第31話「たまには素直に」
――ガルムの家。
「昨日の今日で何の冗談だ……?」
自分は扉を開けてしまったことを後悔した。
あまり来客のない家の扉を叩く相手はテイムか、それ以外で可能性があるとすれば自分にプロトタイプ関連で仕事のある役人くらい。
そう、思っていた。
同時に、それにしてはやけに扉を叩く音が軽いとも思っていた。
開けた先にいたのは記憶から消えるはずもない昨日の犬獣人。名前はグラグラと呼ばれていたやつだ。
たしかに敵対もしないし手伝ってほしいことがあれば言えとも伝えた。
まさか次の日に来るほど図々しいなんて誰が考えるだろう。
それに内容が内容だ。
「親交を深めに来たぜ〜」
「帰ってくれ」
声を聞いても嫌な予感しかしない。
敵対しないと言ったから親交を深めるという言葉に嘘はないとして、手伝ってほしいことがあると考えるのが筋だ。
それこそニムルを貸してほしい、とか。
内容も確認せずに友達感覚で家に招いていい相手ではない。
自分が警戒心剥き出しにして扉を閉めようとしたらグラグラは扉の縁に指を掛けて閉められないように抵抗し始める。
何気に力が強い。こっちはあと少し引くだけでいいのに最後の数センチがまったくピクリともしない。
いや、むしろ少しでも力が抜けると勢いよく開け放たれる。
この状況はまずい。
何より奥で本を読んでいたノエルが興味本位で近くに来てしまった。
必死に扉を閉めようとしている自分を不思議なものでも見るような目で見てくる。
「何してるの?」
「お、俺の平穏を乱そうとする奴が侵入しようとしてるんだ」
「釣れないこと言うなよ〜。せっかく会いに来たんだから邪険にするなよ〜」
「ものすごく嫌な予感がする。あいつを入れたら平穏が崩れる」
扉を開けられないように必死に抗いながらノエルにグラグラを中に入れるべきではないと伝える。
ノエルは隙間から外にいるグラグラの様子を確認した。
どうやら向こうはそこまで本気を出していないらしくノエルが覗いているのに気がついたグラグラは顔を見て話をするために力を強めて隙間を広くする。
同じ獣人相手でここまで力の差が出るものだろうか。
むしろ自分は筋力やらの基礎能力に影響するタイプの権能を有しているのだから余裕で勝てると考えていたのに逆にグラグラの方が明らかに強い。
重力系の能力ではないのか?
まだグラグラの能力に関して情報は多くない。
とりあえず上から下に向けての重さを操作されたから重力系だと判断しただけで実際は軽くして浮かせることもできる可能性もあるし、他にも物体を現在地から一定の方向へ引っ張るように力を発生させる引力にも似た効果があるのかもしれない。
とにかく分が悪い。
こっちはグラグラを中に入れない方法を必死に考えているというのに呑気なノエルは外のグラグラと話し始めている。
「入りたいの?」
「ん、そうだぜ? せっかくできた縁は大切にしたいんだ。だから今日中に別れ際のハグができるくらい親密になるんだ。そんでお互いに遠慮なく裸を晒せる関係になってさり気なく『良い筋肉してるな』って胸とか腹とか触りながら『こっちも固いけど鍛えてるのか?』って股間を触って『いつでも使えるように鍛えてるんだ。試してみるか?』って言わせて交尾までするんだ!」
「絶対に俺が言わなそうなことを捏造するんじゃねぇ! てか急に股間に手を伸ばしてくるような男と交尾なんかできるか!」
「そんなこと言って『実は大きすぎて女の子が怖がるから男としかデキないから楽しんでるんだ』とか言うんだぜ! 絶対にそういうキャラだよ!」
「こじらせ過ぎだろ……!」
「グラグラ面白い人だね」
まったく面白くありませんが?
昨日から「実は男色」とか恐ろしいことを口にしていたからおかしいとは思っていたがテイムから理性を取っ払ったような危険な男がグラグラだ。
こいつを入れたら平穏が崩れるのではなく自分の貞操が危ない。
どうするべきだろうか。
無駄に特殊なキャラだからノエルが面白半分に興味を持ってしまった。
このままだと入室許可を出しかねない。
「僕だってガチムチな雄獣人とイチャイチャしたいんだ! 可愛くて小さい女の子ばっかり仲良ししてるなんてずるいって!」
「と、とりあえず一旦お前は冷静になれ」
「冷静だっつの! なんで可愛い女の子に裸を見られると嬉しそうにするのに僕が見たいって言うと変な顔するんだ!」
「んー……お前の勢い、かな〜」
「必死で何が悪いんだ! だってカッコいい雄獣人なんだから色んな女の子が寄ってくるし盗られちゃうじゃないか!」
まあ、大体の女の子はまさか競争相手に男がいるなんて考えないと思う。
変質者であることに変わりはないが可哀想になってきたな。
グラグラの場合、テイムと違って本気で男が好きなのかもしれない。
テイムは自分が女の子でも好きになっただろうけどグラグラの場合は本当に性格とか見た目とか全体的に満点でも無ければ他の男を推してそうだ。
それより冷静に考えてみると家の前で騒がれる方が迷惑な気がする。
このままだと近くを通りかかった人間にあらぬ噂が流れる可能性もあるし家に入れて黙らせた方が良いのだろうか。
自分が悩んでいるとノエルが最終審査を始めた。
グラグラが面白いことは分かったが家に入れるための条件としては譲れないものがあるらしい。
「犬とイチャイチャするのはノエルの特権。妥協できるなら入れる」
「僕がひたすらもふもふするだけなら?」
「ん……!」
「いや『ん』じゃねえから」
ノエルが親指を立ててゴーサインを出したせいでグラグラが
本気を出してしまい、自分の努力など虚しく簡単に扉が開かれてしまった。
それとほぼ同時に家の中に飛び込んできたグラグラは期待の目でこちらを見ている。
ノエルが許可を出してしまったなら自分は今さらつまみ出すなんてことはできない。自分とノエルの間にある事情を知っている訳ではないのだろうが自分が許容することを確信している目だ。
仕方がないので自室のベッドに腰掛けて隣をぽんぽんと叩いて座るように伝える。
居間の方はニムルが掃除している最中だから騒がしいやつを入れたら迷惑になってしまう。
グラグラは尻尾をパタパタさせながら隣に座ると無遠慮に抱きついてきて自分のお腹の辺りに頭を埋めた。
寒気を感じたが無理やり何かされるわけでないのなら大人しくしておく方が身のためだろう。
本当は嫌だが。
どちらかといえば自分がノエルに膝枕してほしいくらいだ。
「バッキバキに割れた腹筋に対して温かくて柔らかいふわふわの体毛が最高すぎる」
「そ、そんなことないと思うが」
「僕なんてヒョロいし体毛だってそんなに柔らかくないんだぜ?」
「犬、グラグラをブラッシングしていい?」
わざわざ確認しなくても好きなようにすればいいだろ、と思ったが自分は思ってるよりも嫉妬しやすいタイプだから気にしてくれたのだろう。
ノエルがいつも自分をブラッシングするために使っているブラシを取り出してグラグラの毛並みを整え始めたのを見てソワソワしている自分が少し恥ずかしく思えてきた。
意外だったのはグラグラが大人しくブラッシングされていることだ。
毛を梳かすには必然的に自分から離れる必要がある。
そこで無駄に抵抗するかと思ったが……。
今さら気がついたがグラグラはいつの間にか自分の股間の辺りに手を触れている。大人しくしていたのは腹筋や体毛を楽しめない代わりにもっと欲求を満たすような行いをしていたからだったようだ。
さすがにこればかりは許容してはならない。
ゴンッ、と頭を一発軽めに殴る。
それから邪魔な手を除けようとしたがあることに気がつく。
重すぎてまったく動かせない。
「ちっ。少しくらい遠慮しろよ」
「遠慮してたら手に入らないのが僕の生きてきた世界なんだぜ?」
「別に逃げないから遠慮しろ! 近くに俺のパートナーがいるのに変なことするんじゃねえよ!」
「犬が興奮したら横取りするので問題なし」
「あ、お前も大概だったわ」
ノエルとしては願ってもないのだろうが自分が拒絶してることを無理やりして嫌われたくないのかグラグラは手を離した。
もしかしたら横取りされたくないだけなのかもしれない。
今のグラグラを見れば「遠慮してたら手に入らない」という言葉の意味が分かるような気がする。
ちゃんと食べているのか疑わしい痩せ気味の体型。
あまり整えられていない毛並み。
差し出されたものには飛びついてしまう性格。
きっと幼い頃から他人に優先的に食料を分け与えたり、甘える時間さえも賭して働いてきたのだ。
プロトタイプにするには都合がいいとも言える。
いつでも誰かに自分の時間を割いてきたグラグラにとって一度、実験材料となるだけで家族の生活を補償するなんて言葉を出されれば断る理由がない。
過去の詮索をするつもりがないから予想止まりだがグラグラはそういう意味でも可哀想な男。
ならば今の彼は無遠慮に見えるが甘えたいだけなのか?
ノエルがブラッシングの途中で絡まって解けない体毛をブチブチ抜いているのに大人しくしているのもそういう理由?
あの抜き方はそれなりに痛いのによく平気な顔をできるな。
「さっきも言ったけど俺のことに関しては何も焦んなくていいからな。友達になりたいなら時間かけて何回も会いに来ればいい。そのうち一緒に飯行ったり水浴びしたりできるくらいには親密になるだろうし、お前の仲間が許すなら家に泊めるくらいはしてやってもいいとも思ってるし」
「じゃあ恋人志望で申請します! 今日から泊まろうかな〜」
「パートナーいるって言ってんだろ! てか早えよ! 親密どころか俺の中でお前は今の所やばい変質者止まりだよ」
「じゃあ普通に友達からか〜」
妥協したような言い方をしているものの嬉しそうだ。
バカと変質者は甘やかしてもロクなことにならないと言われることが多いがグラグラは生粋の変質者ではない。
へんに芝居がかってると言えばいいのだろうか。
根がそういう質の生き物はこっちが本当にそう感じたから、と言葉にすると怒るのが自然だ。少なくとも「俺は変質者じゃねえよ」とキレる反応も無かったし、変質者の割に物分かりが良すぎるところがキャラクターを演じているだけのように見えてならない。
やっぱり一回くらいは命を狙われても許すくらいの懐の広さが無ければ駄目なのだろうか。
グラグラに視線を投げるとこっちの考えなんか知らない顔でニカッと白い歯を見せて笑っている。
なんか腹立たしい。
そういえば殺そうとしたことに対する謝罪をまだ聞いてないような気がする。
やはり反省してないなら許すのは違う。
ここは手痛い方の洗礼を…………既に受けてるな。
自分はグラグラの耳の辺りを見て思わず笑ってしまった。
「くくっ! グラグラ、似合ってるな」
「ん? ブラッシングしながらヘアスタイルまで変えてくれたのか?」
「可愛くなった。犬はすぐ気づくからつまらない」
そう、気づいてしまう。
ノエルがイタズラをしようとすると楽しそうにしているのが自分に伝わってしまうので回避してしまうのだ。
故にグラグラのように繋がりのない鈍感な奴は最高の獲物。
自分と同じように上にピンと立つ大きな耳の横にリボンを付けられても気が付かない純粋な男は、な。
「可愛いい……? え? おい、いつの間に付けたんだよ!」
「外しちゃうの?」
「くっ……!」
「意外だな。可愛いって言われて嬉しいんだな」
「そ、そりゃ……ちゃんと関心あるってことだし……」
「なんて?」
「帰るって言った!」
グラグラはそっぽ向いて叫ぶと出てってしまう。
慌てて家を出ていったものだから横にいたノエルは呆然としている。怒らせたと思っているらしい。
犬獣人の気持ちは本人に聞くより尻尾を見た方が早い。
あんな風に尻尾を振っていて怒ってるということはなさそうだ。
「喜んでたし気にしなくていいぞ」
「なら、いいかな」
「それより、ノエル……」
「ん」
ノエルは自分が緊張していることに気づいたらしく、あえて目を合わせずに軽い返事だけで返してくる。
たぶん目を見て言う方がいいと分かっていても口に出せなきゃ意味がないし、その方が助かる。
自分の尻尾がノエルの背中を優しく撫でる。
普段から大体の感情が伝わっているのにわざわざ口で伝えようとすると難しいと感じてしまうのは何故だ。
心を読ませるのではダメだ。
尻尾で伝えても意味がない。
ようやく口から声を出せたがいつものような声ではなくとてもか細くて自分のものか疑うほどだった。
「ノエルと、水浴び……したいな…………って」
「寒いし風邪引くからムリ」
「そ、そうか……うん、寒いよな」
意外とあっさり断られてあからさまに自分の耳と尻尾は垂れ下がる。
とはいえパートナーは人間と同じ体なのだから気遣うのが普通だ。寒いと言っているのに無理して水浴びに付き合わせて風邪でも引いたら目も当てられない。
残念だけど諦めるか、と立ち上がろうとする。
「い゛っ!?」
急に尻尾を掴まれた。
なんか怒らせるようなことをしたかと振り向くと怒っている訳では無さそうだが顔を真っ赤にしたノエルがこちらを見上げている。
下心全開なのがばれたのだろうか。
ノエルが首を左右に全力で振って否定する。
つまり自白させられたような形で自分の下心がノエルに伝わってしまったことになる。
しかし、それだとノエルが顔を赤くしていた理由が思い当たらない。
「街に浴場あるの。この前調べ物してる時に見つけた」
「あるな。滅多に使うことないから忘れてたけど。それがどうかしたか?」
「そっちなら、いいよ?」
急に心拍数が跳ね上がる。
あっさり断られて諦めかけていたことが叶いそうな予感がしてどこかへ旅立っていた緊張が息を切らしながら帰ってきたようだ。
いやいや、まさかだよなと思いつつノエルの瞳を見つめると頷くまでもなく本気だと伝わってくる。
ただ忘れてはならないのは街にあるのは公衆浴場だ。
自分達だけではない。一般の客や旅人などが出入りする場所なのだから好き勝手していい場所でもない。混浴は禁止こそされてないが好き好んで男のいる方に入ってくる女の子がいる訳もない。
そこで少しだけノエルの考えを読み取って納得した。
「ああ、まだ明るい時間だから旅人くらいしか入ってこないのか」
「ガルムは忙しいから、長い休みは無理でも羽伸ばすくらい許されるよ。いや、許すから休も?」
結局のところ休みという休みがなかったのも事実だ。
あっちが解決すればこっちでトラブルと活動続きで休めていない。自分の周囲でばかりプロトタイプが問題を起こしている気さえする。
ただ、幸いにも今は問題も発生してないし自分が休んでも代わりがいる。
グラグラはたまたま近くを通りかかったというよりも潜伏していたが隠れる理由が無くなったと考えるのが自然。組織的に連携も取れているなら危険なプロトタイプが出現しても対処できるだろう。
そもそもが目的が自分と同じなのだから。
あとは気掛かりになることといえばニムルのことくらいだが先日の件はルイーズから謝罪を伝える旨の手紙が来ていたしニムル自身も今日は家の中で片付けを中心にやりたいことがあると言っていたから留守番を頼んでも問題はないだろう。
つまり頷くだけで予定が決まる。
「ノエルの時間、使ってもいいのか?」
「生きてきた時間のほんの一部。むしろ良い思い出」
――一時間後。
「まだ不貞腐れてるのか?」
頬を膨らませてはいないがむすっとしていることから納得できてない様子が伺える状態でノエルは更衣室に立ち尽くしていた。
理由は知っているが自分は気にするようなことでもないと思う。
受付に子供扱いされた。
それだけの理由で不貞腐れているのだ。
「小さいとか言われるのは慣れた。子供に見られることも仕方ない。でも、さすがに『足元が滑りやすいからお父さんと手を繋いでおいてね』は傷つく」
「心配しただけだと思うけどな」
「いや、悪意を感じる。ノエルは間抜けじゃない」
端的に子供扱いされるのには慣れたが小馬鹿にしたような言い方が許せないと、そういうことらしい。
気持ちは分からないでもないが怒っていても仕方がない。
自分はいつでも湯船のある方に行ける状態だと言うのに未だに上着の一枚も脱いでいないのは遅すぎる。
あとで文句はいくらでも聞くからとノエルの身につけていた上着のボタンを外して脱がす。
さすがにシャツを脱がそうとしたら止められた。
「自分でできる」
「根に持ちすぎだろ。別に俺は子供扱いなんて……」
「……! ガルムの言いたいこと分かった。黙って」
「お、おう……」
自分も迂闊だったと思う。
お互いに半身なら自分の体同様に扱うものだと考え、パートナーであるならなおさら気にすることでもないと軽い気持ちでノエルを脱がしていた。
しかし、シャツを脱いで下着姿になったノエルを目の前にすると途端に体温が高くなったような気がして身体が硬直してしまう。
そして自分の緊張はノエルにも伝わる。
曖昧な感情ではなく自分がノエルの体を見て感じたものがダイレクトに伝わっているからノエルは恥ずかしくなって言葉を止めたのだろう。
さすがに今の状態で前にずっと立ってられるはずもない。
ノエルが脱衣を終えるまで入口付近で待った。
少しして大きな布を前に抱えた状態のノエルが隣に来て、何か言葉を上手く紡げる気がしなかったので無言で手を繋いで入っていく。
でも沈黙は苦手だ。それはノエルも同じ。
「思ってたより広い」
「仕事終わりの連中が一気になだれ込むことを想定したら当然の広さだよな」
「湯煙が濃いから奥の方はほとんど見えない」
「そ、そうだな」
無意識に自分はノエルを連れて奥の方へと進む。
ノエルと一緒にいるところを見られることが恥ずかしいのではなく、女の子を相手にたじたじしてるところを見られるのが恥ずかしかった。
元はと言えば臆病者なのだから通常の自分を見せることを恥じることはないのかもしれない。普段から周囲の視線にビクビクして生きてるならそれで良かったのに無駄に強く見せてきたせいでこういう時に苦労する。
他人の目は今のところないから無視するとしてこの先を何も考えていなかった。
どうするべきか考えて立ち尽くしているといつの間にか繋いでいた手を離して後ろに立っていたノエルが自分の背中をぐいぐいと押してくる。
「先に洗う。座ってくれないと届かない」
「いや、俺よりノエルが先に温まるの優先しないとだろ。さすがに近くにお湯があると言っても裸でいるのは寒いし毛皮だって無いから風邪引くだろ」
「洗いながら犬の体で暖を取るからいい。それにノエルは自分の体を綺麗にしたら先に入っててもいいの?」
「…………ず、ずるいぞ。俺が言えないの分かってて」
今日はノエルとのスキンシップがメインだ。いつも通り自分の体を自分で洗って温まるのでは何の意味も情緒もない。
多少は恥ずかしくてもここまで来たのだから半端にしない。
自分は大人しくノエルに背中を向けて「お願い、します」と言う。
とはいえ先に体を濡らしておく必要があるが自分の体全体に浴びせるには大きな桶で頭より高い位置からお湯をかける必要があるため、そこはさすがに自分でやる。
ノエルにこの重さは持ち上がらない。
背中を洗い始めたらしく細い指が直に触れるのを感じる。
ブラッシングされている時とちがって道具が背中を撫でている訳ではないため違和感を感じるが、心地良い方の違和感だ。
「またガルム大きくなった?」
「そういえばカダレア行くときに獣形態だったから『飽食還現』を教会に置いていったんだよな。怪我を伴う戦いをしてるし、その影響かもな」
「無理してない?」
心配されているのが、逆に辛いと感じてしまう。
それだけ自分がノエルの側を離れている時に心の負担を掛けてしまっているという事になるのだ。本当は癒やしてほしいのはノエルの方かもしれないのに自分は平然と甘えてしまったような気分になる。
いや、事実として自分は甘えている。
隠し事をしない方がノエルの負担が減るなら自分はそうする。
どうにかしてノエルの負担を減らせないか、話しながら考えよう。
「自分はエゴで助ける相手を選んでるのか、って悩んだ」
「今回のアステルって子も助けてあげたかったの?」
「…………いつも比較されてたんだ。だから疎む気持ちも分かるし、どうにかして力を手に入れたいと思う気持ちも分かる。ただ、その手段を見つけるのが自分達が考えることなのに『ヒント』と称して悪い道を教えた奴等がいる。人から奪えばいいんだ、と」
おそらくアステル自身は努力することを嫌うような性格ではなかった。
努力して、必死に勉強して、追いつけないとしても追いかけ続けることに意味を見出だせるような性格だ。
揺らぎやすいのは弱いからではない。
それだけ成就させたい願いが強かったから。
アステルがそれだけレインを超えたいと思っていたから。
もしかしたら、二人はただの好敵手として称え合えたかもしれない。そういう世界線もあったのかもしれないのだ。
故に助けてあげられないところまで堕ちてしまったことが悲しい。
そこへ到達する前に出会えなかったことが悔しい。
と、自分の気持ちを読み取ったのかいつの間にかノエルは前側に来ていて自分の手を両手で包む。
「ガルムと同じ想いの人、たくさん居るよ」
「そうだといいな」
「ううん、絶対だから」
神様が絶対とまで言ったなら信じる。
同じ道を歩む者がいることを信じて、自分は今やっていることを続けていくだけ。
ただ、ノエルの言葉に頷くなら負の事柄に関しても認めなければならない。
救えたかもしれない。別の道があったかもしれない。そういう前向きな考え方と同じように、誰かのことを悲しむ経験のある者。何かを後悔したことのある者が確実にいるのだ。
自分はそういう者達も含め救済したい。
今の自分は肯定できる。
出来るか出来ないかより自分がやりたいと思ったことを自分だけの方法で。
ノエルは伝えたかったことが伝わって良かったと安堵の微笑みを浮かべる。
自分はそれを見て冷静さを欠いた。
とても今更な話だがノエルが正面側に来ているということはお互いに見えるということで、彼女は自分の手を両手で掴んでいるのだから体を隠すように持っていたタオルは別の場所に置いてあるということだ。
本当に、何度見ても慣れるものではない。
逆を言えば数えるほどしか見られたことがないから自分は自分で見られることに慣れていない。
「今すぐ手を離せ!」
「んー? 片手じゃ隠せてないよ? 大きいんだから」
「だから離してほしいんだよ! というかノエルは平気なのかよ!」
「平気というより、むしろ見ないの? ガルムが誘ったのに」
「うぐ……!」
「まあまあ、とりあえず前も洗うから諦めて」
「お、おい待て! まじで言ってるのか!?」
「もち。何で隠したり拒絶するのか分からない。むしろ喜んで。見せつけて触れって言うくらいでいい」
「さすがに無理だって……」
――十数分後。
長かったような短かったようなノエルとの戦いを終えて温度高めの湯に浸かりながら自分は深い溜め息を吐いた。
理由はといえばもちろん自分の足の間でにこにこしてるノエルだ。
結局あの後、自分が断固としてノエルに前面を洗われることを拒否していると急に顔へ向けてお湯が掛けられ、反応が遅れて目を押さえながら苦しんでいると当たり前のようにノエルが洗い始めていた。
洗われている間の自分は死んだ目をしていたという。
嬉しいはずなのに素直に喜べず、ただノエルの手の感触だけは全身が記憶している。
その後、逆に自分もノエルを洗うことになった。
どうせノエルも洗われる側になれば恥ずかしいと思うだろうと考えていたら思っていたよりも平然と洗われていて、たまにへんな声は出してたが逆にこちらがドキドキしただけで最後までノエルに負けたような感覚だった。
今とて自分は周囲が気になって気が気でない。
自分はノエルと触れ合えること自体は嬉しいが他人にノエルの裸を見せたくないし今の状況を見せたくないという二重苦がある。
故にうろうろされても困るから足の間に挟んで大人しくさせているのだ。
「頼むから振り向くなよ。お前なら俺の気持ち分かってるだろ?」
「ノエルにすごく興奮を覚えて見られたくない状況なの?」
「わざわざ読み上げるな!」
「ノエルは正妻。たまにはガルムもノエルに欲情してもらわないと困る」
そう言ってノエルは後ろに寄りかかろうとした。
自分は断固として人の目がある場所での事故は防がなければならないので即座にノエルの背中を手で支えて倒れてくることを阻止する。
このままだとノエルより先にこちらが逆上せてしまいそうだ。
とはいえ、たしかにノエルのことをここまで意識させられたのは悪い気分でないとも言える。
改めて自分とノエルは主従なんて関係ではなく、パートナーなのだと思い出せたような気がして……。
パートナーなら裸を見たくらいで騒いだら駄目なのだろう。
もはやノエルを洗っている最中は何を考えていたのか覚えていないくらいだ。
「普通にお前の体に触れられるくらいには冷静になりたいんだけどな」
「その必要ない。冷静じゃなくていい」
「何でだよ」
「ガルムがノエルに触ろうとしてあたふたしてるの見ると女の子として見られてるように感じられるから。何だかんだ今日も恥ずかしがりながらもちゃんと最後までノエルの体を洗ってくれてるから犬も男の子だな、って」
「…………やめろ。恥ずかしくなってきたから思い出させるな」
「まだ最後に着替えもあるから頑張れ」
さすがに限界だった。
自分は完全に逆上せてしまい後ろに倒れてブクブクと湯船に沈みそうになり、心優しい他の客達の手で更衣室まで運び出されることになる。
目が覚めた時、色々な意味で恥ずかしくてノエルの顔を見れなかったのは言うまでもない。




