コックローチとサイエンティスト
やあ、『ウォーリアー』じゃないか。久しぶりだね、元気かい?
ああ、僕は元気だよ。相変わらず放浪の毎日だけどね。ここにいるってことは……君は引っ越したのかな?前の家をずいぶん気に入ってたように見えたけど。
へえ、勧誘。『駆逐派』と『共生派』が、君を? 人気者じゃないか。よかったね。って、よくないから引っ越したのか。じゃあ、お気の毒に。
しかし、勧誘か。戦力確保に躍起になっているってことは、何かあったんだろうね。もしくはこれから何か起きるのか。
ああ、僕は何も知らないよ。知ろうにも周りは『無関心派』ばかりだからね。誰も世情に興味がないんだ。僕も人のことは言えないけど。
……まあ、いいよ。話ぐらい聞こう。せっかく会ったんだから。で、何があったんだい?
ええっと、その『ヴォルケイノ』っていうのは? いや、知ってはいるよ。会ったこともある。けど、彼が殺されたことがそんなに重要なのかい?
……なるほど、『駆逐派』の代表格だったのか。彼って大物だったんだね。で、そのヴォルケイノが『フォレスト』に殺されたと。それは大事件だ。
うん、よくわかった。『駆逐派』はなりふり構わなくなって、人間どころか非協力的な魔法使いも敵とみなすようになったわけだ。そりゃあ『共生派』も仲間を増やしたがるよね。君のように頼れる男ならなおさら。
そういう事情があるなら引っ越しても無意味だろうね。抗争が終わるまでずっと追いかけられると思うよ。それはわかっているのかい? そうかい。なら、どちらかの派閥に入るんだね、君は
そういえば人間との戦争のとき、君はどうしていたんだっけ? 戦果を挙げたって話は聞かないけど。
ああ、魔法使いの救助か。それだけとは、なんとも君らしい。間接的に人間の敵ではあるけど、『駆逐派』とも『共生派』とも言い難い、微妙な立場だね。だからこそ彼らはやきもきしているわけか。敵にも味方にもなり得る以上、早めに引き込んでおきたい。
まあ、どちらを選ぼうが君の勝手だ。僕がどうこう言えることじゃない。そろそろお暇するよ。
おや、引き止めるなんて珍しいね。聞きたい話? 僕に? どんな?
ああ……。人間について、ね。僕が人間と暮らしてたなんて、よく知ってたね。別に隠していたわけではないけどさ。
で、それを聞いてどうするんだい? 人間の味方になるか敵になるか決めるのかい? それはおすすめしないよ。人間は個体ごとの差異が激しいんだ。集団としてある程度まとまった意思を持っていたとしても、忠実だとは限らない。同じ個体が同じ状況で一定の行動をするわけでもない。多種多様で複雑怪奇、それが人間さ。魔法使いと同じだよ。
それに、僕が「人間は善だ」と言えば君は信じるのかい? 根本から考え方が違う僕の言葉を。
……そうかい。わかった、話そう。存分に参考にしてくれていいよ。
彼と出会ったのは戦争の直後だったんだ。煙が立ち込める町、だったものを歩いてたら兵士にばったり出くわしちゃって。追いかけっこが始まったんだよね。
諦めが悪い人間ばかりでさ、本気で逃げようとも考えたよ。とりあえず瓦礫の山に飛び込んで隠れたんだけど、そこには先客がいたんだ。そう、彼さ。
「おや、ここは君の家だったのか。勝手に入ってごめんね」
「……お前、どうやってここに入った?」
「瓦礫の隙間を通ってきたに決まってるじゃないか」
「あの隙間を通れるわけが……そうか、魔法使いか。まて、見覚えがあるぞ。確か……『コックローチ』だな?」
「うん。そう呼ばれているよ」
「……くく、そうか。あの最低最悪の魔法使いか。俺の人生の幕引きにしては少し大袈裟な気もするが」
「幕引き? 君は死ぬのかい?」
「殺すんだろう、お前が」
「どうして?」
「どうして、って……」
「君の存在は僕の生死を左右しない。だから君を殺すなんてあり得ないよ。信じなくてもいいけど」
「……くくく、ははははは! これは傑作だ! そうかそうか、お前にとって俺は塵芥も同然ということか!」
「そうだね」
彼はしばらく笑い続けたよ。外まで声は響いてたと思うけど、誰かが入ってくることはなかった。今思うと彼はあそこに閉じ込められてたんだろうね。腕も怪我してたし。人間が暮らすには狭すぎた。
で、笑い終わった彼は僕に取引を持ちかけたんだ。
「頼みたいことがある」
「僕に?」
「当たり前だ。一つ、ここから出してほしい」
「頼みごとを聞くなんて言ってないよ」
「もう一つ、魔力の研究に手を貸してほしい」
「…………」
「この頼みを受けた場合の利益は二つ。まず、お前は人間に追われなくなる。少し離れた研究所に匿うからだ。そして毎日食事を与える。風呂も寝床もある。他にも必要な物は最大限用意しよう
不利益はやはり、自由を失うという点だ。人間に飼われるのも屈辱だろう。そもそもお前は保護を必要としないかもしれない」
──だが
「人間に攻撃的でない魔法使いに俺は初めて出会った。そしてこれから出会えるとも思えない。俺にはお前しかいない。だから、頼む」
「……なんのために魔力の研究を?」
「人間と魔法使いの共生の道を模索するためだ」
人間と魔法使いが争うのは、魔法使いが排出する魔力が人間にとっての毒だからだ。その魔力について詳しく調べれば、例えば浄化の方法が見つかって、争う必要がなくなるかもしれない。それが彼の主張だった。
僕が彼に乗ると決めたのは……どうしてだろうね。「気まぐれ」という言葉で片付けることもできるけど……。いや、わからないね。
ただ、そのとき僕が笑っていたのは覚えてる。間違いないよ。
さて、実験動物としての生活が始まった。
とは言っても、僕が何かしたわけじゃない。身体検査をしたり、機械を着けて体を動かしたり、その程度だね。研究をするのはあくまで彼だった。
「お前、英語が成立する前はなんと呼ばれていたんだ?」「嫌になったら言え。無条件で解放する。だから、研究所をぶち破ったりするなよ……?」「お前が消化できないものはこの世に存在するのか?」「最後に寝たのはいつだ、コックローチ」「前世で何をしたらお前に生まれ変わるんだろうな」
閉じこもって同じ相手としか会話できないなんて、人間なら発狂してもおかしくはなかったと思う。
でも、彼は狂わなかった。あるいはすでに狂っていたのかな。
結局、僕たちは二十年間を一緒に過ごした。これは間違いない。彼がそう言っていたからね。
最後の日の会話も僕は覚えてる。
「これを見ろコックローチ! この二十年の成果だ!」
「紙にして八十枚だね。ずいぶん寂しく見える」
「発表に向けて要点だけをまとめたに決まっているだろう。
とにかく、これで問題ない。『魔法使い死すべし』の風潮に一石を投じることができるはずだ。感謝するぞコックローチ」
「どういたしまして」
「次の学会で馬鹿共にこれを突きつけてやる。コックローチ、お前の名前も出そうか?」
「必要ないよ」
「だろうな。名誉に興味があるとも思えない」
彼は右手に持ったカップの中身を飲み干して、左手のカップを僕に渡した。よくもまあ同じものを飲んで飽きないよね、なんて思ったよ。飽きなかったのは僕も同じだけど。
彼は僕がコーヒーを飲み終えるのを待っていた。
「俺は今日、この研究所を去る。そして首都でこの論文を発表する」
「さっき聞いたよ」
「お前に頼みたいことはもう無い。お前は自由だ。ここに住み続けてもいいし、また放浪を始めてもいい。どちらだろうと、俺にとってはどうでもいい」
「そうだね」
僕は空のカップを彼に返す。牢屋に使われるような頑丈な鉄格子が間にあったけど僕には関係ない。それは彼もわかっているはずだけど、とうとう鉄格子が撤去されることはなかった。
「天下のコックローチの魔法が、ただ『隙間を通り抜ける』だけだとは誰も思わないだろうな」
二十年という歳月を刻み込んだ顔で彼は笑った。
それが、最後だよ。彼の末路は知らない。
ある研究者が通り魔に襲われて殺されたこと。その研究者は魔法使いと人間の共生を主張していたこと。それは当時の人間の長たちの主張と真逆だったこと。そんな噂も聞いたけど、真偽はわからない。どうでもいい。
それで、ウォーリアー。君はどうするんだい?
『駆逐派』か、『共生派』か。まさか『無関心派』ということはないだろう? それじゃあ何も変わらない。
ふうん、そうかい。なら、僕は君の敵になるわけだ。……違う? 「俺の敵は人間であって魔法使いではない」?
あはは。それは、君らしいね。
とにかく心が決まったなら僕はもう何も言わない。好きにするといいよ。
……そうだね。確かに今、僕は笑っているよ。微笑んでいる。だけど他意は無い。気にしないでくれ。
───────
地に倒れ伏した男がいる。
血を流し続ける男がいる。
狂笑を浮かべる男がいる。
「……俺の研究を、人間のためだけに使うのか」
男が抱えていた書類は奪われた。
黒ずくめの男たちに奪われた。
彼らは凶器さえ黒塗りだった。
すなわち見られたくない何かが描かれているということだ。
例えば、国章。
「……確かに、それで救われる命もあるだろうさ」
地に倒れ伏した男がいる。
血を流し続ける男がいる。
狂笑を浮かべる男がいる。
「だが、それは何の解決にもならない……!」
狂笑を浮かべる男がいる。
狂笑を浮かべる男がいる。
狂笑を浮かべる男がいる。
「……馬鹿共が。今からお前らの未来が見えるようだ
どれ、一つ予言をしてやろう!」
狂笑を浮かべる男がいる。
狂笑を浮かべる男がいる。
狂笑を浮かべる男がいる。
骸は狂笑を浮かべていた。
「『そして世界が滅亡し、コックローチは微笑んだ』!!!」
サイエンティスト:科学者。