が止まった。
さっきまで動いた足は、一歩も踏み出せなかった。
ただ逃げようが逃げまいがどうにもならない現実に、頭が真っ白に塗られ、何も考えられなくなっていた。
そんな時だった。
「できた」
透き通った、鈴の音のような声が聞こえる。
「えっ?」
自分がいったい何をしたかったのかわからなくなっていた悠人は、間の抜けた声で返した。
「スケッチ。終わった」
あまり喋りたくないのか、蕗は無愛想と思えるほど簡潔に説明した。疲れているらしく、よく聞くと声に張りがない。
いや、疲れてるのではなく、モデルのあまりのひどさにまともに口もききたくないのかもしれない。きっとそうに違いない。
なんだか悠人は笑いたくなった。馬鹿らしくなったのでも、まして楽しいからでもない。
それは諦めの自嘲だった。
毅然とモデルを続けることも、投げ打って逃げることもできず、もう終わってしまったのだと。結局右往左往して何一つすることができなかったんだと。
悠人は断罪を待つ死刑囚の面持ちで、蕗から関わりを断たれる宣告を待った。
心が引き裂かれることに身構えた。
「見て」
なのに蕗は、悠人のそんな勝手な諦念を知らずに、当然のようにスケッチブックを差し出す。
最悪破り捨てられて「君、もういらないから」と切り捨てられると覚悟していた。なのに蕗は急かすような目で、悠人を強く見つめる。
その事実にひどく戸惑う。何故こんな最低なモデルの絵を破り捨てない? なんでこんな無様な自分に絵を見せる?
ほとんど無意識に悠人はスケッチブックを受け取る。
自分の眼前に持ってくるやいなや、瞬きもできずに自分が描かれた絵に見入った。
「これ、は?」
悠人は、自分がモデルをやっていたことを忘れそうになった。
そこにある絵を己と認識できない。認識できても認められない。だって、それはあまりにも自分の容姿とはかけ離れていて、全然醜悪なんかじゃなくて、むしろそれより――
綺麗だった。
鉛筆なのにまるで透明な絵の具で描かれたような、透き通った繊細さを感じられる。鬼気迫る情熱とは裏腹に優しげなタッチで、悠人の姿がそこにあった。
顔の輪郭は細いのに、弱弱しさは感じられない。目は凛々しいが吊り上りすぎることもなく、むしろ柔和で暖かな印象を与える。それを強調するように、細い眉が緩やかに弧を描いている。鼻は高くすっきりとしていて、唇は絵からでも瑞々しさを感じられる。
それらのパーツが完璧な調和を保っている。ミリ単位どころかナノ単位のズレすら許さず、かつどこか高貴な、むしろ神々しささえ感じられる。とてもじゃないが人間に思えない。その美貌は人間世界にあってはならないものだ。天上界の天使、いやそれ以上か。神といっても過言ではない。
ただ一つ違和感があったのは、世を儚むような、なのに世を見ていないような、そんな寂しげな表情をしていることだった。しかしそんなことなど気にもならないくらい、美しい。
そんな至高の芸術品と呼べる人間が、どこにでも売っている、普通のスケッチブックに描かれていた。まだ粗さは残るが、高校生にしては高い水準の技術と、粗さを補って有り余るくらいの情熱を持って。
悠人は甘美な時間を堪能し、その余韻を味わうかのような切なげな溜息をついた。
言葉にできない大きな高鳴りをどうにか押さえ、冷静な思考を取り戻そうとする。
胸に手を当て、心をなだめる。
どうにか平静を取り戻し悠人は、とりあえず一言こういった。
「えーと、これ誰?」
間髪入れずに、蕗があっさりと答える。
「長塚君だけど」
それ以外に誰が? という表情で蕗は小首を傾げている。
「んっと、そうじゃなくて、これ誰って聞いてるんだけど」
「だから、長塚君だけど」
悠人は死んだ魚の目で薄く笑った。
「はっはっはっ、冗談はいいから。これが誰なのか教えなさいな」
「だから、長塚君っていってるじゃない」
少々うんざりした表情で、蕗が答えた。悠人はそれを聞き息を吸って吐いて、もう一度吸って間をとった後、こう叫んだ。
「うっそだーーーーー!!」
まるでこの世の終わりを見たかのように頭を抱えしゃがみ込み、かと思えば立ち上がって仰け反ったり、頭をぶんぶん振り回したりと、奇怪な行動をとりだした。不思議な踊りバージョン2が誕生した。
「うそじゃない」
心外だといわんばかりに蕗がその凶眼を光らせた。居竦まれた悠人は、それでもここは譲れないとばかりに反論する。
「い、いやいやいや、うそだよ。う・そ。だって僕が、こんな僕がこんなに綺麗なわけないよ。見間違いだって。うん、そうだ。相田さん、きっと妖精さんでも見たんだよ。いやこの場合、地上を覗きに来た神様かなあ。そうに違いない」
うんうんと頷き一人納得する悠人。だが、
「うっ……」
蕗は不満げにギロリと睨んでいる。本人的には見ているだけなんだろうが。
「うう……じゃあこれだ。美化しすぎたんだ。確かにモデルが悪かったら画家が修正するしかないからねー。だったら納得。でも、いくらなんでもこれは美化し過ぎじゃない? そもそも僕は――」
「ちがう」
言葉は、そこで途切れた。美しい透き通るような、鈴の音色に遮られて。
「そうじゃない」
蕗ははっきりと告げる。
「これは、長塚君。私が見た、そのままの長塚君」
誰にも否定させないといわんばかりに、そういい切ったきり口を一文字に閉じて、悠人を見つめる。
「い、いや、でもそんな訳――」
言い返そうとするが、あまりにも意思の強い瞳に見つめられ、竦んだように何もいえなくなる。
「でも、でも……」
それでも言葉を捜して、しかし見つからずに言葉にもならないことを呟く。幼い子供のように俯き、拳を握って微かに震えた。
そんな悠人の拳に、蕗はそっと手を添えた。
悠人は驚き、顔を上げる。
すぐ目の前に蕗の凶眼がある。しかし恐ろしいとは露にも思わなかった。
むしろ優しげで、手から伝わる体温のように温かな眼差しだった。
「確かに、君の言葉にも一理ある」
「だったら、どうしてこれが僕なんて――」
反論は、包むように握られた手に阻まれた。
「私は、私が見たままの長塚君を描いた」
そこで一瞬、蕗の口元が歪んだ。悠人にはそれがくやしそうな表情に見えた。
「でもきっとそれは、全てじゃない」
「全てじゃ、ない?」
「そう」
すでにどこか表情に乏しい顔に戻っていた蕗は、悠人の手からスケッチブックを受け取ると、先ほどまで自分の座っていた椅子に置いた。
ほんの二、三秒目を留めてから悠人に向き直る。
「この程度のものが、長塚君の全てなんて思えない」
「…………僕が、この絵以上のものだっていいたいの?」
蕗は悠人に理解させるように、ゆっくりと頷く。
「まだ私には、君の全てが描き切れていない」
「……それこそ、ありえないよ」
静かな声色で、諦念をのせて悠人は呟いた。そんな自分が素晴らしいという幻想は、幼馴染にふられ、母に捨てられた時から霧散している。自分は駄目で醜い生き物だ。その現実を嫌というほど理解している。
なのにどうして蕗は哀しげに、でも己の言葉を信じて疑わない、力強い目で見つめてくるのだろうか。
「そんなことない」
もう一度手を握り、柔らかな感触を伝えながら、
「そんなことない」
しっかりと、聞き分けのない子どもを宥めるように否定した。
そのまましばらく手を握るに留めていた。だが、蕗は意を決した、熱を宿らせた瞳で不意に尋ねる。
「君は、なにを怖がっているの?」
核心を突く言葉に、自嘲を孕ませながら声には出さず、悠人は蕗の質問に答える。
怖がっている? 決まっている。他人の目が、人に捨てられる事が、なによりも怖いに決まっている。
「どうして怖がって、小さくなっているの?」
その方が楽だからだ。求めて拒絶され、求められて捨てられ、心が引き裂かれて傷つくよりもずっといいからだ。
「なにを、心に隠しているの?」
隠しているものなんて何もない。これが自分の全てだ。卑小で、なんの価値もないちっぽけな人間で、それ以下はあってもそれ以上はない。
だから、こんな自分に何も期待しないでくれ。何も持たない、存在自体が害でしかない自分なんかに求めないでくれ。
悠人は自身に価値があるなんて、素晴らしいなんて、そんな希望は抱けなかった。抱いてはいけなかった。
何故ならそうではないと知っているから。これ以上はないくらいに思い知らされたから。
だから、希望なんてなかった。抱いてはいけなかった。
なのに、自分には何一つだってないというのに、どうして蕗はこちらをじっと見つめたまま逸らそうとしない? どうしようもない駄目な人間だと失望しない?
どうして見捨てないで、言葉を掛け続けてくる?
「知りたい」
蕗は短く、でも力強く声に出す。
「私は知りたい」
悠人に誓うように。
「君を知りたい」
確かめるように。わからせるように。何度も同じ言葉を繰り返す。
「絵を描き上げたいとか、それだけじゃない」
握る手に力が入る。体温が熱く伝わる。
「私は君の全てが知りたい」
まるで愛の告白のように、熱が潜んだ真剣な目で悠人を見つめていた。
悠人の体を、何かが突き抜けていった。
それは力強く、悠人の存在など吹き飛ばしてしまいそうだった。
蕗の瞳に宿る情熱のように熱いのに、痛みは全く感じない。むしろ清清しささえ感じられる。雲一つない晴天の下で、草原で寝転び、日の光を浴びている気分だ。
でも優しいものでもない。今まで築き上げてきた足場を崩されるような、そんな衝撃も伴っている。こうであると思っていた自分が、揺るがされている。
決して優しくなんてない。優しいはずがない。
なのに、ただ甘やかされるよりも、親身になって話を聞いてくれるよりも、ずっと優しい。そう感じられるから不思議だ。
悠人は宿す熱をうつされたように、心が温かくなるのを感じた。
簡単に自身の評価を変えることはできない。自分は駄目な人間で、醜い人間である。
確かに心揺り動かされはした。でも、強迫観念も伴ったその思い込みは、頑として崩れようとはしない。自分が素晴らしい人間なんて、信じられない。
自分は本当に駄目な人間で、醜い人間である。
だが、もう自分に価値がないなんて、悠人は思えなくなってしまった。
こんなにも蕗は求め、知ろうとしてくれる。
何度も言葉を重ね、想いが伝わるようにと手を握って。捨てられると信じきっていた自分なんかを、心の底から信用するように。
それを信じないことは、蕗に対する裏切りだ。蕗を裏切ることはしてはならない。いや、ただ単純に、蕗を拒絶するようなまねは嫌だった。
だって本当は、自分を信じて求めてくれる人を、捨てられるといじけながらも、子どものようにただただ欲していたのだから。
父や姉といった身近な人間ではない。赤の他人なのに自分を避けず、それだけでなく知ろうと求めてくれる。歌詠や宵一郎ですら、ここまで深く心を寄せてくることはなかった。
ほんの微かな、目に見えないような小さな希望だったけど、そうなって欲しいという願いは、確かに昔からあったのだ。
(ああ……)
悠人は胸にある感情を、ただ心中で一言にのせた。
(相田さんとはまだ、出会って二日しか、経っていないじゃないか)
そう反抗してみるが、時間なんて関係ないと、これでもかと思い知らされている。
(あんなにも怖がって、モデルだって嫌だったのに)
恐怖も忌避も、もはや過去のものどころか、間逆のものに転じている。
(なのに、なんで……)
悠人は、その感情を知っていた。どうすることもできない、持て余すものだと、実体験から理解していた。
だからこそ、この想いは表したくなかった。表せないままでいい。そう願っているのに、これは力強く戒めを解こうとする。
(どうしてこの人は……)
この先の言葉は続けてはならないと、理性が押し留めてくる。しかし理性ごときが敵うはずもない。
何故ならこれは、理性なんて吹き飛ばすほどに強いもの。ずっと昔に置き去りにしたはずの、熱く身を焦がすもの。
(こんなにも簡単に僕の心に入ってくるんだ)
これは、恋だった。
ラブコメのはずなのに、シリアス分が多いような。……まあ、いっか。