12. 世界が求めるもの
午後の授業を知らせる鐘が鳴る。
――いつ部屋に戻ってきたんだっけ?
ああ、そうだ。アメリア=エヴァンスという新たな候補者が現れて、自己紹介をして、解散して……それから、気がついたらこの部屋にいた。
お昼、食べ損ねちゃったな。
それにしても、アメリア=エヴァンスなんてキャラ、知らない。茶色の髪、平民出身、セントローズ候補――まるで“リリカ=オルトレア”みたい。
いやいや、もう一人のヒロインってこと? この段階で? いきなり? ……意味がわからない。
あの人も転生者なのかな。だとしたら、クラリーチェ様の断罪フラグが確定コースじゃない?
もしかして私がリリカ=オルトレアだって、つまりヒロインだってバレてるの……? いや、ちょっと待って、それなら最初からもっと警戒されてた気がするし――。
ああもう、せめて名前をカスタムしておけばよかった。デフォルトのままなんて、油断がすぎる。だけど、どうせシナリオが動いちゃうなら誤魔化しきれなかった気もするし……。
なら、先回りしてイベントを潰す? でもそれじゃ、クラリーチェ様の取り巻き扱いで、また印象が悪くなっちゃうかもしれない……ダメ、それは絶対ダメ。せっかく築き上げた信頼が水の泡。
――深呼吸。落ち着け、リリカ。
まだアメリアさんが転生者だって決まったわけじゃない。そもそも定期選定試験は二回終わってるし、ここから巻き返すのは相当難しいはず。
クラリーチェ様は着実に周囲の評価を回復しつつあるし、トリコロール様たちとの仲も良好。私自身の信用度も、前に比べたらぐんと上がってる。
そうだ。誤解さえ解ければ、断罪の撤回も――可能性はゼロじゃない。
◇
とはいえ、結局ぐるぐる考えすぎて、気づいたら放課後になっていた。軍師……そう、私には軍師が必要だ。脳内会議は全会一致でまとまらない。
悶々とした気持ちを抱えながら、私は日課の採取に出かける。気分転換、大事。
誰にも会わずに小道に到着できたのは、ある意味ラッキーかも。ぷちぷち、さくさくと木の実を摘みながら、「明日からこの実も秋仕様かぁ」なんて考えてた。
……この世界って、ほんとにチグハグだよね。
でも、それを言うなら、リリカ=オルトレアこそが最大の異物なのかもしれない。
それでも、推しのためにできることがあるなら、それをただやり続けるのみだ。
◇
翌朝、朝食を済ませ、私は廊下を歩いていた。
前方にトリコロール様たちの姿が見える。
「みなさま、おはようございます!」
「あら、リリカさん。おはよう」
「今日もお元気ね」「おはよう〜♪」
この他愛のないやりとりが、嬉しかった。……でも、その平和な空気は、すぐに違和感で曇る。
教室の近くでアメリアさんの姿を見つけたのだ。
さあ、どう出る? こっちから声をかける?
それとも様子を見る?
結局、私は後者を選んだ。今はセシリア様たちと一緒だし、無理に割り込まない方がいいかなって……。
――だけど。
アメリアさんは、私たちの姿を一瞥もせずに、するりと通り過ぎていった。
え、スルー⁈ いやいや、昨日自己紹介したよね⁈ 初対面スキップとか、どこの強気ギャルゲーヒロイン⁈
驚いたのは私だけじゃない。……と思ったのに、セシリア様たちはアメリアさんに何の反応も示さなかった。
え、ちょっと待って、これって。
――何か、おかしい。
◇
教室に入った私は、さらに衝撃を受けた。
クラリーチェ様の周囲の席が――空いている。ぐるりと囲むように、ぽっかりと空白のスペース。
まるで、最初の頃みたいに。
私は限界ぎりぎりのスピードで、さりげなくクラリーチェ様のもとへ向かう。
「クラリーチェ様、おはようございます」
私の挨拶に、教室の空気が一瞬ざわっと揺れた気がした。
「足早になるくらいなら、余裕を持っていらしたら?」
うん。クラリーチェ様はいつも通り。
でも、周囲はそうじゃなかった。さっきまで一緒にいたトリコロール様たちですら、どこか戸惑ったように私を見ていた。
――嫌な予感しかしない。
◇
魔導文化史の講義。板書の音と教師の声が、ただのBGMにしか聞こえない。ノートを取りながら、頭の中では全力で別の情報を整理していた。
まず、アメリアさんのことは一旦保留。
今は、クラリーチェ様の周囲の空気の変化が最優先だ。昨日までの雰囲気と明らかに違う。トリコロール様たちすら距離を取っていた。
リリカへの態度は変わっていないのに、クラリーチェ様にだけ、何かが起きている。
しかも――ご本人が、そのことにまったく疑問を持っていないように見えるのだ。
私にはわかる。クラリーチェ様は感情をあまり表に出さないけれど、嬉しい時や悲しい時には、ほんの少し表情や空気に出る人だ。
でも、今日のクラリーチェ様は……「違和感」に気づいていない。まるで最初に出会った頃のように、淡々とした無垢な距離感。
――まさか、リセットされてる?
人間関係だけ、「初期状態」に戻されたような……。
冷たい汗が背中を伝う。全てが戻ってるわけじゃない。少なくとも、私との関係性はそのままに見える。
……記録帳、確認しなきゃ。
◇
授業終了の鐘が鳴り、クラリーチェ様とトリコロール様たちにご挨拶をしてから寮へ戻る。
いつもなら、皆様もそのままランチをご一緒する流れだった。けれど、今日は違った。
クラリーチェ様とトリコロール様たちは、それぞれ別の方向へ歩いていった。
私はそれを見送るしかなくて、心の中がざわざわする。胸の奥が、ぎゅう、と締め付けられる感じ。
――この世界が、書き換えられてる。
自室に戻って、私はすぐに《記録帳》を開いた。
攻略対象者たちの親密度は特に変わっていない。候補者たちの友好度も、数値としては以前のまま。
そして――。
《アメリア=エヴァンス》という名前は、どこにもなかった。
正式な候補者であるはずなのに、《記録帳》の一覧には存在しない。
◇
昼食には遅すぎる時間、私は一人で食堂へ向かった。空席の多い空間に、食器の音が遠く響く。
そのとき、視界の端に映ったのは――王太子。
チラリと目を向けると、彼が向かっている先には、アメリアさんの姿があった。
そして、当然のように話しかけている。彼女は驚いたように目を見開き、慣れない所作で礼をしている。
しばらくの会話の後、王太子は去っていった。
――第1ルート、開幕フラグ。
◇
それから数日間、私はアメリアさんと周囲の人々の動向を注視し続けた。もちろん、クラリーチェ様の周辺も。
誰が彼女に話しかけるか。誰に彼女が話しかけるか。授業中の振る舞い、放課後の動き、全てを観察した。
私は非戦闘型の平民候補者だけど、観察と採取のスキルなら自信がある。スカウトされるレベルで(※自称)。
そして、確信した。
彼女は、ヒロインとしてこの世界に存在している。
しかも――
「中に人」がいない。
◇
それを確かめたくて、私は小さな実験をした。
アメリアさんが歩いてくる廊下の先に立って、あえて存在感を出さずにじっと立ってみる。視界には絶対に入っているはずの距離。
――が、彼女は私の存在を完全にスルーして、そのまま通り過ぎていった。
(……よし、予想通り)
その背中をやや早足で追い越し、今度は彼女の進行方向の先に回り込む。あからさまに怪しい動きだ。でも、彼女はまるで気にするそぶりすらない。
再び距離が縮まったその瞬間、今度は正面から声をかけてみる。
「アメリアさん、こんにちは」
「あっ、リリカさん! こんにちは!」
にこ、と、何事もなかったかのような笑顔。
(……うん、やっぱりね)
最初からスルーしていたわけじゃない。ただ、私が“アクション”を起こすまでは、存在を認識していなかった。
まるで、“イベントフラグ”を立てないと反応しないNPCみたいに。
◇
確信に変わった。
彼女は、いわゆる「転生ヒロイン」ではない。
むしろ、システムに組み込まれた「属性:ヒロイン」のNPC。
私が思うに、リリカ=オルトレアがヒロインとして機能していない――つまり、この世界の“正史”に必要なヒロインとしての役割を果たしていないため、世界の強制力のようなものが、新たなヒロインを“生成”した。
それがアメリア=エヴァンスという存在。
彼女は自然に、攻略対象者たちとイベントを重ね、ルートを進行させるんだろう。
それはまさに、ゲームの“通常進行”。
……となると、クラリーチェ様の断罪も“通常進行”で再び動き始めたということ。
私は、甘く見ていた。
この世界の“強制力”を。
原作ブレイクできると思っていた。選択肢の先回り、イベントの潰し、分岐の封じ――それらで運命を書き換えられると思っていた。
けれど、世界は正しさを求めていた。
リリカが役割を果たさなければ、誰かがその役を担う。
クラリーチェ様の名誉を守るには、ただイベントを防げばいいというわけじゃなかった。
“正しい物語”に勝たなければいけない。
◇
自室の窓から見える中庭。アメリアさんと王太子が笑顔で談笑していた。
……王太子ルート、進行中。
このまま行けば、あの任命式でまた――
クラリーチェ様は断罪される。
だから私はもう一度考えなきゃいけない。
どうすれば、あの場所でクラリーチェ様の名が否定されずに済むのか。
あの人の気高さを、誰にも踏みにじらせない方法を。