愚者の金
イリア、怒りの鉄槌
完全に目が据わっているイリアを見て男爵がひっと喉を鳴らしている。
「お前…どうしてここにいるんだ?魔法は…封じたはずだぞ」
「貴方が封じたのは風魔法ですよね。残念ながら私、多属性を扱えるんですの」
「な…そんなことが…」
規格外なのは自覚している。
「さて、交渉しましょう。大人しくブランシェの解毒剤を渡してください」
「そんなことして…渡すと思っているのか」
憎々し気に男爵はこちらを睨んでいる。
このように屋敷を破壊されて、使用人の一人もこの部屋に辿りついていない状況でまだ悪あがきをするつもりなのだろうか。
だが、それならそれでいい。
「さて、これなんでしょう?」
「私のコレクションの金じゃないか!それが、どうしたとでもいうのか?それと引き換えにとでもいうのか?生憎とその程度の鉱物であれば直ぐにでも買いなおせる!」
「この鉱物、名前をご存じ?」
「名前…?金じゃないのか?」
なるほど。単純に綺麗だから手元に置いたということだろう。
これの正体も知らないからあんなに無造作に置けたのだ。
「金に似ているのでお間違えのようですが黄鉄鉱という鉱物です。貴方のように金と間違える方が多いので「愚者の金」と言われてますわ」
「愚者の金?」
「ええ。まぁ男爵にぴったりの鉱物だとは思いますが…問題はその名前ではないですの。この鉱物に含まれる鉄は硫化物なので水分と反応して硫酸を生成するのです…ほら、こんな風に」
イリアが黄鉄鉱を握り魔力を込めその手を開けば空中に水が出現した。
「水?」
「いいえ、濃硫酸ですわ。ほら、こんな風なものです」
イリアは濃硫酸の液を空中に浮かせる。球体を保った濃硫酸の液は少しだけ形をぽちょんと変えたが、すぐに完全な球体になった。
だがパチリとイリアが指を鳴らせば、濃硫酸の液体の一部が生き物のように動き、ドニエ男爵の足元へと散らばった。
じゅうという音がして、床に敷かれていた赤絨毯が溶けて黒い穴をあけた。
「これを人体にかけたらどうなるか…分かりますか?なんならドニエ男爵、あなたが身をもって体験しますか?」
「ひぃ!」
「さぁ、これをあなたが被りたくなければブランシェの解毒剤を出してください」
「ぐぬぬ…」
なおも考える男爵にダメ押しとばかりにイリアは少量の濃硫酸のしぶきをドニエ男爵の寝巻に振りかけた。
同時に刺激臭がし、白い気体を立ち昇らせて寝巻の一部の布が溶けた。
これには男爵は飛び上がり、後ずさるのを見て、イリアは再度促した。
「さぁ」
「ひいいいい!分かった!分かった。出す、出すからやめてくれ!」
男爵は慌てて暖炉上の金の宝石箱から一つの青い瓶を取り出した。
そしてドニエ男爵は恐る恐るイリアへと近づいてくる。
足ががくがくと震え小鹿のようであった。
イリアが濃硫酸の液を空に浮かせたまま手を伸ばすと、男爵はなんとか顔だけは庇いたいのか体を仰け反らせ、顔を背けながらイリアの手に青い瓶を置いた。
「ミレーヌ」
「うぃっす!」
イリアは男爵を見据えたままでミレーヌに解毒剤を渡し、ブランシェに飲ませた。
ごほっとブランシェが一つ咳をしたが、すぐに顔色が良くなり、呼吸も安定した。
どうやら本当の解毒剤だったようだ。
さて、ここに用はない。
あとは逃げるだけだ。
「男爵、交渉に応じてくださってありがとうございます。では、私共は失礼させていただきますわ。ご機嫌よう」
イリアはわざとらしくカテーシーを取ると、そのまま男爵の寝室にある大きな窓に魔力を放った。
パリンパリンというガラスが砕け散る音と共に窓枠が完全に破壊されている。
それを合図とばかりにイリア達は窓から脱出し、そのまま闇夜の庭園を駆けだした。
取り残されたドニエ男爵が破壊された部屋で一瞬呆然としていたようだったが、すぐに叫び声がした。
「アイツを…追え!!追うんだぁ」
それまでパニックだった屋敷もドニエ男爵の叫び声によって、殺し屋の使用人達が慌てて追いかけてくる。
それなりに距離は保っているが、正直ヒールのある靴で駆けるのは不利である。
「ミレーヌ、予定通りお願いね!」
「了解っす!イリア様、ご無事で!」
ミレーヌの言葉にイリアは小さくだがしっかりと頷き、予定通りミレーヌと分かれて走り出した。
標的が分散したほうが追手を攪乱させられるし、いくら力のあるミレーヌであっても意識のないブランシェを抱えたまま走るのは大変だ。
イリアもブランシェが人質に取られなければそれなりに魔法で対抗できる。
だからここでイリア達は別れ、それぞれ別方向へ走った。
庭を抜けて山道を走る。
幸いにして満月なだけあり、背の高い木の陰になりながらもその隙間から煌々とした光が差し込みイリアの足元を照らしてくれる。
だが確実に背後からイリアを探す声がしている。時間稼ぎをして屋敷を出たと思ったが、予想よりも早く追手が迫っているだろう。
「はぁ!!!」
イリアは明々後日の方向に魔法を放った。
光と共に風が舞い上がりイリアの前方斜め前のほうに広がっていった。
(これで少しでも攪乱できれば)
その目論見が成功したのか、何人かの声はそちらの方にかけていく。
気配が少し減った。
イリアはそれを感じながらも走る。だが今度は後ろから動物の鳴き声がする。
「ワンワンワン」
ドーベルマンかそれに準じる番犬だろう。
匂いと聴覚で獲物であるイリアを探知しているようで、確実にこちらへ向かってきている。
足を止めたら死が待っていという恐怖からイリアは必死に足を動かした。
(魔法で吹き飛ばす?でも後ろを向いて魔術を展開するほどの間合いがあるかしら?)
色々と対応策を考えながら走るが、さすがに息が切れてきた。
体力が持たない。
はぁはぁと呼吸が荒くなる。
そしてその時が来てしまった。
後ろから犬の吠え声がひと際大きくなったかと思い、反射的にイリアが振り返れば犬がこちらに向けて襲い掛かってきたのだ。
(だめ!)
目を閉じてその痛みを覚悟した。
だが、イリアの耳に届いたのは犬の甲高い声だった。
「きゃいん…!」
「イリア!」
目を開ければそこには倒れた犬と、月明かりに照らされて映し出された緑のマントだった。
「リオ…?」
「遅くなってごめん」
番犬は涎を垂らしながら唸り、こちらに敵意を見せる。
だが、リオは番犬を見据えながら剣をおもむろに下した。
このまま襲われたらリオが傷ついてしまう。
「リオ?」
「…退け」
それは低い声だった。
怒気を含んでいるわけでもないが、冷たく何か気押される凛とした声。
同時にイリアの背筋にもぞくりとしたものが走った。
リオがその言葉を口にしたとき、リオの周りに一瞬銀粉のような光が舞った。
「きゃうーんきゃうーん」
イリアが目を見開いている間もなく番犬たちは尻尾を撒いて逃げて行った。
(今のは…なに?)
「さぁ、行こう。ほかの追手が来る」
「え…えぇ」
どうしてここにいるのか。
今のは何だったのか。
色々と疑問はあったがそれを口にする前にリオに急かされたのでイリアは現実に引き戻された。
「まだ走れる?」
「大丈夫。とにかく急ぎましょう」
リオはイリアの手を握った。
正直走り疲れてその足はもう思うように動かない。だからその手で引っ張られるように走ってもらえてイリアはだいぶ助かった。
なにより、その手の温かさに何故か励まされる。
一人でここまで来たけど、リオがいれば心強い。
「森を抜けた先にアイザックが馬を用意して待ってる。そこまで頑張って」
「分かったわ」
何とか足を動かして走り続けたところ、ようやく徐々に森の木々が少なくなり、もう少しで山道に出るのではと思った時だった。
少しだけゴールが見えたことでイリアは足を少しだけ緩めてしまった。
それが油断を生んでしまったのかもしれない。
しゅんという空気が切り裂かれる音がして、イリアの足首に痛みが走る。
ぴりという電撃痛がして、息を呑んだ。
弓矢で射られたのだと瞬時に理解するが、だからと言ってどうすることもできなく、イリアはその場でバランスを崩し、足場の悪い斜面へと転がり落ちてしまった。
「イリア!」
後ろで叫ぶリオの声と共に、男の断末魔の叫びを聞いたので、自分を射った男をリオが仕留めたということが分かった。
イリアはというと、斜面に何とかしがみついていたが、すでに下半身は宙に浮いている状態で、手を離せば一気に崖下に落下してお陀仏という状況だった。
日中であれば掴まる場所を探すこともできたかもしれないが夜目が利かない状況だ。
矢で負った傷はじんじんと痛く、あまりの痛さに意識が保てなくなる。
(もう…だめ…)
「大丈夫か!イリア。手を伸ばして!掴まるんだ!」
リオが手を差し伸べるのがぼんやりと分かった。
それを何とか掴もうとして、イリアとリオの手が触れるかどうかの時にはすでに体が落下していた。
「イリア!」
(リオ…手を離さないと…ダメなのに…)
イリアの手を掴んだままリオも一緒に落下しているのが分かった。
自分が谷底に落ちていくスピードがやけにスローモーションに感じる。
リオはぎゅっと自分を抱きしめてくれていた。
(リオ…巻き込んでごめん)
イリアは朦朧とした意識でそう思いながら、成す術もなく水へと吸い込まれていくのだった。
黄鉄鉱は硫化鉱物なのですが、同じ硫化鉱物には辰砂というものがあります。こちらは「賢者の石」と呼ばれるそうです(赤色の鉱物なので、まさしくハガレンって感じですよね)
硫化水銀を成分にするため、加熱すると水銀になるため毒性が強い鉱物の一つと言われてます。
さてようやくエリオット登場です。
まぁここまででエリオットのもう一つの正体は確実にお分かりいただけたと思いますが…
次話からは章のタイトルにあるようにエリオットの追撃が始まります!
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