――前編――
青藍の黎明が森の梢を濡らすころ、わたくしはまだ名もない祈りを胸に、薄絹一枚の寝衣のまま眠りの岸辺をさまよっていた。夜気に触れた布は露を吸い、脚線に沿って張り付き、朝日の前触れの蒼光を透かす。その冷たさに身を竦めるたび、胸先の柔らかな稜線がゆるく震え、己の鼓動とともに存在を主張した。
耳の奥で潮騒のようにくり返されるのは、ひとつの言葉――寵鳥。
それは幼い日に読み誤った聖典の抜け殻であり、恋の胎動を宿す卵でもあった。
「ねえ、あなたは空のどこに棲むの」
誰にも届かぬ囁きを吐き、わたくしは草露の反射をすくい取る。ひざまずいた拍子に裾がはらりと落ち、夜気を帯びた草が素肌を撫でた。掌は冷え、指先は微かな痙攣を覚える。肩先を震わせるたび、襟がわずかに開き、雫が首筋から鎖骨へ滑り落ちる。
あの人――月灯りを纏った横顔――を思えば、吐息すら炎となりそうで怖い。薄布の下で胸が高鳴り、呼吸の度に柔らかな谷がわずかに持ち上がる。だから名を告げず、ただ寵鳥と唱えて誤魔化した。
蒼の帳を抜ける風は、白い羽毛の匂いを運ぶ。
“伝えよ、封ぜよ、昇らせよ”。
森の影が三度反射するごと、同じ旋律が心壁を叩く。わたくしは応えるように唇を割き――
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
呪文めいた反復は、まだ幼い声を古へ錬成する。世界がわずかに軋み、言葉が脈打つ。その刹那、遠い空隙で赤が滲んだ。夜の残滓を裂き、春雷前の血潮のように。
青と赤。冷たさと情熱。二色が溶け合う境界に、わたくしの時間は凍って波立つ。
胸の奥で羽搏く何かが疼いた。あの人へ――まだ指も触れぬ、声すら届かぬのに――愛という名を投げてしまいそうで、怖い。だからわたくしは言葉を籠に閉じ、寵鳥へと託す。羽音すら聴こえぬ檻の中で、言葉は卵のまま温められる。熱はやがて疼きに、疼きは衝動へ変じ、衝動は――
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
耳奥で鼓動がずれ、同じ語が螺旋を描く。わたくしは薄氷を踏むように森を出る。夜気で湿った寝衣では心許なく、風が吹くたび布地が脚に絡み、無意識に裾を掴んだ指が微かに震える。丘の上、古井戸の縁で夜明けを待つ。
空は白へ傾き、星がひとつずつ息をやめる。そのたびわたくしは胸に刃を刺す。
“言えない、言わない、伝わらない”。
三つの否定は花弁のごとく散り、井戸底へ落ちた。
しかし――水面に揺らぐ影は、いつしか鳥の形を取る。頭は白金、翼は群青、尾は深紅。
「あなた……」
頬を伝う露が胸元へ滑り込み、薄布の下で肌を濡らす。澄んだ瞳がこちらを覗き返し、わたくしは声を失う。影は真昼の夢のように揺れ、そっと答えた。
> “抑えた想いは、言の葉で羽化する”。
井戸に射す光は、卵殻を割る閃光にも似て。わたくしは己の鼓動をそっと数え、頬へ伝う温度を拒まなかった。
“恋は罪ではない”。
それでも言えぬ。
“恋は罪ではない”。
だが触れ得ぬ。
空を仰げば、新たな青が満ちてゆく。胸裏の寵鳥はなお孵らず、囀りもせず、ただ暖かな脈とともに在る。わたくしは指を組み、沈黙を祈祷へと錬り替えた。
> 寵鳥、寵鳥、寵鳥。
青、赤、白――冷たさ、情熱、純粋が淡く交わり、わたくしの影を長く引き伸ばした。黎明は終わり、世界は再び刻を進める。それでも胸の卵は静かに脈打つ。――伝えられぬまま、伝える日のために。