7)これが、外の世界……③
しばらく俯きながら遊歩道を進むと、すぐ傍にベンチがある事に気付きました。
誰か座っています。
希空は、その誰かの足元を、自分の視界に映すと、ゆっくりと顔を上げました。
真新しい黒のスニーカー。黒く細身のパンツに秋らしいライトブラウンのニット。顔には見た事のある黒ぶち眼鏡がかかっていて、ふんわりとクセのある髪は真っ黒です。
希空にはその人が誰なのか、すぐにわかりました。
ベンチに座っていたのは、ココちゃんや萌ちゃんと同じ大学に通っている輪伍でした。
「あ、りん——」
希空は思わず、声をかけそうになりましたが、慌てて口を噤みます。輪伍は、希空に気付いておらず、何かに夢中になっていたからです。
希空はそっと近づき、輪伍の様子を伺いました。
膝上には一冊のスケッチブックが載っており、彼は背中を丸めて一生懸命に鉛筆を走らせていました。
希空はもう少しだけ近づき、カメラの倍率を上げます。このときだけは、ロボットであることを便利に思いました。
どうやら輪伍は、目の前に広がっている秋の風景をスケッチしているようでした。
輪伍の描く絵は、大変上手でしたが、どこか弱々しく、リアルさや躍動感みたいなものを感じません。
静かな風景画ですから、力強さみたいなものはなくて当然だと思いますが、それでも実際の風景よりも頼りなく感じました。それによくよく見てみると、実際の景色とは、違う点があります。
モノクロで描かれる秋の遊歩道に、ひとりの少女が立っています。
しかし、実際は誰もいません。綺麗に敷き詰められた黄色の絨毯も人が通った痕跡はなく、森閑としています。
その少女は、空想上の人物なのでしょうか。
希空はいつの間にか、輪伍の絵が気になってしまい、随分と近くまで歩み寄っていました。
しかし、それでも輪伍は、近くで鳴っているモーター音に気付く事はなく、夢中で絵を描き続けています。まるで、絵の世界に入り込んでしまっているように。
と、そのとき——。
2人の間を小さな黒い影が横切りました。それは、一瞬の出来事で、希空の視覚ではそれが何なのか、認知する事はできませんでした。
そして、2人の間を横切って行った影は、まるで墜落する飛行機のように、数メートル離れたイチョウの根元へ落ち、衝撃で落ち葉を舞い上げました。
さすがにその物音には、鉛筆を走らせる事に夢中になっていた輪伍も気付き、顔を上げます。
しかし、物音がした方へ目を向けようとする前に、すぐ傍で鳴っているモーター音が耳に入って、自分を見詰めているロボットの白い顔を見ました。
「あ、希空……さん?」
「あっ」
輪伍と目が合った希空はのぞき見をしていたことを彼に見つかってしまったと思って、返答に困りました。
「あ、えっと、あのー……そのー……ごにょごにょごにょ……」
希空は、始めはどうやって誤魔化そうかと考えましたが、輪伍の眠たそうな目に見つめられていると、なぜか嘘をついてはいけない、と思えてきて、正直に謝る事にしました。
「は、はい。希空です……。えっと……輪伍君。ごめんなさい。のぞき見するつもりはなかったんです」
一方、謝罪を受けた輪伍は、下がっていた眼鏡を直すと、ロボットの白い顔からスケッチブックへと視線を落としました。
「別に気にしてないから」
呟くような声でしたが、そう言われ、希空はほっとします。
「そ、そっか。ありがとうございます」
そして、輪伍の描いた風景のなかにいる少女は誰なのか、聞きたいと思いました。
「えっと、それとさ——」
だけど、言葉はそれ以上出てきませんでした。
いつもぼんやりとしている輪伍ですが、きっと嫌がる事も、怒る事もなく、聞けば素直に教えてくれたでしょう。だけど、なぜか希空には聞いてはいけないような気がしたのです。
そうしているうちに、輪伍はベンチから立ち上がり、ゆっくりと歩き始めました。どうやら、落ちてきたものが何なのか、確認に行ったようです。
希空もついて行こうと思いましたが、イチョウが植えてある場所は、石畳ではなく、そこから一段高くなっている土の上でした。足が3つの小さな車輪になっている希空には、段差を越える事も、土の上を進むこともできません。だから、石畳の上から輪伍へ声をかけます。
「ねぇ、何が落ちてきたの?」
輪伍は、落ちてきたものをそっと両手で拾い上げると、希空の方を見ました。
「……」
しかし、返事はありません。
希空はもう一度、声をかけてみる事にしました。
「ねぇ、輪伍君。何があったの?」
「……」
やはり返事はありません。
希空は輪伍に無視されたのかと思いましたが、彼の顔は、確かにこちらを向いています。そして、よく見てみると、輪伍の口が動いていました。彼の声が小さすぎて、希空の聴覚では、拾えなかったようです。
言葉が届いていない事に気付いたのか、輪伍は、ゆらゆらと歩きながら希空に近寄ってきました。
希空はもう一度だけ、尋ねてみます。
「あのさ。何を拾ったの?」
「とり」
「鳥?」
希空が聞き返すと、輪伍は両手を差し出すように、掌に収まっている黒いものを見せました。それは、小さな鳥でした。色は、黒なのか、深い紺色なのか、希空には見分けはつきませんでしたが、カラスではなさそうでした。
「怪我しちゃったのかな?」
「たぶん」
輪伍の掌に収まっている小鳥は、震えていました。時折、羽を広げて逃げようとしますが、上手くいきません。
「なんだか、可哀そうね……」
怪我をしている小鳥は、もう自力でエサをとることも、空に飛びあがる事もできないでしょう。自然界を生き抜いていくだけの力は、もうないのです。
このまま弱っていくしかない……。
なんとなくですが、希空にはそれがわかりました。
すると、輪伍は、何を思ったのか、弱々しい小鳥を両手で覆ってしまいました。そして、見えなくなった小鳥に語り掛けます。
「今、楽にしてやるからな……」
輪伍は、両手に力を込め始めました。
徐々に力んでいく輪伍の両手に押しつぶされそうになっている小鳥は、もがき始めます。キーキーと甲高い声を上げ、必死に逃げようとしていますが、小鳥に比べて、輪伍の力は圧倒的です。逃れられるはずがありません。
これでは、小鳥が潰されてしまう。
そう思った希空は、慌てて輪伍を止めようとします。
「ちょ、ちょっと、輪伍君!何をしているの?」
「いいから」
「で、でも、苦しそうだよ」
しかし、それでも輪伍は、力を緩めませんでした。
甲高い小鳥の鳴き声が、苦しい、苦しい、と訴えかけているようです。
もしかしたら輪伍は、この先、小鳥がもっと苦しまないように、今、命を絶ってあげようとしているのでしょうか。
それが良いことなのか、悪いことなのか、希空には判断がつけられませんでした。
小鳥の鳴き声が弱くなってきました。輪伍は、より一層力を込めます。
終わりが近い……。
希空はそう思いました。
そして、小鳥の鳴き声が完全に途絶えた時、不思議な事が起こりました。
鳥を包んでいる輪伍の両手が、淡い緑色に光り始めたのです。その光は、周囲へと広がっていくような強い光ではありません。柔らかくて、控えめで、彼の手の周囲だけにぼんやりと留まっています。
希空はその光景に、初めは自分の目を疑いました。次に、自分の目の前にあるモニターを疑いました。それでも納得できない希空は、ロボットの眼であるカメラを疑いました。しかし、エラー表示は出ていません。いずれも、正常に機能しているようです。
では、あの光は何なのでしょうか。
希空が不思議に思っていると、光は徐々に弱まり、輪伍の手の内へと集束していきました。そして、完全に光が失われると、輪伍は、手に込めていた力を抜きます。
そっと緩められた輪伍の手の間から、ピーピーと小鳥の鳴き声が漏れてきました。それは、先程のように苦しい、とは訴えていません。まるで、歌を歌うような明るい声でした。
「さあ、行きな」
輪伍がそう言って、両手を高くかざすと、青い小鳥が元気に飛び立っていきました。
黒だと思っていた小鳥は、汚れていただけで、実は青色だったようです。
希空は、元気に飛び立っていった小鳥を見上げ、何が起こったのか、必死に理解しようとしました。だけど、彼女の思考回路では、理解が追いつきません。だから、目の前のひょろっとした黒ぶち眼鏡の青年に尋ねます。
「今のは……何なの?」
輪伍は、下がってきた眼鏡の隙間から、チラリと希空を見て答えました。
「……命を分けたんだ」
「命を分ける??」
希空の思考はもっと混乱してしまいました。
「一体、どういう——」
しかし、そこまで言いかけた時、背後から鋭い声が飛んできました。
「おーい!希空!時間だぞ!早く戻れー!!」
レン君の声です。声の大きさからすると、自動調整機能をオフにしているのでしょう。彼のいる駐車場からは随分と離れていますが、すぐ傍にいるような大声です。
希空はまだ輪伍に聞きたいことはありましたが、仕方なく、戻る事にします。
「えっと……、呼ばれちゃったから、もう行くね」
「……うん」
「鳥、元気になって良かったね」
「……うん」
「じゃあね」
「……うん」
輪伍は目を伏せたまま、ぼんやりと地面を見詰めていました。希空は、そんな彼に手を振り、身を翻して、背を向けました。
そして、1メートルほど進んだところで立ち止まり、再び輪伍を見ます。
「また、お店来てよね!」
「……わかった」
輪伍の声はとても小さかったけど、希空にはちゃんと届きました。
それから希空はもう振り返る事はなく、「おせぇーぞ」とか「早くしろよな」と、厳しい言葉を言っているレン君の方へと進んで行きました。
あの光は何だったんだろう?
希空は帰りのバンのなかで、そんな疑問を浮かべていましたが、今度、お店に来た時に聞いてみよう、と思い直し、楓ちゃんやレン君、まっさんとのおしゃべりを楽しみました。