【短編】初恋の人が『初恋の女の子』に夢中で婚約破棄までしたので、彼の真の『初恋の女の子』である私は受け入れて、辺境伯令息の甘い優しさに癒されます。
ヒロイン視点と、三人称視点。
初恋のために頑張ったヒロイン。
初恋は実ることがないものだと、誰かが言った。
けれど、私は実ったのだと、当時は有頂天になっていた。
今思い出すだけでも、穴に入りたくなる。
第一王子のディソン・アドバーズ殿下は幼少期から秀才さを現す優秀な王子だった。
その見た目も、華やかな金髪と明るい青い瞳と、令嬢を多く虜にする人気者。
人当たりがよく、誰からも好かれる非の打ち所がない王子だった。
……“だった”、のだ。
「『初恋の女の子』に比べて、君はなんて可愛げないんだ!」
始めは、誰も気付かなかった。
しかし、話すにつれて、彼の記憶が曖昧になっていることに私が気付き、すぐに診察を受けられた。
高熱を出して長く寝込んだ彼はそれ以前の記憶が、多少あやふやになっていることが明らかになったのだ。
そうして、彼は顔すらもはっきり記憶していない、名も知らぬ『初恋の女の子』を、語り始めた。
私との婚約は政略結婚だ、仕方ない。
でも『初恋の女の子』と過ごした日々があまりにも心地よく、心が躍るのだと言う。
日が経つにつれ、恋しさが募ったようで、彼は『初恋の女の子』を探し始めた。
私が窘めても「初恋を探しているだけだろ。この気持ちがわからないとは、可愛げない」と睨まれてしまう。
私の初恋は、しぼむ。
顔を合わせる度に、「『初恋の女の子』ならば、癒すような笑顔を見せてくれただろう」「『初恋の女の子』なら、もっと華やかに着こなすドレスだろう」「『初恋の女の子』となら、もっと会話が盛り上がったはずだ」と比べながら不満をいくつも零した。
おかげで、学園では、『初恋の女の子』に負けている婚約者と嘲笑われている。
私に、なんの恨みがあるのだろう。
いや、多分……『初恋の女の子』と婚約が出来ない存在が、気に入らなくなったのだろう。
記憶があやふやな部分を美化して、その理想的な『初恋の女の子ではない私』に、不満をぶつける。
私の初恋は、みるみるしぼんでいった。
初恋は実らないもの。
その言葉の意味や定義を、ぼんやり考えていることが多く増えた。
一人。『初恋の女の子』を匂わせる愚かな令嬢がいたから、一体いつ会い、どんな会話をしたのか、問い詰めてやった。
王子を騙すと言う罪だと突き付けて、追い払った。
しかし、それを知らない殿下は、関わることをやめた令嬢について「醜い嫉妬で傷付けるような人間なんて、軽蔑する!」と罵った。私が悪いと決めつける認識が、酷く惨めな気持ちに貶めてきた。
ディソン殿下は、優秀だ。何をとっても、優秀で、出来る王子殿下だった。
欠点が、その『初恋の女の子』探し。彼は、盲目になる。そんな想い人を探すなど、今現在の婚約者を蔑ろにしていること。そうだとわかっていても、やめない。
そして、私と『初恋の女の子』を比較しては、貶す。目撃している生徒も少なくもなく、王子殿下が婚約者を蔑ろにしているのは、周知の事実だ。
哀れみ。嘲笑われて。蔑まれる。
親しい友人達に守られているが、友人達に窘められても、ディソン殿下は聞く耳を持たなかった。
意地を張って、へそを曲げる子どもみたいだ。
確かに、そうだと思う。そこだけ、聞き分けのない子どものよう。
いつか諦めて、私を見てくれると思ったのに。
それは私の方が徐々に諦めた。
彼の言う『初恋の女の子』と比べられながら、その都度、直そうとしたのに。
いつもいつも、及ばない。
貴族学園の卒業を控えた年。
留学してきた隣国の王女が、ディソン殿下の『初恋の女の子』ではないかという噂が流れた。
二人は隣のクラスで親し気だ。
ディソン殿下が、女性として丁重に扱っているから。
そして、幼い頃にも王女がこの王国に滞在していたから。
…………そんな。まさか……。
そう思っていたのに。
王城で、応接室へ通されたかと思えば、契約書を揃えて。
「メアリーン・クラリネ。婚約を破棄する」
ディソン殿下に告げられて、私はもう……。
――――もう頑張れないと、痛感した。
「理由を伺っても?」
膝の上で手を握って、私は声を絞り出す。
「『初恋の女の子』が見つかった。お前は危害を加える恐れがあるからな。先に、婚約を解消することにした」
「危害……ですか」
なんでそう思うか、わからない。でも、すぐに以前の『初恋の女の子』のフリをしようとした令嬢の件が要因だとわかり、私は肩を落とす。
「隣国の王女様でしょうか? ならば、私は他国の王族相手に危害を加えるほどの愚か者だと、思っていらっしゃるのですか?」
「……」
失望感が広がって、思わず、ポロッと嫌味を言ってしまった。
隣国の王女のことを口にしたから、ディソン殿下は警戒を滲ませて睨みつける。
「彼女が『殿下の初恋の女の子』だと仰ったのですか?」
ギュッと、手を握る力に込めた。
「フン、そうだ。彼女だった。彼女も昔、この王国に滞在していた期間があってな。その時に交流していたんだ。どうりで見つからないわけだな」
「……そう……ですか…………」
「祝ってもくれないのか。本当に嫌な奴だ」
おめでとう、なんて言えるわけがない。祝えるわけがないのに。
私がどれほどの仕打ちに耐えたのか、わからないのか。
わかろうともしないのね……。
「まぁいい。お前との婚約なんて、所詮、ただの政略結婚のため。こちらの有責で破棄させてもらうんだ。文句は言わせない」
「……ただの政略結婚。……昔から、常々仰っていましたね」
「事実だからな」
政略結婚の婚約者。それを突き付けるために、常々口にしてきた。
事実、か……。
「『初恋の女の子』とは、隣国と絆を深めるという大きな利点もある。政略結婚という建前だが、オレ達は想い合って結ばれる」
「政略結婚という建前……好きですね、それ…………そこは変わらないのに……」
「?」
グッと奥歯を噛みしめて、俯いた。
堪えろ。堪えるんだ、と言い聞かせた。
「では、建前としても、隣国と強い繋がりを結ぶため、必要な婚姻となるのですね」
「ああ、そうだ。それが?」
「その方が『初恋の女の子』ではなかったとしても、そちらの婚姻を取り消すことはないということですね?」
「何をバカなことを」
「例えの話です。誓ってください。例え、『初恋の女の子』ではなくとも、次の政略結婚を違えることはないと。ここで宣言していただければ、私はサインをこちらにいたしましょう」
婚約破棄の書類。承諾のサイン待ちで、立ち合いの側近と神殿の神官がいる。
彼らの前で宣言するのは、宣誓と変わらない。
ディソン殿下は、疑われていることに目をつり上げたが、ムキになって噛みつくことはなかった。
「ああ、誓ってやろう。例え。例え! 彼女が『初恋の女の子』とは別人だったとしても、次の政略結婚を違えることはしない!」
「……」
堂々と言い放つディソン殿下の宣言を、重く受け止めて、ゆっくりと頷く。
私は、頭を下げた。
「その誓いを守っていただけることを祈っています。どうか、ディソン殿下の『初恋の女の子』と、お幸せに」
シャッと、ペンの先を紙の上に走らせて、自分の名前を記入する。
そうして、私は、私の初恋に終止符を打った。
次の学園の登園日。
ディソン殿下は早速、馬車から降りた隣国の王女をエスコートしたため、生徒達は騒然とした。
ついに、私を堂々と蔑ろにした、と騒ぎになって、友人達に問い詰められたから「私はもうあの方の婚約者じゃないわ」と言うしかない。
実際には、お父様も王城や神殿へ行って婚約破棄の手続きを終えようとしているところで、まだ成立はしていないのだけどね。まぁ、誤差か。
そこに駆け込んだのは、一人の男子生徒。
「メアリーン嬢! そのっ、殿下がっ……」
黒髪と水色の瞳の少年。ジャックス辺境伯のご子息、アルリック様。
顔色が悪いし、私に殿下のことを尋ねに来たということは、婚約者の私にはしないエスコートをしたと理由でも尋ねたかったのだろう。でも言葉を詰まらせるから、聞きづらい。私を気遣う眼差し。
「……殿下は、『理想の初恋の女の子』と再婚約するそうですわ」
「っ……」
苦しそうに歪むアルリック様は、困惑で水色の瞳を揺らす。
彼は、知っている。
きっと、薄々気付いているだろう。
私は、彼にポロッとヒントを零してしまったから……。
「メアリーン嬢。それなら、婚約の打診をしてもいいだろうか?」
「えっ?」
驚いて目を真ん丸にしてしまった。
アルリック様は、周囲も気にせず、その場で跪いてしまう。
私の手を取ると、祈るように両手を包み込んだ。
「君を苦しみから連れ去りたい。僕のところで、癒すから」
真剣に頼み込む瞳を見つめ返して、その言葉の意味をしっかりと受け止める。
辺境伯の跡取りであるアルリック様は、この心無い噂話をする王都から連れ出して、辺境伯領で私を癒してくれると言う意味。
そこには紛れもなく、私への想いがある。
いつからだったのかはわからない。それは互いの話をしてみないといけないだろう。
「わかりました。婚約の打診に来てください。前向きに検討をしますので」
「……ああ! ありがとう!」
パッと目を輝かせるアルリック様は、嬉しそうな笑みを零した。
守ってくれていた友人達は温かい言葉をかけてくれて、祝福モード。
他のクラスメイトも、好奇の視線を送ってきた。
そういうことで、ディソン殿下と隣国の王女のビッグカップル誕生と、捨てられた元婚約者の私が辺境伯の跡取りに拾われたという話題の二つで、盛り上がった。
ディソン殿下との婚約が綺麗に清算されたあとすぐに、お父様は時間を作ってくれて、婚約の打診をしたアルリック様を屋敷へ招いた。母と兄も同席して、アルリック様と対面。
挨拶もそこそこに、アルリック様は、私への想いを語ってくれた。
「学園に入学してから知り合いましたが、友人として過ごしていくうちに、メアリーン嬢に惹かれていきました。でも、婚約者がいたので封じるつもりでした。……ですが、こうなったのならば、自分はメアリーン嬢に辺境伯領へ来ていただきたい。王都から連れ出した先で、守って癒したいのです。だから婚約を申し込みに来ました」
あらかじめ、アルリック様には家族がどこまで知っているかを確認された。
あのことは家族は知らない。でも、婚約者なのに蔑ろにされて嫌な目に遭っていたことは知っている。
だからこそ、私を王都から連れ出したいことも、守って癒したいという気持ちを強く伝えてくれた。
家族も、重く頷く。散々嫌な視線に晒された私は、王都に居続けるよりも辺境伯令息に嫁ぐ方がいいのではないかと考える。ここには、元婚約者がいるのだ。
家族は私の初恋を知っているから、元婚約者が他の女性と寄り添う姿を見るのも酷。
「メアリーンを想って、辺境伯へ嫁ぐ提案をしてくれるのはありがたい。こちらとしては願ってもいない縁だが……やはり、メアリーンの意思に委ねたいと思う」
父は、そう告げた。
私に注目が集まる。
「……」
一度俯いた私は。
「少し、二人で話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
顔を上げてから、そう問う。
父が頷いて、母が肩を撫でて励ましてくれるので、立ち上がって、アルリック様を庭園へ案内した。
まだ冬で、肌寒い季節。花は少ない。
「……誰も知らないの?」
案内の途中、足を止めたアルリック様を振り返る。
彼から切り出した。
「ご家族も、友人も、誰一人……知らないの? ――――メアリーン嬢なんだよね? ディソン殿下の『初恋の女の子』は」
痛ましそうに水色の瞳で見つめて、アルリック様は確かめる。
私は冷たい風に撫でられたハニーブラウン色の髪を耳にかけた。
「はい。ディソン殿下が語る『初恋の女の子』のエピソードの相手は……私です」
私がディソン殿下の忘れられた『初恋の女の子』だ。
口にすると胸が痛み、そこを押さえた。
「一人だけ、知っている方がいました。今は他国で街医者を務めているそうです。元は、王城の医者でしたが……ディソン殿下の不興を買って追い出されてしまいました。記憶に関して慎重に診てくださっていた医者です。私が相談したところ、“無理に思い出させない方がいい”と仰って……」
肩にかけたショールを整えて、続ける。
「ディソン殿下が記憶をなくした高熱は……本当は、そんな後遺症が起きた事例が今までなくて。だから、医者も、失った記憶に関して、慎重に扱っていたのです。むやみに刺激をして、下手な症状を起こさせないために。混乱して倒れてしまってはいけませんからね。患者は王子殿下。慎重にもなります」
目を伏せた。
慎重にならずにはいられない。理解はしているのだ。
「……ディソン殿下の記憶が曖昧になっていると気付いて、医者に知らせたのは私です。もっと早くに気付ければ、変わっていたのかもしれませんね……。殿下のためにも様子見が決まって、自然に思い出すことを待ちました。その医者は殿下に“無理に思い出さなくてもいい”と言ったことで、彼の逆鱗に触れて追い出されてしまったとのことです。そこから『初恋の女の子』探しが、始まりました。私は……」
つらくて、言葉が詰まってしまう。
「私は、その頃にはもう、殿下が美化している『初恋の女の子』と比較されて……貶されて…………言い出せなくなってしまっていたのです」
「……メアリーン嬢」
声が震えるから、情けなくて笑ってしまった。
「殿下は曖昧になってしまった記憶を美化して…………メアリーン嬢が、その『初恋の女の子』だと、ずっと気付かずにあなたを?」
初めて打ち明けたから、その初めての痛みに震えてしまう。
コクコクと頷いた。
彼にポロッと言ってしまったのは、二年生の夏だ。
パーティー会場のバルコニーで、“また『初恋の女の子』だったら”……と責め立てられた。バルコニーの下には、偶然居合わせたアルリック様がいて、目が合ったから、自嘲を零したのだ。
『殿下は酷いな。何故そんなにあなたと比べるのか……。記憶も曖昧だそうじゃないか』
『あんなに美化したら、すぐ隣にいても見つかるわけがないのに……』
『! それって……?』
慌てて、微笑みで誤魔化した。
アルリック様は察してくれて、知らないフリを続けてくれたのだ。
「医者は“想いが強すぎて、高熱のショックで曖昧になってしまった”という説を言っていました。だからいつかは自力で思い出すだろうって……。でも時間が過ぎるにつれて、私との思い出は、完全に私と切り離されてしまって……私は、私のはずの殿下の語る『初恋の女の子』になろうと、必死でしたっ」
はらはらと、涙が零れた。
「それが彼の理想だと言うなら、そうならなければいけないから……。だから、打ち明けるよりも、認めてもらおうと必死で……でも、どんなに頑張っても認めてもらえなくてっ。前にも『初恋の女の子』を匂わす令嬢が殿下に近寄ったから、騙そうとしていることは罪だと追い払ったら……私は責められてしまいっ……。今回は隣国の王族との婚姻となってしまえば……もうっ……もう、私には手に負えなくてっ……手遅れですっ」
「メアリーン嬢……」
「私との婚約も、建前だと言って政略結婚だと強引に結んだものです……予め、双方に有益な提案を用意したのです。だから……新しい婚約も、同じように、すでに国同士の利益のある……契約が、っ」
ポロポロと涙を落とす私に、歩み寄ったアルリック様は、取り出したハンカチを頬に当てて涙を優しく拭ってくれた。
「もう、だめでした……頑張ったけど……頑張ろうとしたけれどっ」
「……うん。頑張ったね、メアリーン嬢。ディソン殿下の理想になろうと、努力した。騙そうとした令嬢も追い払った。でも、それをディソン殿下は踏みにじって、国同士の婚姻を結び付けた。頑張ったよ、メアリーン嬢」
「ううっ……!」
嗚咽が零れる。塞がらない傷に優しく触れてくれても、痛い。傷は痛い。
「どうしましょっ……! 嘘で、王子と王女が婚姻にっ……! 私のせいですか? 私が早く打ち明けなかったから!」
「違うよ、メアリーン嬢。嘘をついた方が悪い。その嘘がきっかけだとしても、国同士の婚姻を成立させたのは殿下だ。責任はないよ。君は悪くない」
アルリック様は、優しい言葉をかける。欲しい言葉だった。
私は悪くない、と。
この人なら、きっと。私の傷を癒してくれる。そう思えた。
懸命に涙を拭ってくれるハンカチを持つ手を持って、自分の頬に押し当てた。
「アルリック様……私は本当にアルリック様の元に行ってもよろしいのですか?」
アルリック様は、ハッと息を呑んだ。
「癒していただけますか? あなたにすがりついてもよろしいのですか?」
「――ああ、もちろんだよ。僕が連れ去るから、安心して身を委ねて?」
熱を灯した潤んだ瞳で、私の頬を撫でる大きな手に、私は頬擦りした。
「絶対に――――君を守るから」
両手で包み込む温もりが優しい。
私は優しい優しいアルリック様にすがりつくことにした。
連れ出すと約束したアルリック様の元に行く。
家族にはそう、答えを伝えることにした。
ディソン殿下とは、幼い頃から王妃様主催のお茶会に母が参加する時に、年が同じ子ども達も交流していた際に知り合った。二人で抜け出して、隠れて過ごしたエピソードは、ディソン殿下の曖昧になってしまった記憶の中にある。すでに知れ渡っている話があるから、『初恋の女の子』に成りすまそうする者も出てきた。
本人が名乗り出ないから。なりすましは可能だと思われたのだろう。曖昧な記憶の中の『初恋の女の子』は、結局見つからない人物だと。
お互い、初恋だった。
だから、ディソン殿下が婚約を申し込んでくれて嬉しかった。舞い上がっていた。
政略結婚という建前を用意したのは、王家にも利益があると証明して、大人ぶりたかったのだと幼いながらにも思った。それさえも、微笑ましくて、嬉しかったのだ。
利益ある政略結婚なら、反対されないし、断られにくいと考えて。
国王夫妻には、ディソン殿下は私への想いを打ち明けなかった。気恥ずかしかったのだと思う。大人ぶってかっこつけたのだから、しょうがない。
……そう、しょうがなかったのだ。
ディソン殿下が高熱で何日も寝込んだのは、婚約が成立してから半年ほど経った頃だった。
そのあと、無事回復されて、泣いて喜んだ。
本当に気付かなかった。
幾度も妃教育を受けるために王城へ通い詰めて、親睦を深めるためのお茶会をディソン殿下としていた。
ある日、殿下が私のことを『政略結婚の婚約者』と言い、そして『初恋の女の子』の話を語ったから、ようやく気付いた。
彼の記憶が、おかしくなってしまっている。
慌てて、医者の元に駆け込んだ。ひとえに、殿下が心配だったから。
そうして、アルリック様に打ち明けた通りだ。
医者の指示通りに、私は私が殿下の『初恋の女の子』だということを言わなかった。無理に思い出させないために。でも予想を超えてディソン殿下は『初恋の女の子』に固執し、記憶に関して慎重に扱ってくれていた医者を追い出してしまった。
私はもう。比べられる度に、そうなる努力をしていた。思い出してもらうより、彼の理想になろうと必死だった。
でもどんなに頑張っても初恋の想いは、しぼんでいき、耐えに耐え抜いたが……結局、折れた。
婚約破棄は、トドメにへし折った。
正直、未来が怖い。いつか、王女の嘘が発覚して、その婚姻も台無しになるのか。
それは大事。国同士が荒れかねない。だから、約束をさせた。宣誓をさせた。
ディソン殿下は、やっと『理想の初恋の女の子』を見つけ出したのだ。
記憶の中と同一人物ではないけれど、それでもディソン殿下が選んだ相手だから。
どうか、違えることはしないでほしい。……絶対に。
私はいいの。私の『初恋の男の子』は、もういないのだから……――――。
私の初恋は実らず、消えてしまった。
アルリック様はそれを聞くと、また優しく手を握り締めてくれた。
「無理はしないで。時間をかけて、癒そう」
不幸中の幸いで、アルリック様が手を差し出してくれて、思ってくれることに感謝の涙が落ちた。
甘えて、よりかからせてもらった。
優しい甘い温もりに――――。
◇・◆◆◆・◇
王都貴族学園。
第一王子のディソン殿下が、隣国の王女を学園でエスコートしたことで爆発的に広まった侯爵令嬢のメアリーンとの婚約解消と、新たな婚約に騒ぎになった。
そして、忽ち、その傷心のメアリーン嬢に辺境伯の跡取りであるアルリックが婚約を申し込んだことも、同時に話題を盛り上がらせた。
二つのビッグカップルの話題。
ディソンと王女は美談にされがちで、メアリーンの方は、ディソンに捨てられたからといって、変わり身が早すぎると悪く言われた。
解せない。それを言うなら、ディソンはどうだ。
ずっとよそ見し、蔑ろにして、捨てるなり王女の手を取った。
不機嫌な顔をするアルリックに、卒業までの辛抱だから、とメアリーンは明るく笑って見せた。
そちらの話題よりも、メアリーンはもう一つの方が、顔を曇らせてしまうことだ。
隣国の王女がディソン殿下の探していた『初恋の女の子』疑惑の話題は、あくまで憶測の噂程度。
でも、もしも公にしたら、王女は多くを騙すことになる。
それは、果たしていいのだろうか。
そんなことをして、本当にいいのだろうかと、メアリーンは悶々とした。
隣国アドバーンダの第三王女アンジュ・サリー・アドバーンダ。
白銀の髪と緑の瞳の可憐な少女だ。
おしとやかな性格の彼女が、国同士を巻き込むきっかけになった嘘をついた。
押し潰されないだろうか。メアリーンも知っているだけで不安に押し潰されそうだ。
でも、学園内で見かけるアンジュに憂いは見えず、幸せそうにディソンに微笑む姿だった。
ちなみに、ディソンはアンジュに危害を加えると本気で思っているらしく、睨んで近付くことを拒む。
こちらも友人の集まりでは、アルリックに連れられて、先に席を外させてもらっている。
メアリーンに婚約を申し込んだことについては、ディソンはアルリックに「手綱はしっかり握っておけよ」と注意しただけだった。アンジュに危害を加えないように、アルリックが見張るならちょうどいいと考えているのだ。
「失望が増えるわ……」
ディソンの言動に、そうため息を零すメアリーン。
「アンジュ王女殿下も、嘘を重ねないといいけれど…………」
「メアリーン。君がそんなに顔を曇らせることはない。君の罪じゃないのだから」
「うん……そう、ね」
メアリーンの吐露を聞き、アルリックは励ますが、イマイチ割り切れないメアリーンの気は晴れない。
そうして、手にする招待状を見た。
卒業前に、ディソンとアンジュの婚約披露宴が開かれる。その招待状だ。
これはディソンに直接渡されて「やましい気持ちがなければ祝福出来るよな?」と挑発的な言葉を投げられた。
メアリーンが何を考えていると決めつけているかはわからないが、少なくとも、ちゃんと祝福している姿勢を見せないといけない。
その婚約披露宴で、メアリーンが恐れていたことが起きた。
改めて発表されたディソンとアンジュの婚約。演説でディソンは、ついにアンジュが長年捜していた『初恋の女の子』だと語ったのだ。
「私の真実の愛が、実ったのだ!」
ご機嫌にグラスを掲げて自慢するディソンの傍らで、頬を朱に染めて微笑むアンジュ。
メアリーンは生きた心地がしなかった。
「(言ってしまわれた……公にされてしまった……)」
なんでアンジュがあんな顔をしていられるのか、メアリーンには理解出来なかった。
ディソンを騙して、双方の王国を欺いて、微笑んでいられる意味がわからない。
「メアリーン。帰るかい?」
「いえ……。私、少しお酒を飲むわ」
心配して顔を覗き込むアルリックに首を振って見せる。祝福している姿勢を見せるためにすぐに帰るわけにはいかなかった。気を紛らわせるために、メアリーンはウエイターからお酒を受け取る。
ゴクゴクと飲み干すメアリーン。
なんとか挨拶をしてくる貴族を捌きつつ、そのペースを落とそうとするアルリックだったが、だめだった。メアリーンはすっかり出来上がってしまった。
無理もない。
アルリックはどれほどその秘密に押し潰されそうになっているか、理解しているからこそ、気を紛らわせる飲酒を止めきれなかった。
「すまない、皆。メアリーンを見ていてくれ。水を持ってくる。絶対に目を離さないでくれ」
「わかっているよ、心配性だな」
「わたくし達がちゃんと見ておりますわ」
親しい友人達がテラスのテーブルで集まっているので、風に当たりながら酔いを醒ましてもらおうと、アルリックは頭をゆらゆらさせているメアリーンを託す。
婚約してからのアルリックの過保護さに、令息達は苦笑を隠せない。
令嬢達からすれば、気持ちはわかるので微笑みで見送る。
「結局、殿下の『初恋の女の子』って、アンジュ王女殿下だったんだな」
「ちょっと!」
「おい!」
デリカシーの足りない令息がぼやくように零したそれに、キッと睨みつける反応を見せた令嬢達。
隣にいた令息もそれはマズい発言だろうと、肘で小突いた。
ここには、婚約者でありながら、長年『初恋の女の子』に苦しめられたメアリーンがいたのだから。
しかし、酔っているメアリーンは鼻で笑った。
「殿下が話している『初恋の女の子』は、かなり美化されているけれど、私のことよ」
秘密を暴露して、友人達に聞かせてしまった。
抱えられない秘密を、酔いによってポロリと零してしまったのだ。
「えっ」と、誰かが声を漏らす。
メアリーンはまだ足りないと、隣の令嬢のシャンパンを奪って飲み干してしまった。
「元々、政略結婚は建前で、婚約も彼の気持ちが先走ってちょっと強引に結ばれたもの。そのあと高熱が出てすっかり忘れてしまったのよね」
一度口にしてしまえば、もう躊躇もなくなる。
「嘘……じゃあ、今まで『初恋の女の子』なのに、メアリーンは比べられていたの?」
「本人なのに? 比べて貶されたというの?」
「え、待ってくれよ。メアリーン嬢。なら、なんでディソン殿下に……――っ!」
信じられないと顔色を悪くする令嬢達よりも、言いかけた令息が一番顔色を悪くして固まった。
振り返って見れば、そこには親しい友人達の元に来たディソンとアンジュが来ていたのだ。
慌てて一同は、立ち上がる。遅れて、ふらつくメアリーンも立ち上がった。
「……何をくだらない嘘をついている」
親の仇を見るかのような目付きでディソンは睨みつける。
「どちらが嘘をついているか。アンジュ王女殿下はご存じですよね?」
酔っているにもかかわらず、メアリーンは目敏く真っ青なアンジュに気付いて指摘した。
嘘をついてまで嫁ぐ隣国の王女への怒りが、メアリーンの中に燃え上がっていたのだ。容赦はしない。
「お前が変なことを言うからだ!」
ディソンは、アンジュを庇う。
騙されている初恋の王子への情けなさが募る。空しくて、苛立つ。
くわんくわんとする感覚に倒れまいと、テーブルに手をついたまま、メアリーンはうっぷんを晴らすために酔いの勢いで明かしてしまった。
もう後には引けないのだから。吹っ切れた。
「ではどうして、ディソン殿下の記憶が曖昧になっていると周囲が気付いたか、ご存知ですか?」
「それは医者が」
「医者には私が相談したから、記憶が曖昧になっていることが発覚したのですよ。他でもない、私との記憶が曖昧になっていると気付いたから。『初恋の女の子』と『政略結婚の婚約者』が、別になっていて驚きましたわ」
あんなに躊躇していたのに、一度口にしてしまえば、本当に簡単だ。
「でたらめを言うな! なら何故そう言わなかったんだ! 一度だってそんなこと言わなかっただろう!」
「殿下が追い出した医者に、混乱させて倒れさせてはいけないから、と自然に思い出すことを待つように言われていたのです。あの医者は、慎重でしたでしょう?」
「……!!」
ディソンは顔を強張らせた。慎重に治療してくれようとした医者があまりにも『初恋の女の子』を思い出させることに消極的だったから追い出したが、それならメアリーンが言っていることは辻褄が合う。
メアリーン本人が、ディソンの記憶と不一致になっていたから、記憶が曖昧になっていると気付いて、発覚したのだ、と。
だが、認めたくない。
認められない。
嫌な汗が背中を伝う。
「“想いが強すぎて、高熱のショックで曖昧になってしまった”なんて医者が言うから、いつかは思い出してくれると願って、理想ばかりが高くなる『初恋の女の子』になろうと必死でした……結局、思い出してはくれませんでしたね。きっと消えてしまったのでしょう」
メアリーンは、俯いて儚く笑う。
ディソンは激しく動揺して、息を詰まらせた。
「嘘よ! わたくしはっ! わたくしが、殿下の『初恋の女の子』なのです!」
そこに震えるか細い声を張り上げたのは、アンジュだ。
ディソンは安堵したが、アンジュも必死だった。
そうであるべきだ。二人にとって、そうでなくては困るのだ。
それはメアリーンにとって、許しがたいことだった。
アンジュの嘘に、怒りが抑えきれない。
「お茶会を抜け出して、王城の庭園の茂みの中でこっそり隠れて二人でクッキーを食べました! 分け合ったのはハート型のクッキーでしたの!」
「……それ。以前、ディソン殿下の『初恋の女の子』を匂わせた令嬢も知っていたエピソードです。いえ、最早、ディソン殿下の有名な『初恋の女の子』との思い出エピソードですよね」
冷めた目でメアリーンは容赦なく指摘した。
「だからって違うとは」
「殿下、覚えていますか? そのクッキーが二色だったことを。プレーンとチョコレート味だったのです」
「えっ……あ、ああ。覚えている」
普段なら言葉を遮ったことを無礼だと怒りたかったが、ディソンは問いかけに気が逸れる。
クッキーの色なら、覚えている。ただ分け合った女の子の顔を思い出せないだけ。
「殿下はチョコレートの方が美味しいからと、そちらから“食べて”と言いました。覚えていますか?」
「……」
覚えている。『初恋の女の子』だけが知るその話を、メアリーンが知っていることに驚きが隠せないディソン。
そして、隣を見た。
『初恋の女の子』のはずのアンジュは、何も答えない。真っ青な顔を引きつらせているだけ。
「『初恋の女の子』のエピソードで聞いたことないので、覚えていないのかもしれませんが……異国の民族衣装を見せてくれたことがあります。私は興奮のあまり紅茶を零して台無しにしてしまいましたね。あの民族衣装は、何色か、覚えていますか?」
「! あ、あれは……覚えている。覚えているよな? アンジュ」
これは『初恋の女の子』とのエピソードだ。
ディソンはアンジュに答えてもらいたくて尋ねた。
知りもしないのに答えようと必死に足掻くアンジュは、異国の民族衣装として有名な藍色の着物を思い浮かべて「藍色ですわ!」と答えた。ディソンの絶望した顔を見て、アンジュは間違いだと悟った。
「金色です。王族の贈り物ですから、特別に金色の着物を贈られたのだとディソン殿下は自慢してくれたのに、私は台無しにしてしまったのです。殿下が隠してくれると言ったので、お咎めは受けませんでした」
「…………」
「……」
ディソンもアンジュも、絶句する。
否定が出来ない。紛れもなく『初恋の女の子』が、メアリーンだということを。
凍り付くこの場の空気の中、一瞬か数秒かの沈黙のあと。
「――――なんで言ってくれなかったんだ!!!」
ディソンの責め立てる声が轟いた。
嘘をついたアンジュではなく、打ち明けてくれなかったメアリーンの方を責め立てることを選んだのが運の尽き。
「言えないようにしたのは、あなたじゃないですか!」
メアリーンは声を上げた。
まさか声を上げられるとは思わなかったディソンは怯んだ。アンジュも、びくりと震えて身を縮めた。
友人達は、息をひそめる。
水を持って戻ってきたアルリックは、飛び出そうとして思い留まった。ここまで来てしまったのなら、もう何もかも吐き出させた方が、メアリーンのためだと思えたからだ。
秘密に押し潰されるのは、メアリーンじゃなくていい。メアリーンであってはいけないのだ。
アルリックはそう思い、見守った。
「曖昧で美化した記憶の『初恋の女の子』と比べて、貶し続けて! 挙句、医者を追い出した! 今更名乗り出ても、あなたは本当に信じたのですか!?」
「っ!!」
ポロッと、メアリーンの瞳から涙が零れた。
「優しくあれ、可愛くあれ! 気遣いが足りない! 何度も『初恋の女の子』ならって! 他でもない私に向かって! あなたは罵ってきたじゃないですか! 曖昧な思い出だけを大切にして、私を貶し続けたのはあなたじゃないですか!!」
ひゅっと、喉を鳴らすディソン。冷や水を浴びた気分だ。
涙をポロポロと落とす元婚約者に、どんな言葉を放ったか。
ディソンは都合よく思い出せないでいた。無意識の拒絶反応だ。
長年恋焦がれた本人を、傷つけていた事実を受け止め切れない。
「大人ぶって、政略的利益があるって両家を説き伏せたことを忘れたのは、あなたです!」
「あっ……」
酷く枯れた喉から声が漏れるディソンの頭に、過る記憶があった。
大人ぶって見栄を張った。恋心からじゃない。政略的利益のある婚約だと主張した。
その相手はやはりぼやけていて思い出せないが、婚約をしたというなら、間違いない。
メアリーン、ただ一人しかありえない。
ずっと執着していた『初恋の女の子』は、メアリーンだ。
「なんで嘘を公表したのですか! アンジュ王女殿下! 事実は違うと知っていながら、何も悪くない顔して! こうしていつかは明るみになるとは思いもしなかったのですか!?」
やはりアンジュに怒りが収まらないメアリーン。
婚約披露宴で、嘘を公表したことが許せない。
「他人の思い出を奪って! 欺いて! あなたの立場でなんてことをしたのですか!」
「――っ!!」
びくりと肩を震え上がらせるアンジュは、ただ震えるだけ。
こんなに長い時間が経っても現れない『初恋の女の子』なら、成り代われると思った。
当然、こうして本物が現れるなんて思いもしなかったのだ。
アンジュはこちらを見ているであろうディソンと顔を合わせられず、俯いた。
「今度は大人ぶった理由の政略結婚だと言い訳では済みません。取り返しのつかない王族同士の政略結婚です。絶対に誓いは守ってください」
「ッ! そ、そんなッ! メアリーン!」
ディソンは青ざめて、制止の声を絞り出す。
確かにアンジュとの婚姻は取り消さないと誓わされた。仮令『初恋の女の子』ではなくとも、覆さないと。しかし、話が違う。他でもないメアリーンが『初恋の女の子』だったのに、それは違うじゃないか。
伸ばそうとした手は、届かない。
頭を押さえてふらつくメアリーンを、サッと支えたのはもう十分だと判断したアルリックだ。
今更ながら、ディソンはメアリーンがアルリックと婚約をしていることを思い出して、ズキンと胸を痛めた。
「ほら、メアリーン。水を飲んで」
「んっ」
水を飲ませると、アルリックはグラスをテーブルに置くと、メアリーンを抱え上げる。
「もう十分だ、メアリーン。帰ろう」
「ん……」
顔を火照らせたメアリーンは瞼を閉じて、自分を横抱きにしたアルリックの肩に顔を埋めた。
「ま、待て! アルリック!」
「我が婚約者は酔い潰れてしまいました。御前を失礼してもよろしいですよね?」
「っ!」
「こうなってしまった婚約者を責めないでください。悪くはないと、わかってくれますよね?」
「「……!!」」
アルリックの声は穏やかに聞こえてはいるが、圧がある。
そして、その眼差しはディソンとアンジュを鋭く責めるものだった。
アルリックは、知っているのだ。
ディソンの『初恋の女の子』だと知っていて、婚約した。
忽ち、真っ赤になるディソンだったが、口が裂けても、“返せ”とは言えない。言う資格がないのだ。
メアリーンには非がない。
そう威圧するアルリックは、こちらの許可を得ることなく会釈して、メアリーンを抱えて去った。
残されたのは、ディソンとアンジュ。
そして、戸惑い通しで傍観するしかなかった友人達だ。
真実を知ってしまった。
ディソンの『初恋の女の子』は、アンジュではなく、メアリーンだと。
ディソンが『初恋の女の子』と比べて、婚約者のメアリーンを貶していたことは何度も目にしてきた。
一友人として、許せることではない。だからといって、王族同士の有益な婚約に異議も唱えられない。
「……わたくしも、失礼いたしますわ。ご婚約、おめでとうございます」
「……オレも。ご婚約、おめでとうございます。ディソン殿下、アンジュ殿下」
「自分も帰ります。改めて、ご婚約、お祝い申し上げます」
爵位が高い順から、次々と頭を下げて形式上、伝えなくてはならない祝福の言葉を伝えた。仮令、それが望まれていなくとも、だ。
今宵は、婚約を祝う宴の場だったのだから。
最後にテラスに残されたのは、ディソンとアンジュ。
微動だにしないディソンの反応は怖いが、いつまでも立ち尽くしてはいられない。まだパーティーの最中。戻らなければ。
アンジュは恐る恐るディソンに手を伸ばした。
「あの、ディソン」
「触るな!!」
「!!」
バシッと振り払われる手。忌々しそうに睨まれて、アンジュは心臓を握り潰されるような思いをした。
ディソンもアンジュを置き去りにして去る。
アンジュは崩れ落ちる。あんなに優しく触れて笑いかけてくれたディソンの、あの目に怯えた。
しかし、嘘をついて嫁ぐことにした代償は、まだ始まったばかりだ。
帰りの馬車の中で、メアリーンは呻いた。
「やってしまった……!」
すっかり酔いが覚めたメアリーンは、激しい後悔に襲われて猛反省しているところだ。
「しょうがない。君は何も悪くないよ」
「……アルリックはいつまで私を膝の上に乗せているのかしら?」
「よしよし」
馬車に乗り込んでもアルリックはメアリーンを放すことなく、膝の上で横に座らせたまま。ニコニコしたまま、頭を撫でてあやす。
「いいんだよ、メアリーン。君は事実を口にしただけだよ。気を病むことはない。嘘をついた王女殿下が悪いし、初恋云々以前に国の利益のための婚姻になると発表したのは王子殿下だ。本物がメアリーンだとわかっても、誓い通り、覆せないよ」
アルリックはあえて、王女殿下や王子殿下と他人行儀に口にする。
「メアリーンは何も悪くない」
メアリーンに非はないと、全肯定する。
メアリーン一人が秘密に押し潰されるくらいなら、暴露してしまった方がいい。仮令、それがあの二人の関係を破綻させるとしても、だ。
未来の国王夫妻がどうなっても構わない。
アルリックが大事なのは、この腕にいるメアリーンだけなのだから。
ちゅ、と頬にキスをすると、酔いとは違う火照りで顔を赤くして俯くメアリーン。
それを愛おしげに見つめるアルリックは、ほつれた髪を耳にかけてやってから口を開く。
「メアリーン。もう連れ去ってしまっていいかい?」
メアリーンは顔を上げた。
「え?」
「ちゃんと祝福している姿勢は示せた……もう十分だろう。卒業資格はもらってあるし、卒業式に出ることなく、我が辺境伯領に行こう」
正直のところ、アルリックも不安である。
本物がメアリーンだと知ったディソンがどう出るか。宣誓はしていても、メアリーンに迫るかもしれない。
もしも、メアリーンが許してしまったら?
もしも、メアリーンが復縁を望んだら?
それは恐ろしい。
じっと見つめ合ってメアリーンはその不安を見抜くと、アルリックに寄り添った。
自分を甘やかして癒そうとしてくれるアルリックを選ぶ。
悪くはないのだと何度も優しく言い聞かせてくれるアルリックを。
「……じゃあ、連れ去ってもらおうかな」
「! ……メアリーン」
連れ去ってもいいと言ってくれる。
自分を選んでくれる。
心から安堵したアルリックは、抱き締めると額に口付けをした。それから瞼や目尻にも。
「いっぱい泣いたね。よく頑張った」
「うん……」
「メアリーンの家に一泊したら、荷物はあとで送ってもらって、辺境伯領へ出発しよう」
「え!? そんな早く!?」
流石に早すぎないかとギョッと顔を上げたメアリーンの鼻にちゅっとキスをして、爽やかな笑顔でアルリックは言い切った。
「うん。メアリーンを連れ去る」
有言実行。
アルリックは、自分の領地へと婚約者を連れ去り、そこで癒してあげることにしたのだ。
その決断は正しかった。
卒業式やそのあとのパーティーなら、メアリーンに会えると思っていたディソンは、すでにアルリックが連れ去ったあとだと知り、絶望した。
あれから何度も何度も悔やんでいる。
未だに初恋のメアリーンを鮮明に思い出せないが、徐々に言い放ってしまった言葉の数々が思い浮かんできてしまい、後悔に溺れそうなほど息が詰まりそうになっていた。
――――『初恋の女の子』ならば、癒すような笑顔を見せてくれただろう。
――――『初恋の女の子』なら、もっと華やかにドレスを着こなすだろう。
――――『初恋の女の子』となら、もっと会話が盛り上がったはずだ。
なんて愚かな不満だったろうか。
本人に向かって、愚かにも程がある。
曖昧なせいで、美化していた。しすぎた。
想いだけが暴走して、『政略結婚の婚約者』としか認識していないメアリーンを傷付けた。
健気にも比べる度に変わろうとしてくれたのに。
ディソンは『初恋の女の子じゃない』と思い込んで苛立ちをぶつけていたのだ。
なんてことをしてしまったのか。
他でもない。大切な、大切な『初恋の女の子』なのに。
自分は傷つけ続けてしまったのだ。
「っ……! ああ、メアリーン……! メアリーン! すまない! すまない!! 許してくれ!」
会って謝りたくても、メアリーンは遠い辺境伯領へ行ってしまった。
卒業と同時に立太子したディソンに、辺境伯領へ行く暇などない。さらには、結婚式がある。
本当ならば、メアリーンとする予定として組まれたスケジュールだということを思い出して、さらに絶望を感じた。
「メアリーン……! メアリーン! オレのメアリーン!」
醜い執着が荊のような後悔となって蝕んだ。
それから10年の時が経つ。
結婚してから、ジャックス辺境伯領を出たのは数えるほどのアルリックは、不定期に王都の王城の情報収集をお抱えの暗部にさせている。
ディソンとアンジュは結婚をし、今は国王夫妻となった。
一人の王子を結婚一年後に身籠り、出産した。
表向きは仲のいい夫婦ではあるが、ディソンがアンジュと寝室をともにすることは、もうないだろうと言えるほど、ディソンはアンジュを憎んでいる。
公の場以外では見向きもしない。
王子の前でもフリはするが、愛していないのは明白。
アンジュも数年で歩み寄りは諦めたらしい。悪足掻きをせず、現状維持をしている。
ディソンは、王子に言い聞かせているらしい。日記をつけることを。
“自分は大事な記憶を失い、大事な人を失ってしまった”と。
同じ失敗をしないように、と日記をつける習慣を覚えさせた。
アルリックは、ディソンの『初恋の女の子』に対する執着を危惧している。
流石に国王の身で辺境伯の人妻に手を出そうとはしないだろうが、なんとか再会しようとことあるごとに招待状を送りつけてくるのだ。アルリックは断れるものは断り、妻のメアリーンは連れて行かなかった。
他の貴族が当時の王太子妃のアンジュが身ごもった時期に子作りに励んでも、アルリックとメアリーンは避妊をしていた。絶対に同年代にはしないと話し合って決めたのだ。
それにアルリックは、しばらく妻メアリーンを独占したかったのも理由。
それは公言していたので、何年経ってもアツアツ夫婦だと持て囃された。
七歳差なら、大丈夫ではないか。
避妊さえやめてしまえば、毎晩愛し合っているから、あっという間にメアリーンは懐妊した。今、順調にお腹は膨れているところだ。
出来れば、娘ではなく息子が生まれて欲しい。今のところ、王子に婚約者候補は決まってもいない。
こちらの子どもを狙われてはたまったものではない。せめて子どもだけでも繋がりを、という考えをしてもおかしくないのだ。
「……その時は、葬るしかないか」
ボソリとこぼしたアルリックの不穏な呟きは、身を隠して情報を報告した暗部の者しか聞いていない。
生まれたばかりの娘と、王子の婚姻を求められたのならば、暗殺もしたくなるだろう。
ディソンの執着なら、あり得る。暗部の調べでは、彼の寝室にはメアリーンの肖像画が飾られているとか。不快な嫉妬が湧く。その肖像画を盗ませたいところだが、いざ暗殺する時に動いてもらった方がいい。
最愛のメアリーンの肖像画が一つでもディソンの手元にあるのは、不愉快極まりない。
その上、最愛のメアリーンとの子どもが狙われては、アルリックは国家転覆も厭わない。
それだけの力はあるし、メアリーンと子どもが世界の何よりも最優先するべき存在だ。
「アル」
「メア! 歩いては危ないだろう?」
愛しい妻が膨らんだお腹を押さえて自分の元にやってきたことに驚き、慌てて駆け寄って支えるアルリック。
サッと横に抱え上げた。子どもが成長した分、重さを感じる。
「またこの子がお腹を蹴ったのよ!」
嬉しそうに報告する穏やかな笑みのメアリーンを見て、つられてアルリックも笑みを零す。
「ふふ、そうか。そんな元気いっぱいなんて、誰に似たんだろうね?」
「さぁ、どちらかしら。女の子かしら、男の子かしら?」
「どちらでもいいよ。僕達の大切な子どもに変わりないからね」
本心を告げるアルリック。
性別がなんであれ、妻とともに守り抜くまでだ。
大事に囲って、愛おしく守る。
「愛しているよ、メア」
「ん? 私もよ、アル」
口付けをすると、キョトンとしながらも応えてくれるメアリーン。
幸せそうに笑ってくれる彼女を、心から愛おしく想う。
まるで“自分も”と存在を主張するかのようにポコッとメアリーンのお腹を蹴る胎児の存在が伝わり、アルリックは愛しい妻のメアリーンと一緒に笑いを零した。
ハッピーエンド
今月まだ新作投稿していないことに気付いて、悪足掻きに去年の書きかけのこちらの作品を頑張って昨日から書き足して完成しました。やれば出来る子!ドヤァ。
初恋を実らせて頑張っていたのに、初恋の相手は自分が初恋の相手だと忘れる上に、散々貶してくる。頑張って頑張っても足りない。努力は実らず、挙句、嘘をついた王女と婚約する話になってしまい、手に負えない状態。
結局、耐えきれずに暴露したのですが、アルリックが考えるようにメアリーンが一人で抱えるより吐き出させた方が精神衛生上いい。頑張ったのだから、いいじゃないか。
ディソンはいつまでも『初恋の女の子』に執着し、騙したアンジュを許さない。選んだのだから新しく愛せばいいのに。
アンジュも騙した報いで、愛されないまま。
これが、二人のざまぁです。
アルリックは愛する人を守るためなら、他者に容赦しないです。
辺境伯領ですっかり癒されて幸せなメアリーン、ハッピーエンド。
書けてよかったです。
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2024/03/30◯




