四日寝過ごしたけどそれはそれとして 走れメロス
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
メロスは王城に入り、捕らえられ、処刑されることになったが、竹馬の友セリヌンティウスをかわりに立て、3日の刻限を定めて戻ってくる約束をした。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、翌る日の午前、村に到着した。
「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」
メロスが妹に言うと、妹は頬をあからめた。
「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは朝だった。
「妹よ、今日はお前の結婚式だ」
「違うわ。結婚式はもう三日も前に終わったわ。兄さん、まるっと四日も寝ていたんですもの」
「なに。四日。」
「四日よ。」
「すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。」
花嫁は、わけもわからぬまま首肯いた。
南無三、寝過した。
セリヌンティウスはもはや吊るされているだろう。
いや、せめてあの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って、セリヌンティウスの隣で磔の台に上ってやる。メロスは、身仕度をはじめた。雨は既に止み、快晴であった。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。殺されるかも分からないが走るのだ。走らなければならぬ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていたが、さすがに四日も前。今は清流がさらさらと流れているだけであった。
メロスは迷うことなくざんぶと流れに飛び込み対岸にたどりついた。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に疲れた顔をし山賊が一人躍り出た。
「来るとは思っていなかった。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」
「ああ、俺達はもう疲れた。行け。ただその腹の立つ顔だけでも、一目見ておきたかっただけだ。」
「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」
「ああ。そのむさ苦しい台詞、数日前に聞けていればどれほど楽しかったか。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
「そうだ。もう待ち疲れて、お前を殺す気力はない。行け」
メロスはさっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きした。メロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに既に殺されているだろう。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。
ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。
メロス。もう遅れているがいまさらどうでもよい。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。メロスは、いまはほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、メロス様。まさか来るとは」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」
その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。
「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、そんなことはどうでもいい。」
「あの方は死刑になりました。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっと、いや、あと数日早かったなら!」
メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。」
最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
「メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスがまだ、吊り下げられていた。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。何をいまさら。遅すぎる、と口々にわめいた。なんにせよセリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
セリヌンティウスは生きていた。数日吊るされていたが、首が異様に丈夫なため、生きていたのである。
吊るされたままなので刑吏と打ち解けてしまってもいた。
明後日飲みに行くらしい。
地面に降ろされたセリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、優しく微笑んだ。
「メロス、私を殴れ。音高く私の頬を殴れ。私はこの7日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」
メロスは自分のことを殴れとは言わなかった。
異様なフィジカルを誇るセリヌンティウスに殴られれば、命がなくなりそうだからである。
民衆が集まっていたのはセリヌンティウスが編み出した、吊られパフォーマンスを見に来たのであった。日が落ちても人波の絶えないそれは、シラクサの街の新名物であった。
二人はひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。セリヌンティウスの首が、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」
ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。




