表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

第4話

 明け方から降り始めた雨が、庭の桜を葉桜に変えてしまったらしい。

 玄関先にできた水たまりに桃色の花びらが無数に飛び散っていた。飛び石が桜で覆い隠されていた。

 

 払暁という言葉がよく似合う空だった。アブラゼミもミンミンゼミも眠りについたままらしく、糸のような雨が瓦をうちつけるほかは、音は何一つ鳴っていなかった。身体にまとわりついてくる蒸し暑さもなければ、気だるさもなく、朝の澄んだ気配があるだけだった。

 

父の容体が急変したと連絡が入り気が動転していたせいか、そんな妙なことばかり覚えている。


 私は母の顔を知らない。父が私を男手一つで育ててくれた。

父は病床についてもなお、平生と変わらぬ様子を見せる気丈な人だった。

 娘が生まれた頃にはボケが始まっていたとはいえ、私の知っている人の中で誰よりもタフな男だった。

 病院に駆け着いた時にはもう手遅れで、ついに死に目には会えなかった。父の身体が細糸で結ばれただけの頼りない人形のように見え、どうしようもなかったのを覚えている。

 

 ――――もう三か月になる。父の死を認識できたのは一週間前のことに過ぎない。受け止めることはまだできていない。









 遺品の整理をしていて、古いアルバムを見つけた。

 撮られた年代はどれも異なるが、たいていが亡き父と二人で写った写真。もしくは、祖父母も加わった四人での家族写真だった。

 その中の一枚に目を引かれるものがあった。


 いつ頃の年代かはっきりしないが、恐らく私がまだ乳飲み子だった頃のもの。

 記憶にあるどの姿よりも若い、どこか緊張した面持ちの父と、その傍らに寄り添うように一人の綺麗な女性が写っている。

 女性はしかめっ面をした父を嗜めるように横目で見つつ、抱いた赤ん坊をあやしている。

顔に品のある笑みを浮かべている。


 桜のような華やかさこそないが、寒梅の静かな美しさを思い出させる笑顔だった。


 写真が撮られたのは砂浜のようで、その奥には建物が見てとれた。遠くて分かりにくいが、民家などではなく何かの施設のようである。


写真をめくってみると、裏に小さいが力強い字で〝白砂浜にて撮影〟と書かれてあった。


 白砂。父が生前つけていた日記も、確か同じ名前だった。


 段ボール箱から日記帳を探し出す。古いメモ帳に家計簿、父の日だったか誕生日だったかに私が送った似顔絵、懐かしいものばかりが出てきた。

 埃を振りはらい、中から日記帳をひっぱりだす。ひときわ古びている。これに間違いなかった。


 「お、お父さん。こっち来て手伝ってよ――――」

 

 娘の声が二階からしたが、聞こえなかった事にしよう。父の癖だったのだろうか。日記は一種、独特の形式でもって綴られていた。

 


 

 






 五月三日(金)

 

 

 病室を訪ねた時、和子はまだ眠っていた。

 本当によく寝ていて、あまりに静かなので、思わず枕元へ駆け寄ってしまう程だった。


お義母さんが置いていったのか。備え付けの棚に花瓶が置かれ、花がいけられていた。白のガーベラだった。

 白いタイル張りの無機質な病室には不釣り合いなように思えた。赤や青といった艶やかな花の方が似つかわしくあっただろう。

 手にさげていたボトルメールを花瓶の隣に置いた。来る途中、砂浜に打ち上げられているのを見つけて、拾ったものだ。

 透明なガラス越しに中身を見つめた。外国の貨幣や枯れた花びら、青年の写真。ボトルメールの所有主からすれば、どれも大切な一品だったに違いない。



 ボトルメールに囁かれでもしたのか、それから少しして、和子は目を覚ました。

 








「今日、仕事は・・・?」

両手を組み合わせて伸ばしながら、和子はそんなことを尋ねてきた。


「お寝坊さん。今日は日曜日だよ」

と答えつつ、そばの椅子に腰かける。きしむ音がした。遠くから船の汽笛が聞こえた。


電燈が点いていないせいか、病室は薄暗かった。向かい側の壁の窓から舞い込む日差しだけが、唯一の明かりだった。

 彼女の横顔を朝日が照らしていた。



和子は眠たそうに目をこすりながら、

「寝てばっかりだからかな。曜日の感覚がなくなっちゃってるのね」

と、静かに笑った。


 両手をベットに押しつけ支えるようにして、彼女はゆっくりと身体を起こした。

 棚の上に置いたボトルメールに気がついたようで、猫のように目を細めている。


「夏休み明けの小学生みたいなもんか」


 和子が笑みをこぼした。髪を切りに行くと美容師さんに散髪するのを惜しがられるのよと、いつも自慢していた黒髪が、心なしか色あせて見えた。


 「そういや、また何か変なこと言っただろ。お義母さん、和ちゃんがおかしくなったって、泣いてたぞ」

 いったい何のこと、とでも言いたげに、きょとんとした顔をしている。


 「ほら、あれだよ。天井がどうしたとか何とかって」

 彼女は眉間にしわを寄せると、天井を見上げた。やがて、あぁ、とつぶやくと枕をひっくり返し、下敷きになっていた本を取り出した。

 「これかな・・・」

 尾崎放哉の句集だった。日焼けや擦り切れがひどく目立つ。恐らく、本好きのお義父さんに借りた物だろう。

 「ちょうど、尾崎放哉の句集を読んでてね。母さんが調子はどうって聞いてくるから、これからちょっと引用して、〝天井のふし穴が一日わたしを覗いて居る〟って答えたの」

 悪びれる様子も見せず、笑顔を浮かべている。

 「お義母さんをあまり心配させちゃダメだぞ。ただでさえ心配性なんだから」

 「―――――そうね、気を付けるわ」

 彼女は句集を置くと黙り込んでしまった。目を窓のほうにやった。

 汽笛が鳴った。潮の匂いが病室までとどいてくるようだった。

 

 「そういえば先生が、時々外に出て風にあたるのも大切ですよって言っていたよ。今日なんか、よく晴れているしどうだい?海に行かないかい?ボトルメールを流したいんだ」

 和子は目をつむっていた。眼裏に潮騒や魚が飛びはねる姿が浮かんでくるのだというように。

 「―――――いいね、楽しそう。何を入れようか」

 「実はまだ決めてないんだ」

 「まぁ、何ということ。人間失格だわ」

 「〝何たる失策であることか〟」

 和子は腹を抱えるように笑い出した。息が続かないようで、目に涙を浮かべながら笑い転げている。

 いつもの彼女だ。私はボトルメールを彼女に手渡した。








 防波堤の石階段をのぼり切ると、海が見えた。浜辺には誰もいなかった。朝日に照らされた水面が魚鱗のようにゆらめいていた。

 和子の身体を支えながら階段を下り、波打ち際まで歩いた。

 「あの子、今ごろどうしているかな?」

 不意に和子が尋ねてきた。

 「父さんと遊んでいるんじゃないかな。ひょっとしたら母さんとかも。どっちが面倒をみるかで取り合いをして、朝早くから大変だったんだよ」

 「お義父さんとお義母さんらしいや」

 和子はくすぐったそうに笑った。彼女はしゃがみこむと、押し寄せてきた波に両手をつけた。

 「ボトルメール、君が投げるかい?」

 右わきに抱えていたボトルを彼女に差し出した。病室で一度彼女に手渡したのだが、首を横に振られたので、リリースされていた。

 「そうさせてもらうわ」

 立ち上がった彼女は私からボトルを受け取ると、その先端をつかみ、下手投げの要領で思いっきり投げた。ボトルは宙に弧を描きながら飛んで行った。力をこめすぎていたのか、大きな音を立てて着水した。

 「割れてないかしら」

 「大丈夫だよ。ここに来るまでの長旅も乗り越えたんだ、きっと大丈夫さ」

 ボトルメールの行方を追おうと思ったが、水面が鏡のように朝日を反射するので、たまらず海から目を背けた。和子と目が合った。

 「ボトルメールさん、見ないでいいの?」

 「君こそ」

 和子の顔が崩れたのが先か、それとも私の顔が先かは分からない。ほとんど同時に声を上げて笑い出した。何か特別おかしなことがあったわけではないが、笑いがこみあげてしょうがなかった。

 笑いの波が引いた後、海を見返してみたが、ボトルメールはもう見えなかった。

 「サヨナラだけが人生だ、か」

 和子がつぶやくように言った。

 「尾崎放哉かい?」

 「井伏鱒二よ。厄除け詩集、昨日読んだの。ほかの作品も読みたいと思っているんだけど、時間が・・・・・ね」

 「時間ならあるさ。僕も読むからさ、読み終わったら読書談義でもしようよ」

 「ーーーなつかしいな。いつぶりだろう」

 「さぁ、もう何年もやってないんじゃないかな」

 「付き合い始めた頃にやったきりだっけ。結婚して、あの子が生まれて・・・・・早いものね」

 彼女の横顔はどこか寂しそうだった。

 「この砂浜に来たのも久しぶりじゃないかな、そういえば」

 「あの子が生まれて間もない頃だったけ。家族写真を撮ったのよね」

 「---退院したら、また三人で撮ろう」

 和子の返事は、小声だったせいもあるが、突風と波のせいで聞き取れなかった。風にあおられた髪を押さえるのでいっぱいいっぱいのようだった。

 「サヨナラだけが人生だ、か」

 私のつぶやきを彼女は聞き逃さなかった。

 「気に入ったの?」

 「いいや。深みがあって重たい言葉なんだろうけど、今はどうも好きになれないな」

 「気取った言い方ね」

 彼女は踊り子のように身体を回してこちらを振り向くと、私の瞳をのぞきこみながら笑みを浮かべた。

 ひどく妖艶な微笑みだった。死桜ほど美しい花はないと、祖父が常々言っていたが、彼女の笑い方はまさに桜のそれだった。

 「―――――風にあたりすぎるのもよくないよ、そろそろ帰ろう」

 「おっしゃることがよく変わりますこと。・・・・・そうね、名残惜しいけれど帰りましょうか。では、スイートルームまでエスコート願えますかしら、ボーイさん?」

 和子が右手を差し出してきた。

 「分かりました。お嬢さん」

 私は彼女の手を両手で包み込むように握った。








 手記は、ここで終わっていた。

 

 「お父さんどうしたの。こんなところで・・・」

 「―――――う、うん。何でもないさ」

 気付かぬうちに、娘がすぐそばまで来ていたようだ。私の姿を不審に思ったのか、何も言わずに、そっとハンカチで私の頬をぬぐってくれている。


 霞んでぼやける文字を追いながら、ふとあの日の事を思い出した。

 娘の〝和子〟が生まれた日の事だ。


 その当時、既にぼけ初めていた父が娘の顔、父からすれば孫娘の顔を見た瞬間にこう言ったのだ。


『和子。この子の名前は、和子だ』

 

 呂律が回らなくなっていた父とは、全くの別人に思える、静かでありながら響き渡るあの声で。



 「この人、知っている人?綺麗な人ね・・・・・」

 手元の写真を覗き込むなり、和子が感嘆の声をあげる。そんな姿を微笑ましく思いつつ、こう答えた。

 「この人はな、お父さんのお母さんで、お前のお婆さん。和子さんという人さ」

 驚いたように目を開いたのもつかの間、破顔する。桜のような華やかさはないが、品のある素敵な笑みだ。


 写真の中の笑顔と娘を見比べる。


亡き母も、きっとこんな風に笑っていたのだろう。そうに違いない。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ