9)いろんなお客さんが来ます②
希空は視界を閉ざしていたので、気付きませんでしたが、彼女の横を誰かが通り過ぎました。そして、男の人が拳を振り下ろそうとしたとき、誰かの声がしました。
「あーあ。かわいそうに」
張り詰めていた店内に、気の抜けた声が響き、思わず男の人は拳を止めます。皆も声の主に注目します。
声の主は、黒髪に黒ぶち眼鏡の輪伍でした。
輪伍は、床に膝を付け、四つん這いになっています。そして、彼の見詰める先には、チューリップの球根がありました。
彼は、その球根を両手で優しく拾い上げると、そっと顔を近づけて、注意深く観察します。
「まだ、大丈夫そう」
輪伍は、ほっとした表情を浮かべましたが、彼の友達の翔やココちゃん、萌ちゃんたちは、唖然としています。
いえ、彼らだけではなく、他のお客さん達も、輪伍の空気を読まないマイペースな言動に開いた口が塞がらないといった様子でした。
もちろん、男の人の怒りがそれで静まる訳はありません。むしろ、火に油です。
男の人は、レン君を離すと今度は輪伍の方へとずかずかと近づいて行きました。
「おい!テメェ、何のつもりだ!!」
「球根、取りに来ただけ」
輪伍は顔を上げ、眼鏡の下から眠たそう目を向けました。その目には、全く恐怖はありません。しかし、それが余計に男の人を苛立たせました。
「ナメてんのか、コラァ!!」
男の人は、輪伍の胸ぐらを掴むと、無理やりに立たせました。
「ぶっ殺すぞ、テメェ!!」
更に、怒鳴り散らかして、輪伍を威嚇します。しかし、輪伍は全く動じません。呑気に下がってきた眼鏡を直して、気の抜けた言葉を返します。
「それは困る」
それが引き金となり、男の人の怒りは頂点を越えました。その瞬間、希空には何かが切れたような音が聞こえました。
「ふっざけんじゃねぇーぞ!!」
怒り狂った男の人は、拳を高らかと振り上げ、それを容赦なく振り下ろし、輪伍の頬を殴りました。
鈍い音が店内に響き、輪伍は数メートル後ろへ吹き飛ばされました。
近くの2人掛けのテーブルに輪伍が倒れ込み、そこに載っていたお皿やグラスが宙を舞います。
お皿とグラスは、プラスチック製のため、床に落ちても割れませんでしたが、代わりにそこに座っていた女性客の割れるような悲鳴が上がりました。
「きゃあああっ!!!」
その悲鳴が鳴り止むか、鳴り止まないかのうちに輪伍は、むくっと上体を起こし、口元から流れてくる鮮血を袖で拭きとります。
「血……」
しかし、輪伍の目は相変わらず眠たそうで、殴られたにも関わらず、恐怖はありませんでした。
それが男の人は気に入らないようで、自分の力を見せつけて、相手を恐怖で支配したいのでしょう。わざとらしく大きな足音を鳴らして輪伍に近づき、今度は馬乗りになりました。
「ぜってぇ、ぶっ殺す!!」
男の人の目は、怒りに支配されていました。まさに狂気です。
馬乗りになった男の人は、拳を振り上げると、力一杯輪伍の顔に向けて振り下ろします。
それを1回だけではなく、2回、3回と繰り返しました。その度、耳を塞ぎたくなるような不快な音が響き、輪伍の切れた口から血が飛びました。
さすがの女の人も、もう囃し立てません。むしろ、少し怯えているくらいです。
お願い、もうやめて——!
希空は、そう心で叫び、誰かがこの惨劇を終わらせてくれることを願いました。
しかし、誰も止めようとはしません。誰も何も言いません。誰も近づきません。目を伏せ、ただ怯えているだけです。
希空はどうすればいいのか、分かりませんでした。
もし、自分がロボットではなく、健常な身体だったら——。
希空がそんな事を思った時、鋭いながらも太い声が、お店の奥から飛んできました。
「そこまでです!!」
店長のヨネリンでした。
ヨネリンはいつもの優しい顔ではなく、厳しく、怒りを露にした表情をしていました。
「今、警察を呼びました。さあ、大人しくしなさい」
ヨネリンがそう言うと、どこからかパトカーのサイレンの音が聞こえてきました。
ヨネリンの言葉とサイレンを聞いた男の人は、狂気に陥っていた精神をようやく現実へ取り戻し、自分の下で顔を歪めている青年を見下ろしました。
何度も殴られた輪伍の顔は、大きく腫れ上がっており、口からは血が滲んでいます。
直視できないくらい痛々しい顔をしていましたが、彼の眠たそうな目は変わりなく、ぼんやりと馬乗りになっている男の人を見詰めていました。
男の人は、今になって自分がとんでもないことをやらかしてしまったということに気付き、慌てて立ち上がると、輪伍から一歩、二歩と後退って離れました。
その間にサイレンの音が近づき、男の人を更に焦らせます。
「お、おい、アケミ。帰るぞ!!」
「え?あ、うん……ていうか、あたし、知らないから!」
男の人は、不必要に顔を巡らせ、連れの女の人を探しました。男の人に声をかけられた女の人も、サイレンの音を聞いて動揺している様子で、先にお店を出ようとします。
「ちょ、ちょ、待てよ!アケミ!」
男の人は、慌てて女の人を追い、2人は何度か躓きそうになりながら、逃げるようにお店を出て行きました。
2人が出て行った後も、店内はしばらく沈黙が続きました。
誰もが過ぎ去った恐怖に安堵しつつも、まだその余韻で動けないでいるのです。そんな重い空気が漂う店内にヨネリンの穏やかな声が響きました。
「皆さま、お騒がせして、申し訳ありませんでした」
店長のヨネリンが深々と頭を下げて謝罪しました。
でも、悪いのはヨネリンではありません。あの2人が悪いのです。
いいえ、あの2人だけではありません。
「健常な心身」をもっているにも関わらず、楓ちゃんやレン君、更には輪伍を助けようともせず、何も言わず、何もしなかった皆も悪いです。
希空はそう思い、切ない声を上げました。
「なんで……なんで、皆、何もしてくれなかったの?」
泣きそうな希空の声が店内を包みます。
しかし、誰も答えようとはしません。皆、俯き、口を閉ざし、黙り続けています。
希空にはそれが許せませんでした。
「自分の『身体』があって、正常な『こころ』があって、なんで助けてくれなかったの?」
希空の言葉は、とても重く、それ故に皆の心を揺さぶりました。
しかし、それを肯定するか、否定するかは、人それぞれです。皆、バラバラなのです。
一番初めに言葉を返してくれたのは、ココちゃんでした。
「希空……。ごめん……」
ココちゃんは涙ながらに謝りました。続いて、萌ちゃんも言葉を発します。
「希空……。うちら、なんも出来んくて、ごめん……。でも、うちらも怖かったし……」
萌ちゃんも泣いていました。
他のお客さん達も彼女らに続いて、口々に謝罪の言葉を述べます。
「すいません……」
「ごめんなさい……」
「力に慣れなくて、すまなかった……」
「私たちも怖かったの。許して……」
涙を流す友達や申し訳なさそうに頭を下げるお客さん達を見て、希空は自分が望んでいた答えは、これなのだろうかと、考えました。
彼女の胸はざわついており、心は落ち着きませんでした。
すると、輪伍は膝に手を付きながら、ゆっくりと立ち上がり、ヨロヨロと希空に近づいてきました。
「誰も悪くない。だから、謝らなくてもいい」
輪伍は、切れた口元を服の袖でゴシゴシと拭きながら、そう言いました。それから、手をそっと差し出します。
「あと、これ」
希空は、何も言えないまま、輪伍の手を見ました。そこには、チューリップの球根が収まっていました。
彼は、馬乗りで殴られている間も、ずっと球根を離さずにいたのです。
「多分、大丈夫。また植えればいい」
「なんで——」
なんで、酷い目に遭ってでも球根を守ってくれたの?
希空はそう聞きたかったのですが、言葉が詰まって出てきませんでした。
しかし、輪伍にはちゃんと伝わっていました。彼は、コクリと頷くと、いつもの呟くような声で答えます。
「大事なものなんだろ」
希空には、涙を流す機能がありません。ですが、輪伍が身体を張って、大切な、お母さんへのプレゼントであるチューリップの球根を守ってくれた事が嬉しくて——でも、人のせいにするばかりで、何も出来なかった自分が情けなくて、涙が出そうでした。
「……ありがとう」
希空は涙声で、そう言って、輪伍から球根を受け取りました。
「あとチューリップは外で育てる。寒さが必要だから」
輪伍は、そう言い残すと、今度は、動かなくなった楓ちゃんのところへと向かいます。そして、しばらく彼女の事を見詰めると、おもむろに手を取りました。
輪伍の女の子みたいな細い手と、楓ちゃんの機械的な真っ白い手が、重なり合います。
手が重なり合っても、楓ちゃんは言葉を発する事も、動く事もありませんでした。
恐らく、恐怖のあまり、回線を切断しているのでしょう。それでも輪伍は、優しく彼女の手を包み続けました。
すると、重なり合っている手から、ほんのりと緑色の光が浮かび上がりました。
それは、以前、紅葉を観に行ったときに、輪伍が小鳥を癒した様子と同じでした。
淡い緑色の光は、柔らかく2人の手を包み、次第に手の内へと集約していきます。光が静かに消えると、輪伍が顔を上げました。そして、小さな声で呟きます。
「大丈夫……。きっと大丈夫」
それは誰に向けて言った言葉なのか、希空にはわかりませんでした。
そのあと、お店に残っていたお客さん達は、改めて輪伍たちに深々と謝罪し、お店を出て行きました。
しかし、輪伍から発せられた緑色の光は、皆には見えていなかったようで、誰もそのことについて、尋ねる事はありませんでした。
また、パトカーはお店には来ませんでした。厨房担当のまっさんが、機転を利かせて、スピーカーからサイレンの音を流していたのです。
こういうときは、ロボットであることに便利さを感じるな、とまあるい声で笑っていました。
しかし、良くない事もありました。
楓ちゃんが、お店の閉まる午後2時になっても止まったままだったのです。何度も呼び掛けましたが、反応はありませんでした。
「きっと、落ち着いたらまた一緒に働けるよね」
希空は動かなくなった楓ちゃんに、呟くように声をかけました。
しかし、次の日も楓ちゃんが動く事はありませんでした。