四、憎しみを超えて
そこは、世界樹の広場と呼ばれる場所だった。
そこには先客が一人いた。背を見せていた先客は、キスティスが近付いたのを見計らったようにくるりと振り返った。
「やあ、あなたがキスティス=カルツちゃんね?」
少々耳障りな甲高い声。口調は女性だが、姿形は紛れもない男性だった。宰相モリスンその人である。彼のその、特異な性格は方々に知れ渡っていたが、キスティスは未だ幼かったため彼が何者であるのかは知らなかった。ただ、変なおじさんがいる、という事だけしか。そしてその、変なおじさんが自分と世界樹との間に立ちはだかっていて、樹の根元に近付けないという事も何となく解った。
変なおじさんには近付かないように。
つい最近、両親から教えられたことだ。
キスティスはその教えを忠実に守った。一歩もそこを動かない、どころか回り込むようにして遠巻きに、世界樹の方へ足を向ける。
「おじさん、だれ?」
歩きながら訊ねる。
「あたしはね、あなたを助ける為にここに来たの」
モリスンがにこやかに応じる。幼子への配慮が混ざっていた。
「た、す……け……?」
首を傾げるキスティス。自分が助けを求めているなどと微塵も意識した事は無い。今はただただ、両親の元へ早く帰りたいだけだ。
その、訝しむキスティスの、表情を見てとってモリスンが優しく付け加える。
「あなたの、両親から、言付かってきたの――」
皆まで言い終わる前に、異変が起こった。
はらはらと、舞い落ちる落ち葉。葉っぱは普通、枯れた時にしか落ちない。茶色く染まったその葉っぱたちが地面に落ちた後も、尚も降りしきる落ち葉。付近に枯れ葉の嵐が吹き荒れた。見上げると、世界樹の全ての葉が赤や茶に染まっていた。
世界樹は枯れていた。
「あ」
キスティスは声を上げて、近付こうとした。世界樹の元へ。目は見開かれたままに。
この森はどうなってしまうの? 村はどうなってしまうの? 世界は、どうなってしまうの……? めまぐるしく思考が渦を巻く。ぐるぐるぐるぐると、思考が回ってその中心点、一点に集約された結論は、「滅び」だった。
三歳の子供がそこまで理解できるはずもない。が、直感で分かった。この世界が滅びゆく様が。村はもう――と、村の方角を見た時、その方向から煙が上がっているのが目に入った。
「おやおや。あなたの帰る場所が無くなったようね。帰るところが無くなったのなら、おじさんのところに来ない? 悪いようにはしないから」
そう言ってモリスンは微笑みながらキスティスに近付いて、手を差し伸べた。
悪意ある微笑み。
直感で悟った。このおじさんについてっちゃだめだ。
それは、両親の教育の賜物というよりも、生きていくための野性的直感だった。
でも――、と世界樹に視線を走らせると、樹全体が光り輝いていた。
「なに!? これ!」
モリスンが悲鳴をあげ、その最中にも世界樹は光を強くしていった。
風前のともしびだったのかもしれない。今思うと、世界樹は最後の力を振り絞っていたように思える。世界中の植物たちの統合、その瞬間を垣間見ていた。
次の瞬間、植物たちが歌い出す。柏、楓、ブナ、樅などの立木から、下生えの木や草、花まで。全ての植物たちが、悲しい歌を合唱していた。それは葬送曲のように虚しく森に満ちていく。
キスティスは目から熱い何かが溢れるのを感じた。
「しなないで……」
キスティスは世界樹に死んで欲しくないと思い始めていた。死が何か、どういうものかなど解らない。でも、解らないなりに消失感というものを感じていたのだ。世界樹の幹に掌をつけて、目を瞑る。そして、必死になって祈った。理屈なんてわからない。でも、自然と治癒の力は使えた。それは、血によるものだったのかもしれない。
「すごい……」
モリスンは息を飲んだ。実際に間近で治癒の力を見るのは初めてだったからだ。そして、ますます手に入れたい衝動が高まった。血が滾り、頬が紅潮する。
世界樹の幹が生気を取り戻していく。それと同時に光が強く激しく瞬いた。木々の歌が悲しみから喜びへと変化していく。キスティスが木々に生を与えているようだった。命の迸りが高まっていく。最高潮に達した時、世界樹からの声が響いた。
――小さき者よ。
最初は耳を疑った。モリスンも、キスティスも、共に周囲を見渡して自分達しかそこに居ないのを確かめた。
――小さき者よ、ありがとう。
今度ははっきりと解る。その声がどこから発されているのか。
――カルツォーネの力を受け継ぎし者よ。
――この世界はもう直ぐ死にます。今直ぐではないけれど。
――だから、植物たちに私の種を蒔きました。
――芽が出るのはもう少し先だけれど……それまで、守ってください。
――どうか……お願い……。
――癒しの力を継ぎし者よ……。
そこで、世界樹の意識が途絶えたようだった。
世界樹は死んだ。
はじめて、キスティスは死を目の当たりにした。意識が反転するのを実感する。そして、振り向いたキスティスの目に飛び込んで来たのは、村が焼かれて立ち上っている煙だった。
「し…………!」
瞬間、力が暴走した。
キスティスの内側から何かが膨張し、拡散した。それは治癒の力の反転だった。
荒野が広がっている。
生きとし生けるもの全てが死に絶えた跡地だ。
その中心で動くものがあった。キスティスとモリスンだ。爆心地に居たので免れたのだろう。モリスンは固唾を飲んだ。
(これが、治癒の反転……?)
すごい、と呟く。
周囲には何も無くなった。村も森も世界樹も。何もかも。
キスティスは意識を暗転させ、その場に倒れた。
モリスンは彼女を抱き抱え、帰還した。自国へと。
その後、キスティスはモリスンに育てられることになる。
三歳以前の記憶を失くしたまま。
fin.
これの続きどうしようかなぁ……。