――中編――
やがて夏至の前夜。丘を包む風は湿り、森の匂いは甘く熟れていた。わたくしは再び古井戸を訪れ、祀りのために外套を脱ぎ、白き蝋燭を九本、周囲に円環を描くよう立てた。薄紅の肌が月光に晒され、夜気が柔らかな線を撫でる。
炎が揺らぐたび、あの人の名が胸裏で震える。だが声帯は封じられ、代わりに――
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
赤い月が昇る。光は血潮の書板となり、地に刻んだ古語を浮かび上がらせる。
“蒼き羽を啼かせ、紅き爪を鎮め、白き骨を捧げよ”。
わたくしの指は震え、蝋の滴を受け取る。熱い雫は肌を焼き、火照った鎖骨を伝い、小袖の合間へ滑り落ちた。滴が胸の谷に失われる刹那、甘い疼きが腰下へ伝う。“痛みが契り”と寵鳥は囀る。
青い羽根がひとひら、夜気を裂いて落ちる。それは見えない鳥の羽か、まだ孵らぬ卵の殻か。わたくしは拾い、唇で湿らせ、胸にしまう。
「愛している」――言えた。けれど月下には誰もいない。言の葉は宙を舞い、炎のゆらぎとともに溶け、光粒となった。
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
儀式は続く。蝋燭が一本ずつ倒れ、火が地を這い、輪が崩れ、影が塔を立てる。塔は風を孕み、羽搏きを孕み、やがて形を――
赤い寵鳥。眦は燃え、翼は祝福の刃。わたくしは震えながら跪く。鳥は頭を垂れ、額へ紅い吻けを置いた。氷火の衝撃が脊髄を駆け、指先が痺れる。
胸中で硬質の音が弾ける。卵殻だ。透きとおった黄身が金砂となり、夜空へ散った。
> “恋は無垢を焦がし、焦土に花を咲かす”。
寵鳥が囀ると同時に、炎は踊りながら消え、蝋燭は灰と化した。鳥影は夜気へ溶け込み、紅い残光だけが弧を描く。
わたくしはゆっくり立ち上がる。裂けるような熱の余韻が胸郭の奥に残り、震える手で小袖の襟を整えた。鼓動は静まらず、けれど痛みは不思議な充足へ変わりつつある。
夜風が肩を撫でた。赤い月は雲に隠れ、白い暁が近い。
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
今やその反復は胸奥に生まれた温かな空洞を満たす子守歌。恋の種子は卵殻を捨て、形を持たぬ光として胸に巣くった。
わたくしは円環を踏み越え、灰の上に足跡を残す。森の湿った土が素足に吸い付き、冷たさよりも甘い痺れが足先から昇る。
囁きを胸に埋め、わたくしは井戸に背を向けた。夜はなお深いが、遠い東の空がわずかに白む。祭祀は終わり、祈りは形を変えた。あの人に触れずとも、恋という名の火は確かに宿った――そして次に訪れる秋の雨まで消えはしないだろう。
森を包む闇が薄れゆく中、わたくしは濡れた小袖の裾を絞りながら歩き出す。その先で待つものを知らず、ただ胸奥の寵鳥の残光だけを羅針盤にして。