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第一章  伊賀へ  壱

 車窓に写る茶畑、浜名湖などを眺めながら、清水、掛川、浜松、三河安城と過ぎ、私の乗った列車は名古屋へと到着した。もう昼過ぎになっている。


 私の実家は三重県の芸濃という場所で農家をしていた。名古屋からその芸濃町までは直線距離こそわりと近いが結構時間が掛かる。というのも交通の便がとても悪いのだ。名古屋からはもう電車ではなくなり、ディーゼル列車と言える二車両の関西本線の列車に乗り、亀山で下車、後はタクシーを使って芸濃町まで向ってもらう事になる。


 その芸濃町にある私の家はごく普通の農家で、田んぼの広がる中にポツンとある垣根に囲われた一軒家だった。そして一部が藁葺き、大半が茅葺屋根の木造の家である。古来より、日本人は米を有効に活用してきた。稲は畳みや草履、屋根にも藁葺きなどと稲穂が使われる事も多い。また、お菓子に関しても、煎餅もあられも全て米の加工品だ。自然の恩恵を受けてきた日本は、米、大豆、竹、木を上手に使い、美しく生きてきたのだ。

 今時茅葺屋根は古いと思われるかもしれないが、私としてこれが自分の家だという愛着もあるし、これは日本人の智恵の結晶であるから、残していける間はこのままであって欲しいと思っている。


 三時頃、実家に着いた私は、その日の夜、久しぶりの実家で食事を取り、すのこの浮いた五右衛門風呂に身を沈め疲れを癒した。


 夕食時には両親から、女金田一耕助だなんて云われて浮かれてないで安定した職に就けだとか、早く結婚して子供を産めだとか、小うるさい事を言われてしまった。


 私だって好き好んで女金田一耕助と云われている訳じゃないつーの。


 そんな風に、結婚しろだとか子供を産めだとか云われた私は、ふと、あの二枚目担当者の姿が頭に思い浮かび上がってきてしまった。嫌がらせを受け続けるのは、あの二枚目担当が私の事好きだからだと、私が勝手に思っていたのが原因で浮かび上がってきたのかもしれない……。


 確かにあの担当は二枚目だ。彼に似れば恐らく可愛い子供が生まれてくる事だろう。私の親も可愛い孫が出来て大喜びに違いない。だがあんな意地悪そうな男と結婚したら私が大変だ。一生女金田一耕助と云われ続ける事だろう。下手をすればペンネームとして押してきていた耕子と呼ばれかねない。あの男ならその位ありうるだろう。そんな嫌味たらしい責め苦を毎日延々と受け続けたら、きっと私は精神的に参ってしまう事だろう。


 ……というか、そもそもあの担当が私の事を好きなのかは定かではないし、まだまだ結婚なんて全然考えてはいないけれども……。


 私はふと浮かんできた良く解らない自意識過剰な妄想を、顔をぶんぶん横に振り打ち消した。


 しかしながら、少々耳の痛い事を云われはしても、久しぶりの実家はやはり心地良いものだった。その夜、私は蚊帳に囲まれた懐かしい匂いのする布団でゆっくりと寝ったのだった。


 翌朝、私はタクシーで伊賀まで向った。


 私の実家のある芸濃町は山を越えるとすぐ伊賀になる。伊賀は、服部半蔵などで有名な忍びの地だ。大昔は忍びと農民の境は薄かったと言われていて、普段農民をしている者が、戦の前に諜報活動をし始めたのが始まりだとされている。織田家家臣の滝川一益も甲賀の忍者上がりだったらしい。私の実家も昔は忍者だったとかという話を聞いた事がある。


 因みに今日の私の格好も相変わらず襞付きのロングスカートとカーデガン、そして天然パーマを抑えるべく被っているチューリップハット姿だった。女金田一だの揶揄されても、O脚が目立つジーンズを履く気も起きなければ、短いスカートを履く気も起きない。そしてパーマの掛かった毛量の多い髪を抑える事はキャップやハンチングや普通のハットでは無理なのである。チューリップハット一択しかないのだ。若しくは今は売っているのかは定かではないがお釜帽というものしか……。一応色は昨日の物とは少し違うが矢張り地味な色だった。派手な色を好まない私はなんだかんだと同じような装いになってしまう……。


 しょうがないじゃないこの格好が好きなんだから……。


 さて、目的の伊賀は四方を山で囲われ、隠し国とも呼ばれていた。京都にも近いので再起を図る武将がよく匿われていた場所だ。本能寺の変後、徳川家康が堺から岡崎まで帰る際に、人目につかないようにと、この伊賀を通ったのも、そんな理由だったらしい。


 実は私は日本の歴史が大好きだった。大学も史学科だったし、専攻も日本史学だった。受験の際も英語と国語と日本史で試験を受けた。そして小説を書く際にもその知識を利用した。古い因習を書くにあたってもちゃんとした日本の歴史を知らずしては良い物は書けない。なので日本史に関しては相当詳しいと思う。


 ……多分。まあそれなりに……。


 そんな私が持っている知識で伊賀という国を紹介していくと、伊賀の国は北は鈴鹿山脈の御斉峠辺りで南近江に接し、東は布引山地の笠取山辺りで伊勢の国に接し、南は高見山地の倶留尊山辺りで同じく伊勢の国に接し 西は島ヶ原村付近で奈良に接している。


 石高は十万石丁度とされているのだが、隣の伊勢が五十七万六千百五石に対して余りに切りの良すぎる数字だった。慶長検地の際にこの石高が算出されたようだが、隠し国だけあって結構適当な検地が行われた事が伺い知れる。


 一応、上野盆地全域がほぼ昔の伊賀の国と云って良い範囲であり、驚くべき事にその上野盆地は四百万年前には琵琶湖の底だったらしい。


 琵琶湖は昔は伊賀上野盆地上に存在していたのだが、地殻変動を経て次第に北に移動して百万年前から四十万年前辺りに現在の場所に落ち着いたようだ。まあ四十万年前には人類は文明を築いていないので琵琶の形をしていなかろうが知った事ではなかったのかもしれないけれど……。


 その琵琶湖と云う名称も測量技術が発展してきた江戸時代に琵琶の形に似ている事が解り、琵琶湖と呼ばれるようになったようだが、それ以前は淡海のあわふみのうみと呼ばれていた。その淡海の湖に因み、近くにある淡水の湖の国として近江国、遠くにある淡水の湖の国として遠江国と名付けられたとの事だった。遠くにある淡水の海とは浜名湖の事で、千五百年頃の明応地震の津波で海との境が破壊され淡水の湖ではなく塩水が混ざる汽水湖になってしまったのだ。


 湖の歴史も色々だ。


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