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――キーンコーンカーンコーン……
「回収するぞー。解答用紙は裏返して後ろから前へ送ってくれ。名前を書き忘れるなよー。今なら見逃してやるから」
チャイムの音と、面倒くさそうに矢継ぎ早に話す教師の声で俺は目を覚ました。
「泉野君?」と前の女子に心配そうに声を掛けられ、ごめんと謝りながら解答用紙を素早く手渡した。左を向いて窓を見ると、虚ろな目をした自分がうっすらと映っている。
はあ、今日も早く寝なければ。疲れるためにわざわざ歩いて帰ろう、とか思った。ため息をついた時、窓とは反対側の右隣からぺこぺことプラスチックが動く音と共にそよ風が吹いてきた。
「ちか、大丈夫?」
風は悠李によって人工的に作られたものだった。透明な下敷きをパタパタと動かしながら俺の様子を伺う悠李に、悪い寝ぼけていたと一言声をかけ、傷が目立ち始めた白い下敷きで力一杯扇ぎ返した。悠李の前髪が浮かび、うわっと声を上げ、手のひらで顔を隠す。周囲から盗み見する女子の顔が赤くなるのを彼越しに見るのは日常茶飯事だ。
「もう、やめてよ」
「涼しいだろ」
「前髪の癖つくからー」
「癖なんてあってもなくても変わらん」
変わるよと抜かす天下のイケメン様。俺のように普通の男が髪型を気にしないのとはわけが違う。顔が良ければ前髪なんて何でもいいのだ。
「次の時間古文だろ? 俺教科書持ってくるから」
「ちかー、俺のも持ってきてー」
「はいよ」
よいしょと席を立ち、廊下にある自分のロッカーに手をかける。古文の教科書は薄くて持ち歩きやすいサイズだが、持ち帰ることはないだろう。……まあ夏休みの課題次第では家に置くことになりそうだが。
綺麗なままの古文の教科書を回収して自分のロッカーを閉め、下にある悠李のロッカーを開ける。
「古文、古文……」
綺麗に収まった本の中から古文の教科書を探す。
あったと、教科書を引き出そうとした時、ふわふわとした塊が落ちてくる。その塊はウサギのぬいぐるみのキーホルダーで、まだタグがついている新品だった。女子軍のプレゼントだろうか。悠李のイメージがウサギなのは納得だ。彼女たちの想いを無下にはできないと、俺はそっと扉を閉めた。
「持ってきたぞ」
「ありがと」
教科書を手渡すと、悠李はお駄賃と言い、レモン味の飴を手渡してきた。飴なら授業中に食べても問題ないと自覚した俺たちは、こそこそと飴を食べることで学校に対する反抗心や、秘密を共有する背徳感のような、青春時代特有の何かを感じていた。
数分後、古文教師が二時間目の授業をはじめ、三時間目の現代文を受けた後、補習初日は終わっていった。
「ちか、部室行こ」
「おっけー」
鞄を持ち、今日は部活がないのかと期待に胸を膨らませる女子たちに、「残念ながら今日はなし」と告げながら、部室へ向かう。トランプタワーの前にお昼ご飯を食べるため、絶妙なラインナップの自販機の中で唯一まともな緑茶を買い、喉を潤した。
部室のドアを開けると、夏独特の熱を持った空気が押し寄せる。
「死ぬ」
「早くエアコンつけよ」
ピピ、とエアコンを起動させ、震える粒子たちを落ち着かせる。同好会の部室は基本的に扇風機が支給されるが、無理やり部活になったことで夏の人権が確保されたのである。この点に関してだけは女子軍に感謝したい。
少々熱くなっているパイプ椅子を引き、母が用意した弁当箱を開いた。今日のメニューは焼きそばだ。夏といえば屋台の焼きそば。来月末に控えた夏祭りを思い出し、今年も悠李と行くのかなと、ほとんど確信めいた思考が頭をよぎる。
「おいしー」
「ちかは焼きそば好きなんだね」
「好き、というか食べ慣れてるのもあるかな。家でよく出るし。あと玉子あったら余計に美味い。オムそば、好きなんだよな」
「へー……なら俺の玉子焼き食べる?」
悠李の弁当にはいつも、たんぽぽのように綺麗な黄色の玉子焼きが入っている。彼の好物かとも思ったが、いつでも俺に分けてくれる行動から察するに、思いのほか特別好きではないらしい。単なる定番なのか、お母さんの趣味なのか。
「良いの? 悠李のお母さんの玉子焼き好きだわ。甘さが丁度良くて……いくらでも食べられる」
一口齧ると、甘い味が口の中に広がった。
「後で直接言いに行かなきゃな。いつも食べさせてもらってますってさ」
「そうだね。……今はちょっと忙しいみたいだけど、いつか会いに来てよ」
「むしろ行かせて」
ごちそうさま。ご飯を食べ終えると、薄い紙での建築が始まった。一つの山を作り、その横にもう一つ山を立てる。その上に一枚カードを乗せ、また山を立てる。トランプタワーはその作業の繰り返しだが、集中を切らすと全てがなくなるシビアな世界でもある。一瞬の迷いが、行動が、全てを変えてしまう。なんて考えすぎだろうか。
「……」
「……」
「……ちか」
「うわぁっ!」
情けない声に対し、悠李はもちろん、俺自身も驚いた。パラパラと俺の塔が崩れていく。でもあの顔が急に現れてビビる俺に同情してほしい。好きだとか嫌いだとか関係ない。暴力だ。誰だってそうなる。……うん、でもやっぱりタワーは誰か直してくれよ。
「あ~……やったわ」
「ごめん、そんなにびっくりするとは思わなくて」
「いい加減自覚しろ」
「……褒めてる?」
「褒めてるよ!」
「あぁもう!」とトランプをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせ、机に突っ伏す。折れるから、と悠李がトランプを回収してくれている雰囲気を感じ取った俺は、素直にどいて俺がやるからと奪い取った。
「で、何? 俺のタワーを犠牲にするほどの話題だったんだろうなあ」
「そんな大それた話題じゃなくて……」
「何?」
「数学の時間、夢でも見てた?」
「え、どうしてわかった?」
「……だって起きた時、顔真っ青だったから。何か嫌な夢でも見たのかなって」
悠李は俺がシャッフルしていたカードの束から無言で二枚取り、トランプタワーを作り始める。一つ、二つと山ができる度に、先程の腹いせとして息を吹きかけたくなるが、後々面倒なので、グッと堪える。大人の対応というやつだ。
それにしても気にかけてしまうほど顔が白かったのか……冷静になると、人によってはもどしてしまう内容ではあるな。
「まあ、あんまり良い夢ではなかったかな。時々見るんだ」
「どんな夢?」と、心配そうな目でこちらを見る悠李。
「……俺が見る夢は基本的に誰かが死ぬんだよ。それも、大規模な事故を起こしてさ。今日の夢は猛スピードの車が花屋に突っ込んで、人が沢山怪我をした。瞬きする間に人が死んだ。そんなの見せられたら良い気しなくてさ。真っ青にもなるっての」
「花屋で事故……」
悠李が上に載せようとしていたトランプを落とし、タワーがパタパタと崩れていく。その顔も真っ青だった。
「夢だから! そんなに気にするなって」
「うん……でも、本当に事故には気をつけてよ」
「当たり前だよ! 安全第一、悠李もな」
「……そうだね」
その後はスピードや戦争など二人でできる遊びを一通りこなし、最後に七並べをしてカードをしまった。天才的な思考力を持つ彼と努力の天才の俺は常に良い勝負をしており、今回の戦績は一勝差で彼の勝ちだった。
時刻は午後四時を回った頃、俺たちは帰りの電車に乗り込んだ。流石に夏休みとはいえど、通勤時間帯やお昼時、帰宅ラッシュを避けたこの時間では列車の席も空いていて、俺たち二人は入り口付近に並んで座った。
「空いてて良いね。朝もうちょっと早く出たほうが良いのかな。明日からもうちょっと早く出る?」
「……明後日からにしよ、俺は悠李と違ってそんなすぐリズム変えられないし」
「そっか……わかった」
『……駅、お降りの際は足元にお気をつけください』
そう聞こえた後すぐに俺たちは席を立ち、出口へと向かう。楽しげなメロディと共にプシュー……とドアが開き、俺たちは電車から降りた。その時、あの顔が横を通っていった。その顔は、今日夢の中で無残に死んでいった花屋の息子の卯守葉、ご本人様であった。すれ違いざまの彼の顔には少しの緊張感と焦りが感じられた。薄らと頬は赤らみ、手に持った小さな紙袋が、誰かと幸せになる切符なのだと伝えてくれた。
俺が何とかしなければ。
寂しそうな顔をした悠李と駅で別れた後、俺は真っ先に花屋へ向かった。