元に改める
会社から帰ってきて「改元の瞬間をぼんやり過ごすのもなんだな」と思い、一時間ほどででっちあげました。零時更新には間に合いませんでした。
深夜のオフィス街を望む陸橋の真ん中で、高志は手摺りに肘をついてボーっと流れる車列を眺めていた。もう一時間ぐらいそのままだ。横に置いた缶コーヒーは口も開けないまま放置されている。
時間はもう、そろそろ日付が変わりそうな頃になる。明日も平日なのにサラリーマンが呑気に時間を潰しているような時間でも場所でもない。
コーヒーをやっぱり飲もうか、でも急にトイレに行きたくなったら嫌だしなあ……横目で冷めた缶を見ながら、三回目の躊躇をしている高志の背中に不意に声がかかった。
「お待たせ」
振り返れば、ギャルソンスタイルのコーヒーショップの制服にカーディガンだけを羽織った神崎加奈子が立っていた。すらっとした肢体や中性的な怜悧な横顔に、男性寄りなユニセックスの制服が良く似合っている。
高校以来の友人にして卒論ゼミ以来のガールフレンドは、軽快にヒールの音を立てながら横にやってきた。
「待った?」
「いや、今来たとこ」
問いかけに定型の返事をされたキャリアウーマンは、ジト目で冷えた高志のスーツと冷たくなった缶コーヒーを眺め、高志の鳩尾に小さい拳をめり込ませた。
結構イイやつをもらって思わず膝をつく高志の頭上から、花冷えよりさらに背筋を冷やしてくれるハスキーな女声が降ってくる。
「高志。私は中途半端な気遣いが嫌いだと何度も言ってるよな? 待ちくたびれたならはっきりと言え」
「す、すみません……」
忘れていたわけでは無いのだけど、今日はちょっとカッコつけたかったのだ……でも、今後はコイツの性格とTPOをわきまえようと高志は心のメモ帳にナイフで刻み込んだ。
(いかん。せっかく舞台を用意したのにご破算じゃないか……)
ちょっと、今この瞬間にこの姿は情けない。
高志が気合いでよろよろ立ち上がろうとすると、横から加奈子が肩を掴んでくれた。クールでドライで手が早いけど、気は良いやつなんだ……加奈子の未来の為にも、体罰で会社を追われないように高志は心の底から祈らないではいられない。
風に乱れた前髪を直しながら、加奈子が眉をひそめた。
「それで? こんな時間にこんな場所へ呼び出すって、何の用? 職場が近いって言っても、バイトの子たちに全部投げてきちゃっているから早く戻りたいんだけど」
「え?無断で抜け出してきたの?」
「貴方じゃないのよ? ちゃんと『昼休み』だから。終業まで二時間ないけど」
彼女の会社のこの習慣は、話に聞いていても高志は未だに慣れない。休憩時間じゃダメなのか?
「それで?」
本当に不審そうな友人兼彼女の視線に耐えられず、高志はもう一度眼下の六車線道路に目を向けた。顔を見なければ、何とかセリフを言えそうだ。
「あー、あのさ……もうすぐ年号が変わるね」
横に気配がして、加奈子がすぐ隣に肘をついたのが視界の端に映った。
「高志……貴方まさか、こんな所で二人でカウントダウンしようって言うんじゃないでしょうね? 貴方がロマンチストっていうか夢想家なのはよく知っているけど、別にイベント会場でも夜景の名所でもない場所でって……ここまでムードもへったくれも無いデートは初めてよ」
「それでもつき合う君が凄いね」
「呼ばれた理由の説明が無かったからね。初めに聞いてたら、無理に時間を開けなかったわ」
「そりゃそうだ」
呆れたとため息をつく彼女に、ちょっと身を起こした高志はさりげなく声をかけた。
「ところで加奈子。“改元”ってさ、一回リセットして原点に立ち返るって意味があると思うんだ」
彼女はわずかに首を傾け、チラリとこちらを横目で見た。
「漢字の意味が判ればそういう解釈は簡単ね。それで?」
「うん。だからさ……」
落ち着け。
一歩踏み出せ、俺。
「僕らの関係も、一回見直してもいいと思うんだ」
深夜の陸橋の上に風が吹いた。サラッと場の空気を流す清涼な風の後にも、二人は一言も言葉を発せず無言で佇んでいた。
震える手で指輪を差し出す高志と。
その手元を見つめて、ただ口元を押さえて静かに涙を流す加奈子と。
二人が固まったままのこの場所で高志の腕時計だけが動き、十二時を刻んで日付が回った。