コックローチとヴォルケイノ
鬱蒼と木が生い茂る森があった。人間の手を離れた森は濃密な生命の気配を抱き、思わず立ち入るのを躊躇うような空気を醸し出している。
人間は滅多にこの森を訪れない。この辺りは特に魔力の濃度が高いためだ。となれば、この森にいるのは獣か、それか魔法使いだけだ。
木の実を集めていたのは若い男に見える魔法使い、コックローチだ。珍しく獣以外の気配を察知した彼は、燃えるように真っ赤な髪を生やした大男と出会った。
「お初にお目にかかる。コックローチ、だな?」
「うん、そうだよ。いつからそう呼ばれ始めたのかは覚えてないけどね。君は?」
「俺は『ヴォルケイノ』。名前くらいは聞いたことが──」
「…………」
「──なさそうだな」
「ごめんごめん。人と話さないから、世情にはどうも疎くてね」
「問題ない。噂通り、予想通りの反応だ」
問題ないと言いつつ、ヴォルケイノは若干不機嫌になったようだ。
「それで、わざわざ何の用だい? あ、これ食べる?」
「……その実は猛毒だぞ」
「そうだよ。だから絶対に余ってるんだ。競争しなくていいから楽だよね」
「……噂以上、予想以上だな」
「光栄だね。ところで用事は?」
「話を逸らしたのはお前だろうが……まあいい」
ヴォルケイノは切り株に腰掛けた。地面に座り果実を齧るコックローチにどこか蔑むような視線を向けている。その容貌は威圧感を与え、見下されているコックローチはなおさらそう感じているはずだが、当の本人はどこ吹く風だ。つまらなそうにヴォルケイノを眺めていた。
「戻ってこい、コックローチ」
「どこに?」
「俺たちの国に決まっているだろうが」
「ああ……」
コックローチは二つ目の実を口に放って、飲み込んだ。
「そりゃまた、どうしたんだい突然」
「どうしたもこうしたもあるか。人間共はここのところ調子に乗っている。抵抗するどころか、妙な武器を使って反撃を始めた」
「僕それ知ってるよ。魔法使いの骨が銃弾に入ってるんだってね」
「そうだ。不愉快極まりない。やはり人間には一度立場というものを教える必要がある」
「なるほどねえ」
「だからコックローチ、お前の力も必要だ」
「ええ? 僕? 君、何か勘違いしてるよ」
「ほう、勘違いか。どんなものか言ってみろ」
「僕は弱い」
「……続けろ」
「まず君は人間との闘争を計画してると思うんだけど、合ってる?」
「その通りだ」
「じゃあ僕は適任じゃない。だって弱いからね」
「面白い冗談だな」
言葉とは裏腹に、ヴォルケイノに笑みはなかった。
「知っているぞコックローチ。お前が『パンゲア』に認められた数少ない存在だということを」
「おっと……その名前はよくない。二度と口にしない方がいい。何処で誰が聞いているか、わかったものじゃないからね」
「お前、怯えているのか? 心配せずともパンゲアは眠っている。目覚めるのは500年後だ」
「……彼女がどうであれ、僕が弱いことに変わりはない」
コックローチは三つ目の果実を飲み込んだ。
「僕にとっての『強さ』は敵を退ける能力のことだ」
「同感だ」
「確かに、僕には命を奪う力がある。でもそれは力でしかない。意思が伴わなければ、力は能力にはならない」
「……何が言いたい」
「僕は敵を殺す意思がない。よって敵を殺す能力を持たない。ゆえに僕は弱い」
「…………」
「そもそもね、僕にとって人間は敵じゃないんだ」
「なんだと」
ヴォルケイノの額に小さな青筋が浮かんだ。
「敵ってさ、つまり生存を脅かす存在だよね? 命を狙われたり、食料を奪われたり」
「……結論を先に言え」
「もう言ったよ。人間は敵じゃない。人間から逃げるのは簡単だし、僕は人間が食べられないものも栄養にできる。争わないで生きていけるんだ」
「ふざけるな!!」
ヴォルケイノの周囲に、比喩ではなく火花が散った。
「お前は同胞をなんだと思っている! 人間に殺された彼らの想いを、屈辱を、なんだと思っている!」
「同胞って、魔法使いのことだよね?」
「当たり前だ!」
「当たり前、かあ……。僕にはその感覚がわからない。独りで生きてきたからね」
「独り、だと?」
「そうだよ。『戻ってこい』って君は言うけど、実は魔法使いの国がどこにあるのかも知らないんだよ。行ったことないから」
「そう、か……」
コックローチの言葉に嘘はないとわかったのか、それとも呆れ果てたのか。ともかくヴォルケイノは怒りの矛を収めた。だが諦めはしなかった。
「それでも俺に従え。コックローチ、最古の一人にして最強の一角よ。お前がいれば人間を滅ぼすなど容易い」
「最古でも最強でもないし……。人間を滅ぼして、どうするんだい?」
「決まっている。俺たちの世界を作るのさ」
「今の『国』では不満なのかい?」
「当然! そもそも、生物として優れているのは我々だ! それがなんだ、あの猿共は! 我が物顔で大地を歩き、したり顔で支配者を気取る! 個の力では遥かに俺たちに劣る分際で!!」
「でも、魔法使いは人間に勝てていない」
「ああそうだ。それは個が突出したあまりに連携が取れなかったせいだ。だが今は違う! 俺がいる! 俺たちの怒りと烈火をまとめ上げ、人間を滅ぼすという一点のみに収束させる! 勝利は揺るがない! だから来い、コックローチ!」
「いや、行かないさ。否定はしないけど同調もしないよ。勝手にやってほしいね」
「何故だ、何故拒む!? 何を求めているのだお前は!」
「決まっているさ、僕の生存だよ。生き物がそれ以外に何を望むんだい?」
「ならば約束しよう、コックローチ。勝利の暁には平穏な世界がやってくる。魔法使いの世界だ。……いや、人間に与えられた『魔法使い』を名乗る必要もない! 俺たちは『真人』だ!」
コックローチは四つ目の果実を口に入れ、ゆっくり静かに咀嚼し、飲み込んだ。
「そうか。君は、人間になりたいんだね」
「……は?」
「人間が魔法使いを殺そうとするのはわかる。『魔力』は人間にとって毒だからね。でもずっと不思議だったんだ。魔法使いが人間を殺そうとする理由が。人間が生きてても別に困らないのに。人間から離れればいいだけなのに」
──でも、やっとわかった。
「人間になりたかったんだね。魔法使いなんて、嫌だったんだね」
「……貴様あぁっっ!!!」
瞬間、ヴォルケイノの体から火が噴き出した。魔法使いがそう呼ばれる所以。それは人間を遥かに上回る身体能力と、魔法と呼ぶに相応しい超能力を持つからだ。
ヴォルケイノは炎を操る。だがそれは本質ではない。結果でしかない。彼は火山、ヴォルケイノ。地下深くに眠る溶岩を操るのが彼の魔法だ。
大地は震え、裂け、ヴォルケイノの怒りが噴き出す。草木を容赦なく焼き払う。
熱と煙が立ち込める中にコックローチはいない。噴火の寸前、ヴォルケイノの遥か後方に逃れていた。
「どうして怒るんだい? 嫉妬や憧れは当然の感情だ。恥ずかしく思うことはないよ」
「黙れ! 『人間になりたい』だと? どこまで俺を侮辱するつもりだ!」
「侮辱じゃない、発見さ。僕は君の欲求を否定しない。もちろん同調もしない。好きにやればいいと思うよ」
「……もういい。期待外れだ。何が最古、何が最強だ。貴様など牙を持たない臆病者! 争いを捨てた腑抜けでしかない! 貴様がのうのうと生きていては同胞に示しがつかない! 俺の手で消し炭にしてやる!」
「へえ、怖いね」
大地は幾度となく溶岩を噴いた。熱が、岩が、辺りを破壊し尽くす。森は消えた。そこにある生命は、もはや二人の魔法使いだけだった。
「今から本気で逃げるけど、最後に一言伝えておくね」
「待て!!」
「徒に力を振りかざす、自分の都合を何より優先させる、気に入らない存在は許さない……そんな君はもうすでに、どうしようもないほど人間だよ」
「な────」
コックローチの姿が消えた。
数秒の静寂の後、爆音と衝撃波が訪れる。ヴォルケイノの体は、森の残骸や地面の破片、燃え盛る炎とともに吹き飛ばされた。
「コックローチ……」
立ち上がり、見回す。コックローチはどこにもいない。音を置き去りにする速さで消えたから、その通り道には痕跡が残っているだろう。しかし追い付くのは不可能だ。
味方に引き入れることができなかった。魔法使いの恥を粛清することもできなかった。かつて森だった場所には暴力の跡が残るだけ。
こみ上げるのは、虚無感と怒り。
「コックローチィィィィィィ!!」
溶岩が噴き出す。絶叫が大気を震わせる。
走り出す直前、忠告を口にしたそのとき確かに、コックローチは微笑んだ。
ヴォルケイノ:火山、噴火口。