靴ひも
そのとき、俺はしこたま焦っていた。
昼休みの終了を告げる予鈴はとっくに鳴り終わり、廊下の人影もまばらになっている。
そして、俺と言えば。学校指定のジャージの上下に、片方だけの体育館シューズ。そして手にはもう片方のシューズが握りしめられていた。
何なんだ、どうしてA組から順に回ったのにどのクラスも人っ子ひとりいないんだよ? どんな時間割になってるんだ、今日は。ウチの中学はひと学年が五クラス。最後の頼みの綱はE組。この教室だけが何故か渡り廊下を挟んで離れ小島の別棟にある。
「すみませーんっ、誰かいますかっ!?」
転がるように教室に飛び込んだら、そこもまたもぬけの殻。万事休す、と思ったときに隅っこの机からひょっこりと見覚えのある顔が覗いた。
「何だ、加藤じゃないの。そんなに慌ててどうしたの?」
どうして誰もいないんだよと聞いたら、次の時間は音楽でみんなもう移動した後だという。彼女はリコーダーを忘れて取りに来たところだったらしい。
「おおっ、でも良かった! 恵利っ、体育館シューズ、体育館シューズを貸せっ! ヤバイんだ、次の時間バスケのテストなんだよっ!」
日直の仕事でバタバタしていたら、仲間たちに置いて行かれてしまった。そういや、実技試験があるとかこの前の時間に先生が言ってたっけ。薄情な奴らはさっさと自分たちだけ練習をしているに違いない。
慌てて着替えて、上履きから体育館シューズに履き替えようとした。そしたら、いきなり「ぶちっ」って音がして……こともあろうに靴ひもが途中でブチ切れてしまったんだよ。これはもう一大事、どうにかして誰かのものを借りなくちゃならない。
「えー、何言ってるのよ。無理だよー、私とじゃ足のサイズが全然違うじゃない。相変わらず馬鹿だね、加藤も」
間延びする話し方も変わっていない。同じクラスになったり別れたり、だけどこの春までの6年間を一緒の小学校で過ごした仲間のひとりだ。そういや、私服の頃はパンツルックばっかだったのに、こうしてきちんと制服を着込んでると何だかイメージが違うなあ……。
「いっ、いいよっ。紐だけでっ。いいから、靴ひもだけ貸してくれっ! 早く、早く……!」
俺があんまり必死だったから哀れに思ったんだろうか。あきれ顔のままの恵利は、自分のロッカーを開けてそこから学校指定のシューズを取り出した。そして、片方の紐を外してくれる。だけど、まどろっこしい。もうちょっと早く出来ないのかっ。コイツ、丁寧なのはいいけど仕事が遅いんだよな。昔っから、全然変わってないじゃん。
「はい、これでいい? 別に急がないからいつでもいいよ。私ら、当分体育はグランドだから」
ありがと、恩に着るぜ! ――きちんとそう言えたかどうか、実は覚えていない。とにかくは恵利から受け取った靴ひもを手に必死で体育館まで走り込み、ぜいぜいと息を切らせながら途中で途切れた紐を外して付け替えた。
「――え?」
だけど、せわしなく動かしていたはずの手が突然止まる。俺は呆然とそこを確認した。
「……何で……???」
慌てていたため、左右の長さが少し違ったまま通し始めていた靴ひも。斜めになったその部分に細いマジックで書かれていた「佑司」という名前は、いくら目をこすったところで煙と共に消えることはなかった。
一体全体、どうなっているのか。
結局、バスケのテストは散々の結果に終わった。ドリブルは続かない、パスはすっぽ抜ける。シュートだって、十本中ひとつも入らないという低落。肩を落としてうなだれる俺に、先生は「再試験」を言い渡した。泣きっ面に蜂とはこのことか。
いつもはおふざけモードの仲間たちも、今日ばかりは神妙な面持ちで慰めてくれる。だけど、彼らの優しい言葉も全く聞こえてこない。俺の頭を占めているのは、慌てて裏返しにして隠した「佑司」という自分の名前だけだった。
あれは確かに恵利の体育館シューズだった。かかとのところに彼女の名前が書かれているのも確認してる。サイズは23センチ、よく分からないが一般的な女子の大きさなのだろうか。だけど、その靴ひもに書かれていたのは俺の名前。何で……恵利がそんなものを持っているのか?? だいたい、靴ひもに名前を書くということ自体が馴染みのないことだ。
考えれば考えるほど、分からない。次第にどつぼにはまっていく。続きの6限目もぼんやりが続き、イナゴというあだ名の先生にしこたま説教された。
そりゃあさ、俺だってそれほど馬鹿じゃない。
放課後。とりあえず下駄箱で、同じ一年に「佑司」って名前の奴が他にもいるのかどうかを調べて回った。さらに日誌を担任に渡しに行ったついでに、2年3年の先輩の名簿も確認する。だけど、いないんだな。念には念を入れて何度もチェックし直したけど、いくら繰り返しても全校生徒の中で「佑司」は俺だけだ。
――やっぱ、アレだろうか。そうか、……やっぱそうなのか……?
ようやくひとつの結論に達したのは、居残り勉強させられた英語の書き取り課題を全て終えて家路につく頃だった。
よく聞くじゃないか、女たちが夢中になる「占い」とやら。俺、前に消しゴム忘れて隣の席の女子に借りようとしてすげー剣幕で怒鳴られたことがあるんだよ。そのときはなんてケチな女だと呆れたが、あとからその理由を聞いてまたびっくりした。
「消しゴムの本体に好きな奴の名前を書いて、誰にも触らせずに最後まで使い切ったら両思いになれるんだと。姉貴の雑誌に書いてあったよ」
悪友の話に、なんだそりゃと思う。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるぞ、そんなことあるもんか。だいたい、消しゴムなんて最後のひとかけらまで使い終えるってことないだろ。いい加減な大きさになると消しにくいし、そうなれば次の新しいのが欲しくなる。それが普通の人間というものだろう。
そのときの話を、今回の靴ひものことに応用できないだろうか。誰にも見えない紐の裏側に意中の相手の名前を書く。その紐が切れるまで使い切ったら……とか? いやあ、女子が良く付けてるミサンガとかならいざ知らず、体育館シューズの靴ひもがそう簡単に切れるはずもないだろう。
うーん、うーん。……だけど。
考えがまとまらないままいたずらに日々は過ぎていく。幸いなことに恵利からも「靴ひもを返して」とかの催促はないし、となればどうでもいいのかなと開き直りかけたりもする。だが……気になるんだよな、やっぱ。ロッカーに押し込んだままのシューズ、そこに隠されている漢字二文字の俺の名前がむずがゆい。
校舎の端のA組と渡り廊下を挟んだE組との接点は少なく、気付けば必死になって恵利の姿を探している俺がいた。よく似た甲高い笑い声がするだけで、ハッとして振り返ってしまうあたりかなりの重傷だ。
――あ、いた。
紫色のはちまきはE組。恵利が言ってたとおりに、グランドでの体育の授業が行われている。俺は数学の授業を放棄して、彼女の姿を目で追っていた。
恵利は女子の中でも背の低い方だ。整列したら前から3番目くらいか。伸びかけの髪をふたつにしばって、後れ毛がうなじのあたりでふわふわと揺れている。ものすごく可愛いというレベルではないが、まあそこそこの感じだな。ちょこまかと良く動くわりには要領が悪くて、いつも居残りになってたっけ。決して怠けているわけではなくて、本人は必死にやってるんだよな。
自分でもよく分からない。だけど、あれから頭に浮かぶのは恵利のことばかり。あいつが俺に好意を持っていたとは今の今まで全く気付いていなかったが、別に悪い気はしない。野郎どもにからかわれるのは勘弁して欲しいが、なんちゅうか……そうだ、やっぱ嬉しい。
思えば昔から、恵利とは何かと腐れ縁だった。クラスが別れたときにも委員会とかで一緒になることが多かったし、そうじゃなくても掃除当番の場所が隣とか。顔を合わせる機会も多くて、異性を意識せずにしゃべれるところも楽でいいなと思っていた。
もしかしたら今頃、恵利も困ってるんじゃないかな。後から靴ひもの「秘密」を思い出して、慌てているとか。俺に気付かれて、これからどうしようか迷っているとか? 何か、そういうのって恵利っぽくていじらしいなと思う。
「――こらっ、加藤っ!」
ひいいいっ、やばっ! いきなり当てられて、焦って立ち上がる。でもよくよく見たら、手にしているのは国語の教科書。しかも上下が逆さま。
赤くなったり青くなったりする俺の視線の端に、校庭から教室の窓を見上げる恵利が映った気がした。
「……用事って、何?」
まるまる三日悩んで。あんまりそんな風にうだうだしてるのも、情けないものがあると悟った。俺は男だ、男だったらビシッと決めるべきだと思う。
ベタだとは思ったが、放課後の体育館裏に呼び出した。下駄箱にメモを入れるなんて、まさか自分でやることになるとはなあ。
「あ、いや。……その」
やって来た恵利が、呆れるくらいいつも通りだったから拍子抜けする。だけど、ここで引き下がるわけには行かないんだ。ええい頑張れ、俺っ!
「こっ、……これ。返そうと思ってさ」
ずっと握りしめていたから何となく汗臭くなっていたそれを、恵利の鼻先に突き出す。不思議そうな顔で受け取ってくれたのを確認してから、そのまま数歩後ずさりした。
漫画のような綺麗な夕焼け空。カラスが二羽三羽、黒いシルエットになって飛んでいく。野球部やサッカー部の練習するかけ声、ボールの音。涼しい風がふたりの間を通りすぎていく。
「あ……あのさ、……加藤?」
とてつもなく長い時間が流れた気がする。でももしかしたら、ほんの数秒のことだったのかも。いつの間にか地面とにらめっこしていた視線を上げると、きょとんとした顔をしたままの恵利の視線とぶつかった。
「加藤って、お姉さんか妹がいたっけ? んで、私と同じ名前なの……?」
恵利の視線は、俺が渡した靴ひもの上に書かれた文字に向けられている。それだけで、こっちは身体中の血液が逆流してしまうほどに緊張してるのに。……え、えええっ?
その言葉を、しっかりと受け止めて理解するまでにいくらかの時間が掛かった。やがて、全てを理解して。あんぐりと口を開けた俺は、そのまま大きく息を吐き出す。
「――は……あ……っ!?」
そのあと、酸欠の金魚のように口をぱくぱく。恵利の手にした靴ひもを指さして、どこまでも情けない俺がいた。恵利もどんな風にしたらいいのか分からないでいるんだろう、夕日に当たった片方の頬が赤くなってる。
「なっ、何かさあ……変だなって思った……んだよね。あれ以来、加藤って滅茶苦茶変だしっ。ウチの教室の前をうろうろしたりして、かなり怪しかったよーっ。ええとさ、……ええと……こんな時だけど、言っていいのかな?」
――あれ、もともとはお兄ちゃんの靴ひもなんだよ。色が同じだから、お下がりにもらったんだ。漢字まで同じって珍しいよね、私も初めに気付いたときは驚いたもん。
すまなそうにそう告げながら、俺を見上げる恵利。やっぱり、一度生まれてしまった感情はそう簡単に収まりがつきそうにない。けど……ここはその、これからどうしよう……?
長く長く伸びたふたりの影。若葉に包まれた桜並木がフェンス越しに並んでる。向こうが見えないほどどこまでも続いていく緑の帯を眺めながら、必死に次の言葉を探してた。
「ま……いいや、用事が済んだなら帰ろうよっ。どうせ、同じ方向じゃない」
結局、先に切り出したのは恵利の方。くるんと制服のスカートを揺らして、きびすを返す。そのまま、すたすたと歩き出すから慌てて後を追いかけてた。