コックローチとゴーストタウン
朽ち果てたビルが崩れ落ちた。
轟音。破片。土煙。それらに埋め尽くされる無人の町を駆け抜ける影が一つ。
若い男だ。しかし、落下する破片に目もくれず走る姿からは年不相応の余裕が見て取れる。どこか超然とした空気を纏う彼は、死んだ町を縫うように駆けていた。
「待て、『コックローチ』!」
走る者はもう一人。男であるようだが、全身を防護服に包まれているせいでその容姿を知ることはできない。世界を覆う毒素から人間を守る装備だ。この地帯は比較的安全ですぐに体が侵されるということはない。それでも脱がないのは防護服に鎧の役割を任せているからである。
相対するのは『魔法使い』。人間と似た姿でありながら、異次元の身体能力と超能力を有する存在。
そして、人間にとって有毒な『魔力』を撒き散らす害獣。
「へえ。今のに巻き込まれて無事だったんだ」
「お前の卑劣な罠にかかるものか!」
「……あのさ、ビルが崩れたのは単なる偶然だよ?」
「魔法使いの言葉を信じろ、と?」
「無駄だと思うけど言っておくよ。僕は神じゃないんだ」
「そうだな。そしてお前は人類の敵、薄汚い魔法使いだ。本隊に連絡する時間も惜しい。ここで仕留めてやる」
「言われなくても、人間に会ったら別の町に行くことにしてるんだ。ここはすぐに出ていくよ」
「……無駄に喋らせるな。魔法使いは生を享受する行為そのものこそが大罪。気遣いがしたいのなら、死ね」
「原理主義者だねえ」
「余裕でいられるのも今の内だ」
銃口の先には魔法使いがいる。コックローチと呼ばれる彼は怯えもせずに向き合った。大口径の自動小銃に。
「この銃弾には魔法使いの骨が使われている。お前の同胞の骨だ」
「同胞」
「人間の武器はあくまで人間を殺すためのものだった。だがこれは違う。これの前では魔法使いも人間も変わらない。弾をブチ込めば死ぬ」
「魔法使いの骨が入っているからかい? すごいね、まるで魔法だ」
「……舐めるなよ、害獣。どうせハッタリだと思っているんだろう? 人間一人が自分に勝てるはずもないと驕っているんだろう? なら試してみるといい。自信があるんなら、な」
「君こそ随分な自信じゃないか。さては、魔法使いを殺したことがあるね?」
「正解だ。そうだとも、我らが第三部隊は負け無しだ。『ハリケーン』、『シザー』、『アリゲーター』……どれも俺達が殺った」
「へえ、そうなんだ」
「どいつもこいつも俺達を舐め腐ってたよ。それが、死んだときの間抜けヅラときたら……今思い出しても笑えるぜ!」
「よかったね。笑顔になるのはいいことだよ」
「……そうだな。だからお前を殺して嗤ってやるよ! そして魔法使いを殺す道具に作り変える。光栄に思えよ、コックローチ。存在が罪のお前が、初めて役に立てるんだからなぁ!」
銃声が響いた。
それだけだった。コックローチは変わらずそこに立っていた。
「負けると思っていないのは、君も同じじゃないかい?」
「な、何を……何をした!?」
「ま、正解なんだけどね。僕は君に勝てない。僕は君に勝たない」
「クソッ! クソッ!!」
何発撃とうが変わらない。銃弾が消えてしまったかのように、何事もなかったかのようにコックローチはそこに立っている。
「人間が僕を殺そうとしても僕は戦わない。ただ避けて、隠れて、逃げるだけさ」
「黙れ! 死ね! 死ね!!」
「どうして死なないといけないんだい?」
「お前が魔法使いだからだ! 魔法使いは魔力を出すからだ! 魔力は人間を殺すからだ!」
「命を奪うから死ぬべきなのかい? それなら、魔法使いを殺した君も死なないといけなくなるけど……」
「魔法使いは死んで当然だ! 殺されるのが必然だ! 存在に正当性はない! 生存に妥当性はない!」
「それは人間にとって、だろう?」
「そうだ! 人間にとって有害で無価値な魔法使いに生きる意味はない! だから死ね!」
「……僕は人間が嫌いなわけではないんだけどね、傲慢さを自覚していないのは大きな欠点だと思うよ」
「傲慢なのは魔法使いだ! 地球は人間のものだぞ! それを魔力で汚したのは、誰だと思っている!」
「怒らないでくれよ、責めてるわけじゃないんだ。生きるっていうのは、つまりは傲慢であることだろう? 傲慢なのは悪いことじゃない」
──でも、無自覚はよくないね。
銃弾が地に落ちた。全てコックローチが握っていたものだ。人間の目が追いつかない速度で、彼は銃弾を一つ一つ掴んでいた。
「欠点を認めたくない気持ちはわかるよ。でも、認めないと変われない。知能が高いだけの動物から、永遠にね」
「……上から物を語るな! 何を言おうが、お前が魔法使いである事実は揺るがない! お前のせいで多くの人間が死んだ! そしてお前は多くの人間を殺す! だから死ね! 今、ここで!」
「『多くの人間が死んだ』……? まったく心当たりがないんだけど」
「忘れたのかコックローチ。お前を殺そうとした兵士は尽く命を落としているんだぞ! お前が殺したんだ!!」
「ああ、そういうことね。違う違う、殺したんじゃないよ。僕はただ逃げただけさ。こんな風にね」
「くっ……待て!」
「僕はね、追いかけられたら危険な場所に逃げるようにしてるんだ。崖とか、崩れそうな建物とかね」
この町が捨てられてから長い時間が経った。あらゆる物には終わりがある。どれだけ頑丈に作ろうとも建物はいずれ朽ち果て、限界を迎える。コックローチが逃げ込んだビルもその類だ。
「さっきも見ただろう? この町はもう限界だ。すべての建物がいつ崩れてもおかしくない。ここだってそうさ」
「それで、崩落に巻き込んで殺すつもりか?」
「いいや。追いかけるのを止めてほしいんだよ。でもほとんどが上手くいかない。全員が僕を追いかけて、事故で死んじゃうんだよね」
「それがなんだ、言い訳のつもりか」
「君も、典型的だね」
屋上へ至る扉。その寸前でコックローチは足を止めた。階段の上から、銃を構える男を見下ろしている。
「忠告するよ。重い装備を着ている君が屋上を通ったら間違いなく崩れる。そして一階まで真っ逆さま。この建物の床は全部ボロボロだから、勢いが付いていたらあっさり壊れちゃうよ」
乾いた銃声が響いた。コックローチは銃弾を掴んでいる。眉一つ動かない。
投げ捨てられた弾は階段を転げ落ちていった。
「僕は屋上を通って逃げる。建物から建物へ飛び移って、この町を出ていくよ。追いかけても無駄だ。君では追いつけない。それどころか死ぬかもしれない。だから、絶対に来ちゃダメだよ? 」
コックローチは細心の注意を払って扉を開け、同じように閉めた。
「そんな言葉で俺が怖気づくと思ったのか!」
思わずため息を吐いた。鉄の扉が乱暴に押し開けられ、銃を持った人間が勢いよく飛び込んでくる。その足元に巨大な亀裂が走ったのを見届けて、コックローチは大きく跳んだ。
「うわああっっ!?」
そして朽ち果てたビルが崩れ落ちた。
轟音。破片。土煙。それらに埋め尽くされる無人の町。はるか上空から見ていた魔法使いは、その中に人間が吸い込まれたことを知っている。
「だから言ったじゃないか」
やがて地面に難なく着地し、瓦礫の山の中に真紅の肉片を見つけて、コックローチは微笑んだ。
ゴーストタウン:人が住まなくなった町。