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第一話 没落令嬢、派遣社員になる

第一話 没落令嬢、派遣社員になる


 九条院家が没落した。


 その事実を、私はまだ少し不思議に思っている。


 昨日まで私の家だった屋敷は、もう他人のものだ。


 庭も、蔵も、祖父の代から飾られていた絵画もない。


 そして現在、私が暮らしているのは、駅から徒歩十分ほどの小さな賃貸マンションである。


「お父様」


「なんだ」


「私、働こうと思います」


 向かいに座る父は、新聞から顔を上げた。


「そうか」


「はい」


「仕事は決まったのか?」


「派遣社員というものに登録いたしました」


「……そうか」


 父は一度だけ目を閉じた。


 別に驚いているわけではない。


 おそらく、私がいつまでも家にいるとは思っていなかったのだろう。


「それで、どんな仕事をするんだ?」


「事務だそうです」


「それはいい」


「派遣社員というのは、使用人のようなものでしょうか?」


「違う」


 父の返答は早かった。


「全く違う」


「そうなのですか?」


「君は労働者だ」


 父は新聞を畳んだ。


「会社に労働力を提供し、その対価として給与を受け取る。雇用契約に基づいて働く。それが労働者だ」


「なるほど……」


 私は深く頷いた。


「では、私は堂々と働けばよいのですね」


「その通りだ」


 母が隣で紅茶を飲みながら微笑んだ。


「ただし、澪」


「はい、お母様」


「礼儀正しくすることと、何でも言うことを聞くことは違いますよ」


「……?」


「そこだけは、よく覚えておきなさい」


 母は優雅にカップを置いた。


「あなたは九条院家の娘です」


「でも、もう九条院家は――」


「家はなくなりました」


 母は静かに言った。


「ですが、あなたがどう振る舞うかは、誰にも奪えません」


 その言葉の意味を、私はまだ完全には理解していなかった。


 翌朝。


 私は人生で初めて、満員電車に乗った。


 ――なるほど。


 これが社会というものなのですね。


 人、人、人。


 誰も私を見ていない。


 これは少し新鮮だった。


 九条院家にいた頃は、どこへ行っても「九条院のお嬢様」と呼ばれた。


 けれど今は違う。


 私はただの派遣社員だ。


 それでいい。


 今日から私は、自分の力で生きていくのだから。


* * *


「今日から来る派遣さん?」


「はい。本日よりお世話になります。九条院澪と申します。どうぞよろしくお願いいたします」


「……ずいぶん丁寧ね」


 目の前の女性が、少しだけ眉をひそめた。


 田中真紀さん。


 私の教育係だそうだ。


「ここ、そんなにかしこまらなくていいから」


「承知しました」


「あと、私のことは田中さんでいいから」


「承知いたしました、田中さん」


「……まあ、いいけど」


 田中さんは私にデスクを案内した。


「これがパソコン。分かる?」


「はい」


「Excelは?」


「基本的な操作でしたら」


「へえ」


 田中さんが私を見る。


 何かを測るような目だった。


「じゃあ、とりあえずこの資料コピーして」


「承知しました」


 私は資料を受け取った。


「あと、コピー終わったらこのファイル整理して」


「はい」


「それが終わったら――」


 田中さんが次々と仕事を指示していく。


 私は一つずつ確認した。


「こちらは本日中でよろしいでしょうか?」


「そう」


「承知しました」


「……あなた、本当に何でも『承知しました』って言うのね」


「はい」


「疲れない?」


「特には」


 田中さんは、なぜか少し嫌そうな顔をした。


 私は首を傾げた。


 社会人というものは、難しい。


* * *


 昼休み。


 田中さんが私のデスクにやってきた。


「九条院さん」


「はい」


「これ、今日中にまとめといて」


 渡されたのは、かなりの量の資料だった。


 私は資料を確認する。


「こちらは私の担当業務でしょうか?」


「派遣なんだから、頼まれた仕事はやってくれればいいの」


「……そうなのですか?」


「そうよ」


 田中さんは少し笑った。


「会社ってそういうものだから」


 私は黙って資料を見つめた。


 会社とは、そういうもの。


 そうなのだろうか。


 その日の夜。


 私は父に電話をした。


「お父様」


『どうした』


「会社とは、頼まれた仕事を何でも引き受ける場所なのでしょうか?」


 電話の向こうで沈黙があった。


『……誰に何を頼まれた?』


「田中さんという方です」


『その女性は君の上司か?』


「いいえ」


『君の雇用主か?』


「いいえ」


『では、なぜ君はその女性の言うことを全て聞く必要がある?』


「…………」


 私は初めて、気づいた。


 父がいつも言っていたこと。


 母が今朝言っていたこと。


 それは、こういうことだったのだ。


『澪』


「はい」


『まず、契約書を見なさい』


 父の声は、いつも通り穏やかだった。


『話はそれからだ』


 ――翌朝。


 私は契約書を鞄から取り出した。


 そして、田中さんに尋ねた。


「田中さん」


「なに?」


「こちらの業務は、私の契約業務に含まれているのでしょうか?」


 田中さんの顔から、笑顔が消えた。


「……は?」


 私の社会人生活は、どうやらここから始まるらしい。

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