ケット・シーの宿屋の朝ごはん
私は…夢を見ているのだろうか?
この国は確かに平民でさえ豊かでかつ平和だ、だから食文化も発展していて食材も豊富かつ安価で手に入りやすいとはいえ、これは何だ。
私の目の前の広い台の上にはところ狭しとスープ、サラダ用の新鮮な野菜類、湯の中で踊る腸詰、カリカリのベーコンにスクランブルエッグと焼きたてであろう丸いパンが並んでいて、それらは次々と人ほどの大きさの黒いケット・シーによって補充されていた。
ごくりと喉が鳴る。
今後の旅の節約のため昨日は夕飯を我慢した。
それはこの宿が朝食無料を謳っていた為だ、野菜くずの入ったスープくらいは提供されるだろうと思っていたがなんだこれは。
人間の従業員であろう先ほどの料理を補充していた黒くて人間大のケット・シーと同じエプロンを着けた女性に聞いてみる。
「これは…昨日泊まる際に聞いた宿泊客の無料朝食だろうか?」
「そうですよ〜!そこに書いてある通り、全ておかわり自由なのでお腹いっぱい食べて行ってくださいね!持ち帰りはダメですよ」
あり得ない…、おかわり自由だと!?
朝食券と焼き印された小さな光の玉の精霊の憑いた木札を女性に渡すと、平たく大きめの木皿を渡された。
これに好きなだけ盛っていいという。
「料理はなくなったらすぐに補充されるので遠慮なくどうぞ!カトラリーはテーブルに備え付けてあるのでお好きな席をお使いください」
食堂を見渡すと同じく宿泊客なのだろう人々がおもいおもいによそった朝食を一心不乱に食べている。これだけいい香りがするのだ美味いに決まってるだろう。
腹が鳴り、ごくりと喉も鳴る。
そして私は欲望のままに木皿に料理を盛っていった。
皿からはみ出すかというほど盛り付け、適当なテーブルに着くと、先ほどのエプロンの女性がスープと水を持ってきてくれた。水は頼んでないと言おうとしたが彼女はこう言った。
「スープもお水もご自由におかわりしてくださいね」
水も!?驚いて声も出なかった。
私の母国とこの国はこれほど国力に差があるのか、平民用の宿でさえこれほどのもてなしができるほどに。
良い香りとその料理の色艶の美しさに我慢できず、私はテーブルに備え付けてあったカトラリーを手にしてその食事を口にした。
人の世の楽園はここにあったのか!!
野菜は瑞々しくシャキシャキとして、料理が並ぶ台にあったドレッシングもすりおろした玉ねぎが入ってるのか酸味が程よくとても美味い。腸詰は熱々でパキッと小気味よい音をたて、口の中を旨味の洪水にして一気に腹に飛び込んでいく。スクランブルエッグはバターの濃厚な風味と濃い卵の滋養豊かな味で、焼きたてのふわふわパンがそれを受け止めてくれる。
ベーコンは塩と脂はこれほど相性の良い者同士はないと確信させてくれる。
これを好きなだけ?おかわり自由だと!?
周囲が気兼ねなく2度目3度目とおかわりをしているのをみて、最初はおかわり自由?まさか!などと半信半疑だった私も、しっかりとおかわりをして腹を満たした。聖職について以来ほとんど感じることがなかった久しぶりの満腹感に気付き、そんな自分を恥じたがあれは抗えぬ。
巡礼の旅に出ると決めた時、我が教会の司祭様が必ずこの国のこの宿に宿泊するようにと仰っていたのは、主神の使徒であるケット・シーがいるからだと思っていたが、まさか…そのケット・シーが働いているとは思わなかった。
それだけでもとても驚いたし、畏れ多くも使徒様が居られる聖地として噂には聞いていたが、無料朝食など他の宿では聞いたことのないもてなしにも別の意味でも度肝を抜かれた。
そして出発するため部屋の鍵を返しに行ったときのこと。
「ありがとう、こんな素晴らしい宿は初めてだった」
これは本心だ、平民向けのそこまで高くもないどちらかといえば安価な宿。最初は期待していなかったが案内されたのは清潔な室内、清潔なリネン、ふかふかのベッド、そしてなんとここは共同風呂まであり、久しぶりに湯での清拭だけでなく石鹸を使いさっぱりすることができたのだ。
身体を清潔にして清潔なベッドで眠るだけで疲れの取れ方がまったく違う。
そしてあの朝食、この後の巡礼の旅の活力も湧いてくるというもの。
「お客様は巡礼の方でしたね、ちょっとお待ち下さい」
朝食時に食堂にいた女性はそう行って受付の奥から何やら手にして戻ってきた。
なんと巡礼者のみのサービスといい、携帯食を渡され、水筒の水も満水にして至れり尽くせりで見送られた。
貴族向けの宿屋でも聞いたことのないもてなし、私は何かに化かされているのかと何度もあちこちをつねってみたが現実だ。
巡礼に出る者がいたら必ず、私もここを紹介しよう。おそらく司祭様も過去ここに来たことがあったのだろう。
使徒様が居られるからという理由だけではない、貴族専用の宿でもこんなもてなしは聞いたことがない。
この国の建国時から存在するというこの老舗宿は、色々な意味で噂通り変わった宿だ。
あの朝食が忘れられず、その後も夢に見るほどだ、今や立場上、身一つで旅に出る事も難しくなってしまったが願わくばまたあの聖地に行けることを願っている。