第42話「前を向くための選択肢」
――記憶を失った翌日。
街で起きていた事件に関する記憶も丸々忘れてしまっている自分では役者不足だと言われテイムからの報告を受けていたノエルが詳細をまとめて騎士団へと提出し、自分達はその日のうちに家に返されていた。
普通の人間しか居ない騎士団よりも少なくとも戦える権能を持つニムルがいる家にいた方が安全という判断だ。
あとは自分自身が安心して眠れなかったり。
記憶を戻すなら普段生活してる場所がいいとか。
色々と理由はあったが家の方が落ち着くというのは間違いない話。
しかし、落ち着くというのは他人の目がないという意味合いで、心まで落ち着けているかといえば別の話である。
「あの、ノエル……さん?」
「どうしたの?」
「あの、どうかしたとかではなくて、距離が……近いというか、なんというか」
あまり失礼なことは言えないので躊躇っているとノエルには伝わっていないらしく特に距離的な変化を受けることはなかった。
彼女との距離は近いなんてものではない。
ベッドに侵入してくるまでは問題ない。昨日も腹部に乗られていたから気にするような問題ではないと言われたらそこまでだ。
今日は目が覚めると自分の毛布の中に侵入者が居たのである。
侵入者は毛布の中で自分の腕をまるで抱き枕にでもしているかのようにしっかりと懐に抱え込んで眠っていたようで、自分より先に目が覚めても離さずうとうとしていた。
なにやら昨日と比べて温かくて柔らかさを感じるような気はしていた。
理由としては深く考えるまでもなくノエルが何も身に着けていないから。
いや、正確なことを言うなら辛うじてパンツは穿いていたようだが、そんなものは些細なものだ。裸は裸なのだ。
「んー、記憶ある頃はもっと積極的だった」
「ノエルから俺の匂いするってことはそれなりに触れ合うこともあったのかもしれないけど、嘘か本当かくらいは分かるんだぞ?」
「なんで?」
「ノエルがからかってるように感じたから」
心の共有といえばいいのだろうか。
あまり深く考えないで無意識に行動しているとノエルの考えや気持ちが頭の中に直接流れ込んでいるような気がするのだ。
ノエルの気持ちが伝わってくるということは逆に彼女も自分の気持ちを知っている。
きっと楽しそうにしているのはそれが原因だ。
自分があまりにも初で耐性のない男のような反応をしているから遊ばれているのだ。
「嘘なのは犬の過去だけ。ノエルは本当」
「くすぐったくないのか?」
「もちろんくすぐったい。犬の体毛で体が擦れるからぞわぞわしてる。でも犬はもっと繊細に感じてるはず」
「そ、そうだ。触れるか触れないかくらいのギリギリを何かが通っても感じられるくらいには鋭敏だからな。というか言わなくても分かってるだろ! ほ、ほんとに恥ずかしいんだって!」
「なおさら止める理由ない」
ノエルから複雑な感情が流れてくる。
自分の反応を楽しんでいるしぞわぞわしていると言っていたが触れていることに心地良さも感じていて、嬉しそうにしているのに少しだけ暗いものがある。
小さな怒りのようなものだ。
これは……自分の落ち度としか言い表せない。
「目を覚ました時のこと、怒ってるのか?」
「最愛の女の子に対して『だれ?』って言った罪は重い。絶対に許さない。思ってても言ったらダメ」
「…………えっと、許してほしいわけじゃないんだけど、ごめんな」
「犬に言っても仕方がないのは分かってる。だから、これはただの八つ当たり」
自分の腕を抱きしめるノエルがより力強く締め付けてくる。
これ以上は意識させられても仕方がないと思うのだが……。
彼女の目はしっかりと獲物を捉えている。
「き、昨日からの行動が全部、八つ当たり?」
「そう、八つ当たり」
「ご飯食べる時に頑なに自分で食べようとするのを止めたり、お風呂に行く時もついてきて洗ってくれたのも全部?」
「もう絶対に忘れないくらいノエルを記憶に残させる。さすがにご飯食べさせるのはやりすぎたけど、お風呂は絶対にノエルも一緒に行くしノエルが犬を洗う。寝る前にノエルが満足するまで好きなだけ触って、それで一緒に寝る」
これは重症かもしれない。
自分には嫌だという権利もなければ断る理由もないような行動ばかりだが、ノエル自身がどうなのか分からない。
そうしてほしいのか。
記憶に残すため、そうするだけなのか。
腕にしがみつくようにしているノエルに視線を向ける。
彼女の存在をしっかりと感じさせるためにそうしているようにも見えるが、力一杯に抱きしめているせいで震えている体を見ていると逃げられないように捕まえているように見えてくる。
いや、事実として捕まえているのかもしれない。
もしかしたら二度と戻ってこなかったかもしれないガルムという存在を捕まえているのかもしれない。
自分はノエルを腕ごと持ち上げて自分の前、というか上に持っていくともう片方の腕でしっかりと抱きしめた。
離れたくないのは自分も同じだ。
「俺はそんな贅沢を受け入れていいんですか」
「贅沢じゃない。もっと願ってもいい。そのくらいガルムはノエルに献身的に努めてくれたよ? 大好きなガルムが、ノエルのために頑張ってくれた分だけガルムはノエルに好きなだけ求めていいんだよ?」
「今はその言葉と体温と柔らかさでお腹一杯だ」
「…………終わり? しないの?」
「は………………?」
ノエルのことを体と心にしっかりと記憶しようとしているとベッドの横の辺りから何故かこの先を求める女の子の声がした。
視線を向けるとメイド服に身を包んだ獣、ニムルが期待するように見ていた。
否、たぶん発情している。
そういう空気というか、匂いを感じた。
「二人共、少し前からいつも盛ってる。今日はもう終わった? でも匂いしない。まだ交尾してない。しないのか?」
「…………するにしても見られててデキるわけないだろ。見世物じゃないんだから」
「ぐるるっ! ガルム発情してるのに? 分かった。ニムル部屋出る! その代わりナデナデ、してほしいな〜」
「はいはい、言う事が聞けて偉いぞ〜」
頭を撫でると満足したのかニムルは部屋を出ていく。
ノエルから記憶を失くしたことは聞いているのか分からないが、今までと変わらずに接してくれているのだろう。
さすがにあのくらいの女の子から交尾という単語が出てくるのはどうかと思う。
躾け直すべきなのだろうが彼女が野性的な方の生物であると考えるなら人間のエゴで矯正するのは、それはそれで間違っている気がする。
ニムルのことを考えているとノエルは体を起こすと自分の腹の辺りに座って無意識に自分が求めていた質問の答えをくれる。
「ニムルは犬から与えられるものなら何でもいい。良い言い方をするなら欲がない。悪く言うなら何でも好意的に捉える。手を繋いだだけで好きだと考える。頭を撫でただけでも愛撫されたみたいに認識してる。だから気をつけないとニムルの方から押し倒されかねない」
「難しいな」
「程度とタイミング間違えなければ大丈夫。ニムルから撫でてほしいって言ってきたなら頭撫でて終わればいい。こっちから撫でたりすると愛撫だって勘違いして、交尾したいから前戯で撫でてくれてると認識する」
「ニムルは何でそこまで?」
「たぶんニムルにとっての雄が犬だけだから」
それを言われるとニムルのためにならない気がしてくる。
彼女が元は魔物だというのなら魔物の世界に返してあげるのが彼女のためになるのだろうが、そもそもここまで懐かれてしまっているならニムルの方から戻りたいと言ってくることもない。
せめて常識程度の躾くらいはできないとまずいだろう。
とはいえ、現状がよろしくない。
ニムルは躾さえ与えられたものだと受け取ってしまう。そうなると今は割りと真っ直ぐに好きなだけのニムルが痛みによって愛されていると勘違いする危険な癖を持った生き物になってしまう。
どうにかして魔物に常識を教えることのできる手段があればいいのだが……。
ただ、今は他を気にしてる場合では無かったのを思い出す。
ほんとに今更という感じだが両手で自分の目を塞ぐ。
「理性が息してないから服を着てくれないか?」
「犬だって裸なのに?」
「俺は毛皮があるだろ」
「…………懐かしい。こんな話を出会ったすぐの頃にもした」
自分にはその記憶がない。
ただ、過去に同じようなやり取りをしたとノエルから言われるとそうだったような気がするくらいには引っ掛かっている。
その時はどうだったのだろう。
シチュエーションや関係性は今と違ったのだろうか。
このやり取りに対して感じるものがあるということは過去に体験している可能性が高いかもしれない。
自分の記憶はそれという棚ごと抜き取られたのではなく、その引き出しの中をごっそりと引き抜かれているだけだとすれば何かの拍子に思い出せるかもしれない。
「でも、その頃とは違う。ノエルは犬と色々な気持ちを共有してきたから恥ずかしいとか嬉しいとか、知ってる。犬もその頃とは違う」
「記憶がないことか?」
「ううん。犬はノエルと眠っても驚かなくなった。すごくドキドキしてくれて、ノエルのことちゃんと見てくれてる」
「そ、それは……自分の匂い付けるくらい好きな女の子が、そっちから自分のベッドに入ってきてくれたなら嬉しいし……この緊張も単に女の子の裸だからじゃなくてノエルに対してドキドキしてるなら、その…………好きな女の子の裸見るのはやぶさかではないというか。ごめん、気持ち悪かったか?」
ノエルは自分の頬をぺちぺちと叩きながら微笑む。
何か間違った回答をした訳では無いし「気持ち悪かったか?」という質問に対しての答えは返されていないから怒ったり否定的な意味合いではないと思う。
今度は叩いていた頬の余った皮を掴むとぐにぐにと伸ばしたりする。
遊ばれているのだろうか。
「犬が喜んでくれるのは嬉しいけど、納得できない。そんなに嬉しいなら犬が喜んでる姿もノエルに見せてほしい」
「喜んでる、姿?」
「犬はいつも隠す」
何に対して唇を尖らせているのか分からない。
別にノエルに対して隠しているものなんて無いはずだが、普段から彼女に対して隠すようなものなんてあっただろうか。
いや、ある。
あるというか普通に見せるものでもない。
正確にはノエルが言いたいのは興奮という感情も含めたもので言っているのだろう。
「待てもできない獣みたいで嫌なんだ」
「嘘つき」
「え? なんか嘘なんて言ったか?」
「嬉しい時は嬉しいって言うし好きなら好きって言う。これ普通のこと! 嬉しい時は尻尾を振って好きになったら温かくなって、気持ちいいなら反応するのは獣がすることなの?」
気持ちを言葉で相手に伝えるのは人として当たり前にしてきたことだ。
それを当然のようにしているなら、そこに嘘がないならお互いに気持ちのすべてを理解することができるのだから言いようのない安心感を得ることもできる。
感情に関してまったく嘘が吐けないのが自分達のような獣だ。
落ち込んだり嬉しかったり、そういう感情のほとんどが耳や尻尾に表れる。
表に出てしまう感情を隠すこともできず、強すぎる気持ちを抱いてしまえば理性を呑まれてしまう。
それは、とても恥ずかしいことだと思った。
でもノエルにとっては大切な人と気持ちを言葉にして伝え合うのは、お互いに話さなくても通じ合ってしまう者として欠けてはならないもの。
分かるから言わなくていい。伝えなくていい。
それでは言葉も交わせないし人としての情緒もない。
だから言葉で伝えてほしい。
体に表れるのなら抑え込まずに見せてほしい。
彼女はそう言っているのだ。
その理屈は分かったが、だからと言っても自分の痴態とも言える発情している姿をノエルに見せるのはあまりにも恥ずかしく感じてしまう。
自分は顔を覆いながら押し殺したような声で答えた。
「わ、分かったよ。ノエルが見たいなら見ればいい」
「発情しないように抑え込むのもダメだからね」
「抑え込めるわけないだろ。ノエルのこと忘れてても昨日の今日でこんな、苦しくなるくらい好きなの思い出させられたら無理だ」
「言質。犬から嬉しい言葉を聞けて満足したし、さすがにいつまでも生殺しにしておくの可哀想だから着替える」
「さ、先に隣の部屋行ってるからな? あまり待たせるとニムルがまた突っ込んでくる」
というのは半分が建前だった。
ノエルに気持ちを抑え込むなと言われたせいで無理やり理性で押し留めていたものが一気に込み上げてきて、体が反応してしまっていたから着替中のノエルを襲いかねないと思って部屋を出たかったのだ。
一難は去った。
しかし、こっちの部屋にも女の子……否、危険人物がいる。
存在を忘れていた訳では無いがノエルという一番に気を使いたい相手のことを考えていたら油断していた。
彼女は当然のようにこちらを見ている。
自分の顔ではなく、主に下半身の方だ。
「ツラいなら、ニムル使うか?」
「……遠慮しとく」
「ニムルはここのメイドで、ガルムの雌! だから『えんりょ』いらないぞ!」
「どうせ俺が動けなくなるまで襲うつもりだろ! ダメだからな! ニ、ニムルはまだ若いんだからもう少し大きくなってから好きな雄とそういうことしなさい!」
「ガルルッ! 好きな雄、いない。ガルムが最初で最後! 大きくなってから、どれくらいだ?」
ニムルから質問されたが具体的な回答をできない。
人間なら成人を迎えてからと言えばいいし獣人なら子を為せるようになってから数年後とある程度の指標はある。
魔物はどう答えてやればいいのだろう。
おそらく獣型の魔物は生殖できるようになったら制限とかされてないはずだが、それをニムルに当てはめるのはマズいだろう。
言葉を話せる時点でほとんど人と同じなのだ。
そこへノエルが着替えを終えて入ってくる。
自分とお揃いでいたいのか犬の耳のようなものが付いた衣服だ。下は丈が短すぎてお尻がぎりぎり隠されているくらいのものを穿いていたが、まあパンツでウロウロされるよりは安心だ。
寒くないのかは心配だが……。
それより、ニムルの質問に関して何かノエルから答えを得られるかもしれない。
「ニムルに大きくなってからって言ったんだが、どのくらいって考えればいいと思う?」
「フィアくらい?」
「それはさすがに言いすぎだろ」
「じゃあ五年後?」
「まあ、その頃には他に好きなやつができてるかもしれないし妥当か。ニムル、そういうことだ。それまでは絶対にダメだぞ。ほんとはそういうことをしないだけじゃなくて見るのもダメなんだぞ?」
「んー? ニムルは二人がイチャイチャしてるのしか見てない。二人とも全然交尾しないから見てない」
そういうのが見せられない、って言ったはずなんだが……。
まあ、口ではこう言ってても夜中にはニムルが部屋に入ってこようとしたこともないし朝ご飯の呼び出しの時に絡んできても一度部屋を出たら再度入室することはないことを考えればニムルなりに遠慮してるつもりなのだろう。
なるべく五年経つ前にニムルに相応しい雄を見つけよう。
言葉を話せる魔物がいれば、だが……。
――カダレア東区、スティグの家。
ノエルから手紙を受け取りガルムの状況を知ったレインは伝えるべき相手を悩んだ末にスティグの家を訪れていた。
理由は消去法だった。
リースに伝えたところでできることはない。記憶が戻るまでという制約をつければ保護するとこはできるだろうがノエルがそれを望むとは思えない。
イルヴィナは知りたいだろうが伝えるべきではないと判断した。
あそこまでガルムに好意を抱いている彼女に記憶が失われたことを伝えてしまえば落ち込んでしまう可能性もあるし後先の事を考えずに彼の元へと向かってしまう可能性がある。
もし向こうにガルムを攻撃した者が潜んでいたらイルヴィナが第二の被害者となってしまうかもしれないのだから迂闊な行動に繋がってしまう話はするべきではないだろう。
それでスティグにしたのだ。
「ちょっとだけ時間もらってもいい?」
「無理と言っても帰らないじゃないか。彼らに関することか?」
「そう……それも、あまり良い方の話じゃないみたいよ」
スティグに手紙を渡すと彼は流すように内容に目を通して確認を終えると深い溜め息を吐いてレインを見る。
その目に込められているのは哀れみと怒り。
ガルムとそこまで関わった時間が長い訳では無いが、それでも仲間である以上は気に留めているということだ。
しかし、怒りに関しては個人的な感情を思わせた。
彼は傷つけられた者を優先する。
もし怒りを覚えているならば傷つけられた者と同等以上に傷つけた者にも関心があるという意味合いになる。
レインは慎重に言葉を選ぶ。
もしかしたらスティグを選択したのは間違いだった可能性もあるのだ。
「伝えない方が、良かった?」
「いや、この情報は僕も無関係なものじゃない。知るべきことだ。僕が権能を授かる前にされた実験……。その際、痛みを与えて救いを求めるように言われていた。ただ、僕は子供だったし普通の人間だから小さな傷でも積もれば簡単に死んでしまうからね。現場には『アクセル』という名の男が呼ばれていた」
「それって……」
「傷からの再生を加速させて出血量が致死量に至る前に無理やり自己修復させられたんだ。僕はその時点で停止させる権能を与えられていた」
もし実験が初期の段階で『停止』の権能が発言していたならスティグは実験を止めることもできたし、彼の実験のために犠牲になった妹も救うことができたのではないだろうか。
レインの些細な疑問にスティグは「世の中そんなに甘くないよ」と応える。
その言葉で思い出す。
力を与えてくれる神格の存在は救う前提ではない。
ある時は見世物として。
ある時は眷属とするため。
死してなお、苦痛を受けさせるために第二の生と権能を与えることもある。
苦しみを受ける者達を救うために手を差し伸べてくれる者など一握りも存在していなかった。
なぜなら権能を与えてしまうということは、人間の企みに手を貸すという意味になってしまうから。
故に善意よりも何かしらの目的がある。
スティグは弄ばれた。
休むことなく与えられる痛みよりも家族のことを考えていたスティグに時間を停止する権能を与え、それを使わせて自分自身の延命をさせた。
傷の修復を繰り返せば肉体は劣化していくがスティグは権能を与えられていることに気が付かないまま無意識に老化という事象を停止させ生き永らえ、隣で殺されてしまった家族を見て絶望するしかなかった。
それを、彼に権能を与えた神格が望んだ。
楽観的に考えてしまったレインは謝罪しようとしたが彼はそれを拒む。
「自分でも分からないものを他人が分かるはずがない。もしも過去の自分がレインのような考え方をできていたなら妹も救えたかもしれないね」
「実験の主な項目が苦痛を与えることになっていたのは冷静な判断をさせないためのものでしょ? なら、あたしが同じ状況にいてもスティグと同じ。苦痛から逃れたい一心で救いを願ってたはずよ」
「…………とりあえず話を戻そう。僕が無関係ではないと言ったのは『アクセル』という男がまさに今回、ガルムが対峙した相手だ」
それが、彼が瞳に宿した怒りの理由。
自分がプロトタイプとなった実験に関係した者で、スティグの妹を殺した相手。
ノエルからの手紙には「相手の男が持っていた物や周囲にあった物を獣人でも視認することが難しいほどの速度で飛ばしてくる男」と書かれている。
それが物体の投擲速度を加速した結果ならスティグの言う『加速』の男と一致する。
「復讐したいの?」
「それは君の方なんじゃないのか」
「あ、あたしが……? ふ、復讐って言われても過去にそいつと因縁があるわけでもないんだから」
「正確には彼ではなく一般人を扮した女性ではあるけど、ガルムに危害を加え命を奪おうとしたが今回は記憶だけで済んだ。と言っても君にとっては復讐する理由としては十分だろ?」
自分の考えを見透かされているような気がしたレインは胸を押さえて考える。
もし感情のままに言葉を吐き出してもいいならスティグが言う通り自分の愛した者のために復讐を考えていたのかもしれない。
自分が一番大切にしている者を奪おうとした。
それに対する報復を考えないにしても今すぐに彼の元へと駆けつけて危険な存在を全て消しておくくらいはしても許されるはずだ。
しかし、レインは不思議と胸の内にある感情を整理していると「復讐」という二文字は小さく、意識していないことに気がつく。
むしろ安堵さえ覚えている。
その気持ちをはっきりと理解したレインは暗い顔を止めてスティグの言葉を否定した。
「あたしは、ガルムが傷つけられたって聞いて怒りを感じたし、悲しくもなった。どうして一生懸命に生きてるだけの彼が傷つけられなきゃならないんだろ、って複雑な気持ちだった。でも、よく考えたらガルムにとって悪いことばかりじゃなかったのかな。痛い思いはしただろうし、何も覚えてないのってすごく怖いし不安になったと思う」
スティグは無言で頷く。
だからこその復讐を、と考えたとしても責めるつもりはないという意志を見せている。
「でも、忘れちゃった記憶の中には彼が背負い続けてきた苦しみもある。長い実験の日々の苦痛や、生物兵器として望まぬ殺しをさせられていた時の記憶、それに大切なものを失った時の記憶も……」
「………………」
「それを忘れられたなら、良かったのかもしれない。ずっと責任を感じて本当なら背負わなくていいものを幼い頃から背負い続けてきたガルムが、重荷から開放されたなら……あたしは復讐なんかより新しく思い出を作ってあげたい」
レインはこの言葉が本心だと断言した。
それは真実だったが話を聞いていたスティグは「本当に?」と念押しする。
ガルムにとって苦痛ばかりの過去だったとしても、その過去の一部としてレインと共に過ごしてきた時間も含まれている。
つまり、彼は苦痛の日々と一緒に彼女との時間も忘れるという意味。
今はガルムにもノエルという同じ時間を過ごす家族のような者がいる。
ただ、それでレインの過去の時間が無くなるわけではない。彼と過ごした時間で積み上げた記憶や想いが失われるわけではない。
スティグは彼女が我慢しているように思えたのだ。
案の定、彼女は抱え込んでいたらしくスティグの言葉に思わず涙を流す。
「ガルムが、あたしのこと忘れちゃったなら、もうあたしはガルムにとって思い出の人にすらなれないのよ……! 眷属にしてたら何があってもあたしのことは忘れなくなるけど、それだとノエルさんのことをガルムが忘れちゃうかもしれなかったし……」
「そんな悲観的にならなくていいんじゃないかい? 彼とはカダレアで久々に再会したんだろ? それでもガルムは君と変わらず接してくれたんじゃないのか?」
「それは、ガルムが覚えてたからでしょ」
「忘れていても思い出すかもしれないし、接し方は変わらないかもしれないだろ。君は諦めが良すぎる。君ほどの立場ある者ならもっと図々しくわがままに振る舞ったらどうなんだ」
夜に属する者は尊大な態度を取る者がほとんどである。
理由など至極単純。
自分より弱い者に媚び諂う必要などない。視界に入れるだけでも感謝されてもいいくらいだと考えているからだ。
レインのようにすぐに寿命を迎える生物一匹に固執するのは異常とも言える。
そして、レインは一匹に固執しているのに一人を気にかけている。
彼女にとっての最優先事項はガルムだが、その最優先事項が最も大切にしている者が一人の少女であるからこそ、レインは彼女を粗雑に扱うことができない。
ましてや相手は神様だ。
力を持たないだけで別格の存在。
自分なんかでは二人の間に介入する余地すらない。
「仕方ないじゃない。本人の意志を無視して自分のものにしたって何の意味もないんだから」
「本人の意志? 何を言ってるんだい。ガルムは君と本心で語り合っているはずだ。少なくとも彼は君をどうでもいい、なんて考えてはいなかったと思うよ」
そんなはずないでしょ、とレインは否定した。
同じ家に住み何をするのにも一緒の少女。朝起きてから夜寝るまでの間に二人が離れる時間なんて数分程度だろう。
まさか、そんな関係の者がいるのに余所見するなんてことがあるわけない。
レインはそれなりにガルムを見てきた。
彼の性格ならよく知っているつもりだ。
まだ幼かった頃、ガルムが隣にいたレインに向けていた視線と彼がノエルに向けている視線は全くの別物である。
ただ、スティグはそう思わないらしい。
こんなことも分からないのか、という態度でレインのことを鼻で笑うと彼女がまったく考えもしなかったことを言い始める。
「あれは一途でも断れないタイプだよ。縁も切ることができない。だから色々な理由をつけて許容してるつもりなんだ。ノエルは自分に権能を与えてくれた存在だから、レインは昔、隣で支えてくれた人だから、みたいな理由をつけて彼はそれぞれを平等に愛しているつもりだよ。たぶんだけど」
「な、何を根拠にそんなこと言ってるのよ」
「君が初めてガルムを僕のところに連れてきた時、彼は再会したばかりの君を守るつもりで僕に敵意を向けた。その後も彼は僕のことを警戒していたけど、君への視線は間違いなく好きな子に対するものだったよ?」
「でもガルムにはノエルさんがいるじゃない。あの時はまだそこまでの仲になっていなかったとしてもノエルさんがあそこまで守ろうとしてくれてたんだからガルムは惚れてたんじゃないの?」
スティグは首を左右に振る。
その意味が分からないレインは困惑していた。
自分へ向けられているのも好意。ノエルに向けられているのも好意ならば、それはどちらも浅いものなのではないか、と。
恋愛的な、一緒にいたいという意味の好きではない。
ただ、人として好きだと言われているような感覚。
スティグは彼女の考えとは違う答えを見出していた。
「あれがノエルに向けているのは親が子に向けるのと同じようなものだろ?」
「え?」
「ああ、でも性的な目で見てるなら親子とは違うか。でも君とノエルとでは彼が向けている好意は別物だよ」
「そ、そうなの?」
「だって君は守られるほど弱くないじゃないか」
女の子として扱われなかったような気がしてレインは一瞬だけ殺意を持ってしまったが、すぐに思い当たる節があったのか気持ちを落ち着かせていた。
"仕方ないじゃない! 子犬ちゃんがいつの間にか男の体になってたら気になる決まってるじゃない!"
"レインのおかげだよ。ありがとな"
少し前に彼と二人きりで話したことを思い出す。
あの時、自分は恥ずかしくて好意をほのめかすだけに留まって思い切った行動には出られなかった。
ガルムは違う。
これでもかと好意を伝えていた。
言葉で、体で、必死に伝えていた。
獣人は嘘を吐けない。言葉では誤魔化していても彼らは態度や行動に気持ちが現れてしまうから。
あれがそのまま本心だとすれば彼の好意は本物だったと言える。
ガルムはあの日守るとは言わなかった。
「ばか…………鈍感なの、あたしの方じゃない」
「それで? 君はどうするんだい。泣き寝入りするような性格じゃないだろう?」
スティグは分かっているはずのことをレインに聞いた。
涙を拭ったレインは頷く。
彼の質問は後の行動を確認するためのものではない。レイン自身が自分でどうしたいのかを口にさせるためのもの。
それを理解しているレインは自分の気持ちに応える。
「ガルムに、会いに行く。それで全部はっきり言う。考えなくても分かるように誤魔化さないで、真っ直ぐに気持ちを伝えてくる」
今までと違ってもいい。
記憶がないなら、もう一度だけ好きになってもらえればいい。
レインはそう考え、スティグの家を後にした。
再び一人となったスティグは家を飛び出していったレインではなく、彼女が気持ちを伝えたい相手のことを思い浮かべながら溜め息を吐く。
「ガルム、君は本当に罪深い男だ。同族の高位な者でもなければ求愛することさえ死罪になるような相手に手を出すどころか、好意を抱かせるなんて……」




