ただ一人だけ
「お、お待ちください!」
声の主を見る。
聴衆の中から一歩進み出る人物がいた。
あえてエリオットの瞳に合わせた水色のドレスを身にまとった女性―フローレンス・ハーヴェルだった。
そのドレスの色が主張しているように、彼女はエリオットの婚約者となるという核心があったのだろう。
イリアが聞いた話でも、侯爵家という家柄からも彼女が婚約者になると噂されていた。
「何か?」
「その方は…本当に殿下に相応しい方なのでしょうか?」
「どういう意味かな?」
フローレンスの言葉にエリオットは静かに笑っている。
口元だけに薄く笑みを浮かべたアルカイックスマイルではあるのだが、それが優美に見せているし彼の通常のほほ笑みだった。
だから自分は特別に発言を許されたと思ったフローレンスは意気揚々と続けた。
「私はずっと王太子妃教育を受けております。ですから王太子妃としてふさわしい、家柄も教養も持っております!」
「では、貴女には王太子妃になるだけの家柄と教養があると?」
「もちろんです!私は名門ハーヴェル家の人間ですから!見たところ…この方は社交界にも出ていらっしゃらないご様子です。つまり社交界に出れない出自の方でいらっしゃるというわけですわよね。そのようなどこの出自とも分からない方が王太子妃になるなど…前代未聞かと。」
「確かに…ハーヴェル家と言えば、代々国の要職にも就いているし、王族の人間も降嫁しているね」
「ですわ。賢明な王太子殿下でしたらこの意味、分かりますわよね」
(うーん…どうしようかしらねぇ)
勝ち誇ってこちらを見やるフローレンスにイリアはどういう反応をすべきか悩んだ。
彼女の言い分ももっともだし、これを機にエリオットとの婚約を辞退するのも手だ。
確かにエリオットに好意を持ってはいるが、断罪ルートを考えると進んでその道を行きたいとも思わない。
エリオットは更に尋ねる。
「王太子妃だと家柄だけではないが…確かに貴女が言うように教養も必要ですね」
「先ほども申し上げたように、私は王太子妃教育を受けております。相応のマナーも持っておりますし、他国の言語も習得しております。殿下のお役に立てると思いますわ」
そう言ってフローレンスはイリアを一瞥し、口元を覆いながらアズベル語を口にした。
「(貴方なんてどうせ私の言葉が通じないと思うけど、田舎娘が出る幕じゃないの。早々にここから出ていくといいわ。ちょっと殿下に目をかけてもらったからっていい気にならないことね。そんなクズ石程度の宝石しか身に着けられない程度の女なんて…まったくお里が知れるわ。そんな貧相なものを身に着けておいて本気で殿下に釣り合うなんて思ってるのかしら?)」
アスベル語は難しく、それを話せるのは非常に教養が高いことを印象付けるものである。
その証拠にイリア達を取り囲むように見ている貴族は彼女の流暢なアズベル語を正確にヒヤリングできていない。
ただ、「アズベル語が話せる」という事実だけがそこにあった。
だが、このアスベル語、イリアは理解できていた。というのもこれはドイツ語に近い言語だったからだ。
イリアは前世の一般教養でドイツ語を選択していた。
きっかけは某銀河の英雄を描いた小説およびアニメの影響で、「ラインハルト様…かっこいい…」というきっかけだった。
もちろん声フェチのイリアとしては声優の野宮健次郎がキャラボイスであったことが大きいのだが。
そして、このフローレンスの発言にイリアの低い沸点が怒りに到達した。
自分のことを言われることはいい。
だがこのネックレスは母ライラが結婚の際に身に着けていたもので、大切な思い出の品だ。
今回自分が婚約するに際してお守り替わりに持たせてくれた品物なのである。それを馬鹿にされて黙っていられるほどイリアはお淑やかにはできていない。
トリステン家の家訓にもある。「目には目を、歯には歯を」だ。
だからイリアはゆっくりと言葉を口にした。
「(人の価値を金と権力でしか計れない能天気なお嬢様は、家で紅茶でもすすって笑っていればいいのじゃないかしら?それにそのネックレスの価値も分からないようじゃ、そのお里やらもたかが知れているわね)」
これには聴衆も、そしてフローレンスも動揺を隠せないようだ。
それどころか悠然と自分を馬鹿にされて、二の句が継げないでいる。
「はぁ?誰が価値が分からないっておっしゃるの!」
「あぁ…失礼しました。貴女の言葉でA-Umlautの発音が少々違っていたので、聞き間違いがあったら申し訳ありませんわ。私のこのネックレスをクズ石などとおっしゃったと思いましたので」
「だってそうでしょ?そんな冴えない色の、小さな石、クズ石で無ければなんなのよ!」
「やはり…フローレンス・ハーヴィル様。失礼ながら貴女にはこのネックレスの価値がお分かりになってないご様子」
「なんですって」
「確かに小ぶりのネックレスではありますが、貴女のつけているネックレスの十倍の価値があります」
「嘘よ!ダイヤモンドなんて使われてないクズ石じゃない!」
「これはパライバトルマリンと呼ばれる貴重な石で、ダイヤモンドの一万個に一個見つかる程度の石なのです。ちなみに見たところフローレンスス様のネックレスはドレスダント宝石店のものかと」
「そうよ!一流ブランドのものよ!」
「ですが…見たところダイヤモンドの研磨具合が甘いですね。アイ・アンド・ティー商会であればそこまで粗雑な研磨は行いませんね。そして台座にあしらわれているのは金ではなく、胴に金を纏わせたものですね。これらを鑑みて、十万トリンほどの値段かと思います。しかも…傷の具合から見ると実は質流れ品ですわね。なのでその半額の五マ万トリンくらいでご購入されたかと」
「そ、そんなはずはないわ。ねぇサニティお兄さま!」
急に引っ張り出されたフローレンススの兄は虚を突かれていた。
一瞬、反応が遅くなったが、汗をかき目を泳がせながらも反論を口にした。
「そうだもっと高いぞ!六万トリンだったんだ!」
「え…そんな…」
「あ…」
失言に気づいたサニティであったがもう後の祭りである。
気を取り直したフローレンススは更に虚勢を張った。
「こ…これはたまたまドレスに合うので付けたものですわ。こんな品…捨てるほどありますわ」
そう言ってフローレンスは自らの首を飾っていたネックレスを取り外し投げ捨てた。
かちゃんと音がして、白い大理石の床にダイヤが煌めいていく。
それをイリアはゆっくりと拾い上げる。
そのイリアを見ながらフローレンスは鼻を鳴らしながら言った。
「ふん…こんなものより我が家にはもっといい品がありますわよ!我が家はなんあといってもハーヴィル侯爵家ですから!あなたのような貧乏貴族とはわけが違いますの」
「失礼ですが…フローレンス様はそのような豪華な品をいくつも持っていらっしゃるのですか?」
「もちろんよ。ほら、このドレスも最新のもの。ほかに髪飾りも扇子もすべて最新のものですわ。同じドレスなど来て殿下の夜会に出席できませんし、いつも新調して参加してますよ。当然ですわ」
「…フローレンス様。貴方はご領地がどうなっているのかご存じないのですか?」
「はぁ?領地?それがどうしたの?」
「貴方のご領地は、度重なる川の氾濫で農地が水浸しになり、一部の領民は家を失っています。その一方で、急に日照りが続いているのです」
「だからそれがどうしたのよ?」
突然このような話題になり、訳が分からないとフローレンスの表情にはありありとそれが出ていた。
これこそがイリアがこの1週間死ぬ気で勉強してきたこと…すなわち各貴族の内情だった。
貴族に関する情報はすなわち武器になる。
こうなることまでは予想していなかったが、何かの拍子で貴族の誰かと話さなくてはならなかった時、社交界で恥をかかないためにそれなりの知識が必要だったからだ。
イリアはフローレンスに畳みかける。
初めは家族を、家名を貶めたフローレンスに対する対抗措置であったのだが、あまりにも領地を顧みないその態度にイリアはさらに腹を立てていた。
「つまりここ五年余り、税収が半減以下になっているのです。それだけではなく、領民の生活は困窮しているのです。貴方がこんなものと称したこの首飾りだとしても領民にとっては一年暮らしていけるだけの価値があります。領民が飢えているにも関わらず、こんな贅沢をなさってるご自覚はありますか?」
イリアは拾い上げたフローレンスの首飾りを突き出し、そう言い放った。
だがそれすらも理解できないフローレンスはやや切れ気味にイリアに食って掛かってきた。
「はぁ?領民は税を納めるのが仕事でしょ?それを私がどう使おうか自由じゃない!領民が飢えようとそんなの知ったこっちゃないわ」
「恥を知りなさい!領民がいてこそ、私達貴族の生活が成り立つもの。税を納めてもらうためにその領民たちが豊かに過ごせるように尽力すべきですわ。それこそノブレス・オブリージュというものです」
イリアはフローレンスとサニティ兄妹を見据えながら静かに言い放った。
「領地がこのような状態で、そのような贅沢。…ですから現にハーヴェル家の財政は悪化の一途をたどっているはずです」
「嘘よ!言いがかりだわ!」
「そうだ、もしそれが本当だとして、ならば君はそれを立て直すことができるというのか!?領地経営なども知らないくせに、女など着飾って笑っているだけでなんの能力もない。でしゃばるな!」
(これだから前時代の男は…)
イリアはため息を漏らした。
ここで領地経営の改善案を言って、敵に塩を送るなど面倒ではあるが、ここまで来たらちゃんと言ってやった方がいい。
罪もない領民が苦しむのは良心が許さない。
「いくつか対応策はあるのですが…まず一つ。治水工事を行うことは必須だと思います」
「治水工事?」
「長雨による川の氾濫と干ばつ…これは水の管理をすれば防げることです。ですから川の氾濫区域には水を誘導する水の通り道を作り、川の上流ではダムを造ります」
「ダム?」
「えぇ、川を堰き止め日照りの際にはその川の水を使うのです。大きな貯水池ですね」
「そんな大規模工事に金なんて掛けてられるか!今回の災害だってたまたま起こったとだ」
「そのたまたまは今後も起きます。地形的にも気象条件的にもハーヴェル領はそれが五年程度の周期では起こっているはずです」
「…そうだな」
「ですから、今後の税収を鑑みても、先行投資と思って治水工事を行う必要があるのです。まぁ、そのほかにもメリットはあるのですが、それは一旦置いておきます」
イリアはもう一つの案を更に提示した。
「ハーヴェル領には研究ギルドがいくつかあります。その助成金を出し、研究をもっと盛んにする必要があります」
「そんなことしてなんになる!研究など変人の道楽の一種だろ?」
「もちろん助成金は先行投資になります。助成金を出し、研究を進めさせます。その代わり研究成果を特許として取得、利用料を取ることで投資金額を回収できるわけではなく、税収も潤うのです」
これはイリアの前世の実体験であるが、研究費がないと研究できず、技術の創生は出来ない。
現に国家予算で研究費が多いアメリカの宇宙開発などを見るだけでも日本のそれをはるかに凌駕している。
また、折角の技術があっても日本は海外で特許を取得していないため、その技術だけ利用されて収入に結びつかないことも多いのだ。
「他にも色々改善点はありますわ。折角の農産物ですからブランド化させて流通の価値を高める、あるいはギルドや大規模商店から法人税をとる…などなど。必要でしたら事業計画書を提出いたしますが」
いかがかしらと優雅にほほ笑めばサニティはがっくりとうなだれて絞るような声を出した。
「大変失礼した。貴方の意見を参考にさせていただきます…」
「でも、お兄さま!」
「いいから…黙ってなさい」
「くっ…」
どうやら兄はそれほど愚かでは無かったようだ。
イリアの考えを聞いて思うところがあったのだろう。
「貴女を馬鹿にして申し訳なかった。紳士としても…大変な無礼をしたと思います。大変失礼しました。妹にももっときちんとした教育を受けさせるようにいたします」
そう言って頭を下げる。
「いえ、私こそ出過ぎた真似を。ですがどうかこれにより領民が飢えることがない様にしていただければと思います」
そう言ってからイリアは現状置かれている自分の状況に気づいた。
(目立っているじゃん…)
我に返りさすがに恥ずかしくなった。
ただフローレンスが言うように自分のほうが王太子妃に相応しいと思う女性も多いだろう。
イリア自身も自分には可愛げもなく、貴族として過ごしてきた経験は他のご令嬢よりも断然少ない。
それに社交界での人間関係を考えるとちょっとうんざりもする。
だから、もし我こそはというご令嬢が居たら譲っても仕方ないと思った。
「え。ええと…さぁ、皆様。確かに私は王太子妃としては力不足であると思います。ですから殿下が他の方をお望みであればこの席をご辞退いたしますわ。あぁ、ご安心くださいませ。側妃になろうとは思いませんわ。領地でゆっくり過ごさせていただきますので!」
どよめきが起こる。
それはそうだ。
暗に自分は王太子妃であることを辞したいと言っているようなものだから。
(さぁ、我こそはというご令嬢!!立候補して!!貴方とか!!ほら、立候補するのよ!)
思わず周囲を見て、年頃の女性に目配せをする。
ご令嬢に勇気をもって一歩踏み出してほしいと願っていると、すっと背後に気配を感じたイリアは、その人物を見上げた。
「私が王太子妃に望むのは領民に寄り添えること、そして外国との交渉も行える教養と、現状を見ながら立案できる能力を求めている。これに対して、何か意見がある者はいるだろうか?」
エリオットがそう言えば、納得の様子で他の貴族も頷いていた。
「ということで、私が選ぶのは貴女だ。私は生涯ただ一人、貴女だけを愛する。…これは誓約である」
これはイリア以外は娶らないという宣言でもあった。
これに対し更にどよめきが起こった。
王太子妃にはハードルが高いが側室ならばと思っていた女性たちがその希望を砕かれたからだ。
「それで…貴女の名を聞かせてくださいませんか?」
(あぁ…もう死刑宣告だ)
エリオットに詰め寄られたイリアは観念したとばかりに名を告げた。
「私の名は、イリア・トリステンと申します」
これで…とうとう婚約者になってしまった。
(ルート的にエリオットが選ばれなかった可能性もあるし)
あとはヒロインがエリオットルートを選ばないことを祈るのみとなったのだった。
お分かりだろうか…推し声優が誰なのか…
ちなみにこちらも察していただいているとは思いますが、下の名前を頂戴した「健次郎」さん。こっちは「ここからは時間外労働です」のCVの方です。
私も彼の社畜だったので「労働はクソ」という言葉が身に沁みます…
――
さて物語は溺愛ターンへ。引き続き読んでいただけると嬉しいです!




