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時の彼方(修正前)  作者: 水沢樹理
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追憶 1

 彼女と初めて会ったのは、桜の花が咲き誇る季節だった。


 夕暮れの中佇むその姿の儚さに魅せられ、気付けば引き寄せられるように彼女に名を尋ねていた。


 彼女は、困ったように眼を伏せたかと思うと傍らの木に咲く花を見上げ、そしてゆっくりと振り向き、静かにその花と同じ名を告げ、そう呼んでほしいとか細い声で続けた。


 それが偽りの名であることは明白だったが、たとえ偽りだろうと、彼女がその名で呼ぶのを望むのであればそれで構わない。


 一時でも彼女と共に過ごせるのであれば、それだけで充分だと思えた。


 そして、彼女が自分の本当の名を知らぬことを知ったのは、幾度かの逢瀬を重ねた後のことだ。


 悲哀を帯びた眼でそう告げる彼女に、胸が締め付けられた。


 偽りの名しか告げることが出来なかったのだという事実に、どれだけ彼女を傷付けてしまったことだろうかと、そのことを酷く悔やんだ。


 だが彼女は、それを責めることもなくゆっくり首を振ると、たとえ偽りであっても名を呼ばれることが嬉しいのだと花が綻ぶような微笑みを見せた。


 そこには嘘偽りなど一切なく、心から微笑むその姿に、一体、どれだけ救われたことだろう。


 同時に、彼女は身体が弱く、そう長くは生きられぬであろうことも知った。


 そして、その時が、そう遠くはないだろうということも。


 身体があまり丈夫ではなさそうだということにはすぐに気付いていたが、思った以上に彼女の身体は蝕まれていた。


 子を産むどころか、恐らくその為の行為にすら耐えられぬだろう。


 跡取りという立場である以上、どれだけ望んだとしても、子を成すことが出来ぬ彼女を妻に迎えることは叶わないし許されない。


 ならばせめて、彼女がその時を迎えるまでは、少しでも心穏やかに過ごせるよう、傍らで見守りたいと願った。


 やがて時は過ぎ行き、再び桜の花が咲く季節が巡ってきた。


 彼女の身体は、出会った頃より随分と細く儚くなっていた。


 寝込むことも増え、歩くこともままならない。


 その時がすぐそこまで近付いていることを、容赦なく突き付けられた。


 彼女はそれを覚悟していたにも拘らず、会えば微笑みを絶やさなかった。


 そして、もう一度だけでいいから一緒にその花が咲くのを見たいと、呼び名以外の願いを初めて口にしたのだ。


 何としてもその願いを叶えたかった。


 その為の約束も交わした。


 だがその約束の日、彼女は思いも寄らぬ形で還らぬ人となった。


 何故、彼女があのような最期を遂げなければならなかったのだろう。


 それは、あまりにも残酷だった。


 しかもそれは、終わりではなく始まりだった。


 彼女がそのささやかな願いさえ叶えられないどころか、安らかに眠ることも叶わず、悠久とも言える時の流れの檻に囚われることになるのを知ったのは、これより随分と先のことだった。

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