第30話「大切な家族」
自分は我儘だ。
あれもこれもと拾い集め、あの人もこの人もと救いの手を差し伸べようとし、終いには自分には荷が重すぎて拾いきれずに取りこぼしていく。
その落としてしまったものさえ無視できず立ち止まる。
誰かに馬鹿野郎だと罵られても諦められないのだ。
きっと自分の無力さを自覚する前に誰かに止めてもらった方がいい。
一時期はそう考えていた。
自分は力を与えられてからは諦めるという選択肢を捨て、我儘に、貪欲に自分の中で最善と思われる選択肢を取り続けた。
この我儘は神様公認だから。
無力な自分を責める声に応えたノエルが与えてくれたものだから。
他を否定する者には嫌われるとしても、どうでもいい、もしくは気にかけている者とは基本的に争う必要がない。
暴力的に見えて平和主義者…………だと思いたい。
ニムルが騎士に連れて行かれた時に取り返そうとしなかったのは、少なくとも自分か、騎士か。それとも見ていた人間。いずれにしても被害が出ると思ったから。
少数を犠牲にし多数を守る。そういう手法のつもりはない。
彼らはニムルに手を出さない。
ニムルもまた、彼らに抵抗しなかった。攻撃性がない。
当事者が一番落ち着いているのに自分が気を荒立てて状況を悪い方向へと運ぶのはどうにも大人気ないように感じていたのだ。
自分は冷静。少なくとも誰も傷つかない限りは。
「貴殿が暴れ出さなくて安心した。我々には獣を宥める術は無い」
「あの、ほんとの獣じゃないんですが」
「…………冗談だ。そういえば名乗っていなかったな。ルイーズという」
前を歩く銀髪の女騎士は低めの声で話す。
本気なのか冗談なのか分かりにくい声色だが騎士として相手に舐められない毅然とした態度を心掛けているのだろう。
彼女の言葉の真意は兎も角として油断はしていない。
常に自分へと向けられた鋭い気のようなものを感じる。
平たく言えば今は大人しくしているから野放しにしているが不穏な動きを見せれば迷わずに剣を抜くという意思表示だ。牽制しておけば強くない者はわざわざ警戒している相手に攻撃を仕掛けようなどとは思わない。
自分の場合は逆効果だ。
警戒されていると分かっているから落ち着かない。
向こうも気づいているとは思うが落ち着きなく周囲を見渡して逃走経路の確保に努めている。
しかし、努力も虚しくルイーズは逃げ場のない部屋の中へと進んでいった。
「警戒しなくても部屋を見て危険を感じた場合、貴殿の方が入口側に立っている。後ろからも退路を塞ぐような気配は感じていないはずだ」
「悪いけど特殊な力を持った連中と頻繁に戦ってるから常識とか信じられない」
「まあいい。貴殿がそこで構わないなら話を始めてしまうぞ」
さすがにビビりすぎたか、と身を縮めながら部屋に入る。
出入り口は自分の立っている一箇所のみ。正面の壁のみ硝子になっていて隣の部屋の中を確認できるようになっていた。
そして、そこにいる人物に気がついた自分は先程までの警戒心はどこへ行ったのかという勢いで部屋の奥まで行って硝子に拳をぶつける。
しかし揺れもしなければ音もしない。
そういう特殊な硝子らしい。
自分は硝子を叩いた姿勢のまま部屋の中にいる人物、ニムルに視線を向けた。
怪我はしてない。
こちら側と同じような形の部屋でニムルは閉ざされている扉を力なくカリカリと引っ掻いている。
「あれについて知っていることを話してもらう」
「ニムルは何も悪いことしてないだろ」
「善悪を問うてる訳では無い。あれについて貴殿が知っていることを話せ。今の我々にはあれが魔物であるということ以外に分からない。つまり処分する対象であることしか分からない」
魔物を生かしておく理由がない。
この世界において魔物は討伐すべき害獣であり、その上に立つ魔王という存在も実力が届かないから放置しているだけであって、敵という認識が常識。自分のように魔王と交流を持っている者の方が異常なのだ。
つまり見逃すのに十分と言える事情を提示しろ、と。
薄情なように見えるかもしれないが危険を排除して考えなければならない騎士としては当然の対応になる。
仮に認めてもらえなかったとしても自分はこの騎士を責められない。
「ニムルは獣型の魔物だ。雑食性でナワバリ意識が強く群れを大切にする。だけど見た目の通り純血じゃないと思う。性格は比較的温厚で好奇心は旺盛だが危険なことはしない」
「純血じゃないと言ったが、どういう意味だ」
「魔物としての血が薄い。魔物と人間の間に生まれたんだと思う」
「それは禁忌を犯した人間がいるという意味か?」
自分はニムルに視線を向けたまま騎士の言葉を否定した。
ニムルの素性に詳しい訳では無い。彼女が『傲慢』の所で拾われるより前のことは何も知らない。
その『傲慢』があえて語らなかったのでなければ『傲慢』はニムルから過去に繋がる何かを聞いてはないし、ニムル自身が自分の出自を知らないから話せないと考えるべきだ。
そして、ルイーズが言うように魔物と人間の間に子を成すことは禁忌。
心を通わせる事の叶わない存在と結ばれることを許されない。
自分の予想ではニムルの親はニムルを望んで無かったのだろう。
魔物に無理やり孕まされた子を産んでしまった。事実であっても周りには言える訳がない秘密を抱えてしまった母親はニムルを捨て、自分も罪の意識から命を絶った。
確定してないとはいえ可能性はある。
ルイーズは何となく同じ考えに至ったのか苦しそうに胸を押さえていた。
「私には分からない。彼女は魔物というだけで悪と呼ばれる。罪を犯してもいない者が、第一印象だけで悪と決めつけられてしまう。あれの親もそうだ。人間を犯し孕ませた魔物が悪いのか、誰にもそのことを伝えなかった人間が悪いのか。あまりに天秤に掛けるにはもやもやとしてはっきりとしない事象ばかりだ」
「本当に、な」
魔物は全て危険な存在だと言う世間一般的な意見。
もしかしたら友好的で無害な魔物がいるかもしれないという個人的主張。
人間を犯して孕ませた魔物という偏見。
本当はその人間のことを好きだったのかもしれないという可能性や、種の存続のために子孫を残すためだったという生物学的理由。
腹の子は魔物との間にできたものであっても自分の子だと考えた母親の気持ち。
もしかしたら相談したことで殺されてしまうかもしれないという不安。
当人にしか分からないものを天秤に乗せた所で釣り合うのか偏るのか分かる訳がない。
人間にはそれらの事象を全て数字で評価することができても、その数字は見る人や考える人によって変わってしまうものだ。
ルイーズのような騎士は厳しすぎれば横暴と言われ、緩すぎれば怠慢と罵られる。
自分から見ても難しい問題だ。
今までも相当に悩んでいたのかルイーズ表情の暗いまま俯いていた。
本当はニムルを解放してほしいから天秤を傾けてしまえばいいのだろうが……。
「とりあえず自分の目で見てみろ」
「お、おい……!」
ルイーズの手を引っ張って自分の隣でニムルを見させる。
何をどのように見ればいいのかわからずにルイーズはこちらに視線を向けてきたので評価する指標を与えた。
「何してるように見える?」
「脱走を企てているように見えるが……」
「じゃあ、それは何でだ?」
「狭い部屋に閉じ込められたから?」
「ああ。そりゃあ人間だって追いかけられたら逃げたくなるし捕まったら脱出したいと思うだろ?」
「何が言いたい」
「俺には扉を開けてほしいと主張しているように見える、と言ったら?」
ルイーズはもう一度ニムルに視線を向ける。
先程の自分で考えた脱走を考えているという条件を変えて考えるのだ。
脱走を企てているのは捕まったのが嫌だからと考えるように、あの部屋から扉を開けてほしいとニムルが考える理由を想像すればいい。
あくまで開けてほしいのだから外に出るのが第一の目的ではない。
本当に外に出たいのなら扉をカリカリと引っ掻くのではなく体当りしたりもっと強く引っ搔いて傷を付けたりする。そうしないのは無理やりにでも外に出たいというのがニムルの考えてはないからだ。
なら扉を開けてほしい理由は?
ニムルの部屋には何もない。誰もいない。
「寂しいから?」
「そうだな。扉を開けてほしいと主張するということは開けるにしても開けないにしても誰かしらが様子を見に来るってことだ。わざわざそんなことをするのは一人で寂しいからだろうな。それで、お前から見てニムルは悪か?」
「捕まったら逃げたいと思うのが当たり前。そう考えさせたのは我々だ。そして、扉を開けてほしいと主張すること自体は悪いことでもないし寂しいからだと言うなら、そんな思いをさせたのも我々だ」
ルイーズは納得できたのか少しだけ表情が緩む。
自分はニムルの状態を見て二つの見方で捉えさせ、そして両方に理由があることを考えさせた。
どちらか一方が人間を害する考え方だったならニムルを悪として考えることも間違いではないと言えて、どちらも何者かがそうさせてしまった。ニムルが主体でそう考えたのではないという考え方なら悪と考えるには根拠が弱い。
ちなみに攻撃的な考え方でニムルが騎士や人間に対して恨みを持っていたり反撃するために外へ出ようとしているという見方もあるが、それも結局のところニムルに恨まれるようなことをした騎士に問題があると言えるから今回に関してはどんな見方をしてもニムルが悪だと断定できるような要素はない。
そもそも扉を壊そうとしているわけではないから攻撃的な思考ではない。
これでニムルを解放してもらえると安心していたが、ルイーズは未だに向こう側の部屋を開けてはくれない。
理由は単純だった。
「我々はそれでいい。ただ、一般人にも納得できる理由を提示しろ」
「まあ、そうなるよな」
「あれを処分してはならない理由は?」
「……………………家族だ」
一瞬にして部屋の空気が凍りつく。
当然だ。少し前に共通認識として魔物と人間は結ばれてはならないと話をしていたのに繋がりを示唆する言葉が出たのだから。
「む? 聞き間違いか?」
「いや、たぶん聞き間違えてないと思うぞ」
「気でも触れたか?」
「ちゃんと理由があって――」
バタンッ!
背後で聞こえた騎士が集まる建物にはあるまじき乱暴に扉を開くような音。
自分とルイーズは二人そろって後ろを振り向く。
そこにいたのは教会に置いてきたはずのノエル。自分達のことを不愉快なものでも見るような目で睨むと静かに扉を閉じた。
随分とお怒りのようだ。
この場合だと自分に、ではなくルイーズに……。
「し、知り合いか?」
「知り合いというか、パートナー的な?」
「犬の言う通り。パートナー、一生を共にする伴侶。お互いのことで知らないことはほとんどない」
「パートナーと呼ぶには些か小さいような気がするのだが……」
ルイーズが言いたいことは分かる。
どう見ても子供にしか見えないノエルをパートナーと呼ぶのはだいぶ危険な発言だということくらい自分もしっかり分かっているつもりだ、
とはいえ、パートナーはパートナー。見た目は小さくても年齢的な話をしたら自分より遥かに年上。
仕方ないといえば仕方ないことだがルイーズの発言にノエルはさらに怒っているようだ。
ノエルはビシッ、と効果音でも聞こえそうな勢いでこちらを指差すととんでもないことを言い出した。
「本当にパートナーだから! 犬のフェチズムも知ってるし足の間に付いてるものの大きさも知ってるし」
「間接的に俺にダメージあるようなこと言うな!」
「犬だってノエルのスリーサイズ知ってる」
「そう、なのか?」
「えっと……知ってるけど言わない方がいいんじゃないのか?」
自分とノエルが分かるのは考えていることだけではない。
お互いの体のことも近くにいる時は常にスキャニングしているような状態で、怪我や命に関わるような傷病などの隠し事ができないようになっている。
当然ながら外傷に関してのスキャニングがされるということは身長やら体重やら、先程ノエルが言っていたスリーサイズとやらもミリ単位で知っていたりするし、逆に自分の方も知られている。
パートナーとして互いのことを知ってるのは当たり前といえば当たり前だがルイーズに対しても同じことは言えない。
騎士は純潔なもの。
ノエルの言い方だと「毎晩、激しめな交流があるから知らないことはない」的な意味合いに捉えられる可能性があるだろう。
案の定、ルイーズは穢れたものを見るような目を自分に向けていた。
「貴殿がそういった性癖の持ち主だったとは、な。幻滅した」
「全然違うからな?」
「とにかく、ノエルは怒ってる。ノエルの犬を無断で連れてくなんて、ダメ!」
「無理やりではない。本人にも確認は取っている」
「犬からストレス伝わってきてるけど」
ノエルの指摘にビクッと肩を跳ねさせた。
たしかにストレスを感じているが、色々と悩んだことよりもノエルが現れて一触即発みたいな空気を出されたことのほうが大きい。とは感じていても口にできるはずもない。
不穏な空気が流れ始めたタイミングだから助けられたといえば助けられている。
ただ、会話の内容が危険なだけで。
自分はとりあえず現状をノエルに説明した。
ニムルが街で人間に絡まれていて、自分が間に入り、その後で騎士が現れて場を収めるために自分とニムルを連行し今に至る、と。
さすがに怒りも落ち着いていないこともあってノエルは終始ルイーズのことを睨んだまま話を聞いていて、こちらも気が気ではなかった。
「そんなことで連行したの?」
「そんなこととは何だ! 民衆が混乱し怪我人が出るような騒ぎに発展していたら」
「怪我したの犬だけだよね。連行するべき相手を間違えてる」
ノエルは自分がニムルを庇った際に負った傷を確認した。
揉め事があった後でそのまま連行されたから刃物は刺さったままで応急処置さえないためにわずかだが少しずつ血が垂れている。
怪我をすることに慣れすぎていた自分が騒がなかったのも悪い。
しかし、騎士として罪を言及するよりも先にやることがあるのではないか、と。
ノエルは小声で「我慢してね」と呟くと腕に深々と刺さっていた刃物を抜き、飛び散った血で顔を汚しながらも手で傷口を押さえて止血する。
危うく刃物が刺さったまま半端に再生し抜けなくなるところだった。
「時に正義は人をも殺す凶器になる。街で正義を語ってナイフを振り下ろした人のせいで犬が怪我して、民衆を思って犬を連行したあなたの判断で犬が死ぬかもしれなかった」
「大袈裟に言わなくていいんだ。ルイーズだって分かってるはずだから」
「いや、ちゃんと教えるべき。犬は自分が犠牲になるだけなら、と考えるかもしれないけど今回はニムルが絡んでる」
自分はノエルの言葉を聞いて隣の部屋を確認する。
今も先ほどと同様に扉を引っ掻いているだけの無害な少女に見えるがルイーズが彼女を拘束したことで起こりうる悲劇の可能性……。
そういえば今のニムルが扱える力は何なのだろう。
強いからという理由で自分の唾液を回収した時に能力を複製できなかったのはノエルの加護によるものだと推定し、新たな能力を複製できなかったということは以前に複製された能力は交換されずに健在となっているはずだ。
それ以前に体液を回収した可能性のある人物……。
まず『傲慢』はないだろう。
簡単には竜の体に傷を付けることもできないから血を回収するのは不可能に近しく、その他の体液に関してはニムルが回収しようとは思わない。
ニムルにとって『傲慢』は強いというよりも怖い印象が大きいからだ。
つまり、誰の能力を持っているのか分からない。
もし危険な能力を保有しているなら早々に安全なものか使い方のはっきりしている能力に入れ替えた方が……。
――ドンッ!
こちら側から何かしても向こう側に音が聞こえていなかったはずなのに向こう側からはっきりと音が衝撃とともに聞こえてきた。
「な、なんだ!」
「爆発したみたい」
「呑気に言ってる場合か! ルイーズ、あっち側に合流する通路を教えろ!」
「………………っ!」
ルイーズが見ていた先はニムルの方だ。
自分もちらと視線を向けると爆ぜた扉から離れた位置に退いていたニムルはひどく怯えた様子で周囲をきょろきょろと見渡すと部屋を飛び出していった。
一人で部屋に閉じ込められたのだから攻撃だと考えても仕方がない状況。
その様子を呆然と見つめるルイーズの胸ぐらを掴んで意識を呼び戻す。
「呆けてる場合か!」
「や、やはり魔物は悪だ……。建物を爆破し逃走した」
「分からず屋が!」
少しだけ頭を後ろに引いて全力で頭突きをした。
まるで与えられた命令を復唱する傀儡のように騎士としての考え方を呟き続けているままで話を聞いてくれるなんて思えなかった。
さすがにルイーズが石頭だったらしく自分まで蹌踉めいてしまったが我慢だ。
今は説得を急がなければ。
「一人で狭い部屋に閉じ込められたら怖いし寂しいだろうが! 不安になってイライラしてたら自分の意志なんか関係なく力が発動しちまったんだよ!」
「だ、だとしても爆発させたのは意図的に……」
「ニムルは自分の能力なんか知らないんだ! 正確には覚えてない。だから無意識に発動させた爆発に驚いて逃げたんだよ!」
とにかく今はニムルを捕まえるべきだ。
爆発に驚いている今は先程のように無意識に能力を誘発する可能性が高い。このまま放置していたら不安になって神経質になっているニムルは普段よりも物音やら人影に怯えて反応してしまうし、人間と遭遇したら捕まったり殺されるかもしれないと考えて爆発させるかもしれない。
と、言ってる側から建物の外から大きな音が聞こえてくる。
事態は急を要する。
自分は座り込んだままのルイーズを放置してノエルを担いで部屋を出た。
この建物から出るルートは覚えていたから先に外へ出て、そこからニムルの匂いを頼りに捜索しようと考えていたが、正解だったようだ。
「なんとか匂いで追えそうだ。不思議と火薬の匂いはしない」
「たぶん何もないところから爆発させてるのかも。ニムル自身は爆発の被害を受けてないみたい」
「怪我してないのは安心だが逆に状況的には悪いな。ニムルからすれば自分の周りで爆発が発生するから狙われてるように感じてるはずだ」
「ノエルは危機感知に集中する」
そう言ってノエルは目を閉じる。
あまり心配する必要は無いかもしれないがニムルが派手に爆破して回っていることを考えると一部のプロトタイプが行動を起こすかもしれないからな。
たとえば爆発に因んだプロトタイプの友人や、プロトタイプを探している者。
前者も後者も危険にかわりはない。
前者なら友人の力を奪ったと勘違いするかもしれないし、後者なら捕まえるつもりなのか殺すつもりなのか、いずれにしてもいい方向に事が運ぶとは思えない。
自分もプロトタイプだということを忘れてはならないのだ。
――少し離れた街道。
どうやらニムルは闇雲に逃げ回っているらしく街の中を広範囲で爆破していて、匂いを追いかけていくと一番濃いものは街の外へと続いていた。
ニムルは馬鹿ではないが子供なりの知恵しかない。
しっかり整備されている道の方が走りやすいと分かっていても周囲に物陰などもなく攻撃されているならば森の中へ逃げるべきという発想には至らなかったようだ。
今回の場合はそれに助けられたととも言う。
かなり追いかけ回すことになったが四足で走るニムルのお尻が見えるくらいの距離までは近づくことができた。
あとは方向を変えられる前にもっと距離を詰めて――。
「犬、回避!」
「うぉっ!」
突然危険を察知したノエルが叫んだので反射的に右前方へと跳んだ。
地面を蹴ったばかりの足先を何かが掠めたような気がして地面を転がりながら視線を向けると大きな金属の塊が振り下ろされている。その周囲がひび割れたように陥没しているから人間の体など簡単にミンチにできるくらいの重さはありそうだ。
と、感心してる場合ではない。
ニムルを見失ってしまうのもそうだが次の攻撃が…………来ることは無かった。
しかし、自分が体を起こして進行方向に再び足を運ぼうとするとまったくもって動かないことに気がつく。
ちがう。足が動かないのではなく起こしたばかりの体が重すぎる。
自分は体の自由が失われていっていることを察して咄嗟にノエルを自分の下側に抱きかかえて草むらで分かりにくい状態の小さな窪みの中へ隠した。
とはいえサイズが丁度いいわけではないから苦しいかもしれない。
そこは我慢してもらうしかない。外側に放置するよりはマシなのだ。
「まさか《強者狩り》の一撃を回避するなんてびっくりだぜ」
「本当にな。やはり獣は危険感知が優秀で困る」
会話の流れ的にノエルがその役割をしていたとは気づいていない。
自分が気にしていたのはノエルが神様であるとバレてしまうことだったが普通の女の子だと考えてもらえただろうか。
どちらにしろ窮地に変わりはない。
聞こえてくる声は二つ。
一つは自分に向けて振り下ろされた巨大な鎚の持ち主。
もう一つ細身の犬獣人の声はおそらく自分の体が重くなった原因だ。
少なくとも二人目はプロトタイプだと断言できる。鎚を軽々と振り回している男も口振りからして一般人ではない。
まさかニムルではなく自分達を狙っていた?
と、前方から何やら騒々しく声が聞こえてくる。
重い頭を軽く上げて確認すると走り去って行ったニムルが爆速で戻ってきている。
その後ろには有翼種の獣人がいて執拗にニムルを狙って小さなナイフを投げている。
よく見ると獣人は自分の大きな翼から散った無数の羽を掴み投げている。掴んで手を離れる瞬間にはナイフのように鋭利になって地面に突き刺さるほどの勢いで飛んでいく。
あっちもプロトタイプのようだ。
ニムルは自分達を視認して近くまで走ってきたが他に見慣れない男が二人もいることに気がついて一定の距離で止まる。
それと同時にナイフの雨も止まった。
「随分と簡単だったな」
「あなた達は楽だったでしょうね。こっちはこの子が逃げ回るから追い込むの大変だったのよ?」
「はいはい、エイルは後で慰めてあげるから機嫌直してくれよ〜」
「いらないわ、グラグラ。あなたみたいな男は願い下げよ」
他愛のない会話をしていた三人の視線がこちらへ集中する。
ニムルだけでも逃してやりたいところだが空から無限にナイフを投げてくる獣人がいるなら危険だ。自分のことを動けなくしているプロトタイプの能力が効果範囲も狭く一名限定とも考えられない。
ここは大人しくしておくべきか。
無理に逃がそうとしてニムルが怪我をするのは見たくない。
「お、お前ら、なんだ! ニムル、なんで追いかけ回す!」
「んー、魅力的だからかな〜」
「ヴゥゥゥッ!」
「あなたのことが嫌いみたいよ」
「やれやれ、釣れない女の子ばっかりだね」
「ふざけている場合か。早くしなければ騎士が来るかもしれん」
鎚の大男が言うと細身の犬獣人、グラグラは自分の顔の近くまで来ると屈んで目の前に二つの瓶を揺らす。
中身がそれなりにドロドロしていて赤黒いことから血であるとすぐに理解した。
自分にとってはそれだけの代物だが彼らにとっては重要なものらしい。
「君のような乱暴者に割られては困るから動きは制限させてもらってるぜ?」
「なん、だ……それは?」
「血だよ。ああ、君は嗅ぎ慣れているから知りたいのは別のことかな。今はもう残されてないプロトタイプの遺物だぜ」
どうやら彼らが用事のある相手はニムルの方らしい。
わざと含みのある言い方をしているが要するに小瓶の中身は自分以外の何者かに殺されたプロトタイプの血液だ。
自分にとってはそれだけの代物。
だが、ニムルにとっては一番遠ざけておくべき危険なもの。
あの小瓶の中身が一滴でもニムルの口の中に入ってしまったなら、今のニムルが持つ爆発させる能力は失われ小瓶の中にある能力が扱えるようになる。
今回の件でニムルがどんな能力を持っているか本人さえ知らないことが証明されていた。
もちろん発動条件も知らない。
あの小瓶の中が猛毒を撒き散らすような能力だったり、己の身を犠牲にして発動するような能力だったらニムルも自分達も無事では済まないだろう。
あれを飲ませては、ならない。
それだけが明確に理解できているのに自分は動けない。
この三人には勝てないと確証がある。
大柄の男が持つ鎚は一撃でももらえば命を落としかねないが、彼を撃退するには間違いなく近づく必要がある。
ただ、自分が彼に近づいたらグラグラがまた能力を発動して体の動きを制限してくる。確実に回避しなければならない状況で止められてしまえば確実に敗北してしまう。
それに空中から有翼獣人の女、エイルにナイフの雨を降らされたら進路が定められてしまう。
この三人組はお互いの利点をカバーし合えるチームだ。
連携を崩すためには最低でも自分とニムルが協力する必要がある。
でもニムルには連携を取れるような頭はない。
あと自分が動いてしまうとノエルのことに気が付かれてしまう。
万事休す、か。
「君がこの小瓶のどちらかを飲んでくれるなら彼らを見逃してあげてもいいよ」
「な、なんの力、入ってる?」
「片方は自分にとって無害だけど他の人には有害な毒を発生させる能力がある。もう片方は僕達を倒せちゃうくらいにつよ〜い力が入ってるよ〜?」
「っ!」
奴はニムルの願いを知っている?
強くなれると聞いたらニムルが飲んでしまうかもしれない。
それに自分が彼らに負けてしまっている現状を考えるなら「自分より強い者が負けた相手はもっと強い」とニムルは解釈する。それに勝てるような力なら喜んで使ってしまう。
どちらにその力が入っているのか分からない。
もしかしたら初めから強い力なんて入ってないのかもしれない。
「飲んじゃダメだ!」
「ガルム? けど……」
「いいのかな? 君が二分の一の確率に挑まないなら彼らは殺さなければならないんだぜ?」
「………………」
「残念だな〜。ギガス、やれ」
自分の体を中心として大きな影が出来上がる。
大柄の男、ギガスが再び鎚を振り下ろさんと腕を上げたらしい。
勢いよく振り下ろされる金属製の塊に今回ばかりは終わったと自分の下敷きになっているノエルだけでも助かってくれと祈っていると頭上で凄まじい衝撃と爆音、背中にはわずかに別の重みを感じた。
何事かと思い前方を見るとニムルの姿がない。
このわずかな重みがニムルらしい。
爆音と共にギガスの作っていた影が少しずつ逸れていった。
そして大きな鎚と共に倒れたのか地面が揺れて前にいた細身の男もふらふらと蹌踉めいて小瓶を落としそうになって抱えるようにしながら尻餅をついていた。
ふと自分の体が軽くなっていることに気がつく。
他に転機はありえない。
ノエルがしっかり自分の腕に掴まっているのを確認してからニムルには申し訳ないと思いつつ彼女を振り落とす勢いで起き上がってグラグラに向かって飛びかかる。
すぐにグラグラも俺に手をかざして能力を発動させた。
さすがに確実に気絶させられる位置に攻撃するほどと時間は無く、自分の体は重さに耐えられず再び倒れてしまった。
しかし、意味はあった。
グラグラの能力は瞬間的にではなく徐々に重くしていくものだから完全に重くなる前に速度がある状態で前のめりに飛び込めば距離は稼げる。手前に倒れさせるつもりだったのだろうが自分の体は半分ほどグラグラの上に乗っていた。
つまり移動はできないが腕くらいなら死ぬ気で持ち上げられるから足を掴む程度は容易にできる。むしろ頭を振り上げて自由落下させれば奴の急所に大ダメージを与えることができる。
「この距離なら俺に分があるぞ。このまま能力を解除しないならお前の股間を重量で潰すくらい簡単だし、さらに重くするならお前は両足を潰される覚悟をしなきゃならない」
「エ、エイル!」
「やめておけ!」
「くっ!」
体は動かないながら飛び上がったエイルを睨むとナイフの雨は降ってこなかった。
よっぽど自分の腕に自信が無ければ自分の制止を無視して攻撃できない。
ある程度はプロトタイプに詳しいつもりだ。能力の予測もできる。
「お前のナイフは翼から作られたものだから相当に軽い、はずだよな? お前はそんなナイフを狙った場所に投げる訓練を積んで今の状態になった。でも風の抵抗に追加してこいつの重力に干渉する系統の能力に影響されたナイフを俺だけに当てることなんてできるのか?」
「耳を貸さなくていい! 僕ごとやれ!」
「お前は良い根性してるよ。俺が転がって八割以上お前に刺さるようにしてもいいんだぞ。ここに治療のできるプロトタイプはいないのに蛮勇がすぎる」
「…………あ〜あ、あそこから形勢逆転とか、カッコ悪いじゃん」
グラグラは視線をギガスに向けて諦めたように両手を上げる。
自分が確認した限りではニムルの爆撃で跳ね返された鎚はそのまま慣性に従って彼の後ろに落下していた。
それに金属の塊はニムルの爆撃の衝撃をモロに伝導する。
しばらくは柄を掴むことすらできない。
グラグラが降参を宣言したからなのか自分に掛かる重力が元通りになり立ち上がることが可能になった。が、離れてしまうとせっかくの優位が崩れてしまうので彼の足からは手を離さない。
思い通りにならなかったことに困ったのかグラグラは舌舐めずりをして自分の方を見てくる。
とても嫌な予感がした。
「僕が実は男色って言ったらどうする?」
「………………噛み千切る」
「へ?」
「付いてなかったら女の子だろ。良かったな、お前の大好きな雄に襲ってもらえるぞ」
「ふふふっ! それはいいわね。グラグラ、去勢してもらえば?」
「お、おいエイルまで何を言い出すんだよ! ぼ、僕は食うのは好きだけど食われるのは……!」
冗談だ、と自分は開いていた口を閉じて頭を勢いよく振り下ろした。
調子に乗ってる奴にはいい薬だ。絡んでくることはあっても一定の線を超えることがないだけティムの方がマシだ。
それにエイルには冗談が通じた。話し合える可能性がある。
自分はグラグラの上からどけてニムルの方を確認するとギガスは後ろに跳ね返された鎚を掴んだまま倒れているし、地面にめり込んだ鎚の上にはニムルがいて彼が持ち上げようとする度に足元を爆破して鎚をさらに埋めている。
どうやら自分の意志で爆発を操れるようになったみたいだ。
「で? お前ら何者だ?」
「私達は『拡張を望む者達』の構成員よ」
「…………『拡張を望む者達』って?」
「僕達にこんな苦行を強いた連中を殺すために能力を強くしていこうって集団。僕はもう一周回って吹っ切れてるから恨んじゃいないけどエイルは羽がナイフに変わってしまう体質のせいで大好きな子供たちをその腕に抱くことができず、ギガスは幼いのにあの体だから気味悪がった両親に捨てられた。立派にプロトタイプ実験の被害者なんだぜ」
話を聞いた限りでは自分に近しいものがある。
プロトタイプとしての能力は初めから持っていた体質を強化し異常とするものもあれば後天的に与えられるものもあるが二人の場合は前者。元からあった体質に対して強化するために権能が与えられたタイプ。
経験則だとそういう連中は研究員に捕まってから後天的に力が与えられている。
特殊な体質を持つ者に目を付けた研究員が捕縛し実験しているうちに彼らは無自覚に願いを持つようになり、それに応えた神格を持つ者が力を与えることでプロトタイプとして目覚める。
自分と同じだ。
つまり研究員に恨みを持っていることが多い。
彼らもそれだ。
「あの子は『拡張を望む者達』の構成員になる要件をクリアしてる。強くなりたいという意志もあり、研究員に恨みがある」
「もう終わり? もっと遊ばないの?」
「あう……俺、もう持ち上げられない」
ニムルはどうやらギガスが遊んでくれていると勘違いしているらしい。
先程までは騎士に捕まったことによる恐怖やら追いかけ回されたことに対して混乱していたはずなのに今は楽しそうにギガスの鎚の上で飛び跳ねている。
その様子を見て自分はグラグラの言葉を否定する。
あの子は研究員を恨んではない、と。
グラグラは目を見開いてこちらの正気を疑っているようだった。
「獣にとって自分の家族と引き離されることほど悲しいことはないんだろ? それなのに恨んでないはずがない」
「そうだな。俺はもう覚えてすらないから分からないけど一人になるのは辛いってことくらい分かるよ」
「じゃあ恨むのが普通のはずだ!」
自分はグラグラの言葉を耳でしっかりと受け止めながら鎚の上で飛び跳ねていたニムルを捕まえると腕の中に抱いた。
捨てられるわけがない、と小声で呟く。
こんな小さな命を、無邪気なものを手放せるわけがない。
「俺の大切な家族だ。今はそれでいいんだよ」
「わふ?」
「お前らの気持ちも十分に伝わった。ニムルはお前らにあげられないけど、お前らと敵対する気もない。今度はこんなことしないで普通に会いに来い。相手もするし手伝ってほしいことがあるなら言え。ただ……」
ニムルとノエルを抱えて三人に背中を向けた自分は彼らに釘を刺す。
また同じようなことが起きないように。
彼らが友好的な仲間を得たと調子に乗ってしまうことがないように。
「俺は平和主義だ。危険な遊びには巻き込まないでくれ」
三人は何も言わない。
似た者同士でも手段まで同じものを取るか分からない。まったく逆の手段で解決しようと望むかもしれない。
だからこそ暗黙の了解。
無理に勧誘しない。
こちらも彼らの行動を邪魔しない。
「ニムル、その爆発は危ないから危険なとき以外に使うんじゃないぞ」
「ごめんなさい」
「あの騎士はどうするの?」
「…………すっかり忘れてた」
まあ、後のことは後で考えればいい。
今はニムルが無事に帰ってきたことを喜ぶべきだ。




