第49話「帰巣本能」
死は万物に平等に与えられる終わり。
負のイメージが強すぎるそれは大抵の者は縁のないことを祈るものだが、ごく稀に受け入れる者もいる。
たとえば死ぬことに意味があるとすれば。
あるいは終わらせることで苦悩から救われるか。
特に強い立場にある存在が「死」を迎えることは周囲に多大な影響を与える。その場限りの小さな波では収拾がつかないのである。
過去に魔王としての地位を先代から引き継いだ少女はまだ理解などしていなかった。
先代魔王が人間によって討ち滅ぼされた時、彼女はただ愛する家族を失った程度にしか考えていない。他の者達が彼の者の死を嘆き、怒り、悲しんでいる間も彼女に残されたのは喪失感だけだった。
彼女は知る由もなかった。
何故、彼の者は慕われていたのか。
自分が知っているのは不器用でも彼は父親らしくあろうと振舞い続けたということ。
彼は自分が魔王であることは伏せていた。愛する娘に敵の目が向かないように隠していた。
故に彼女は魔王としての素質が皆無であった。
戦うべき相手ではなく自らに矛が向けられる理由がそこにあると理解していても、自分を愛してくれた父親がそういう風に育てたのだから戦いなど知らぬまま生きていたかったのだ。
そうして彼女は「役割」を失った。
仲間を生かし導く『先導者』としての役割を外れ、魔王の後継者である自分を討ち滅ぼすべく目の前に現れた人間の「過去に死した者達に報いる」という思いに惹かれて、新たな役割を与えられたのだ。
――フィアの教会。
ニエブラ海岸に向かう前にノエルを教会へ預けるためフィアの元を訪れていた。
入口で鉢合わせた神官はこちらの様子を見て怪訝そうな顔をしていたが、さすがに相手の気持ちがよく理解できるので変に言い訳をする前にフィアを呼んでもらうように頼んだ。
教会で務めていて神様と魔族と魔物を横に連れて歩いている獣人など見る機会など一生に一回あればいい方だろう。
ノエルとイルヴィナは比較的大人しい。
ニムルも一時は教会に預けられていたのだから慣れているはずなのだが、神官の反応を見て過去の出来事を思い出したのか自分の後ろに隠れたり手を引っ張って「帰りたい」と主張してくる。
「また家に一人でお留守番は嫌だろ?」
「ニムルはそれでいい! ほ、他の人にイジメられるくらいならその方、いい……」
「今日は大丈夫だ。俺もイルヴィナも居るんだぞ? それにお前がイルヴィナから懐かしい匂いがするとか言うから連れてきたんだぞ」
「うぅぅ……」
そう、ニムルを連れてきたのは一人で留守番させるのが可哀想という理由以外にも考えがある。
イルヴィナをニエブラ海岸に連れて行くための計画を話し合っているとニムルがいつものように客人であるイルヴィナの相手をしようとしたのだが、ニムルは初めて会うイルヴィナの匂いを嗅ぎ始めたのだ。
自分と同じで初対面の者が危険かどうか見分けるための行動。
ニムルは「懐かしい匂い」と表現した。
イルヴィナからは特別強い匂いがするわけではなく、自分が嗅いでも仄かに石鹸の香りがするくらいだった。
自分がそれ以上の何かを嗅ぎ分けることができなかった以上は二人の間にだけ存在する繋がりがあると判断すべき。ノエルも同じ結論に至ったらしく肯定するようにこちらに視線を送っていた。
不死の魔王がいるニエブラ海岸まではそれなりに遠いので別日にニムルも連れて行くとなると手間になってしまうため、ノエルを教会に預けるならニムルも連れて行こうという話になる。
それでニムルを家から連れ出して今に至る、というわけだ。
少し待っていると奥の方からフィアが数冊の本を抱えた状態で現れた。
こちらを見ると明らかに面倒事を押し付けられたかのように溜め息を吐く。
「たいして信仰心も無いくせに教会へ足を運ぶ頻度だけは優秀な信徒並ですね」
「俺はちゃんと信仰してるぞ。その本は何だ? 忙しいなら運ぶの手伝おうか?」
「大切な資料の一部です。あなたが提供してくれた報告書も綴じ込んであるので私が鍵を管理してる地下牢へ移管する予定で……」
「フィアに用事があるならば自分に任せておくといい」
フィアの後ろに大柄の人影が現れる。
それはフィアが抱えていた本を軽々と取り上げると本来、フィアが向かおうとしていたであろう場所へ消えていく。
どうやら黒騎士レイスは未だに教会から出られずにいるらしい。
「信仰心がどうとか言う割に死霊の類を飼い慣らしてるじゃねえか」
「何のことですか? 力持ちで役に立ちそうな騎士がいたので教会の雑務と子供達の相手をお願いしているだけですが?」
「フィアも悪くなったね」
ノエルに言われて面白くなさそうに舌打ちしたフィアは中に入るように指示する。
いつまでも入口に屯されていると本当に信心深い者が来ても帰ってしまうかもしれないので大人しく従う。
フィアについていく途中でニムルがレイスの消えていった方を気にしていたが迷子になられても困るので耳を突いて前を向かせる。レイスは教会から離れられないなら気になることがあっても確認するタイミングくらいあるはずだ。
とりあえず自分達はいつもと違う知らない部屋に通される。
色々と都合のある人物を連れているから気を遣って教会に来た一般人が来ないような部屋を選んでくれたのだろう。
今更だが部屋の数といい、この教会は大きすぎやしないだろうか。
「用件はなんですか?」
「ノエルを預かってほしい」
「仮にもあなたが信仰する神様なら物のように扱うのを止めたらどうですか?」
このままだと話が拗れそうだったのでノエルに説明を頼んだ。
神様本人からの説明なら自分がノエルをそんなつもりで預かってほしいと言った訳ではないとすぐに伝わるだろう。イルヴィナに関しても自分が説明すると魔族に簡単に心を許したとか、女の子だからって甘やかしすぎだ、とか色々なことを言われる可能性がある。
そこまでフィアから口出しされる筋合いはないんだけどな。
魔族に関して良い印象を持っている者はたしかに少ないが未だに人類相手に攻撃的な思想を持っているのは極一部であり、人間に紛れ平穏な暮らしを求めている者も少なくない。警戒するに越したことはないが否定しすぎるのもそれはそれで争いの火種になってしまうのだ。
とりあえずノエルの説明で納得してくれたのかフィアはノエルの受け入れに関しては頷いてくれたようだ。
「とりあえず事情は把握しました。たしかに神格同士の接触はあまり頻繁に行うべきではないので正しい選択かと」
「他の組織的に動いてる連中を刺激するかもしれないからな。ただでさえ目をつけられてるのにイルヴィナが本調子じゃないまま絡まれると面倒だ」
「迷惑かけて、ごめんね」
「あなたは振り回された側でしょうし、この鈍感な獣に迷惑をかけられるうちにかけておいていいと思いますよ?」
相変わらず毒の含有量の多い女だ。
とはいえ、フィアがすまし顔で放った言葉は自分に責任を感じやすいイルヴィナには効果がある。優しい者が言うより毒のある言い方をする者がそういう言い回しをした方が気を遣われたと伝わりにくい。
気を遣われていると知ったらイルヴィナはさらに卑屈になりかねないからフィアの言葉は否定しないでおく。
自分が面倒だと言ったのは足手まといになるという意味ではない。
単純に目的地に到着する前にイルヴィナが襲撃されてしまう可能性が高いという話だ。
イルヴィナの持つ『墓守』の権能は発覚していない情報も多い。死者の声を聞き、それを操るだけの力なら深く考える必要もないが、もし生前の力を行使させることが可能ならばアステルのような目的がなくても欲しいという者はいるかもしれない。
守るという意味でも人数は少ない方がいいだろう。
敵を近づかせないという意味では優秀な権能を持ったニムルなら、守る対象が一つだけの状況を保つことさえ破らなければ危機的状況に陥ることはまずないと考えられる。
ただ、イルヴィナが気にしているのは他にもあるらしい。
「自分がガルムを借りてる間、そっちの神様は大丈夫なの?」
「今のところ神様に直接手を出した連中はいないはずだ。力量的に手を出さずにいるのか、奴等のゲームに俺達が知らない不可侵のルールがあるのか……。理由は分からないが心配しなくてもいい」
「万が一の備えを、という意味でも教会を選んだことは正解だと思います。ここには現状、物理的に殺すことが不可能なプロトタイプがいます。護衛としては十分でしょう」
フィアの指摘通り、レイスは殺す手段がない。
誰かの肉体に宿っているならば肉体を殺せば他の肉体に移るまでの間は死んでいるのと同じ状態にでき、ついでに彼が保有している記憶を一掃することができるが、現在は黒騎士として鎧に魂が宿っているような状態だ。
今の黒騎士レイスは協力的なので味方として数えて問題ない。
誰かに殺されて記憶の一掃をされることが不安ではあるが、テイムが頭部を刎ねた際も無事な時点で鎧そのものを破壊しない限りはレイスが別の肉体へと移動する心配はない。
物理攻撃無効の護衛として最強クラスと言える。
と、噂をすれば部屋に本人が現れた。
頭部に赤く光る目と思われる部分はあるものの何を考えているか分からないので不気味だ。
レイスはフィアがいることを確認すると何かに反響しているかのような声で話す。
「資料の移管は完了した。施錠に関してはどうすればいい」
「遠隔で行えるので問題ありません」
「そうか。それにしても今日はやけに来客が多いな。見たことのない顔もいるようだ」
「……イルヴィナ」
初めて話す相手だからというのもあるだろうがイルヴィナは聞き取りにくい小さな声で名乗る。
レイスはイルヴィナが差し出した手をしばらく眺めていたが返事はしない。
きっと気がついているのだろう。
イルヴィナの持つ『墓守』の権能が良くも悪くも自分に影響し得るものだと。
とはいえレイスは騎士道を残している者なので気まずい空気になったことを感じ取ったのか、イルヴィナと挨拶を交わすのが嫌なわけではないことを弁明し始めた。
「か、過去に名を知った者を操るという魔女に遭遇したことがあるのでな! 迂闊に名乗らないようにしているのだ!」
「名乗るどころか触れることさえ拒まれた。あなたにとってイルヴィナがそれだけの恐怖の対象という意味。無理に理由付けしなくても正直に言ってくれた方が傷つけないこともある」
「すまない、そんなつもりではなかったのだが……」
これは最初の顔合わせは失敗に終わりそうだ。
レイスの考えた言い訳は過去の体験から気を付けるようにしているというものだが、それはイルヴィナがそれと同じかもしれないと危険視していることを伝えることになる。全員に同じような態度を取っているにしても快くは思われないだろう。
特に対人関係で過去に辛い思いをしてきたイルヴィナのことだ。警戒されているのに無闇に関わろうともしない。
二人が仲良くするのは難しいかと思い、話を戻そうかとタイミングを伺っていると今度はレイスの方からイルヴィナに手を差し出す。
「この冷たいだけの手でよければ握手に応じることはできる」
「ん。今はそれで十分」
イルヴィナが手を握り返したことで一応は挨拶が終わった。
本当は名前も聞きたかったのだろうが向こうから歩み寄ろうとしてくれているのを感じ取ったイルヴィナが譲歩した感じだろうか。
とりあえずは話を続けよう。
今日は別にイルヴィナとレイスを合わせるためにここへ来たわけではない。二人が仲良くできそうなら、またイルヴィナを教会へ連れてきてやればいいだけの話だ。
自分が先程までフィアとしていた会話をレイスに伝える。
彼が教会を離れるタイミングがあるとすればテイムの所で子供達の面倒を見る手伝いをしている間だけ、ということでノエルを教会に預けている間の護衛は引き受けてくれるとのことだった。
これで心配事を残さずにニエブラ海岸へと出立することができるが……。
「本当はレイスも連れていきたいんだけどな」
「何か手伝うことでもあるのか?」
「いや、理由はイルヴィナと同じだ。お前も『不死の魔王』タナトスとは関連があるはずだ」
「自分も『不死』の役割を与えられた者。たしかに無関係とは言えんな。しかし……」
レイスはノエルの方を一瞥すると「言わずとも分かるだろう?」と言う。
教会へノエルを預けたのはレイスが居るからというのも理由の一つ。
もし、その条件が変わるのならテイムの所へ預けてしまうか、レインに少しの間だけお守りを頼んだ方が安全だ。
選択肢に無かったわけではない。
「代わりに、自分の代わりに言伝を頼みたい」
「覚えられる程度なら引き受けるぞ」
自信なさげに言った自分の言葉を聞いてレイスは少しだけ考える。
なるべく短い文で考えてくれているのだろうか。
「力の根源たる者に自分は従う。ただ、今は昔のように騎士として振舞うことを許してほしい、と」
「わかった。必ず伝える」
「では自分は予定通り壊れた椅子の修理に戻るが構わないか?」
ニムルに視線を向けると首を横に振った。
別に呼び止めてまでするような話でもなかったのだろうか。
レイスも仕事に戻ると言っていたし長居するとフィアにも迷惑になるので早めに教会を出ることにする。
出発前にノエルの頭を撫でて充電しておく。
少なくとも三日くらいは会えないと思わなければならない。
「今回は怪我しないでね」
「ん、善処はするつもりだ。よっぽどのことがなければ大丈夫だとは思うけど」
「イルヴィナもちゃんとガルム守るから。権能使えなくても大好きな人を守るくらいはできるって証明する」
「そう言ってくれるなら心強いかな。犬のこと守ってくれるのは嬉しいけど、イルヴィナも無茶しないでね。イルヴィナが傷ついた分だけ犬も苦しい思いをすることになるから。ニムルはちゃんとガルムの言うこと聞くこと」
「がぅ?」
「心配するな。聞かなかったら殴って分からせる」
そこが心配だ、とノエルが視線で訴えかけてくる。
まさか自分がニムルみたいな小さい子を殴るわけ無いだろ、と言いたくなったが弁明するにはあまりに根拠が無さすぎて諦めた。
ほんとに場合によっては殴ってでも言うことを聞かせなければならないパターンもあり得る。テイムがいれば反射的に言うことを聞かせることができるから危険行動などもすぐに止められるがそういう訳にもいかない。
仮にもニムルの保護者だ。そのくらいはできないと……。
そうして、自分達はニエブラ海岸へと出発した。
――ニエブラ海岸、砂浜。
以前、教会からの依頼で来た頃のニエブラ海岸は全体的に霧が濃すぎて、少しでも離れてしまえば仲間の姿を見失うほどだった。
絶対に晴れることのない霧は特殊な環境に該当し、この世界において特殊な環境はほとんどの場合、大気中に生物から離れた魔力が蓄積していくことで発生すると言われている。
だから魔物の多い洞窟周りとかは特殊環境のことが多い。
ニエブラ海岸においては半分沈みかけたような洞窟の奥に魔物どころか魔王の棲家があるのだから特殊環境になるのは必然。魔王が倒されない限りは霧が晴れることはないだろう。
しかし、今は薄いように感じる。
魔王級の魔力保持者がいれば自然と体から溢れてしまい環境に影響するはずだが……。
「さすがは魔王の棲家がある場所。こんなに強く霧出るなんて……」
「これでも前回より薄いくらいなんだけどな」
「当たり前だよ。イルヴィナが側にいるんだから」
何でそうなるんですかね。
まったく見当もつかない答えが帰ってきて困惑していると珍しくもニムルが回答してくれる。
「まおーに会う資格あるんだ」
魔王に会うための資格……。
迷宮に巣食うような魔王だと実力を示せない冒険者の謁見を許さず永久に彷徨わせるという話を聞いたことはあるが、タナトスに限ってシンプルに実力を求めてくるようには思えない。
そもそも迷宮ではない。
前回で自分が認められた可能性はあるかもしれないが、タナトスはあくまで海に潜む魔物に手出し無用と伝えるとしか言っていない。
環境にまで変化があるなんて聞いてないから違うと考えられる。
ふと、隣りにいるイルヴィナに視線を投げる。
何気ない顔で周囲を見渡している彼女も魔王の一つ。
たしかに同じ魔王という立場でありながら謁見を許されないなんて話はおかしいような気もする。過去に大喧嘩して絶交になっているなら拒絶するのも分かるが関わりのない魔王であればそこまでする必要もない。
なるほどな、と教えてくれたニムルの頭を撫でているとイルヴィナは何も言わずに海に近づいた。
彼女がやや視線を下げたかと思えば海の上に氷の道が出来上がる。
今回は着替えも用意していないから濡れたらどうしようかという悩みが頭の隅にあったが、イルヴィナに伝えるまでもなく解決されてしまったようだ。
「あそこに見える洞窟がそう?」
「そ、そうだが……」
「心配しなくても滑らないようにしてるよ?」
そこも懸念はあったが自分が驚いていた理由はまったく別のものである。
タナトスの洞窟へと一直線に作られた氷の道。
イルヴィナは欠伸をするのと同じくらいの感覚でそれを作り上げているが、何か基準となるものも無い場所で綺麗な一本の道を魔法で作り出すのは難しい。洞窟までの距離もそこそこあるはずだが途切れてもいない。
ここまで正確な魔法を使える者は世界中を探して何人いるだろうかという話だ。
イルヴィナはさらに滑りにくいように、という配慮までした。
やはり魔王としての潜在的な能力は侮れない。
「イルヴィナすごいな! ニムル、こんなキレイな橋、初めて見た!」
「幅はそんなに広く作ってないから足元に注意」
「やっぱ桁が違うな。自分もイルヴィナから魔力を分けてもらえるようになってから多少は魔法の精度も上がったけど、出力を高くできるようになっただけでイルヴィナ程は完璧な魔法を使えない」
「素質の問題。イルヴィナは氷に関連する魔法は上手く扱えるけど他は全然使えない。ガルムだってフィジカル的な今では他より優れてる」
逆に言えばフィジカル意外に優れている点が無いとも言えるため素直には喜べなかった。
いっそのこと届かない壁があると言ってくれた方が気が楽でいい。
と、落ち込んでいると背後から謎の爆発音が聞こえてくる。
飛び上がってから何事かと振り向くとイルヴィナが作った氷の橋を渡り終えた場所から順にニムルが爆破している。
それなりに厚みがあるとはいえ自分は戦慄した。
もし威力を誤ってニムルが爆破したら怪我こそしなくても渡る前の部分さえ砕けて海に落とされることになる。着替えのない自分たちにとって全身ずぶ濡れになるのは致命的な状況だ。
すぐさまニムルを止めるべく後ろに戻る。
「おいバカ! やめろ!」
言っても止まるか分からないから捕まえようとした。
しかし、自分が両手をニムルに伸ばすと捕まると理解したのか飛び跳ねて自分の頭を蹴って背後に回り込まれる。
勢い余った自分は海に転落した。
「ブハッ! おい、ふざけるなよ!」
「ニムル何も悪くない。捕まりそうになったら逃げる。普通のこと!」
「当たり前みたいに言うんじゃねえよ。まったく、ずぶ濡れになっちまっただろうが」
「魔法で乾かす?」
「お断りだ。俺はまだ死にたくない」
魔法で乾かす、風魔法でどうにかするつもりだったのだろう。
ただ先程、イルヴィナは氷の魔法以外は得意ではないと言っていたし、その状況で風魔法を使わせるのは危険すぎる。
水や氷は不得手が使っても被害はほとんどないが風は苦手な者が使えば普通に怪我をさせかねない危険な属性だ。微風だと乾かすには意味がないからと強めの風を吹かせようとした結果、鎌鼬のようなものを発生させてしまい切り傷を負わせ、最悪な場合だと首を切り落としたなんて話もある。
イルヴィナの魔力量だと起こりかねない事故だ。
自分は橋に戻ると上着を脱ぎ、身震いして弾ける水だけ落とすと再びニムルに視線を向ける。
「考えがあって橋を砕いてたのかもしれないが危ないから止めろ。もし、やりたいことがあるならまず相談してくれ」
「知らない奴ついてきたら困ると思って……ごめん、なさい」
「ん。なんとなくやろうとしてることは察しが付いてた。ただ、皆も巻き込む可能性は考えような? それに橋があっても俺達が渡れてるのは資格があるから、だろ?」
橋の横から海中に視線を落とすと何かが動いている気配を感じる。
以前もそうだが襲ってくる様子はないものの間違いなく侵入を許さないための見張りを兼ねている。
一般人や即座に敵と判断できるような相手が来れば彼らは敵を海底に引きずり込むだろう。
自分の言いたいことを理解してくれたのかニムルはイルヴィナと手を繋ぐ。
この中でタナトスに招かれた可能性があるとすれば同じ魔王であり譲り受けた権能を持つイルヴィナ。彼女が海中の生物に襲われることはないため近くにいればまず安全を確保することはできる。
そして、その二人を護衛する上で自分も目の届く範囲に居てくれた方が助かるのだ。
何よりニムルは必要な時を除いて大人しくしていてほしい。
万が一の事故は何が原因で起こるか分からない。
「ガルムは寒くないの?」
「正直に言うと寒い。濡れちまったからな。でもイルヴィナの気遣いを遠慮したのに図々しく温めろとも言えないだろ」
「そう……。無理なら教えてね。体を張ってでも温めるから」
ありがたいけどイルヴィナのために我慢しよう。
タナトスとしては権能を分け与えた者が不埒な女だと思いたくないだろうし、客人として認めてくれた自分が節操のない獣だとも思いたくはないはずだ。
それに目的地である洞窟はすぐそこだった。
自分の記憶している道を通って奥へ進むと何体かのスケルトン兵が遠くから見ているのか視線を感じるようになった。
敵意はない。ただ様子を見ているように感じる。
自分が過去にした仕打ちを考えれば当然とも言える状況だ。
「怯えてる?」
「まあ、ある意味では天敵みたいな奴がまた現れたんだから怯えるだろうな」
「不死族に物理で勝てるとは思えないけど」
「そうか? 幽体以外には特効だぞ?」
不死族は物理的な損傷を受けても元通りになる性質がある。本来なら前衛職が相手したらダメな相手が多い。
それを覆す攻撃を自分は得意としている。
捕食という、対不死族において最適とも言える攻撃手段を。
「やっぱりガルムがいると心強いね」
「ニムルも!」
「そうだね。二人が居るから今日は挨拶しに行くくらいの感覚でいけそう」
「我が領域に踏み込んでおきながら挨拶とは豪胆な性格の持ち主だ。実に不愉快極まりない」
一瞬にして空気がピリつく。
自分は経験しているから警戒するほどではないがニムルとイルヴィナは初見なので落ち着いては居なかった。
初めて対峙する強大な威圧感。
平和的に生活してきたニムルには理解できないもので、比較的温厚な魔王であったイルヴィナには想像でしか考えたことのないものだろう。
ただ、間違えてはならない。
ここへ戦いに来たわけではなく、話し合いに来たのだと。
タナトスの声を聞いた自分達はそのまま前へと進み、明らかに不服そうな雰囲気を漂わせている牛頭の王の前に立つ。
「お主は相変わらず苦労の耐えない日々を過ごしているようだな」
「それなりにな」
「ここへ足を運んだ理由は承知している。久しく見なかった顔でも記憶に残っていることもあるようだな」
「?」
声を掛けられたのはイルヴィナではなく、ニムルだった。
タナトスは彼女のことを知っているかのように話しているが、ニムルは肉の付いてない者と話すのが初めてだと言うように首を傾げている。
久しく見ていない……。
自分はその言葉から以前にタナトスと話した際に聞いたことを思い出す。
彼には娘がいた。
血の繋がりも、種族の繋がりも持たない……それほどに大切にしていただけの娘がいるという話を聞かせてくれた。彼女がプロトタイプとして奴等の実験に使われたという話をしていたのも覚えている。
「ニムルが、そうなのか?」
「そう、忌まわしき実験の贄として奪われた我が娘だ」
もし事実ならニムルはタナトスの元で生まれ、人間の実験に巻き込まれて誘拐され、その場なのか後なのかは不明だが『拡張を望む者達』所属の『拒絶』とも接触し、最終的に『傲慢』の森に倒れていた、という流れになる。
ニムルは割と早い段階からプロトタイプとして扱われることが確定していたかのようだ。
ニムルが『傲慢』と出会う以前の記憶を失っているのはそういった過去を『拒絶』していたのが原因なのかもしれない。
無理に思い出させるものでもない。
本人が嫌だと言うならタナトスから彼女に関する話をさせるのは止める。
「ニムルは骨の人、知らないぞ?」
「そうだろうとも。お主の在り方は数々の出会いを通して変質している。ここに居た頃、お主が望んでいたのは『仲間』であろう。しかし、今は『家族』となる者達がいる。もし過去の想いが残っているのであれば何かしら記憶に引っかかる者があると考えるべきだろう?」
「そうだな。タナトスが言いたいことは分かった気がする」
ニムルは思い出せないのではなく、存在してない記憶の話をされている。
タナトスとのこと。
実験されていた時のこと。
どこかで『拒絶』と会っていたこと。
ニムルにとって仲間や家族が大切なものであることを考えると、どの記憶も断片的にすら思い出すことができないのには別の理由があると考えざるを得ない。
そこで考えられるのが『拒絶』の権能だ。
他人の状態を自分へ上書きすることのできるニムルは身体の状態だけではなく権能の複製も可能。ニムルが実験中のことを忘れてしまいたいと考えている際に『拒絶』と接触する機会があったならば過去の一切を失った状態にすることも可能だったかもしれない。
これらを考えるならグラグラが知りたいことはニムルから聞き出すことはできないだろう。
「新たな繋がりを得たのなら我が無理強いする必要もあるまい。お主の選択に未来を委ねるといい」
「骨の人、寂しくない?」
「……!」
タナトスは明らかな動揺を見せた。
記憶を失っているニムルから心配の言葉が出ると思っていなかったのだろうか。
しかし、すぐに普段の雰囲気を取り戻すと周囲に待機しているスケルトン隊を示して否定する。
「ここは死者の骸が流れ着く。孤独を感じることは無い」
「じゃあ骨の人は皆が一人にならないようにここにいるの?」
「ふっ……。面白い考え方をするものだ。常に前向きに捉える姿勢は我も見習わなければならない。さて、待たせてしまったが本題に入ろうか。そこの『墓守』がお主の言うプロトタイプとやらか?」
肯定するとイルヴィナはタナトスの前に座った。
タナトスが何を考えているのか分からないが視線が落ちたことで彼女を見下しているように感じてしまう。
いや、事実として軽蔑しているのだろう。
自分より遥かに劣る人間という種族が手にした力ならば使いこなせずとも仕方ないと考えられる。慣れていないのだから不思議なことではない。
ただイルヴィナは魔王だ。
強い力を使いこなせて当然の存在が、タナトスの力を借りている状態で敗北した。
タナトスは同格の魔王として見下している。
この空気には割って入ることはできない。
自分とにむるは部外者だ。
これは魔王と魔王、一対一の話し合い。
「イルヴィナは、一度だけでなく二度も敗北を許した。この時点であなたに何かを申し出るような権利はないので、お好きなようにしてください」
「それは……この場で殺しても構わぬと、そういう覚悟か?」
「…………いえ、さすがにそんな覚悟はありません。イルヴィナはまだ勝手な判断でお別れをしたくない人がいるから」
せっかく残された命を手放すのではないかとヒヤヒヤしていたが心配無用だったようだ。
そのくらいイルヴィナは今の時間を大切に感じている。
あとはタナトスの判断次第だが……。
「お主の豪胆な性格に免じて赦してやろう」
「…………!」
「ただし、引き続き我の権能を扱うのであれば罰則は必要だ。今後とも覚悟を持ってもらわねばならぬからな」
「どんな罰則ですか」
「お主の罪を告白しろ。お主が過去に後悔している過ちを受け入れられるならば認めてやる」




