――後編――
秋。黄昏は銀灰の雨を垂らし、森は静寂を深めていた。儀式の夜から幾日、あの人の面影は薄れず、むしろ輪郭を帯びた幻として寄り添う。
絹の単衣一枚で森の径を踏むと、濡れた布が肌に貼りつき、歩調に合わせて乳房の曲線が揺れた。雨滴が鎖骨へ集まり、谷へ伝い落ちるたび、胸奥で小さな火種が再燃する。けれどわたくしは触れず、ただ歩いた。
古井戸にたどり着くと、落葉が縁を埋めている。細指で掻き分け、冷えた石肌へ両掌を添えた瞬間、濡れた布越しに胸先が硬く尖り、ひそかな疼きが脳裏を霞ませる。それでも深呼吸し、水面を覗き込んだ。
闇は静かで、白い鳥影はない。
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
呼ぶ声は静か。反復はもはや呪ではなく、鎮魂の子守歌。胸の卵は砕けて空洞、空洞は雨音を孕み、優しい。
遠く鐘が鳴る。婚礼か、葬送か。わたくしは耳を澄まし、そこにあの人の名を聞き取った。祝福と別れが同じ鐘に住む。
雨脚が強まり、単衣は肌色を濃く映す透影となった。冷えとともに甘い痺れが背筋を這い上がり、唇を噛みしめる。けれど井戸は応えず、ただ雨滴の輪を広げるばかり。
映るのは少女でなく、ひとりの女。胸元を覆う薄布の下、鼓動が濡れた絹を小さく脈動させる。純潔は失われたのか、否。それは鳥へ献じ、羽へ変えたのだ。
「寵鳥よ、わたくしを連れ去らず、ただ在れ」。
囁きは祈りとも願望ともつかず、冷える雨に溶けた。胸奥で残るのは、微かな火音――情熱の残滓、あるいは永遠なる灰。
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
繰り返しは終わらない。言えなかった想いは、言えなかったがゆえに輪廻する。恋の形は成就を要さず、それでも聖に近い。
井戸を離れ、濡れた単衣を絞ると、水とともに熱が滴り落ちた。布が肌へ再び吸いつき、胸の尖りを覆い隠せない。羞恥と高揚がひとつに溶け、頬が熱を宿す。
森を抜け、夜の村境へ。彼方に灯が揺れ、祝宴の影が踊る。わたくしは立ち止まり、溜息とともに衣紐を握り直した。濡れた絹越しに掌に感じる柔らかな起伏が、鼓動と呼応して震える。
唇を湿らせ、目を閉じ――
> 「愛している」。
誰にも届かぬ声。けれど空に微かな羽音。白い、蒼い、紅い、三色が溶け合う残像が夜空を横切り、瞬きのうちに消えた。
胸は静かだった。寂寥は慈雨。わたくしは踵を返し、再び無名の径へ歩み出す。旅は巡礼、感情は埋葬、想いは輪郭を変えて生きる。
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥――
呟きは霧散し、秋風とともに夜空へ吸われた。その先に果てはない。ただ無限の反響が続くだけ。――伝えられない想いは、想いであるがゆえに永遠。
雨雲の切れ間から、星がひとつ瞬く。青と赤と白の残光が再び世界を染める頃、わたくしは歩き続ける。感情の墓標に花を手向け、祈りを呪へと編み替えながら。寵鳥は空高く、声もなく。
しかし確かにそこに在り、在り続ける。そして誰も知らぬ夜明に、もう一度――
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
その囁きが朝靄へ溶けきった瞬間、東雲の空で白い翼が瞬いた。鳥影はすぐに光へ融け、跡には薄紅の余韻だけが漂う。
わたくしは掌を胸に重ね、静かに目を閉じた。恋の火は燃え残り、灰の下でなお温かい。言葉にならぬ感情は卵の殻を脱ぎ、遥かな蒼天へ舞い上がったのだ。
森の径の先で、誰も知らぬ夜明けが口を開ける。濡れた単衣が乾きゆく微かな温度変化を感じながら、わたくしは歩きだす。
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
声はもはや呪いでも祈りでもない。ただ遠い未来の自分へ手向ける合図。恋は届かずとも、わたくしが恋である事実は永遠に羽ばたき続ける――胸奥の寵鳥の羽音とともに。