第19話「救われたいだけ」
――翌朝。
あまり良い宿とは言えないような場所だったはずなのに自分はぐっすり眠っていたらしい。
懐に包まって眠っていたはずのノエルが先に目を覚まして部屋を出ていても気が付かなかったのは今回が初めてのことだ。
「ん…………そんなに遠くには行ってないか」
すんすんと周囲の匂いからノエルのものを嗅ぎ分けるとまだ薄れていないことから部屋を出たのは少し前だと分かる。
静かに出たなら危険はないだろう。
いつもなら自分を連れ立っていくのに一人で出たのだから花を摘みに行ったのかもしれないし、そうでなくても自分が慌てて追いかけることでもないだろう。
正直まだ眠い。
自分の《成長する者》としての力を使う分には与えられた能力と素質の問題だから慣れてしまえば走ったり飛んだりする程度の運動と同じくらいには感じられる。
ただ、今回の『飽食還現』のように普段使わないような力を使うと身体的な負担に加えて疲労が大きい。
まず小さくなった体をどうにかしなければ。
「体を大きくして基礎能力を上げる『成長』に対して体を小さくして余った力を放出する『退化』か。あまり小さくなると不自由だし大きくなりすぎた時だけにしないとな」
「犬が学習してて安心した」
「ノエル……」
「おはよう、犬。起きないから焦った」
「心配かけたな」
ノエルの口振りから察するに体が小さくなっただけではなく、急に今までより小さくなったことで血の流れやらなんやらが不規則になって体が不調と判断して元通りになるのも時間がかかったらしいな。
だからノエルは俺に早く休むように言ってきたのか。
それはそうとノエルが手に持ってるのは何だろう。
視点がいつもより低く座っているからよく見えないが美味そうな匂いがしていることだけは確かだ。
「それは?」
「肉食魚のシチュー。犬が持ってた許可証を見せたら観光客じゃないの分かってもらえたみたいで宿の主人が作ってくれた」
「食べていいのか?」
「だめ」
「………………」
おいおい、それはさすがに残酷すぎるだろう。
目の前に美味そうな匂いのする料理を持ってきておいて食べたらだめなんて言われても、犬は犬でも待てのできない犬なんだぞ、俺は。
明らかに不満そうな顔をしてるのがバレたのかノエルは自分が寝ていたベッドの端に腰掛けるとシチューを匙に乗せて差し出してくる。
あれ?
食べちゃだめなんじゃなかったか?
「食べないの?」
「いや、食べちゃだめって言われたから」
「だめとは言ったけど食べることに対してというより犬が自分で食べようとしたことに対してノエルは怒った」
「どういう意味だ?」
「とりあえず、あーん」
疑問に対する答えより先にノエルが差し出していたものを口に含む。
この辺の海域に棲む魚は脂が少なく淡白な味らしい。一緒に煮込んだ山羊の乳の優しい味とよく合う。
と、俺がシチューを味わっているとノエルが匙から手を放す。
自分で食べてみろ、と言いたいのだろう。
柄の部分を掴んで口から抜こうと試すと普通にできた。
しかし、もう一度シチューを掬おうと匙を運んでいると途中で指先から力が抜けたみたいに匙が指の隙間から抜けて床に落としてしまう。
ノエルはそれを拾うときれいな布で拭いてから器の中に入れて自分の方を見る。
これで分かったか、と。
「さすがにこんな軽いものすら掴めないなんてこと……」
「ある」
「今までノエルを担いだりしてたんだぞ?」
「それは体が小さくなる前の話。それもノエルの力で小さくしたんじゃなくて犬の力で失ったという意味で」
たしかに自分もテイムも一度はノエルに小さくされたことがある。
その際の大きさはノエルが軽々と抱きかかえられる程で、レインが大切にしていた、俺にそっくりな人形くらいだ。
でも体に不自由な点など見つからなかった。
今回は自分の力で小さくしたために体力がほとんど無いというか、不自由な状態になっている。
違う事はなんだろう。
ノエルの力で小さくされた時は後に元通りに戻ることが可能だったことを考えると全体としての質量が失われたわけではなく、器を小さくしているようなイメージだろうか。
縮めて膨らませる風船のようなイメージ。
だとすると自分の力は縮めたのではなく削ったの方が正しいのか?
「だとしても、ここまで……」
「犬は小さかった頃のこと覚えてる?」
「いや? どちらかといえば忘れたい思い出しかないから余計に覚えてない」
「それが理由。初めて犬は小さい体を経験したように感じて驚いてる。初めてのことするとびっくりして、疲れて、いつも以上に体が弱くなる」
「それが今の俺か?」
「何回かやってるうちに慣れると思う。けど、今回は最初。だからノエル頼って、しっかり休む。体が元通りになるまで出歩くの禁止」
状態は自分が思っていたよりも深刻らしい。
いつもなら簡単にできていたことができなくなるくらいには後遺症が残っているので安静にしろというノエルの言葉もごもっともである。
状況を理解したことに安心したノエルは再び匙を持つと嬉しそうに自分に世話を焼く。
いっそ甲斐甲斐しいまである。
おそらくノエル的には自分のことを犬と呼んでいるからには子供のように甘やかしたいくらいなのに基本的に大抵のことはできてしまうから俺の知らないところで拗ねていたのかもしれない。
半身と言ってしまった手前で「甘えなさい」なんて強く言えない。
せめて俺が落ち込んだ時に励ましたり、こういう場合に世話を焼くことしかできないからこそノエルの甘やかしたいオーラが本気を出しているのかもしれない。
今更ながら恥ずかしいな。
正直いまの俺たちを見た場合みんなは逆だと言うはずだ。
ノエルが子供で俺が大人なのだから甘えるな、と。
「犬? 口開けるのも辛い?」
「あ、いや……」
考え事に集中してはいられない。
危うくノエルが勘違いして匙より口移しの方が、とか危険な提案をしてくるところだった。
今は大人しくしとくべきだろう。
恥ずかしいだの世間体がと言っても甘えておいた方がいいのは事実で、否定した方がまずいんだ。
例えば鎖で拘束されて動けなくされるとか、ノエルならやりかねない。
「犬が【完成品】じゃなくて良かった」
「なんでだ? もしアブソルートならノエルにここまで迷惑かけないと思うぞ?」
「その逆」
ノエルは俺の口に付いていたシチューを拭いながら否定する。
迷惑を掛けられるから良いのだと。
「アブソルートだったら犬が『退化』を使っても後遺症はない。でも完全な存在に近づけば近づくほど人は不完全なものを軽蔑し遠ざける。家族や友人さえ邪魔なものとして見下すようになる」
「たしかにイメージはあるな」
「だから犬は不完全でいい。みんなのこと大切にできる犬は自分が完璧じゃないって分かってるからみんなに優しくする。そして大切なみんな守るために精一杯背伸びして頑張ってる犬は可愛い。ノエルの好きな犬」
「神様には全部お見通し、ってか」
少しだけ訂正する。
大抵のことはできてしまうなんて言ったのは真っ赤なウソである。
本当は何もできない。不完全どころか不足だらけ。
そんな俺が研究者達に負けたくないって意地張って何度も何度も失敗を繰り返した上で掴んできた成功を、ノエルは結果しか見ていないはずなのに知っている。
自分のことをよく見てくれているどころの話ではない。
本当に自分自身なのではないかと疑うレベルで、自分の成功までの道程を言い当てた。
もはや口に運ばれたシチューを味わう余裕なんてない。
こんなにも、嬉しいものだろうか。
今まで誰も見向きしてこなかった過程を気にしてもらえたことが、そんなにも自分の心に響くなんて思わなかった。
「出会ったばかりの頃、ノエルは感情を知らないなんて言ってたな」
「…………」
「嘘吐きだ。何も分からない奴が落ち込んでるのを分かるはずがない。励ませるわけがない。こんな気持ち、伝えられるわけがない……っ!」
きっと情けない顔をしていたかもしれない。
それなりの顔を台無しにするくらい泣いていて、とても見れたものじゃないかもしれないが、それでも久々に感じた想いに止まれそうにもなかった。
「何回も言われて飽きたかもしれないけどお前みたいな神様が、どうしようもなく大好きだ! 何が心有る者には愛を、だ! お前のことじゃねえか!」
「犬は本当に不器用。嬉しいとか悔しいとか感情がぐちゃぐちゃ」
自分のことを知ったかのように語られるのは嫌い。
でも分かってくれるのは嬉しいもの。
こういう時にどんな気持ちでいればいいのか分からないから、ノエルにもそんな俺の気持ちを読み取られてしまう。
心有る者には愛を。
その言葉は自分に向けられたものでありながら「心有る者」の代名詞は自分であるとは限らない、か。
ノエルだって愛を受けるべき対象なんだ。
「俺は誰にも譲らない。ノエルの隣が俺の居場所だ。誰に否定されようとも曲げない」
「いい心掛けだと思う」
しばらく泣きじゃくって自分の気持ちを確かめたところでノエルに今後のことを相談した。
現状を整理するとタナトスとの間に不戦協定は結ばれたが代償として力の後遺症がある状態。ノエルが自分で活動することに許可をくれるとしても明日か明後日になるだろう。
急ぎで済ませる用事は特にない。
しかし、確認したいことはいくつかあり、そのうちニエブラ海岸で解決できそうなことは一つだけ。あとは教会へ戻るなり、カダレアに行くなり移動を伴う。
単純に考えれば二度手間にならないようニエブラ海岸の件を解決してしまいたいところだが……。
「情報を得られるわけがない」
「珍しく否定的だな」
「普通に考えて悪いことした人が自分で告白する方がありえない。それを望んで聞いて回るのは無謀。犬の身を危険に晒す行為」
悪人が罪悪感を持っているはずがない、か。
なにか堪え難い理由に迫られての行為なのかもしれないが、それなら何かしら助けを乞うような素振りや、それがなくとも気づいてほしいというサインがありそうなものだ。
俺が調べた限りでは一切そんなものはなかった。
これはノエルの言うとおり罪を告白してくれるような人間の犯行というより喜々として何かの目的を達成するためにやっているように見える。
それを探し回れば当然だが邪魔者と判断されるだろう。
深入りするのは危険が伴いそうだ。
「ガルム!」
「どわっ! な、なんだよ!」
何かがドアを蹴破る勢いで突っ込んできて俺を押し倒して上にダイブしてきたらしい。
視線を横に向けるとノエルはシチューと一緒にちゃっかり回避していた。
てか、この声って……。
「レイン?」
「全然会いに来ないから心配したじゃない!」
「…………とりあえず離れろ」
違和感を感じて突き飛ばすとレインは困惑していた。
いや、さすがに不自然な点が多すぎて安心できないというか信じてもらえると思った根拠を聞きたいくらいだ。
レインは海なんて日差しの強い場所に来ない。霧が濃くても同様。
全然会ってないと言えるほど日が経ってない。
むしろレインは長生きだからこそ一年のことを数日前のことのように感じるくらいには時間間隔が狂ってるから十年くらい会わなくてやっと寂しさを感じる。
それに『飽食還現』の件で連絡は取り合ってたから無理がある。
心配する時は基本的に俺のことをガルムと呼ばない。
二人きりの時と同じように「子犬ちゃん」と呼んでくる。
他にも違和感はある。
「レインは、走らないぞ」
「た、たまには走らないと運動不足に……」
「本当に心配してるなら『影渡り』で直に俺のいる場所に飛んでくる。自分より他人を優先するやつが運動不足を理由に時間のかかる方法で移動すると思うか?」
「あー、やっぱりダメ? 別の人にした方が良かったかな〜」
どちらにしろ自分の嗅覚は見知った人間の匂いと他人の匂いを区別できないことがないので無意味だが、あえて得体の知れない輩に教えてやる親切心は見せなくてもいいだろう。
丸っきり匂いが違うからレインの皮を被ってるわけではない。
レインが無事だというだけでも心に余裕はある。
自分の知り合いに化けてまで現れたということは何か騙さなければいけない理由があるということか。
正体を探るのが先か。
それとも、安全の確保か?
この状況では勝ち目がない。というかノエルが戦うことを許さないだろうから別の方法を考えなければいけない。
「先に言っておく。俺はある程度の感情は匂いで判別できる。変な気を起こさない方がいい」
「ほんと、相性サイアクだね。ま、気にしなくても礼を言いに来ただけで争う気はないよ」
「礼だと?」
「イルヴィナの件」
見知った名前だが余計に頭を混乱させたのは間違いない。
イルヴィナの件で関わった人間なら何人か覚えているが記憶している中に他人の真似事をするような奴はいなかった。
いや、関わっていないだけでいたかもしれないな。
レインやスティグに手紙を届けたという謎の兵士。
誰に聞いてもどこに所属している者か分からない鎧に身を包んでいて中身はおろか存在そのものが謎に近い人物。
ただし、俺達の予想ではイルヴィナを唆したのも奴だった。
イルヴィナを唆した奴が作戦を失敗に終わらせた上で礼を言いに来るのはおかしい。
たぶん俺はこいつを好きになれない。
イルヴィナの件に関して礼を言いたいという気持ちが本物だとしても大多数を巻き込んで解決したカダレアの一件を誰か一人だけを救うために引き起こした奴を好む訳がない。
「死体が友達っておかしくない?」
「だからって国を巻き込むな。俺やノエルが短気な奴だったら殺されてたかもしれないだろ」
「それはそれでイルヴィナの世界に行けるから答えのひとつ。むしろ巻き込んで小さく済ませたんだから感謝して欲しいくらい」
「どういうことだ?」
レインに化けていた奴は部屋に一緒に持ってきていた鞄の中から一枚の大きな布を取り出すと俺達の視界を遮るようにそれをたなびかせる。
逃げるつもりか、と考えたが別の意図があったらしい。
次に奴の姿が見えた時にはレインの面影など一切なく、ただ外套をまとった狐の面を被った女がいるだけ。
それこそ、本当に化かされているかのようだ。
種明かしに驚いた顔を見れたことで満足したのか狐面の女は面の下にわずかに見える口端を上げている。
「プロトタイプは力を暴走させる可能性がある。不安定なのは自覚ある?」
「…………」
自分が正に不安定な能力の典型だから否定などできない。
こいつが語るようにプロトタイプたる由縁は完全には能力を操りきれていないことにあると言われれば納得できる程度には今まで遭遇してきたプロトタイプ達は不安定で自分に与えられた力を使いこなせてなどいなかった。
イルヴィナも俺たちと同じだ。
全ての死体を操れるわけではなくて、一度は制御権を得たとしても彼女の指示を受け付けない場合もある。
力を暴走させていたらカダレア全域で被害が起きていたのだろうか。
でも手段を選ばなかったのは事実だ。
俺が納得できなくても綺麗事なのは分かってる。
守りたい、助けたい。そんな気持ちだけでこの世界を生きていけるのなら誰も困ってない。
ただ、出来ないことと思ってはいけないことは別だ。
狐面がいつまでも面の下でニタニタと気味悪く笑っているのは俺が綺麗事だけの甘ちゃんだと思ったからだろう。
「イルヴィナを救うために必要な犠牲は…………俺じゃダメだったのか?」
「犬ッ!」
こう度重なって自己犠牲を肯定するような発言をしているとノエルが怒るのもムリないよな。
バカな俺には方法が思い付かない。
皆を完全に救えるような手段が分からないから助けるのを諦めるなんて選択肢を選べない。
狐面は「本気?」と問いかけてくる。
「本気だ」
「そうだよね。当然だよね。あんなにたくさん殺したのに自分が可哀想なんて言えないよね」
「ちがう、犬は反省してる。自己犠牲の必要ない」
「神様が贔屓は良くないよね。人もプロトタイプもたくさん殺しておいて自分は助かりたいって、自分は可哀想な犬なんですって奴が反省してる? 笑わせないでよ」
何が争う気はない、だ。
初めから俺を追い詰めるのが目的だったような言葉選びをしてるじゃないか。
こいつは、俺を恨んでる。
過去に俺が関係した戦争のどれかで家族か、仲間か……それとも帰る家か、国か。とにかく俺に奪われた側の何か。
イルヴィナの件を信じるならあいつも?
俺に、奪われた側の何かなのか?
ちがう、あいつの策略にはまるな。
自らを追い詰めることに何の意味がある。
彼女達の幸せを奪ったかもしれないなら、謝るな。
俺が謝っても奪ったものは返ってこないのだから未来に得られるものを与えて守っていくのが俺ができる償いだろ。
なら、言わせておくだけじゃダメだ。
「お前も、救われたいだけだろ?」
「分かったように言うな!」
「分かるさ。お前からそういう匂いがするからな」
狐面は懐から取り出した短刀で斬りかかってくる。
本当はもっと早いのかもしれないが俺の言葉に動揺したせいで反応も遅いし狙いも単調。
胸に向けて突き立てるつもりなら掴んで止めるのがいい。
下手に避けると振り抜かれて切り裂かれるし、そもそも俺はベッドの上から動いていい状態ではない。
「プロトタイプは誰しも後悔と未練を抱える。俺は自分を犠牲にしてでもお前らを救いたい。それが殺すことでしか救えないと思い込んでいた俺ができるせめてもの償いだ」
「こっち睨んでる神様の言い分と矛盾するけど?」
「してない。犠牲は何も死ぬことではない。苦痛を受けたり身代わりとなったり己の尊厳を失うことだったり色々だ。俺はノエルとの約束があるから死ぬことで犠牲になる選択は絶対に選んじゃいけない」
「なに、を……」
掴んで止めていた短刀を引いて狐面の体をそれごと引き寄せる。
短刀自体は横に逸らされているから狐面と自分との間にはほとんど隙間などない。
イルヴィナの時と同じだ。
俺は匂いである程度のことが分かる。
でも完全ではないし、相手が奥底に抱えているトラウマや未練はこうして触れ合うことでしか伝えられない。
狐面は体が密着しているというのに冷静だ。鼓動が早くなるでもなく、ただ困惑している匂いを漂わせただけで気持ちは平坦だ。
ただ視線を顔に向けると急激に心拍数を上げた。
おそらく対面している俺が感じている気持ちと同じものを狐面は抱えている。
「怖いんだな。お前も」
「別に、男の人に急にこんな距離を詰められたこと無いだけだし」
「別に俺はお前の顔なんかに興味はねえよ。どんな顔してようが憎まれ口の似合う女はお前だけだ」
「…………!」
レインの姿をしていた時、狐面は間違いなくレインの顔をしていた。
彼女がそういうプロトタイプなら顔を隠しているのは理由がある。
自分でもどんな顔をしているのが自分なのか分からなくて、それを他人に見られることが恐ろしくて仕方がない。
醜い顔なのか美しい顔なのか、そのどちらでもないのか。何れにしても自分が知らない顔を他人に見られて評価されることが怖くて、覚えてほしくなくて、誰も自分の顔を知る人間など居なくなるようにお面をして忘れるまで隠し続ける。
誰も彼女の顔を知らないから、どんな顔でも彼女だと考える。
その思い込みに付け入って姿まで似せるのが彼女の権能。
俺が読み取れるのはこれが限界だ。
彼女のお面を掴み顔を確認することが容易な距離にあっても恐怖から手を動かせない。
そのお面の下が何もない暗闇のような気がして、できないのだ。
これ以上は知ろうとしてはいけないのだろう。
狐面は俺の胸に手を置いて体を離すとすぐに顔を逸らしてしまう。
「その気がないのに体を触らせるとか、正気じゃない」
「俺だって男なんだから誰彼構わず触らせたくねえよ。触った奴が口を揃えて落ち着くとか安心するとか言うから触らせてやったんだよ。飼い主でも、ツガイでも無い奴に撫でられたりするの、恥ずかしいんだからな」
「あっそ。じゃあもっと屈辱に歪む顔でも見てようかな」
「むぅ……! 犬から離れて! 犬はノエルの犬!」
再び俺にべったり抱きついてきた狐面にイライラが頂点に達したのかノエルが間に割って入る。
そして狐面を剥がすとあからさまに俺に抱きついて「シャーッ」と何か別の動物みたいに威嚇した。
申し訳ないがノエルに変わっても同じことだからな?
この状況は男として恥ずかしすぎる。
いや、女の子二人に取り合われてる状況は役得か?
「犬も少しは抵抗して」
「これは不可抗力というか……」
『ミツキ、何をしている』
突然聞こえてきた知らない声に犬並みの聴力が反応しビクッと身体が跳ねた。
声の主は部屋に入ってきたわけではない。
聞こえ方がはっきりしていなかったというか、少し雑音が混ざったように聞こえたし、狐面があからさまにやらかしたという顔をしていることから彼女の仲間のものだろう。
彼女の意思に関係なく名前という情報が明かされた。
おそらくミツキ側は明かすつもりも無くて俺と馴れ合うつもりも無かったから言わずにいた情報だったのだろう。
敵側が現状を知らないと思いたいけど「何をしている」という発言があったから現状を知ってると思うべきだ。
「あー、いま彼の喉元に短刀を突きつけてるところ」
『喉元に?』
「もうちょっと押せば掻っ切れるね」
『抱き合っていたように見えたが?』
「…………」
まあ、そりゃあ嘘を吐きたくもなるよな。
だって自分の仕事を蔑ろにする気は無くても俺に絆されかけていたのは間違いないんだから少しでも真面目に働いてましたと主張しないと怒られるもんな。
で、それがバレるのも当たり前だ。
向こうは分かってて通信魔法を展開したのだから。
『期待したのが間違いだったようだな』
「んー、困った。私も標的か」
事前に裏切れば抹殺するという脅しがあったのだろう。
ミツキはお面で見えない顔に焦燥を浮かべているように見えた。
このままだとミツキは仲間に裏切り者として消されるし、その場合は単体として狙うよりも俺やノエル諸共まとめて殺すのが定石だ。
まずいだろ、この状況。
俺は満足に動けないしノエルの防御用の結界だって範囲は狭いし完全じゃないからこそタナトスの攻撃を防ぎきれずに負傷している。
それにミツキが自棄になって攻撃してくる可能性を否定できない。
こっちをミツキが見てるの地味に怖いから!
「なんとかして」
「はい?」
「私に期待させたのはあなた。責任取ってくれない?」
「無茶振りしてる自覚あるか?」
「こんな状況さえ覆せないくせに説教してたの?」
随分と煽ってくれるじゃないか。
でも控えめに言ってこの状況は三途の川が見えてきたなんて冗談を言っても許されるレベルで最悪の展開。覆すには自分だけの力ではどうにもならないとしか思えない。
いや、文句言っても仕方ないんだけどさ。
腹立ったのもあるけど殺されたくない一心でミツキを説得して絆して延命できたけど、そこから先は考えてなかったんだ。
泣き言の一つでも言わせてくれよ。
「ノエルさん、無理を承知でお願いします」
「断る」
「あの?」
「無理をする気だと分かってるから」
ノエルもこの調子だもんな。
たぶん度重なる無謀を目の当たりにしてるから俺が死にたがりのように見えてるんだろう。
当然だよな、そう思われても。
歴戦のリーブスに戦争から退いて逃げていた自分が挑んだこと。
どんな力を持っているかも分からない状態で成功するかも分からない作戦を即興で実践し、失敗の危険性を無視してイルヴィナの懐に飛び込んだこと。
力の差が歴然だと分かっている魔王の一人を相手に逃げようとしなかったこと。
そして、今もまた無謀なことをしようとしている。
自分の体さえまともに操れないのにノエルとミツキを安全にこの場から脱出させられるはずがないんだ。
でも、それを可能にするのが成長だろ。
努力が必ず結果に伴うと信じ進み続けること。
それがノエルのくれた俺への愛情だろう。
ダメだと言われても俺は曲げないからな。
「今回は無理をするというか、開放的な気分になりたいな〜、って」
「サイテー」
「さすがにノエルも同意」
「勘違いすんな! ヘンな意味じゃなくて、こう……野性に帰りたい気分というか」
「やっぱり変態だね」
「見損なった」
二人して啀み合ってたのに何で意気投合してるんですか。
じゃなくて、今はなるべく同調するならしてほしいけど俺とも同調してくれないと困るんだよな。
二人がイメージしてるのから遠ざける言葉が分からない。
自分でも上手くできるか分からないんだから言葉にしろといわれても無理があるんだ。
回りくどいとダメなのかな。
途中でちゃちゃ入れられてもいいからストレートに言葉にした方が最終的には伝わりそうだな。
「服を脱ぎたい」
「殺す? まとめて殺される前にあなたを殺していい?」
「だぁぁ! 話を聞かない女の子は可愛くないぞ!」
「別に可愛いと思われたくないし」
こうしてる間にも危険は迫ってる。
建物ごと焼き払うつもりなのか、殺し屋が近づいてきてるのか分からなくても間違いなく死期が迫っている。
もうミツキの反応に構ってる暇はない。
俺は説明するのを諦めて毛布をミツキに投げつけると身にまとっていた服を遠慮なくビリビリに引き裂いていつでも自然に帰ることのできそうな姿になる。
ノエルが興味深そうに見てきてるけど気にしてる時間がない。
本当は成功確率を上げるためにもっとミツキと打ち解けておいた方がいいんだろうが時間がないので諦めるしかない。
さっきミツキが姿を変える時は布で俺とノエルからの視界を遮っていた。
意味があるかは知らない。
ただ、俺は見たものを真似て、取り入れて、自分のものにする。
ミツキに毛布を投げつけたのは視界を遮る意図があった。
あとは何をすればいいのか分からないからとりあえず目を閉じてどんな姿がいいのかを頭の中に明確に、簡単にイメージできるようにシンプルな形として思い浮かべる。
次に目を開くと視点が低くなったように感じた。
毛布を振り払ったミツキや、隣にいたノエルも驚いているから失敗はしていないようだ。
「その姿……」
「手足の形が違うから戸惑うな。でも、すごく開放的で気分がいい」
「犬が、犬になった?」
「せめて今くらい狼だと言ってくれよ」
明らかに普通より大きめの、な。
手足はヒトのような指の形を失い野性の狼のように変わり、体の形状も狼そのもののように四足歩行が基本となる獣らしいものとなっている。
ここまで変化するなら服を脱いで正解だ。
体の形状変化が大きいから中途半端にあちこち破けて醜い姿になっていたと思うし、動きやすいようにこの姿を想像したのに服を身に着けていたら窮屈で仕方がない。
さすがに男の象徴は消えるわけではないから恥ずかしくはあるけど狼のそれと同じなのでヒトからすれば気にするものではないだろう。
「逃げ回るだけなら都合がいいだろ?」
「なるほど、虎の力を使ったみたいにあなたの、ミツキの力を真似たみたい」
「私のことほとんど知らないのに?」
「もちろん完璧じゃないぞ。あくまで誰かに似せる程度が限界だし遠いものにはなれないから自分が最も近くて遺伝子的に先祖とも言える獣の姿に変えたんだ。何度かノエルに小さくされたことがあったから形は分かってたからな」
もちろん代償がないとは言わない。
獣としての本能なのか二人の女の子に裸を見つめられているせいなのか体が熱くなっているように感じる。
それこそ発情期の時みたいにな。
あとは自分の個人的な副作用なのか無性に褒めて撫でてほしいと体が求めている気がする。
もし願いが叶わなければ自分の意志からブレてしまうだろうから逃げ切るまではノエルとミツキにその辺の欲求を受け入れてもらう他ない。
「背中に乗れ!」
「分かった」
「えっと、私も?」
「お前もだ。責任取れって言ったのはお前だ。今後戦うことになるんだとしても今は無事に逃げられるように手伝ってやる」
「ば、バカなの? さすがにこの状況でまた戦うとかいう気分にならないから。それより私、それなりに重いけど……」
そんなことを女の子が簡単にカミングアウトしていいのだろうか。
まあ、具体的な数字は言ってないからいいのかな。
「何のために姿を変えたと思ってる。お前ら二人を安全に連れ出すためだぞ? 重さなんて関係ない」
「………………」
「で? 逃げ切るならどこまで行けばいいんだ?」
呆けていたのか一拍ほど置いてミツキは顔を上げる。
とりあえず脱出するためには律儀に扉なんかから出ずに窓を突き破って出た方が早いと思うが永遠に逃げ続けることになるのはゴメンだ。
だから相手を倒せばいいのか、それとも遠くに行けばいいのか聞いておきたかった。
可能なら戦闘は避ける。
それが厳しいならノエルが援護で俺が陽動してミツキにどうにかしてもらう。
すでに刃を向けられた間柄なのだから今さら通信魔法を使っていた奴と戦うことに抵抗があるなんて言い出すことはないだろう。
まあ、そんな作戦なんて必要ないらしい。
「たぶん広範囲に雷撃を落とす魔法を展開して私に設置してる。発動した時点で範囲を固定するから」
「そこから出れば勝ち、か。もう発動してるのか?」
と、俺が発したタイミングでミツキを中心として魔法陣が展開する。
簡単な魔法ではないからか複雑な魔法陣である。
「ちっ!」
迷ってる暇なんかない。
発動した時点で効果範囲が固定されるなら今いる場所から少しでも遠くへ行けば攻撃が止まるはずだ。
この建物は壊してしまうことになるけど他の人達に被害が及ぶのを避けるためには一刻も早く自分達が離れるしかないんだ。
どうして他人を巻き込もうとする。
テイムに隠蔽のための罠を仕掛けたやつもそう。
ミツキが役目を果たさないと発動する魔法もそう。
こんな使い捨ての爆弾みたいな扱いをしたら俺らは本当に戦争の道具でしかなかったみたいじゃないか。




