不安な気持ち
ドクン
アリシアを見た瞬間、ひと際大きくイリアの鼓動が鳴った。
思わず凝視してしまう。
ゲームの設定どおりの髪色と瞳の色。
サラサラのプラチナブロンドは絹のように繊細で、瞳に合わせたと思われる薄紫色のドレスにはレースがふんだんに使われており、アリシアの儚いイメージをさらに美しく引き出していた。
(彼女が…ヒロイン…)
そう思って見つめていると、アリシアは怯えたような表情を浮かべ、隣に立っていたエリオットの後ろに隠れてしまった。
「イリア、来たんだね。紹介するよ。彼女が聖女アリシアだ。この度の奇病の一件で癒しの力を発現し、教会から聖女認定を受けた」
「お初にお目にかかります、イリア・トリステンでございます」
「聖女殿、彼女はイリア。私の婚約者です」
イリアが礼儀に則って膝を少し曲げて礼をすると、アリシアはおずおずとエリオットの後ろから顔を覗かせて小さい声で名乗った。
「アリシアです…お世話になります」
アリシアはそう言い終えると不安そうにエリオットを見上げ、その服のすそを掴んだ。
その様子にエリオットも戸惑った様子だ。
「聖女殿、どうかされましたか?」
「…いえ、イリア様が…少し怖くて」
「怖い?」
「私…貴族の礼儀を知らないので、イリア様を不愉快にさせたのかと。ちょっと…お顔が怖くて…。イリア様…ごめんなさい」
(は?え?)
イリアはいつ自分が不愉快そうな顔をしたのだろうか。
一方的に怯えられ、謝られてしまい、イリアもどうしていいのか分からない。
「イリアは優しい女性だから、きっとすぐ慣れることでしょう。イリア、実は聖女は城に住むことになったんだ。私も配慮するが同じ女性同士、何か気づくことがあったらフォローしてくれると嬉しい」
「承知いたしました」
「では、聖女アリシア。部屋の準備が整ったので案内します」
「はい!」
先ほどとは打って変わってアリシアは満面の笑みを浮かべたままエリオットと共に貴賓室を出て行った。
取り残されたイリアは状況が掴めないまま、それを見送るしかなかった。
(はぁ、やっぱりゲームのキャラデザ通りのアリシアだった。ということはエリオットルート確定ね…)
そう考えるとイリアも策を講じなくてはならない。
もはやイリアはエリオットの婚約者になってしまっており、そこから逃げ出すことはできない。
(いやいや…まだよ…。とりあえずはアリシアとは関わらない方向で…うん)
ゲーム内でイリアが断罪されるのはアリシアに対して悪行を働いたからだ。まぁ、陰険な虐めをしたりいびったり、ドレスを破いたり、果てにはその命を狙ったり。
そういう理由でゲーム内のイリアは断罪されるのだ。ならば、アリシアに関わらなければいいのだ。
そう決意し、以降イリアは引き籠りになった。
元々婚約決定の際に、王宮の一角に研究室を用意してもらっていた。
そこに籠って研究三昧というのが正確なところだ。
「あぁ…朝日が眩しい…」
イリアは一つ伸びをして窓から差し込む朝日を、しょぼしょぼの目で見ていた。
(念には念を入れて…よね…)
研究室の一室には設計図やらなんやらが乱雑に置かれている。
断罪を念頭に魔道具の開発をしているからだ。
アリシアが登場してから、確かに奇病の治癒がされるようになった。
それは祈りを込めた聖水を患者に飲ませるというものであった。
だが作り出せる聖水の量は限られており感染者は一定的に抑えられてはいるようだが決定的な根絶には至っていない。
それでも聖女の聖水に頼らねばならなかった。
それゆえ現在聖女の国内の地位は揺るぎないものになっており、貴族から篤い信仰を集めている。アリシアを王太子妃にと推す声も上がっているらしい。
一歩、一歩と断罪の足音が聞こえなくもない。
(いや…まだ諦めないわ。とりあえずアリシアとはあれ以来話してもいないし…はぁ…せめて婚約解消にしてくれないかしら…)
婚約破棄をされてしまえば国外追放→死亡ルートになるが、事前に婚約解消にとどめてくれればイリアの生きる道もある。
解消は双方の納得のもとに行われるものだし、そうすればアリシアが王太子妃になるのを邪魔したという理由での断罪はできないからだ。
だが現実は無常である。
エリオットが婚約解消に納得してくれないのだ。
何度か提案はしているものの、笑顔で拒否されるし、エリオット自身も執務に加え、聖女のサポートということで発症者をアリシアと共に回っているらしい。
(とりあえずは、今日はエリオットと朝食だったわね)
午後のティータイムが取れなくなったエリオットであったが、なるべく一緒に過ごす時間を取るように努めてくれているようで、今日は朝食を共にすることになっていた。
徹夜明けの頭ぼさぼさという最悪なコンディションではあるし、断罪対策に備えて色々やっておきたいことはある。
それにベッドにダイブしたい誘惑もある。
だが婚約者という立場とエリオットの誠意を無視するわけにもいかず、イリアは手早く身支度を整え朝食をとる約束をしている温室へと向かった。
温室には様々な植物が咲き乱れている。
室内は温かく、目を閉じて空気を吸い込めば、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
耳を澄ませばどこからとも鳴く聞こえる小鳥の囀りは聞くだけで癒されるというものだ。
「イリア!」
弾む声が聞こえて我に返ったイリアは、立ち上がってエリオットを迎えた。
「殿下、おはようございま…す!?」
イリアがお辞儀をする間もなくエリオットに抱きつかれ、思わずむぎゅっという声が出てしまった。
そしてまた生暖かい視線がイリアに集中する。
「えっと…殿下、失礼ながら皆の目もありますし、とりあえず席に着きませんか?」
「今はプライベートな時間」
「分かりました…エリオット。ちょっと苦しいから離れてもらえると嬉しいのですけど」
「嫌だ。折角久しぶりにイリアに会えたんだから…充電させて」
耳元で囁くように言うエリオットの声は、わずかに掠れていて、そして熱かった。
あまり覇気のない声にイリアはいつものようにエリオット抱きしめ、肩口に寄せているエリオットの髪を撫でた。
それに甘えるようにエリオットは顔を擦り付けている。
「大分お疲れのようね」
「…まぁね。でもイリアと会えて癒されたよ」
イリアの内心は複雑だ。
聖女が現れても、こうしてエリオットは好意を伝えてくれる。
もしかして断罪は起こらないのではとも思うが、そうならない可能性は捨てきれない。
断罪という恐怖を抱えたままエリオットの好意に応えることは難しかった。
その時外が騒がしくなった。
お待ちくださいなどという声が温室の外からわずかに聞こえる。それは直ぐに大きくなり、バタバタという足音共にやってきた。
「エリオット様!」
現れたのはアリシアだ。
何度見ても乙女ゲーヒロインだけあって可愛らしい。
儚げな印象があったが、エリオットを見つめると少し赤らめる顔がまた男心をくすぐるものがある。
「…聖女アリシア殿。今はプライベートな時間だ」
エリオットはイリアを抱きしめる力を緩めつつ、アリシアを一瞥すると不機嫌そうに言った。
だが、それも気にしないようにアリシアはニコニコと近づいてきた。
「でも、折角エリオット様の為に作ったのです…是非早く食べていただきたくて」
少し息を弾ませながら、そう言ってアリシアは取手のついた小さい白磁の皿を差し出した。
そこには可愛らしいマドレーヌがいくつか乗ってる。
香しいバターの香りからも今焼き立てですというのが伝わってくる。
「これは?」
「私が焼いたのです。最近殿下はお疲れの様子でしたし、甘いものを食べれば元気になるかなって!」
「それは…お気遣い感謝する」
「是非、召しあがってください!」
にっこりとほほ笑むアリシアに対し、エリオットは小さくため息をついてマドレーヌを一つ摘まんだ。
そして口の中で咀嚼する。
「…」
「どうです?」
エリオットの顔を覗き込むようにアリシアが首を傾げて見上げている。
だがエリオットはしばらく黙った様子でマドレーヌを見つめた。
(あまりの美味しさに絶句している…とか?)
反応のないエリオットをイリアは隣で見ていたが、アリシアも眉を潜めて不安そうな顔をしている。
「あ…あぁ。美味しい」
「良かった!…あ、イリア様も食べます?」
初めてイリアがそこに居たことに気づいたアリシアが、イリアにもそのマドレーヌを勧めてくる。
もちろん断る必要もないので、礼を言いつつマドレーヌに手を伸ばした時だった。
不意にエリオットがアリシアの持つ皿をひょいと取り上げてほほ笑んだ。
「アリシア殿。これは私のために焼いてくれたのだろう?」
「は、はい!」
「ならばイリアには食べさせられないな。美味しいから全部食べたくなったよ。これは私がいただこう」
「まぁ、本当ですか?」
エリオットは優しくほほ笑むと、アリシアも頬を染めつつ満面の笑みを浮かべた。
「イリア、申し訳ないが、朝食は失礼する。アリシア殿と少し話をしたくなった。良ければアリシア殿、一緒にマドレーヌを食べる機会が欲しいのだが」
「よろこんで!」
そう言ってエリオットはアリシアをエスコートするように腰にそっと手を添えると、そのまま二人連れだって温室を出て行ってしまった。
イリアが止める間も、返事をする間もなかった。
「え?ん?何が起こったの?」
嵐のような展開にイリアは理解不能になった。
そしてそれ以降、イリアはエリオットと話す機会を失った。
間もなくしてエリオットが…奇病に倒れたからだ。




