3.リセット
1985年夏、俺は単身ロスアンジェルスへ向けて飛んだ。 外国に行くことはおろか、飛行機に乗るのも初めてだ。 飛行機は一気に加速してあっという間に宙に浮いた。 うおー、すげえ。
自分の居場所がないなら、探しに行くしかない。 そう思って行き先を思案した時のキーワードは、『遠く』。
『遠く』イコール『外国』。 『外国』イコール『ベストヒットUSA』、『アメリカンヒーロー』、『ロス五輪』のアメリカ。
アメリカって何処? それは外国。 そこでは皆英語を喋る。 それぐらいの知識しかない。
うーん、かなり早まったかもしれない。
しかし、家を出ました。 居場所を探しに旅に出ました。 自分の居場所は何処にも見つかりませんでした。 帰ってきました。 という未来の可能性を、俺は完全に消し去る必要がある。 だから、外国。 だから、アメリカなのだ。
親父の知り合いがロスにいて、その人が俺を受け入れてくれるというが、どういう人だろう。 そして、金。 地元から少し離れたイトーヨーカドーでフルタイムでバイトして貯めた金と、親から選別としてもらった金、合わせて50万円。 大金だが、これで足りるのか?
考え事をしていると、窓際三列席で隣に座っていたアメリカ人夫婦の奥さんの方から話しかけられた。 え? なに? アイキャントスピークイングリッシュ。
すると、食事が来たからテーブルを出して、とジェスチャーで言われた。 サ、サンキュー。
人生初の機内食を食べながら、「ン!」と心の中で気合を入れた。 ロスアンジェルス。 俺はそこで人生を一度リセットする!
受け入れてくれるという親父の知り合いが空港に迎えに来てくれていた。 優しそうな日本人のご夫婦だ。 こっちで小さな会社を経営していて、子供はいないとのこと。
会社は日系企業の下請け倉庫業みたいだ。 しばらくこのご夫婦のお宅に寝泊まりさせていただき、倉庫の仕事を手伝わせていただくことになった。
家では毎日豪華な奥様の手料理に、週末は外食にも連れていっていただいた。 久しぶりに他人の優しさに触れた感じだった。
しかし、倉庫の仕事は十分人手が足りているようだったので、赤の他人の俺になぜそこまでよくしてくれるのかわからない。 奥様は、うちには子供がいないから息子が出来たようで楽しいわ、と言ってくれるが、俺はそんなにかわいい子供ではないことぐらい自分でわかってる。
あっという間に1週間が過ぎた。 俺はご夫婦に、自立したい旨を少ない語彙を駆使して、しかし丁寧に、真剣に話した。 ご主人は、わかった。では今度の週末、アパートメントを探しに行こう、と言ってくださった。
俺ん家が金持ちと思ったのだろうか。 ご主人が立ち会って契約してくれたアパートメントは、とても設備とセキュリティがしっかりしたところだった。 まあ、他人の子供に物騒なところに住まわせるわけにもいかないだろうが。
それにしても、アパートメントのデポジットと、一ヶ月分の家賃で、持ってきた金の半分が無くなった。 そして、ついでに探してくれた英語学校の入学金と授業料で、あと残りの金は300ドルちょっとしかない。 1日10ドルで生活するとして、30日で文無しだ。
※
晴れて見知らぬ土地で、アパートでの一人暮らし。 自立を果たしたはいいが、我ながら計画性が無さすぎる。 うーん、どうする? 新しいアパートのベッドに寝転んで考えた。
いきなり歯が痛み出した。 痛い、痛い。 口にジャリを詰められて殴られ折れた歯が痛む。 ちゃんと治療せずに来てしまった。 洗面台の鏡をみると、歯茎がメチャ腫れてる。 うっすらと白い膿の様なものが、歯茎の薄皮挟んだ中に見える。
考え過ぎて神経に来たか? いきなり痛み出した。 もんどり打つ程痛い。
アメリカに歯医者ってあるかなぁ。 あ、金ないんだ。
アパートメントから歩いて行けるところに大型スーパーがあった。 アメリカで初めての買い物は、安全剃刀だ。 買って、アパートに帰り、再び鏡の前へ。 意を決して、腫れている歯茎に安全剃刀を当てて、一気にスパッ。 血飛沫が鏡に飛び散った。 新居がいきなりスプラッターハウスになってしまった。
念入りに傷口から白い膿を絞り出して、うがいをし、日本から持ってきた痛み止めを、用量の倍を飲んでベッドに入った。
俺って、ワイルドじゃん。 イケるじゃん。 大丈夫。 考えても仕方ない。 この調子で行ってみよう。 自分の血を見たうえ、痛み止めのオーバードーズでハイになったのか、急に前向きになった。
明日は学校の初日だ。 バスの乗り方もわからないので、早起きしなきゃ。
※
学校にはいろいろいた。 肌の色、年齢、みんなバラバラ。 およそ俺の想像の範疇にある学校とはかけ離れていた。
休み時間、日本人らしき人をみつけると向こうから声をかけて来た。「君、新しい子?名前は?」
その人は自分をアキラと名乗った。
アキラさんは歳の頃20代後半。 無駄に日焼けした顔、サーファー然とした格好。 見るからに遊び人。 俺からしたら立派なオッサンだが、中身は若いし、気さくだ。
授業は朝8時から12時で終わり。 アキラさんと学校の近くにあった中華食堂に入った。 昼飯を食べ、いろいろ話した。
俺は、歳の近い人との会話が久しぶりだったからか、自分からよく喋った。 怒涛のごとく、堤防が決壊するがごとく喋った。 なにを喋ったか覚えてない。 友達になりたくて必死だった。
アキラさんは、ハワイでしばらくサーフィンをしていて、そこからここカリフォルニアに来たそうだ。 自由人だ。 サーファーだ。 もう、それだけで憧れてしまう。
しばらくすると、そこに2人の日本人が来た。 ひとりはマサ、20歳。 もうひとりはキヨ。 キヨは、歳は俺と同じ17だ。 マサは明るくてよく喋る。 対してキヨは無口で目つきも悪いが、2人ともいい奴そうだ。
マサとキヨは、「いつものメニュー」をオーダーした。 直ぐにチャーハンが二つ来た。 「腹減った〜。 いただきます!」と、マサが言うや否や、アキラさんがテーブルにあった豆板醤をつかんでスプーンで大量にマサのチャーハンに入れた。
「うおー、ちょっとなにやってんすかアキラさん、やめてくださいよ!」
アキラさんは、イタズラそうな顔で、「いや、マサちゃん、好きでしょ。 ヒヒヒ」
「もう〜、この豆板醤どんだけ辛いか知ってるでしょ。 これ、既に致死量ですって」
そう言いながらも、マサは食う。 一口食うたびに辛え〜、と連発し、汗だくになって食う。 それを見て、アキラさんとキヨはヒーヒー言いながら笑っている。 食堂の中国人の主人も笑う。 俺も笑う。
俺は異常に嬉しくなった。 やばい。 嬉しい。 楽しい。 まさにこういうシーンにずっと憧れていた。
俺に尻尾があったら、きっとブンブンと振りまくっていただろう。
つづく、