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偽物でも許されたい  作者: 厚狭川五和
『願いを叶える者』ミーティアス
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第43話「子犬ちゃん」

――記憶を失ってから数日後。



 基本的には家から出ることのない生活を送っていると暇な時間が多くなってしまう。

 家事はほとんどニムルがやっているし、仕事は何をしていたのか分からない。

 そもそも家事を手伝おうとするとニムルにとっては存在意義にも等しいものを奪われたように感じるのか噛みつく勢いで怒られた。

 故に出来ることがない。

 意味もなく外へ行こうとするとノエルに止められてしまう。

 理由を伝えても必要がないことと判断されれば却下され、買い物や体を洗いに行く等の必要な理由がある場合はノエルもついてくるという。

 こういう暇な時間は何をしていたのだろう。

 ノエルには自分の考えがすべて筒抜けになっているため退屈していることがバレてしまい、いつものように煽られる。


「することないならノエルのこと愛してくれてもいいのに」

「気持ちではちゃんと愛してるつもりだ」

「物理的に」

「ニムルと同じようなこと言うなよ。嫌なわけじゃないけどこんな昼間からすることではないことくらい常識だろ?」

「別にすることが他にないなら常識とか関係ないと思う」


 もっともらしいことを言っているが日中から盛っていて来客があったら説明に困るし暇なのは別に今日だからではない。

 おそらく今後も暇な毎日は続いていく。

 そう考えるとノエルから毎日のように物理的に愛してほしいと求められることになる。

 さすがにそれは無理なので別のことを探さなければならない。

 いつまでもこのままでいいはずがない。

 それをノエルに伝えようとすると彼女は懐から一通の手紙を取り出す。

 なぜ手紙をそんなところに隠していたのかは知らないが手渡されたので読めという意味だろう。

 中身にざっと目を通した自分はノエルを見る。


「この手紙にある『レイン』って名前はノエルから聞いたことがある。自分がノエルと出会う前からの知り合いだろ?」

「そうだね」

「なんで隠してた?」


 あまりノエルを疑うような真似はしたくないというのもあった。

 自分がノエルのことを好きだというのが事実だとすれば、手紙の差出人であるレインという女の子はあくまで知り合い止まりなのかもしれないが文面を見る限りもっと親しい間柄だ。

 故に違和感を感じた。

 旧知の仲である友人からの手紙だと言うなら隠さずに普通に渡してきたはず。

 ノエルがわざわざ自分に渡さずに隠して持っていた理由があるとすれば他の女の子からの手紙だから、と考えるのが自然だ。

 でも、それなら一緒に読むなど対策はいくらでも取れる。

 中身が危険な内容だと判断すれば会うことを止めればいいだけの話だ。

 そこから考えられるのはノエルにとってレインが女の子であることよりも別な理由があって自分に読ませるべきではないと判断したということ。

 自分は別に怒っている訳では無い。怒る権利はない。

 ただ、大切な友人からの手紙なら返事をしなければ向こうは不安になるかもしれないと思ったから、それをノエルも分かっているなら何を理由に隠したのか知りたかった。

 理由までは隠すつもりはなかったらしく、ノエルは自分の手を握りながら口を開く。


「犬の心境が、とても不安定だったから」

「俺が?」

「早く記憶を取り戻したいと考える気持ちは分かる。でも、犬は記憶を取り戻そうとする中で本当に自分はノエルが言う自分なのか疑ってる。ううん、自分自身が感じてる自分という存在が正確かどうか疑ってる


 口にしたことがなかった上にノエルから言われたこともないから気がついていないのかと思っていた。

 自分が困惑していることに。

 記憶を失ったせいで自分は自分のことを分からなくなり、幸いにもノエルという存在に関しては自分の匂いから無関係ではないことを理解し、彼女の口から出てくるものを真実なのだと考えて聞くことができた。

 ただ、それはあくまで見聞きした話だ。

 自分自身が知っていることではない。

 だから、どれだけ「ガルム」のことだと話をされていても自分にとってはお伽噺の中の「ガルム」という登場人物の話をされているだけにしか思えず「これがお前だ」と言われても実感が湧かなかった。

 ノエルが心配しているのは迷走しないか、ということ。

 もし自分を見失っているのならば探すために外へ出て、そのまま帰ってこない可能性もある。

 自分はないと思っていても暴れないとも言い切れない。

 故にノエルは自分を見張るようにしていた。手紙を渡せずにいたのも同じ理由。


「俺は……無理に過去を思い出さなくてもいいと思ってる。忘れちゃダメなことはたくさんあるかもしれないけど、それ以上に今を一緒にいる奴に心配させるのは間違ってる」

「それでいいの?」

「二度と会えない奴らのことはちゃんと思い出してやりたい。でも、二度とできないことなんてほとんどないんだ。ノエルはそれを経験済みで知っててつまらないと思うかもしれないけど、それでもいいなら、俺は構わない」

「なら、犬がこれからすることはノエルも初めて」


 なんで、と言いかけてノエルの顔を見ると楽しそうな顔をしていた。

 何事も一回目程に楽しめることはない。

 それと同時にどんなことでも二人で一緒に経験していきたいという彼女なりの気遣いなのだろう。

 ありがとう、と感謝を伝えるとノエルは「特に礼を言われることはしてない」と顔を背けてしまう。

 と、いつまでも手紙を持っていると急に燃え始めた。

 もしノエルが懐に隠している間に燃えていたら火傷では済まなかったかもしれない。

 いや、それどころではない。

 早く消さなければ火事になってしまう。


「ノ、ノエル! 早く消さないと!」

「たぶん大丈夫」

「何が大丈夫なん…………あれ?」


 燃えていた手紙は床に落ちるとすぐに大人しくなり、その代わりに床に何かの紋様を残していた。

 そういえば自分は手に持っていたのに熱いと思わなかった気がする。

 手紙が燃えたのは魔法の影響であって実際に火が発生したわけではないから燃え広がらなかったということだろうか。

 自分は紋様に手を触れようとする。


「ノエルの時みたいな失敗したらダメだよ?」

「なにが…………へ?」


 床の紋様に触れた瞬間にそれが光り始める。

 ノエルに言葉の真意を確かめようとしていたのに彼女からの返答を待たずして光は一気に広がって自分を飲み込んでしまう。

 何が起きたのか分からず自分は目を閉じていた。



 少ししてから、ゆっくりと片目だけを開いて自分の部屋とは違う場所にいると知る。

 そこは教会だった。

 まだ明るい時間だというのに日差しがほとんど入らないせいで暗くて、その代わりに焚かれている松明の火が青色だからか余計に不気味に思えてしまう。

 別段、古びているようには見えない。

 つまり今も使われていると考えていいのだろう。

 正面の台座に腰掛けている人物が見えて自分はそれをレインだという確証を持って声をかけた。


「レイン……?」

「そうよ。やっぱり記憶を失ったっていう話はほんとなのね」


 台座の上から見下ろしてくる吸血姫の少女から聞こえてくる声は寂しそうだった。

 たぶん初手から自分がいつもと違うことに気がついたのだろう。

 ノエルから聞いた通り昔からの知り合いで再会した後も親しくしていたという話が本当なら些細な変化でも気がつくことも不思議ではない。

 むしろ申し訳なさが込み上げてくる。

 自分が不甲斐ないばかりにそんな声を出させてしまったのだから。


「なんか、ごめんな」

「あたしが謝られるような理由なんてないわよ」

「レインが話したいのは、こんな抜け殻みたいな男じゃないだろ。お前と、どんな風に話していたか分からないから、正しい反応なんて知らないし……だから、ごめん」

「せめて台座ばかり見てないであたしの方を見て話してくれない?」


 たしかに相手の目を見て話さないのは失礼だ。

 いくら申し訳ないからと言って目も合わせないようでは怒られるのも仕方がないことだろう。

 言われた通りに視線を上げる。

 やはり人の血を糧とする存在だからなのか、とても綺麗に感じた。

 もし月夜の明かりに照らされていたなら一目で心を奪われていたかもしれない。

 と、真面目な感想を抱いていたが目が悪い訳ではない自分には見えてもいいのか分からないものが見えていて、それが視界に入った瞬間、先程までの冷静さは失われた。

 話し方的に痴女ではないのだろうし見ないであげた方がいいかと思い視線を下げる。

 それを否定的に捉えたレインは寂しそうに呟く。


「もう目も合わせてくれないってことね」

「あ、いやっ! そういうわけじゃないんだ! 俺も目を見て話したいんだけどレインも女の子だしみ、見ない方がいいのかな、って」

「…………ふふっ! 懐かしいな〜」


 何が、と視線を上げるか迷っているとレインは台座から飛び降りて自分の方へと歩み寄る。

 もう危険なものは目に映ることもないだろうと彼女を見てみると先程までの寂しそうな声とは一転して明るい表情をしていた。

 懐かしい、ということは再会する前のことを話している?

 残念ながら抜き取られた記憶は最近のものに限らず過去に至るまでごっそり根こそぎ盗られているので思い出せない。

 しかし、あと数歩という距離までレインが来たことで気がついたこともある。

 知っている匂いだ。

 吸血姫でありながら血の匂いがうっすらとしか嗅ぎ取れない。

 その代わりに花か何かの匂いがするような気がするし、それに混じってわずかに自分と同じような匂いがしている。


「まだ小さい頃ね、あんたがあたしの腰くらいまでしか身長がなくてあたしが前を歩くと『俺の前を歩くな!』って急に怒り出すから何でだろうって思ってたらあんたは落ち着きなくそわそわしてて尻尾もぶんぶんしてたの」

「お、俺はそんな記憶知らない!」

「子犬ちゃんなら見ててもいいんだよ、って言ったら口では文句言ってたのに視線はずっと下に向いてたし興味津々だったんだよね〜」


 レインがにまにまと何かを見ているから何だろうと視線を向けると自分の尻尾が激しく揺れていた。

 不便すぎる体に文句を言いつつ尻尾を掴んでレインに向き直る。

 言い訳にしか聞こえないとしても黙っていると認めたことになってしまう。

 それだけはダメだ。こちらの沽券に関わる。


「そ、そりゃあ見ていいって言われたら見たくな――」


 大事なことは言えそうにもなかった。

 自分が一番言わなければいけない言い訳の前にレインが抱きしめてきて言葉を遮られてしまったのだ。

 これは、どういう意味の抱擁なのか。


「子犬ちゃんが覚えてなくてもいい。だってあたしが子犬ちゃんのこと覚えてるんだから」

「お、俺は子犬ちゃんじゃない」

「どっちでも関係ない。あんたがガルムでも子犬ちゃんでもあたしが好きな男の子なのは何も変わらない」

「す、好き……?」


 頭が状況に追いつかない。

 記憶を失う前の自分は遊び人だったとでも言うのだろうか。

 ノエルと一緒に住んでいて匂いが完全に残るほどの交流があったというのは分からなくもないが、自分の住んでいる街から離れた位置にある教会に住んでいるレインからも同じように匂いがするというのはどういう意味だ?

 それにどちらも同じように「好き」と好意を肯定している。

 まったく整理がつかない状況に目をぐるぐるさせているとレインがぱたぱたと揺れていた尻尾をがっちり掴んできてビクッと体が跳ねる。

 思わず心臓がバクバクと音を鳴らしている。

 違う、これは尻尾を掴まれて驚いただけだ。


「し、尻尾触んじゃねえよ!」

「子犬ちゃんのくせに大人しかったんだもん。噛み付いてくるくらいがあたしとあんたの関係としては正しいのよ」

「やな感じはしないけど、ビックリしたんだからな?」

「でもドキドキしたんじゃない?」


 驚いただけの気はしているが……。

 いや、よく考えてみれば自分はそんなに細いわけでは無い。むしろ体格は良い方だと考えてもいい。

 それの尻尾の根本を握るためには分厚い体だけでなく二人に隙間があればその空間の分だけ腕が長くないと届かない。一応、分厚い体をスルーして掴む方法はあるが股間に何かが触れているような感覚はない。

 つまり、レインは密着している。

 いや抱きしめられているのだから当たり前だと言われればそこまでだが男女であれば隙間ができる。

 要するに自分が感じている胸元の柔らかさは触れている柔らかさではなく押し付けられて潰された柔らかさという意味である。

 もしかしたら尻尾を掴まれる前からドキドキしていたかもしれない。


「さっき俺のこと好きって言ってたけど、レインってノエルが俺のこと好きなの知ってるんだよな」

「ノエルさん? 知ってるけど」

「で?」

「で? って何よ」

「レインはノエルが俺のこと好きなのは知ってるし、俺がそれに応じてることも知ってて、それでも俺のこと好きだって?」

「そうだけど?」


 当たり前でしょと言わんばかりに見つめ返されても困る。

 当時の自分はこうなることなど微塵も考えていなかったのだろうか。

 冷静に考えれば考えるほどレインに対して頷いてあげることができるような正当性のある理由は思い浮かばない。

 こういう時は理屈でなくて心で、と言われても記憶のない自分が決められることでもない。

 自分が困っていることに気がついたレインはまた尻尾を掴んでくる。

 こっちを向けという合図なのか?

 レインはどうやら自分の悩みを解決する素晴らしい方法を知っているらしく自慢げな顔をしながら口を開く。


「他に好きな子がいる? 知らないわよ、そんなの。だってあたしは()()()なんだから人間の恋愛観なんて興味ないもの」

「えっと、じゃあ吸血姫としての恋愛観ってどんな感じなんだ?」

「好きなら奪われる前に眷属に、だけど? でもノエルさんが神様的な理屈で子犬ちゃんの意志を尊重するって誰かを好きになることを許してるなら独占は良くないでしょ? だからあたしは子犬ちゃんを眷属にしない。代わりに言葉と行動で好きって伝えたの」


 つまり元を正せば自分に責任があると言えるが根本的に状況を混沌とさせた原因はノエルにある、と。

 まあ、種族が違えば恋愛観や認識は違うし……良いのか?

 ノエルはちゃんと好きだと言ってくれるなら他は気にしない。自分の意志があるのであれば許容範囲。

 レインは本当なら独占したいがノエルの手前、妥協して好きと主張するだけ。

 ニムルは魔物だから別次元の話だからわかる人に聞かないと不明。

 あとはノエルによるともう一人いるらしいけど……。

 自分はどうしたらいいんですか?

 レインは返事が欲しいのか自分の顔から一切視線を外そうとしてくれない。

 自分は顔を隠したい一心でレインのことを自分からも抱きしめて顔を見えないようにする。


「な、なによ……」

「なんか嬉しくて、顔を見られるのが恥ずかしい」

「恥ずかしくても見せなさいよ! もう子犬ちゃんに相手にされないかもって不安だったんだからね!」

「ん……無理だな。無視とかできそうにない」


 戸惑いを見せたレインに言いようのない安心感を享受していた。

 この安心感が何に対するものなのかは理解できない。

 しかし、警戒するものでもなければ今までもこのくらいの距離感で一緒に居たんだろうくらいの認識はできる。そういう程度には過去を思い出せなくても彼女を信頼したいという自分がいる。

 感覚的に敵か味方か判断できるのが犬故の特権。

 自分の後ろで五月蝿く尻尾が揺れている。

 あまりにも口にするのが恥ずかしく、それに掻き消されてしまいそうなほど小さな声になってしまったがレインに自分の意思表明だけはしっかりしておく。

 そうでなければ「好き」と断言したレインが報われないから。


「今後ともレインのこと好きでいさせてください」

「…………!」

「レインのこと、ちゃんと思い出せるように努力するから……俺も、レインと今の関係性を終わらせたくない……うぐっ!」


 レインの頭を撫でながらそんなことを言っていると急に下腹部へ強い衝撃を受ける。

 自分は攻撃を受けたと思われる股間を押さえながら地面に崩れ、それをしたレインに視線を向ける。

 どうやら怒っているわけではない。

 むしろ嬉しそうな顔をしていた。


「子犬ちゃんのくせに……!」

「冗談抜きで、痛い……なんで?」

「だってムカついたから」

「ひどくないか? お、俺レインに好きって言ったんだぞ。尻尾のせいで嘘吐けないし素直に白状しただろ。なんで、蹴るんだよ」

「せ、せっかく子犬ちゃんに意識してもらいたくて記憶失くした子犬ちゃんが襲ってくるかもしれないのに勇気を出して抱きしめて密着したり尻尾掴んでみたりしたのに、よ、欲情の一つくらいしなさいよ!」


 たぶん胸を押し付けられる形になった時点でかなりドキドキしていたから理性で我慢してたけど尻尾掴まれた時点で欲情していた。

 不意に弱点を掴まれたりすれば辛うじて保っていた理性も崩壊する。

 そもそも密着した押し付けられた感触+尻尾掴まれた感触+至近距離で嗅がされ続けているいい匂いがトリプルコンボを決めてるので耐えられる訳がなかった。

 単純に現時点で反応がないのは痛みで萎縮しただけである。

 こんな悲しい理不尽があるだろうか。


「欲情していいんだな? レインが言ったんだからな。もうパンツ見えてても遠慮なく見させてもらうからな。それで俺が反応してても文句言うなよ」

「い、嫌よ! それはそれでなんか納得いかない!」

「そもそも不可抗力だ。お前が俺を蹴ったから地面に崩れてパンツが見えた。むしろ押し倒してやろうか? なんならお姫様抱っこしてベッドまで運んでそのまま襲ってやろうか?」


 レインは動揺していたが、すぐに落ち着きを取り戻すと自分の発言を聞いて笑っていた。

 何がおかしいのだろう。

 自分はいつもなら言わないような台詞を必死に考えたというのにそれをバカにされたような気さえしてくる。

 不貞腐れているとレインはその場に屈んで自分の頭を撫でてきた。


「子犬ちゃんに出来るわけないじゃない。寝惚けてた時以外で一度だってあたしのこと襲ったことすらないんだから」

「そ、そんなのやってみなきゃ分からないだろ……!」

「残念だけど誘惑するのはあたしの専売特許なの」


 先程の姿勢のままレインは自分の頬に手を添えてきた。

 視界に映るものの破壊力が総じて高かったせいで不覚にも彼女の言葉通り簡単に誘惑されてしまったようだ。

 一度好きになると沼から抜け出せなくなる。

 なんて恐ろしい種族なのだろう、吸血姫は……。


「我慢できないからレインとここでもふもふわんわんさせてくれ」

「は? もふもふ? わんわん……?」

「レインは好きなだけ俺のこともふもふしていいからレインとわんわんしたい」

「…………あたしは逃げないから好きな時に遊びに来ればいいじゃない」

「え……? ここ家から遠い。レイン、たまにしか会えないだろ」

「ほんと、あんたのこと憎めそうにないのが腹立たしいわね」


 細い指に頭を撫でられると眠気さえ覚えてしまいそうなほど気持ちが落ち着く。

 目を閉じて身を任せているとレインは自分の胸の上に手を置いた。

 何をするつもりなのだろうと身構えていると彼女は自らの親指の腹を噛んで溢れてきた血液を自分の口に落とす。

 突然のことすぎて避けるべきか受け止めるべきか判断する時間がなかったので結果的にレインの血を舐めてしまったが大丈夫なのだろうか。

 実行した本人も意外そうにしているし危険なものだったりしたら……。


「子犬ちゃん、避けないんだ。臆病なあんたのことだから初手は様子見で回避すると思ったのに」

「な、なんかやばいやつなのか? お、俺を眷属にする、とか……!」


 レインは左右に首を振って否定する。

 どうやら下僕にされる訳ではないと知って安心した自分にレインは血を飲ませた理由を答える。


「過去にした誓いを覆してまで子犬ちゃんを眷属にしたくない。あたしが子犬ちゃんとしたいのは、新しい契約よ」

「契約?」

「そ、あんたのための契約」


 契約というのは約束を違えないために交わすもの。

 ただし、それは二人が本心で語っている場合に限られる。おおよそ契約を提案する者には裏がある。

 レインが言う「相手のための契約」は信じていいのだろうか。

 いや、疑うなんてありえない。

 自分のことを()()()()と言ったレインに嘘は感じられなかった。

 過去を語る時の寂しそうな顔も、思い出して楽しそうにしている顔も本物……。

 何より、今さらどうにかできるものでもない。


「別に良いけど契約内容はちゃんと教えてくれよ?」

「子犬ちゃんは今後も色んな人のこと好きになるかもしれない。それは人として好きなのか、愛情がある好きなのか、友達としてなのか……いずれにしても子犬ちゃんにとってはどれも大切な人」

「ん……?」

「もしも助けたいけど自分じゃ敵わないと思ったら、あたしを頼って。子犬ちゃんが守りたいもの諦めなくて済むように手伝うから。その代わり、終わったら少しでいいからあたしにも子犬ちゃんの愛を分けてくれたら……それでいいから」


 難しくて分からないが要するに「利用していい」と言っているのだろう。

 自分が今後も大切な者が増えていって、それだけ今回の一件のようなことが起きうる可能性が高くなるということで、レインはそうならないために切り札として自分を使えばいい、と。

 そんな馬鹿げた話があるか。

 好きな子を他人を守るために利用して、その褒美として愛するなんて都合よく扱われる奴隷と何も変わらない。

 たとえレインの願いだとしても聞き受けられない。

 自分はレインの手首を掴むと血の滴っている指先に舌を這わせる。


「そんな一仕事終えた見返りなんかで求めなくたって俺はレインが好きだ。不器用だから皆を平等に、なんて言えない。でも、その人に求められた俺でいることはできるんだ」

「ガルム……」

「…………やっぱ、さっきの無しで。俺は、レインに甘えたいから」


 まったく格好のつかない言葉だったという自覚はある。

 レインが望む自分が何か、分かっていても叶えられないと知っているから、彼女が本当に望んでいる自分にはなれない代わりに。


「いつまでも変わらずにいてくれ」

「そ、そう……。あんたがそれでいいなら変えるつもりもないけど」


 レインは上から退けると教会の出口にある影を別の場所へと接続した。

 本能的に理解しているが自分の家だ。

 用事が済んだので帰ってもいいという意味と捉えた自分は出口に向かって何歩か進んで、そこで立ち止まった。

 振り返って呆然と立ち尽くすレインに声を掛ける。


「レインに会いたい時はどうしたらいい」

「願えば叶う、それだけの話よ。あたしと子犬ちゃんの間には血の契約がある。ノエルさんみたいに全部が全部わかるわけじゃないけど、子犬ちゃんがあたしに向けた気持ちくらいはどこに居ても伝わるはずよ」


 自分がレインに向けた気持ち……。

 その気持ちがどれほど強くなければならないのか分からないと確実性は無いのではないだろうか。

 もし、本当に今すぐにでも会いたい時でも効果がなかったら?

 確かめるなら今しかないだろう。

 どの程度ならレインに伝わってくれるのか。

 自分はレインに「もう少し一緒に居たい」という気持ちを向ける。

 これなら気持ちとしては強くない。できることならそうしたいという控えめな意志に対して「少し」という遠慮を加えた。

 即席で思いつく中で弱くてもレインに向けられる確実な気持ち。


「今の俺の気持ちは、ちゃんと伝わるのか?」

「…………バカなんじゃないの」

「?」

「あんたがそんなこと伝えてきたら帰したくなくなるじゃない! さっさと帰らないとゲート閉じるからね!」


 それはまずい、と自分はすぐさま教会の出口へと飛び込む。

 記憶を失っている状態でレインの住んでいる街から自分の家まで真っ直ぐに帰れる自信がないからゲートを閉じられると実質、帰る手段を失うことになるのだ。

 でも、確かめたいことは確認できた。

 どんな些細なものであってもレインには伝わる。

 一方通行でも、相手に伝わってくれるなら自分はそれでいい。

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