第4話
明け方から降り始めた雨が、庭の桜を葉桜に変えてしまったらしい。
玄関先にできた水たまりに桃色の花びらが無数に飛び散っていた。飛び石が桜で覆い隠されていた。
払暁という言葉がよく似合う空だった。アブラゼミもミンミンゼミも眠りについたままらしく、糸のような雨が瓦をうちつけるほかは、音は何一つ鳴っていなかった。身体にまとわりついてくる蒸し暑さもなければ、気だるさもなく、朝の澄んだ気配があるだけだった。
父の容体が急変したと連絡が入り気が動転していたせいか、そんな妙なことばかり覚えている。
私は母の顔を知らない。父が私を男手一つで育ててくれた。
父は病床についてもなお、平生と変わらぬ様子を見せる気丈な人だった。
娘が生まれた頃にはボケが始まっていたとはいえ、私の知っている人の中で誰よりもタフな男だった。
病院に駆け着いた時にはもう手遅れで、ついに死に目には会えなかった。父の身体が細糸で結ばれただけの頼りない人形のように見え、どうしようもなかったのを覚えている。
――――もう三か月になる。父の死を認識できたのは一週間前のことに過ぎない。受け止めることはまだできていない。
⁂
遺品の整理をしていて、古いアルバムを見つけた。
撮られた年代はどれも異なるが、たいていが亡き父と二人で写った写真。もしくは、祖父母も加わった四人での家族写真だった。
その中の一枚に目を引かれるものがあった。
いつ頃の年代かはっきりしないが、恐らく私がまだ乳飲み子だった頃のもの。
記憶にあるどの姿よりも若い、どこか緊張した面持ちの父と、その傍らに寄り添うように一人の綺麗な女性が写っている。
女性はしかめっ面をした父を嗜めるように横目で見つつ、抱いた赤ん坊をあやしている。
顔に品のある笑みを浮かべている。
桜のような華やかさこそないが、寒梅の静かな美しさを思い出させる笑顔だった。
写真が撮られたのは砂浜のようで、その奥には建物が見てとれた。遠くて分かりにくいが、民家などではなく何かの施設のようである。
写真をめくってみると、裏に小さいが力強い字で〝白砂浜にて撮影〟と書かれてあった。
白砂。父が生前つけていた日記も、確か同じ名前だった。
段ボール箱から日記帳を探し出す。古いメモ帳に家計簿、父の日だったか誕生日だったかに私が送った似顔絵、懐かしいものばかりが出てきた。
埃を振りはらい、中から日記帳をひっぱりだす。ひときわ古びている。これに間違いなかった。
「お、お父さん。こっち来て手伝ってよ――――」
娘の声が二階からしたが、聞こえなかった事にしよう。父の癖だったのだろうか。日記は一種、独特の形式でもって綴られていた。
⁂
五月三日(金)
病室を訪ねた時、和子はまだ眠っていた。
本当によく寝ていて、あまりに静かなので、思わず枕元へ駆け寄ってしまう程だった。
お義母さんが置いていったのか。備え付けの棚に花瓶が置かれ、花がいけられていた。白のガーベラだった。
白いタイル張りの無機質な病室には不釣り合いなように思えた。赤や青といった艶やかな花の方が似つかわしくあっただろう。
手にさげていたボトルメールを花瓶の隣に置いた。来る途中、砂浜に打ち上げられているのを見つけて、拾ったものだ。
透明なガラス越しに中身を見つめた。外国の貨幣や枯れた花びら、青年の写真。ボトルメールの所有主からすれば、どれも大切な一品だったに違いない。
ボトルメールに囁かれでもしたのか、それから少しして、和子は目を覚ました。
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「今日、仕事は・・・?」
両手を組み合わせて伸ばしながら、和子はそんなことを尋ねてきた。
「お寝坊さん。今日は日曜日だよ」
と答えつつ、そばの椅子に腰かける。きしむ音がした。遠くから船の汽笛が聞こえた。
電燈が点いていないせいか、病室は薄暗かった。向かい側の壁の窓から舞い込む日差しだけが、唯一の明かりだった。
彼女の横顔を朝日が照らしていた。
和子は眠たそうに目をこすりながら、
「寝てばっかりだからかな。曜日の感覚がなくなっちゃってるのね」
と、静かに笑った。
両手をベットに押しつけ支えるようにして、彼女はゆっくりと身体を起こした。
棚の上に置いたボトルメールに気がついたようで、猫のように目を細めている。
「夏休み明けの小学生みたいなもんか」
和子が笑みをこぼした。髪を切りに行くと美容師さんに散髪するのを惜しがられるのよと、いつも自慢していた黒髪が、心なしか色あせて見えた。
「そういや、また何か変なこと言っただろ。お義母さん、和ちゃんがおかしくなったって、泣いてたぞ」
いったい何のこと、とでも言いたげに、きょとんとした顔をしている。
「ほら、あれだよ。天井がどうしたとか何とかって」
彼女は眉間にしわを寄せると、天井を見上げた。やがて、あぁ、とつぶやくと枕をひっくり返し、下敷きになっていた本を取り出した。
「これかな・・・」
尾崎放哉の句集だった。日焼けや擦り切れがひどく目立つ。恐らく、本好きのお義父さんに借りた物だろう。
「ちょうど、尾崎放哉の句集を読んでてね。母さんが調子はどうって聞いてくるから、これからちょっと引用して、〝天井のふし穴が一日わたしを覗いて居る〟って答えたの」
悪びれる様子も見せず、笑顔を浮かべている。
「お義母さんをあまり心配させちゃダメだぞ。ただでさえ心配性なんだから」
「―――――そうね、気を付けるわ」
彼女は句集を置くと黙り込んでしまった。目を窓のほうにやった。
汽笛が鳴った。潮の匂いが病室までとどいてくるようだった。
「そういえば先生が、時々外に出て風にあたるのも大切ですよって言っていたよ。今日なんか、よく晴れているしどうだい?海に行かないかい?ボトルメールを流したいんだ」
和子は目をつむっていた。眼裏に潮騒や魚が飛びはねる姿が浮かんでくるのだというように。
「―――――いいね、楽しそう。何を入れようか」
「実はまだ決めてないんだ」
「まぁ、何ということ。人間失格だわ」
「〝何たる失策であることか〟」
和子は腹を抱えるように笑い出した。息が続かないようで、目に涙を浮かべながら笑い転げている。
いつもの彼女だ。私はボトルメールを彼女に手渡した。
⁂
防波堤の石階段をのぼり切ると、海が見えた。浜辺には誰もいなかった。朝日に照らされた水面が魚鱗のようにゆらめいていた。
和子の身体を支えながら階段を下り、波打ち際まで歩いた。
「あの子、今ごろどうしているかな?」
不意に和子が尋ねてきた。
「父さんと遊んでいるんじゃないかな。ひょっとしたら母さんとかも。どっちが面倒をみるかで取り合いをして、朝早くから大変だったんだよ」
「お義父さんとお義母さんらしいや」
和子はくすぐったそうに笑った。彼女はしゃがみこむと、押し寄せてきた波に両手をつけた。
「ボトルメール、君が投げるかい?」
右わきに抱えていたボトルを彼女に差し出した。病室で一度彼女に手渡したのだが、首を横に振られたので、リリースされていた。
「そうさせてもらうわ」
立ち上がった彼女は私からボトルを受け取ると、その先端をつかみ、下手投げの要領で思いっきり投げた。ボトルは宙に弧を描きながら飛んで行った。力をこめすぎていたのか、大きな音を立てて着水した。
「割れてないかしら」
「大丈夫だよ。ここに来るまでの長旅も乗り越えたんだ、きっと大丈夫さ」
ボトルメールの行方を追おうと思ったが、水面が鏡のように朝日を反射するので、たまらず海から目を背けた。和子と目が合った。
「ボトルメールさん、見ないでいいの?」
「君こそ」
和子の顔が崩れたのが先か、それとも私の顔が先かは分からない。ほとんど同時に声を上げて笑い出した。何か特別おかしなことがあったわけではないが、笑いがこみあげてしょうがなかった。
笑いの波が引いた後、海を見返してみたが、ボトルメールはもう見えなかった。
「サヨナラだけが人生だ、か」
和子がつぶやくように言った。
「尾崎放哉かい?」
「井伏鱒二よ。厄除け詩集、昨日読んだの。ほかの作品も読みたいと思っているんだけど、時間が・・・・・ね」
「時間ならあるさ。僕も読むからさ、読み終わったら読書談義でもしようよ」
「ーーーなつかしいな。いつぶりだろう」
「さぁ、もう何年もやってないんじゃないかな」
「付き合い始めた頃にやったきりだっけ。結婚して、あの子が生まれて・・・・・早いものね」
彼女の横顔はどこか寂しそうだった。
「この砂浜に来たのも久しぶりじゃないかな、そういえば」
「あの子が生まれて間もない頃だったけ。家族写真を撮ったのよね」
「---退院したら、また三人で撮ろう」
和子の返事は、小声だったせいもあるが、突風と波のせいで聞き取れなかった。風にあおられた髪を押さえるのでいっぱいいっぱいのようだった。
「サヨナラだけが人生だ、か」
私のつぶやきを彼女は聞き逃さなかった。
「気に入ったの?」
「いいや。深みがあって重たい言葉なんだろうけど、今はどうも好きになれないな」
「気取った言い方ね」
彼女は踊り子のように身体を回してこちらを振り向くと、私の瞳をのぞきこみながら笑みを浮かべた。
ひどく妖艶な微笑みだった。死桜ほど美しい花はないと、祖父が常々言っていたが、彼女の笑い方はまさに桜のそれだった。
「―――――風にあたりすぎるのもよくないよ、そろそろ帰ろう」
「おっしゃることがよく変わりますこと。・・・・・そうね、名残惜しいけれど帰りましょうか。では、スイートルームまでエスコート願えますかしら、ボーイさん?」
和子が右手を差し出してきた。
「分かりました。お嬢さん」
私は彼女の手を両手で包み込むように握った。
⁂
手記は、ここで終わっていた。
「お父さんどうしたの。こんなところで・・・」
「―――――う、うん。何でもないさ」
気付かぬうちに、娘がすぐそばまで来ていたようだ。私の姿を不審に思ったのか、何も言わずに、そっとハンカチで私の頬をぬぐってくれている。
霞んでぼやける文字を追いながら、ふとあの日の事を思い出した。
娘の〝和子〟が生まれた日の事だ。
その当時、既にぼけ初めていた父が娘の顔、父からすれば孫娘の顔を見た瞬間にこう言ったのだ。
『和子。この子の名前は、和子だ』
呂律が回らなくなっていた父とは、全くの別人に思える、静かでありながら響き渡るあの声で。
「この人、知っている人?綺麗な人ね・・・・・」
手元の写真を覗き込むなり、和子が感嘆の声をあげる。そんな姿を微笑ましく思いつつ、こう答えた。
「この人はな、お父さんのお母さんで、お前のお婆さん。和子さんという人さ」
驚いたように目を開いたのもつかの間、破顔する。桜のような華やかさはないが、品のある素敵な笑みだ。
写真の中の笑顔と娘を見比べる。
亡き母も、きっとこんな風に笑っていたのだろう。そうに違いない。