コックローチとエアレイド
今、コックローチは廃集落を住処としていた。静かな山奥にある集落だ。建物はすべて朽ち果てて崩れ、森に飲み込まれるのも時間の問題に違いない。
住み始めて二日目のことだった。昨日と同じく食料を集めていたその日は、昨日と同じ日にはならなかった。一人の少年が突如としてコックローチの前に姿を現したからだ。
「おにーちゃん、こんにちは」
「おや、『フォレスト』じゃないか。久しぶりだね。元気かい?」
「うん、ぼくはげんきだよ」
現れたのはフォレストと呼ばれる魔法使いだった。身長はコックローチの腰程度。見た目こそ少年そのものだが、単純な年齢ならコックローチよりも上だ。
「あ、でもにんげんさんはげんきじゃないの」
「『にんげんさん』? 近くに人間がいるのかな?」
「うん。ぼろぼろなの。たすけてあげたいから、てつだってほしくてきたの」
「わかった、手伝うよ。君の頼みだからね」
「おにーちゃん、ありがとう! ついてきて。あっちにいるから」
フォレストの手を握ると、コックローチの体は服ごと半透明になった。この状態では生きている植物に触れることができない。フォレストの、森を無駄に傷付けないための魔法だ。
「いつからこの山にいたんだい?」
「おにーちゃんがきたのとおんなじひだよ」
「へえ、偶然だね」
「ううん、ぐーぜんじゃないよ。おはなしがあったからあいにきたの。そしたらにんげんさんがたおれてたんだ」
「話?」
「うん。おはなし、いましてもいい?」
「いいよ。どんなことなんだい?」
フォレストは立ち止まった。繋いでいる右手に僅かな痛みを感じたコックローチは、フォレストの強い怒りを読み取っていた。
「あのね、もりがいっこなくなっちゃったの」
「おっと、それは大変だ」
「たくさんきがあったんだけどね、おうちをつくるのにつかったんじゃなくて、はたけをつくるときにもやしたんじゃなくて、ぜーんぶむだになっちゃったの」
「悲しいね。君にとっては、特に」
「うん。だからさ、おにーちゃん。ぼく、もりをこわしたやつ、ころしてもいい?」
「ははは。それは僕が決めることじゃないよ」
「じゃあ、だれがきめるの?」
「君自身さ、フォレスト」
「……ぼくがきめていいの?」
「もちろん。君が必要だと思うなら、それは僕がどうこう言えるようなことじゃない。好きにするといいよ」
「そっか……うん、わかった!」
「それに君なら、『駄目』と言われても殺しただろう?」
「あはは! そうだね!」
フォレストの強張った左手が緩み、二人は再び歩き出した。
「おにーちゃん。ぼく、そいつをころすよ」
「うん」
「あたまのなかとおなかのなかになえをうえて、おっきいきをはやすんだ」
「それは痛そうだねぇ」
「そしたらしたいをじめんにうめて、そのちかくをもりにするの。ちゃんとしたもりになったら、おにーちゃんもあそびにきてね」
「わかった。気長に待つことにするよ」
フォレストは無邪気な笑みを浮かべた。
他愛もない話を続けながら進み、二人は小さな沢に到着した。話の通り、岸に人間が倒れている。薄汚れた服を着た若い女性だ。外傷は見当たらない。コックローチは彼女の呼吸を確かめた。
「眠っているだけのようだね」
「いきてるの?」
「ああ。でもかなり弱っている。何も食べていないみたいだ」
「じゃあぼく、たべものあつめてくる!」
フォレストの姿は一瞬で消えた。瞬間移動だ。森の中にいる間、彼は万能に近い存在になる。できないことは森を傷付けることくらいなものだ。
「う、んん……」
フォレストが消えた数分後、女性は身じろぎをした。苦しそうな声を上げている。岩場の寝心地は悪いからね。コックローチにも経験がある。
女性は痛みに顔をしかめたまま起き上がった。緩慢な動作だった。
「やあ、おはよう」
「ここは……?」
「山の中さ。君は倒れていたんだ」
「倒れて……」
「記憶はあるかな?」
「は、はい。あなたが助けてくださった──あれ? あなた、どこかで見たような……」
彼女は大きく目を見開いた。その顔に恐怖が刻み込まれ、やがてそれは諦めに変わった。
女性の声は震えていた。
「……コックローチ」
「その通り。やっぱり僕って有名なんだね」
「どうして、寝てる間に私を殺さなかったの……?」
「殺すつもりなんてないからさ。君のことを助けようとしてるからね」
「……あなたが?」
「まさか。僕の友達が、だよ」
もしもコックローチ一人なら女性に手を差し伸べようとは思わなかったはずだ。今も積極的に何かしようとは思っていない。ただフォレストの帰りを待っているだけだった。
「でも、どうせ助からないわ」
「おや、悲観的だね。怪我はないように見えるけど」
「怪我はないわ。だけどあなたがこんなに近くにいる。どれだけの魔力を吸ったのか、わかったものじゃない」
「確かに。魔力は人間にとっての毒だからね。そうだな、僕が近くにいた時間と、君の体の大きさと、ここが屋外であることを考慮して……うん、大体三分くらいは寿命が縮んだんじゃないかい?」
「さ、三分って……」
「いい加減に言ってるわけじゃないよ。魔力の研究者だった友達から色々聞いていたから、僕は結構詳しいのさ」
──ま、君が老衰で死ぬとも限らないんだけどね。
彼女は押し黙り、コックローチも何も言わなかった。小さな沢の水音が大きく響いている。
程なくして、フォレストが姿を現した。
「子ども……?」
「あ、にんげんさんがおきてる。へいきなの?」
「ああ。受け答えもしっかりしてるし、元気そうだよ」
「よかった〜。あ、これたべて。おいしいきのみだよ」
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして!」
「あの……君も魔法使い、なのよね?」
「うん」
「なら、どうして私を助けてくれたの?」
「だって、にんげんさんはもりにいるでしょ」
「……え?」
「もりにいるから、みんななかまなんだ。もりをこわさないなら、ぼくのともだち。こまってるならたすけるの。まほーつかいとか、にんげんとか、そんなのかんけーないよ」
「……そう、ね」
「にんげんさんは、どうしてこのもりにきたの?」
彼女はコックローチに目を向けた。自分の事情を伝えていいものか、迷ったのだ。
「気にすることはないよ。彼はこう見えて大人だ。もう色々なことを知っている」
「にんげんさん、いいたくないの? なら、いわなくてもいいよ」
「……いいえ、話すわ。聞いてくれる?」
「うん!」
「私は、ここから西にずっと離れた町に住んでいたの。普通に生きていたけど、少し前に父が亡くなったの」
「おとーさんが?」
「ええ。母……義理の母とは仲が悪くて、『出て行け』って何度も言われたわ。元々私たちの家なのに」
フォレストの胸は悲しみでいっぱいだった。
一方コックローチは卵のような形の石を発見していた。
「あんまりにも馬鹿馬鹿しくなって、言われた通り家を出たの。この山の向こうに親戚が住んでるそうだから、そこに転がり込もうと思って」
「にんげんさん、たいへんだったんだね」
「そうね。お腹は減るし、野宿することになったし。でも、君に会えてよかった」
「ほんと? きのみおいしい?」
「ええ、とっても。本当にありがとう」
「どういたしまして!」
「……あ、あの!」
彼女の表情に陰りが見えた。それが罪悪感によるものだということにコックローチは気付いていた。
「町に到着して生活が安定したら、何かお礼がしたいの」
「おれーなんていらないよ。たすけるのはあたりまえのことだもん」
「それじゃあ私の気が済まないわ。最高のプレゼントを用意するから、それまでこの森で待っていてくれないかしら」
「うーん……」
「素敵な話じゃないか。待ってみてもいいんじゃないかい?」
「コックローチ、あなたにもここにいてほしいわ」
「え、僕?」
「一応、あなたにも感謝はしてるから」
「ふうん。何かした覚えはないけどね」
「……わかった。ぼく、待つよ」
人間の表情の中、罪悪感に僅かな安堵が混ざる。
「ほ、本当……?」
「うん。たのしみにしてるね」
「……ええ」
その後。フォレストが用意した寝床で一晩を過ごし、彼女は森を抜けて山を下りた。
その姿を見送りもせずにコックローチは歩き出す。彼女が向かったのとは違う方角だ。
「おにーちゃん、またないの?」
「待たないよ。人間に会ったら住処を変えることにしてるんだ」
「『まってて』って、いってたよ?」
「僕は『待つ』なんて一言も言ってないよ」
「……おにーちゃん、だからともだちすくないんだよ」
「君に比べたら誰だってそうさ。それに、君だってここを離れるんだろう?」
「うん。にんげんさんがここにきたらわかるから、そのときにもどってくるよ。ほかのもりのおていれもしないといけないもん」
「悪い子だ」
「おにーちゃんほどじゃないよ」
楽しそうにはにかんで、フォレストの姿は音もなく消えた。
コックローチ発見。その情報は町を駆け巡りながら恐怖をもたらした。コックローチは魔法使い。それもただの魔法使いではない。古代から存在する、つまり大量の魔力を放出してきた、魔法使いの中でも特に嫌悪すべき存在だ。これまで多くの兵士を殺害しており、居場所の情報だけでも多額の謝礼金が与えられる、最優先駆除対象の一角である。
遭遇した女性によれば、付近の山地で別の魔法使いと行動を共にしていたという。
コックローチの居場所は即座に首都議会へ報告され、空爆による強制排除が全会一致で承認。該当の山は一夜にして焦土と化した。
「『大山鳴動して鼠一匹』……いや。ゴキブリが、ゼロ匹だねぇ」
そして、ここは捨てられたデパートの屋上。飛び回る爆撃機を、投下された爆弾を、燃え盛る山と森を遠目に眺めて、コックローチは微笑んだ。
エアレイド:空襲、空爆。