プロローグ
月明かり照らす平野。
まだ戦争が絶えなかった頃に建造され前線を支えていたのであろう砦は貴族に買われていた。
街に住んだ方が安全?
いや、彼らには安全よりも先に守るものがある。
金だ。
金さえあれば何が起きても大丈夫だと思い込んでいる彼らにとっては役に立たない傭兵などを雇う無駄金を用意するくらいならば自ら人が寄り付かない場所を選び、そこで自由気ままに生きる。
女は買えばいい。
食料は週二回だけ訪れる行商人から仕入れる。
守りは無職の男に敗残兵の鎧でも着せればいい。
そう、そこは砦だった。前線を張っていた要である。
「よっ」
「何者だ! い、今は誰も入れるなと命令されているぞ!」
こういう場所には荒くれ者がいてもおかしくないため、ただの雇われた男でも鎧をまとい、強気な言葉を振りかざせばいかにも兵士という出で立ちになる。
だが、俺は怯まない。
俺はいわゆる獣人という生き物で「地獄の番犬」なんて物騒な奴になぞらえて「ガルム」と呼ばれる狼だ。
カタチは人間、見た目は獣、性質的には間ぐらいに生まれた簡単に言えば人間と獣の雑種のような存在だ。
「俺は商人だ。あんたの雇い主に頼まれたんだけどな。夜を楽しく過ごすための薬を持ってきてくれ、と」
「そのような話を聞いていない!」
「わざわざ見張り程度に教えるわけがないだろ。ほら、つべこべ言ってないで早く入れてくれないと夜が明ける。俺が怒られちまうよ」
「ちっ! 妙な真似はするなよ」
最初から大人しく入れてくれれば妙な真似はしないさ。
そう、妙な真似などあるものか。
俺は盗賊だ。盗むのが仕事なのだから妙な真似も何もこれらの行動は全て仕事の範疇である。
見張りのお前には同情するが何かあっても俺は悪くない。
「う……こんなカビ臭い所で女を抱ける奴の気が知れないな」
俺の嗅覚は人間とおよそ比較することができないほど優秀だ。このカビの臭いの中から目当てのものを探すのも難しくはないわけだが……嗅ぎ分けるのと臭いのが平気なのは別物だ。
長居していたら気が狂いそうになる。
あまり深く吸い込まないようにしつつ目当てのものに近い匂いを辿っていく。
即ち金属の匂い、だ。
少し歩いてもう少しで匂いの元にたどり着ける、と思ったが俺は少し寄り道することにした。
「ちょっと悪さが過ぎるんじゃねえか、子ネズミちゃんよ」
「……!」
わざと宝物庫と思われる部屋を通りすぎて角を曲がった俺はすぐに振り向き後ろを付いてきていた人間の腕を掴む。
細い腕に華奢な身体、女だ。
それに身に付けている布地の少ない衣装を見ればこの女が何の目的でここにいる女かは見当がつく。
「いけないな、奴隷が主人の側を離れてうろうろするなんて。それとも俺を侵入者として報告するか?」
「毛ほども恥辱を覚えず今の発言をできる神経には恐れ入りました」
「ふん、少なくとも俺の味方でもない奴に聞かれたところで恥ずかしがる理由なんて無いだけだ」
嘘です本当は死ぬほど後悔してます!
なんで女に向かって「子ネズミちゃん」なんてすかした野郎みたいな台詞を吐いたんだよ俺は!
「女性が珍しいのですね」
「なっ! だ、誰もそんなこと言ってねえよ! 珍しくなんかないし。女の一人二人くらい手込めにしてる──っ!」
女は急に俺の身体にぺたりと手を触れてきた。
嘘でした申し訳ありませんでした! 俺は女なんて一度も触れたことないし手込めなんて夢のまた夢の話でした!
って、何で俺は一人で懺悔しているんだ。
気を強く保つんだ、俺。女の勢いに押されるな。
「な、なんだ? お前も俺の女になりたいのか?」
「はい」
「は?」
「…………」
冗談が通じないのか?
それとも本当に俺の女になりたくて付いてきたとでも言いたいのか?
いや、正気になるんだ。
普通に考えて奴隷にとって主人は絶対的な存在で多祥なり乱暴をされていても買われることもなければずっと鎖に繋がれたままの人生だと理解しているはず……。
そんな女が裏切るのか、主人を。
と、俺が混乱していると急に笑い声が聞こえてくる。
正面の女だ。
「ふふっ!」
「何がおかしい」
「いえ、外面と内面が真逆すぎたもので……!」
「な、何の話だ」
「あなた童貞ですよね。それどころか女性に触れたこともなければ視線を合わせるのも苦手なくらい。鎖に繋がれた女性すら抱けない臆病な人ですよね?」
「…………」
まさかの言い当てられるとは。
というか、この女……もしかして初めから俺がどういう男か知っている上で話しかけに来たのか?
でもなけれぱ犯されると思って近づかないはずだ。
対応を間違えたな。
初めから口を開かないようにしていればよかった。
「脱出の手伝いをします」
「必要ない。入った時と同じように正め──」
「普段はやる気のなかった兵士が気まぐれで投げた槍があなたに刺さってしまうかもしれません。その槍には偶然にも毒が塗ってあり、あなたは砦を離れる前に膝を突くかもしれませんね」
随分と具体的な未来予知に俺は固唾を呑む。
根拠もないはずなのにここまで明確に示されてしまうと本当にありそうで正面からの脱出を避けた方がいいように思えてくる。
しかし、他に出口はないんだ。
一ヵ所だけ出られなくもない穴は開いているがそこから出ようとすれば間違いなく隣を流れる川に真っ逆さまだ。
潔く遠慮しておこう。
し、正面から出るときに兵士を殺していけばいいんだ。
「あなたは足がつくと困るのでしょう。それに兵士を殺す際に万が一、血でも見てしまったら──」
「やめろ!」
「私を連れていく方が利口です」
「砦から出られたら殺すかもしれないぞ」
「女性に触れたことすらないのに?」
「な、なら人道的とは思えない所業でお前を辱しめるかもしれない。おめでたく乱暴された挙げ句にお前はガキを身ごもるかもしれない」
「ここにいても同じで──むぐっ」
「フィア! どこへ行ったのだ!」
俺は咄嗟に女の口を塞ぎ抱き抱えると天井付近にあった窪みへと身を忍ばせた。
こいつ、今から主人に相手してもらえるって時に逃げてきたな?
たしかに信憑性も何もない情報ではあるが兵士の持っていた槍はたしかに毒が塗ってあった。俺が女に触れられないという話も根性がないという話も間違っているわけではない。
信じないのは危険かもしれない。
「随分と肥え太った貴族様だ」
「…………」
「あれに身ごもらされるくらいなら身分も性格も知らない男に乱暴される方がましだって?」
「察しがいいですね」
「俺が女でもあれはやだ」
「なるほど」
少しは否定してやれよ。お前の主人だぞ。
でもまあ、ここから出してほしい理由は分かったし、この女が嘘を吐いていないことくらいは理解した。
「あの、そろそろ離していただけますか? あなたが茹で蛸になる未来しか見えません」
「ああ悪かった……な?」
すまん、咄嗟にとはいえ本当に申し訳ない!
抱えるときに胸に手が触れてしまっていたらしいな。
「わ、わざとじゃないんだ!」
「知ってます」
「す、すごく柔らかかったです……! お、お世辞じゃなくてだな、本当に」
「感想を述べるより先に離したらいいのでは? あなたがあまりにも初な反応をするものだから私まで緊張してしまうではありませんか」
そ、それもそうだよな!
慌てて飛び降りた俺は女から離れる。
「よよ、よし早く仕事を済ませて砦から出ようか!」
「そんなに戸惑うものですか?」
「お前な、分かってて言うのは嫌みだぞ」
「別に男らしい見た目に反して少女よりも初で可愛らしいリアクションはインパクトがあって良かったと思いますよ?」
「俺は男らしくありたいの!」
とはいえな~。
未だに女の一人も抱いたことのない俺が男らしくなんて宣ったところで説得力の一つもないんだろうな。
いや、今はいい。それより仕事だ。
あまり重さのあるものは運びにくい割にはいい値で売れないと分かっているから運びやすく貴重性の高いものを選ぶ。
脱出できての盗賊だからな。
「普通の仕事をしていた方が様になりそうなものですが」
「…………普通の仕事がもらえてれば、な」
「?」
「ほら、見つかる前に出るぞ。どうせ川に飛び込めって言うんだろ」
これ以上の無駄話はリスクにしかなりえない。
正面以外に脱出できる場所と言えば上か、地下の二択しかない。
そして地下室という選択肢はなかった。
「水が苦手なのに飛び込めるのですか」
「いや我ながら強がった感が否めないな。おまけに高いところは苦手なんだよな」
「本当に見た目に似合わない臆病さ」
「うるせえ! お前は女のくせに生意気すぎだ!」
「あなたを焚き付けるのには苦労します」
ああそうかい。
俺は焚き付けられなくても生きていくことだけには貪欲に進んできたつもりだ。
そう、目的を果たすまでは笑われようと怒鳴られようと俺は進み続ける。
「しっかり掴まってろよぉ!」
俺は震える身体とは真反対とも言える声で女を抱えると高い物見用の穴から外へと飛び出した。
相当な高さから飛んだので心臓を掴まれるような感覚に思わず涙が出そうだったが女を抱えている手前、自分が弱音を吐いて不安を煽るような真似はできそうにもない。
下は川だ。死にはしない。
ちょっも流されるくらいだろ。
──それから数分ほど流された岸部。
「あー、死ぬかと思ったぁ……!」
あれだ、いくら川とは言っても高いところから落ちたら痛いのは当たり前だよな。
骨折こそしてないが未だに痛みは残っている。
何より流されている間も女を抱えながらのため元より苦手な泳ぎが余計に上手くできるわけもなく、流され続けること数分でやっと岸に打ち上げられることに成功したのだ。
二度と水浴びなんかしねえ。
「あ、そうだ。お前も無事か?」
「私は……あなたが抱えてくれていたのでどこにも体をぶつけませんでした」
「あっそ」
「対価はいらないみたいですね」
「は? 誰もそんなこと言ってねえぞ!」
「顔に書いてありますよ」
俺は思わず女に見えないように顔を覆った。
分かってる、分かってるつもりだ。俺のどうしようもない顔が情けない顔をしていることくらい分かっている。
仕方がないだろう。女をあんなに抱きしめたことなんてないのだから。
「まあ、すぐに会えますよ。あなたと私が出会えたことは天啓です」
「てんけい? あ、おい!」
くそ、結局なにも聞けないままだったな。
しかしまあ大きな怪我をしたわけでもなければ仕事もしっかり済ませたことだし今回はこれでいいか。
俺はずぶ濡れになった重い体をひきずるようにして帰路につく。
街から離れた、自分の家へと。