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化石の森のクジラ

作者: イトウ
掲載日:2025/12/17

 部屋のカーテンを閉め切ると、そこはまるで深い海の底のようだった。

 壁には、大きなザトウクジラのポスター。机の上には、青いガラス玉。ヘッドホンからは、ユーチューブで見つけた「深海の音」が流れている。

 高校二年生のりくにとって、この部屋だけが、唯一息ができる場所だった。

 一歩外に出れば、そこは緑色の壁に囲まれた世界だ。

 県の境目には高い山が並んでいて、どこへ行くにも邪魔をする。

 陸は、自分の名前が嫌いだった。「陸」なんて、乾いた土みたいで、今の自分そのままだ。

 進路希望の紙には、東京の大学の名前を書いた。何を勉強したいとか、そんなことはどうでもいい。ただ、窓を開ければ潮風が入ってくる場所へ行きたかった。水平線という、終わりのない青い線を、この目で見てみたかったのだ。

 夏休みに入ってすぐのことだ。

 家にいるのが息苦しくて、陸はマウンテンバイクで裏山の林道を登っていた。

 昔、崖崩れがあって、地面のしま模様が見えている場所がある。そこは誰も来ない、陸だけの秘密基地だった。

 けれどその日、そこには先客がいた。

 泥だらけの作業ズボンをはいた、小さなおじいさんだった。

 斜面にへばりつくようにして、小さなハンマーで地面をコツコツとたたいている。

「……何してんの、じいさん」

 陸が声をかけると、おじいさんはゆっくりと振り返った。泥だらけの顔で、ニカっと笑う。

「おお、少年。静かにしな。海の主が目を覚ます」

「はあ? 海?」

 陸は鼻で笑った。「ボケてんの? ここは山だよ。海なんて、ずっと遠くじゃん」

 おじいさんは笑ったまま、ポケットから何かを放り投げてきた。

 あわてて受け取る。それは、手のひらに乗るくらいの、ギザギザした三角形の石だった。

「サメの歯だ」とおじいさんは言った。「ムカシオオホホジロザメ。一千万年前、わしらの頭の上には、青い海が広がっておったんじゃよ」

 陸は、その冷たい石を見つめた。

 鋭くとがった形は、大昔に獲物をかみ砕いた記憶をそのまま残しているようだった。

 土と草のにおいしかしないこの森が、昔は海だった?

 おじいさんはげんさんと名乗った。定年退職してから、毎日こうして「昔の海」を掘り起こしているらしい。

 その日から、陸はなんとなく源さんのところへ通うようになった。

 最初はただのひまつぶしだった。けれど、ハンマーで岩を割る感触は、なんだかスカッとした。

 貝殻やサンゴのかけらが出てくるたびに、陸の頭の中で、緑色の山が少しずつ青色に塗り変わっていく気がした。

「少年、なんでそんなに海へ行きたい?」

 ある日の休憩中、源さんがお茶を飲みながら聞いた。

 陸は、下に見える街並みをにらみつけた。

「……せまいから。山がじゃまなんだ。俺を閉じ込めてる壁にしか見えない」

 源さんは「ふうん」と言って、遠くの山並みに目を細めた。

「わしには、あの山が『波』に見えるがな」

「波?」

「大昔、地面がぐぐっと持ち上がって山になった。あの山々は、地面が空へ向かって盛り上がった、その瞬間の形なんじゃよ。言ってみれば、一千万年の間止まったままの、土の波だ」

 陸はその言葉に驚いた。源さんの目には、この窮屈な景色さえも、ダイナミックな地球の動きとして見えているのだ。

 夏休みも終わりかけの頃、源さんがとんでもないものを見つけた。

 岩の中に、太くて白いものが埋まっている。

「背骨だ」源さんの声がふるえていた。「クジラだぞ、陸。それも、とびきりデカい」

 大発見だった。けれど、その翌日、源さんは現場に来なかった。

 持病が悪化して、入院してしまったのだ。

 台風が近づいていた。

 空は厚い雲におおわれ、冷たい雨が降り出していた。陸はカッパを着て、一人で山に入った。

 雨はだんだん強くなり、視界を白く染めていく。

 陸はドロドロになりながら、必死にハンマーを振るった。

 源さんの代わりに、俺が見つける。

 あと少しで、頭の骨が出るはずなんだ。

 雨が激しく木々をたたく。雷がゴロゴロと鳴り響く。

 そのとき、不思議なことが起きた。

 ザアザアと降りそそぐ激しい雨の音が、すべて海の中の音に変わったのだ。

 強い風にゆれる杉の木たちが、まるで海の中でゆらめく巨大な海藻かいそうのように見えた。

 冷たく湿った空気は海水となり、陸の体をふわふわと浮かばせる。

 そして、目の前の土の中から、白い巨体がゆっくりと身を起こした。

 それは幻ではない。一千万年の眠りから覚めたクジラが、雨という名の無数の粒の中を、ゆうゆうと泳ぎ出したのだ。

 土のにおいが消え、鼻の奥に、しょっぱい潮の香りがはじけた気がした。

「……いたんだ」

 陸はふるえる手で、化石の冷たい額に触れた。

 ここは、海のない場所じゃない。

 俺が立っているこの地面こそが、かつてたくさんの命を育てた、広い海の底だったんだ。

 山は壁じゃない。源さんの言う通りだ。これは、かつての海が空にあこがれて持ち上がった、時間のしぶきなのだ。

 翌日、陸は病院へ向かった。

 ベッドの上の源さんはずいぶんと小さく見えたが、陸がスマホの写真を見せると、カッと目を見開いた。

「……出たか」

「うん。めちゃくちゃカッコよかったよ」

 源さんはふるえる指で画面をなぞり、くしゃくしゃに顔をゆがめて笑った。

「そうか……とうとう、息継ぎをしに上がってきたか」

 秋になり、発掘された化石は地元の博物館に飾られることになった。

 新聞には「山で泳ぐクジラ」という見出しがおどった。

 陸は、机の上の進路希望の紙を書き直していた。

 行きたい大学は変わらない。海沿いの街にある大学だ。

 けれど、その理由はもう「逃げ出すため」ではなかった。

「陸、ご飯よ」

 お母さんの声に呼ばれ、陸は立ち上がってカーテンを開けた。

 夕焼けに染まる山並みが、燃えるような赤色に輝いている。

 それはまるで、夕陽を反射する静かな水面のようだった。

 陸は、窓の外の「海」に向かって小さくつぶやいた。

「行ってきます」

 いつか本物の海を見て、その青さを知ったら、またここへ帰ってこよう。

 この足元に眠る、遠い昔の物語の続きを読むために。

 陸という名を持つ少年は、大地をしっかりとふみしめ、部屋を出た。

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