タクシー
その日私は都内某所を通る幹線道路でタクシーを走らせていた。
平日とは言え夜の8時過ぎにしては人通りも車通りも少なかった。
暫く車を走らせていると歩道に手を上げている人影を見つけ、私は車を寄せた。
「ご利用ありがとうございます。どちらまで参りましょうか?」
「とりあえず真っ直ぐ」
低く地を這うような声を出した客の男は車内の薄い照明の下でも、青白い顔に無数の皺が刻まれているのがわかった。
「かしこまりました。目的地が近づきましたら道のご指示をお願いいたします」
お客からは何の返事もなく、そのまま車を発車させた。
ガチャガチャ ガチャガチャ
走り始めて暫くすると後部座席から音がした。どうやら自分の鞄の中身を物色しているらしい。
その音が止まったと思ったらゴソゴソと小刻みに動き始めた。
ガチャガチャ
ゴソゴソ
ガチャガチャ
ゴソゴソ
運転に集中しようとすればするほど、後部席で何をしているのかが気になる。
覗き込んだルームミラーに映る後部座席を対向車のヘッドライトが照らし出した。
青白かった肌は血色を取り戻し、無数の皺は鏡越しのせいか見つけることができない。
後部席に座ったときはどこか虚ろで開いているのか閉じているのかもわからなかった目は今は大きく見開き、心なしかギラギラと光って見えた。
私はタクシー運転手の間で話題になっていたある噂を思い出していた。都内の某所へ続く幹線道路で夜、中年の男を乗せた運転手達の噂を。
「あいつらは、あちら側に連れて行かれしまったんだ」
「もう戻って来ることはない」
「変わり果てた姿で歩いているの見かけた」
自分には関係ないことと気にもしていなかったが、後部席の男を乗せた時間、場所、進行方向、全てが噂と一致する。
(偶然だ偶然、この客がそうだとは限らない)
自分に言い聞かせてルームミラーを再び覗き込んだ。
思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
最初は肌と同様に青白かった唇が、今は真っ赤に染まり口の中から伸ばした舌で上唇、下唇と交互に舐めている。
「あっ次の信号、左ね」
真っ赤な唇を舐めた舌をしまい込んだ口から言葉が発せられた。その声は低いままではあったがどこか跳ねるような軽快感があった。
「かしこまりました。左ですね」
「二つ目の十字路を右ね」
「かしこまりました」
言われるがままに車を走らせる。
額から暑くもないのに汗が流れてきた。このまま走っていったら噂話と目的地も一緒になってしまう。
噂話の目的地は「赤い看板の店の前」だった。
「暫く行くと赤い看板が出ているお店があるからそこで止めて」
確実だった。今、後部座席に乗っている客が間違いなく噂なっていた、運転手達をあちら側に連れていった夜の幹線道路に現れる中年客だ。
赤い看板の店の前にタクシーを停めた。
「到着いたしました。料金は3120円になります」
メーターを見たまま振り返らずに告げる。接客として最低の態度である。しかし、心が、いやもっと奥にある本能が「振り返るな」と警鐘を鳴らしていた。
「はい、これでお願い。お釣りはいいから領収書ちょうだい」
コンソールボックスを横目で見下ろすとトレーの上には5000円札が置かれていた。
「ありがとうございます。少々お待ちください」
領収書発行ボタンを押して発行されたレシートを右手で切取りに体を回して後ろを振り返った。
そう振り返ってしまったのである。
普段からしている体に染み付いた行動と、「釣りは要らない」という言葉が本能からの警鐘に勝ってしまったのだった。
そして振り返った私の目の前にいたのは……
私は確かに幹線道路で中年の男性、おじさんを乗せたのである。だが今、後部座席に座っているのは中年の女性、おばさんなのだ。
おじさんを乗せたら、おばさんになっていた。
その後部座席のおばさんは、領収書を差し出した私の手首をギュッと握り締めた。それは女の力ではなかった。
おばさんは私の手首を握ったまま反対の手で領収書を摘み取ると胸元から名刺サイズの紙を取り出し、自らの唇に押し当てた後で私の右手の上に置いた。
「運転手さん、私の好みよ。いっぱいサービスしてあげるから今度遊びに来てね♡」
そう言って私の右前腕部を何往復も撫でてから車を降りていった。
それからの記憶は曖昧だった。どこをどうやって走って帰庫したのかも覚えていない。
あの日、私はあちら側に行かずには済んだ。しかし、この先もこちら側に止まり続けられる保証はない。
なぜなら、私はあの日渡された名刺を捨てられずにいるのだから。
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