悪友の毒、英雄の耳
騎士団が城の包囲を解き、森の入り口まで後退したその夜。 カイルは一人、天幕の外で焚き火を見つめていた。昼間に見た光景——闇の色に染まった少女の瞳と、自分を拒絶するような怯えが、脳裏に焼き付いて離れない。
「……なんだぁ、英雄様。そんなお通夜みたいな面してると、部下たちが不安がるぜ?」
「……誰だ!」
暗闇からふらりと現れたのは、紫のローブを纏った男、ゼノスだった。 カイルが剣を抜くよりも早く、ゼノスは両手を上げて、人を食ったような笑みを浮かべる。
「おっと、物騒なもんはしまっておけよ。俺はしがない魔導具師だ。……アルマの奴、いよいよあの子を『私物化』し始めた。見てられねぇよ。元相棒として、忠告に来てやったんだ」
「アルマの仲間か。……リアをどうするつもりだ!」
カイルが食ってかかるが、ゼノスは焚き火の光に照らされながら、声を低く落として芝居を続けた。
「いいか、英雄様。あの子にかかっているのは、ただの呪いじゃねぇ。アルマの魔力を無理やり流し込み続けて、あの子の魂を『上書き』してるんだよ。あの子がアルマを求めているように見えたか? ……そりゃあそうだ。あの子の感覚は、もうアルマの闇なしでは機能しねぇんだからな」
「……貴様ら、どこまで彼女を弄べば気が済むんだ!」
カイルの拳が、怒りで白く震える。ゼノスの「毒」は、カイルの正義感という名の燃料に、見事に火をつけていた。
「助けたいんだろ? なら、方法は一つだ。……アルマを正面から叩いても無駄だ。あいつはあの子を盾にする。……だが、夜闇に乗じてあの子の左手にある指輪……あの『繋ぎ目』さえ外せば、あの子の魂はアルマの支配から解放される」
ゼノスは嘘の中に、巧妙に「本当の情報(指輪の重要性)」を混ぜ込んだ。これによって、カイルは「正面突破」ではなく、「潜入と指輪の奪還」という次の一手を選ばざるを得なくなる。
「……なぜ俺にそんなことを教える。お前もアルマの仲間だろう」
「言っただろ、俺は魔導具師だ。アルマがあの子を完全に壊しちまったら、俺が狙ってる『聖女の素材』としての価値がなくなる。……綺麗なままで教会に戻ってもらった方が、俺にとっても都合がいいんだよ」
ゼノスはそれだけ言い残すと、夜の森へ溶けるように消えていった。
(……よぉし、これで準備完了だ)
森の影で、ゼノスは自身の唇をなめた。 これでカイルは死に物狂いで城に忍び込み、指輪を奪おうとするだろう。そして「指輪を奪おうとする者=リアを殺しかねない侵入者」と見なした瞬間、アルマの狂気が爆発する。
「……ハハッ、最高の見せ物になりそうだ。……せいぜい頑張れよ、正義の味方サマ」
ゼノスの撒いた毒が、静かに、確実に、騎士団の陣営を蝕み始めていた。 一方、城の中では。 アルマが、眠るリアの左手を、壊れ物を扱うように静かに握りしめていた。
◇◇◇
その夜、アルマは結界の再調整のために最上階の制御室にいた。
私は執務室のソファで、アルマから渡された古い魔導書をめくっていた。指輪を通じて伝わってくる彼の魔力は、どこか張り詰めていて、私の心を静かに締め付ける。
(……ゼノスさんは何を企んでいるんだろう。でも、どんな嵐が来ても——)
そう決意を固めた瞬間だった。 執務室の窓が、音もなく外側から開かれた。
「——見つけた。リア、今助ける!」
月明かりを背負って飛び込んできたのは、昼間の白銀の甲冑を脱ぎ捨て、動きやすい軽装に身を包んだカイルだった。
「……カイル、様?」
「静かに。……ゼノスから聞いたよ。君はアルマに魔力を繋がれ、自分の意志を奪われているんだね。……ひどい顔だ。あんな男に、どれだけ恐ろしい思いをさせられたんだ」
カイルは私の返事も待たず、一気に距離を詰めると、私の左手を強く掴み上げた。その瞳には、一点の曇りもない「正義」が宿っている。
「安心するといい。この指輪さえ外せば、君は自由だ。王都へ行こう。そこには君を癒やす光がある」
「……待って。離してください!」
私は必死に手を引こうとしたが、訓練された騎士の力には抗えない。 カイルは懐から、教会が用意したであろう「解呪の魔石」を取り出し、私の指輪に押し当てようとした。
「嫌だ……! やめてください!」
「怖がらなくていい! これは一瞬だ。……君を、あの化け物から救い出してあげる!」
「——化け物は、あなたの方です!!」
私の叫びが、静まり返った執務室に響き渡った。 カイルの手が、止まる。彼は信じられないものを見るような目で、私を見つめた。
「……え?」
「……アルマ様は、私を拾ってくれた恩人です。私が、私の意志で、ここにいたいと願ったんです」
私はカイルの手を思い切り振り払った。指輪に刻まれたアルマの闇の魔力が、侵入者の光に反応して、私の肌をチリリと焼く。でも、その痛みさえ今の私には愛おしかった。
「助けてなんて、一言も言っていません。……あなたの言う『自由』なんて、私には必要ない。……私は、アルマ様の隣で、彼を支えたいんです!」
「……嘘だ。君は、呪いでそう思わされているだけだ。……だって、そんなのは間違っている。……聖女の力を持つ君が、悪者に尽くすなんて、あってはならないことなんだ!」
カイルの声が震える。 彼にとっての世界は、光と闇、善と悪で綺麗に分かれている。だから、私が「闇」の中に幸せを見出していることが、どうしても許せないのだ。
「……間違っていてもいい。世界中が彼を『悪い魔法使い』と呼ぶなら、私は世界一の『悪い弟子』になります。……だから、もう帰ってください。次に来たら、私はあなたを敵と見なします」
私が右手をかざすと、アルマから教わったばかりの「拒絶」の魔力が、小さな衝撃波となってカイルを突き飛ばした。
「……リア。君は、本当に……」
絶望に染まったカイルが何かを言いかけた、その時。
背後の扉が、音を立てて開いた。 そこには、全身から怒りと殺気を溢れさせた、漆黒のローブの主が立っていた。
「——人の家で、随分と熱心な勧誘だね。騎士様」
地を這うようなアルマの声。 空気は凍りつき、カイルの背筋に本物の死の予感が走った。




