化石の森のクジラ
部屋のカーテンを閉め切ると、そこはまるで深い海の底のようだった。
壁には、大きなザトウクジラのポスター。机の上には、青いガラス玉。ヘッドホンからは、ユーチューブで見つけた「深海の音」が流れている。
高校二年生の陸にとって、この部屋だけが、唯一息ができる場所だった。
一歩外に出れば、そこは緑色の壁に囲まれた世界だ。
県の境目には高い山が並んでいて、どこへ行くにも邪魔をする。
陸は、自分の名前が嫌いだった。「陸」なんて、乾いた土みたいで、今の自分そのままだ。
進路希望の紙には、東京の大学の名前を書いた。何を勉強したいとか、そんなことはどうでもいい。ただ、窓を開ければ潮風が入ってくる場所へ行きたかった。水平線という、終わりのない青い線を、この目で見てみたかったのだ。
夏休みに入ってすぐのことだ。
家にいるのが息苦しくて、陸はマウンテンバイクで裏山の林道を登っていた。
昔、崖崩れがあって、地面のしま模様が見えている場所がある。そこは誰も来ない、陸だけの秘密基地だった。
けれどその日、そこには先客がいた。
泥だらけの作業ズボンをはいた、小さなおじいさんだった。
斜面にへばりつくようにして、小さなハンマーで地面をコツコツとたたいている。
「……何してんの、じいさん」
陸が声をかけると、おじいさんはゆっくりと振り返った。泥だらけの顔で、ニカっと笑う。
「おお、少年。静かにしな。海の主が目を覚ます」
「はあ? 海?」
陸は鼻で笑った。「ボケてんの? ここは山だよ。海なんて、ずっと遠くじゃん」
おじいさんは笑ったまま、ポケットから何かを放り投げてきた。
あわてて受け取る。それは、手のひらに乗るくらいの、ギザギザした三角形の石だった。
「サメの歯だ」とおじいさんは言った。「ムカシオオホホジロザメ。一千万年前、わしらの頭の上には、青い海が広がっておったんじゃよ」
陸は、その冷たい石を見つめた。
鋭くとがった形は、大昔に獲物をかみ砕いた記憶をそのまま残しているようだった。
土と草のにおいしかしないこの森が、昔は海だった?
おじいさんは源さんと名乗った。定年退職してから、毎日こうして「昔の海」を掘り起こしているらしい。
その日から、陸はなんとなく源さんのところへ通うようになった。
最初はただのひまつぶしだった。けれど、ハンマーで岩を割る感触は、なんだかスカッとした。
貝殻やサンゴのかけらが出てくるたびに、陸の頭の中で、緑色の山が少しずつ青色に塗り変わっていく気がした。
「少年、なんでそんなに海へ行きたい?」
ある日の休憩中、源さんがお茶を飲みながら聞いた。
陸は、下に見える街並みをにらみつけた。
「……せまいから。山がじゃまなんだ。俺を閉じ込めてる壁にしか見えない」
源さんは「ふうん」と言って、遠くの山並みに目を細めた。
「わしには、あの山が『波』に見えるがな」
「波?」
「大昔、地面がぐぐっと持ち上がって山になった。あの山々は、地面が空へ向かって盛り上がった、その瞬間の形なんじゃよ。言ってみれば、一千万年の間止まったままの、土の波だ」
陸はその言葉に驚いた。源さんの目には、この窮屈な景色さえも、ダイナミックな地球の動きとして見えているのだ。
夏休みも終わりかけの頃、源さんがとんでもないものを見つけた。
岩の中に、太くて白いものが埋まっている。
「背骨だ」源さんの声がふるえていた。「クジラだぞ、陸。それも、とびきりデカい」
大発見だった。けれど、その翌日、源さんは現場に来なかった。
持病が悪化して、入院してしまったのだ。
台風が近づいていた。
空は厚い雲におおわれ、冷たい雨が降り出していた。陸はカッパを着て、一人で山に入った。
雨はだんだん強くなり、視界を白く染めていく。
陸はドロドロになりながら、必死にハンマーを振るった。
源さんの代わりに、俺が見つける。
あと少しで、頭の骨が出るはずなんだ。
雨が激しく木々をたたく。雷がゴロゴロと鳴り響く。
そのとき、不思議なことが起きた。
ザアザアと降りそそぐ激しい雨の音が、すべて海の中の音に変わったのだ。
強い風にゆれる杉の木たちが、まるで海の中でゆらめく巨大な海藻のように見えた。
冷たく湿った空気は海水となり、陸の体をふわふわと浮かばせる。
そして、目の前の土の中から、白い巨体がゆっくりと身を起こした。
それは幻ではない。一千万年の眠りから覚めたクジラが、雨という名の無数の粒の中を、ゆうゆうと泳ぎ出したのだ。
土のにおいが消え、鼻の奥に、しょっぱい潮の香りがはじけた気がした。
「……いたんだ」
陸はふるえる手で、化石の冷たい額に触れた。
ここは、海のない場所じゃない。
俺が立っているこの地面こそが、かつてたくさんの命を育てた、広い海の底だったんだ。
山は壁じゃない。源さんの言う通りだ。これは、かつての海が空にあこがれて持ち上がった、時間のしぶきなのだ。
翌日、陸は病院へ向かった。
ベッドの上の源さんはずいぶんと小さく見えたが、陸がスマホの写真を見せると、カッと目を見開いた。
「……出たか」
「うん。めちゃくちゃカッコよかったよ」
源さんはふるえる指で画面をなぞり、くしゃくしゃに顔をゆがめて笑った。
「そうか……とうとう、息継ぎをしに上がってきたか」
秋になり、発掘された化石は地元の博物館に飾られることになった。
新聞には「山で泳ぐクジラ」という見出しがおどった。
陸は、机の上の進路希望の紙を書き直していた。
行きたい大学は変わらない。海沿いの街にある大学だ。
けれど、その理由はもう「逃げ出すため」ではなかった。
「陸、ご飯よ」
お母さんの声に呼ばれ、陸は立ち上がってカーテンを開けた。
夕焼けに染まる山並みが、燃えるような赤色に輝いている。
それはまるで、夕陽を反射する静かな水面のようだった。
陸は、窓の外の「海」に向かって小さくつぶやいた。
「行ってきます」
いつか本物の海を見て、その青さを知ったら、またここへ帰ってこよう。
この足元に眠る、遠い昔の物語の続きを読むために。
陸という名を持つ少年は、大地をしっかりとふみしめ、部屋を出た。




