若奥様、頑張る
その夜は雨だった。
細かい霧のような雨がしめやかに降り注ぎ、エリーバウムの街を静寂の底に沈めている。
華やかな結婚式をあげたばかりのウィンコット伯爵家の屋敷も同様に静かな夜を迎えていた。
「ああ、ついにこの時がやってきたのね……!」
花嫁として嫁いできたナターシャは感動に震える声で呟いた。やっと、やっと憧れのラインハルト様と結ばれるのだ。胸が高鳴り過ぎて苦しいほどだった。
風呂場でしっかりと磨き上げた身体に香油を塗り、絹のネグリジェを纏う。
鏡台に映るナターシャの肌はうっすらと上気している。豊かな黒髪や深い緑の瞳と相まって、なんとなくだがいつもの二割り増し色気があるように感じられた。
「いける、いけるわ」
ナターシャはこれから訪れるであろう甘い蜜のような時間に思いを馳せ、興奮のあまり鼻血が出そうになった。慌てて顔を上向けなんとか無事に済んだ彼女はふと耳を澄ませる。
「……歌?」
一瞬だが、何かの歌が聞こえた気がしたのだ。しかし、その後はいくら耳を澄ませても静かに降り続ける雨音しか聞こえず、気のせいだったのだろうと結論づけた。
*****
「ら、ラインハルト様……わたくしです。入らせていただきますわね……?」
全ての身支度を終えたナターシャは緊張に強張りながら寝室のドアを開けた。
そこには夫となったラインハルトが悠然と待っている――はずだったのだが。
「あら……?」
微かに伏せた視界に人影は映らなかった。改めて見回しても誰もいない、ように見えた。
中に入ったナターシャはすぐに寝台に横たわる人影に気づいてそっと近寄ってみる。
淡い金髪を陽に焼けた肌に散らし、長い睫毛を閉じた男性――ラインハルト・フォン・ウィンコットがそこにいた。
「まあ……お待たせし過ぎてしまったのかしら」
待ちくたびれたのか、ラインハルトは深く寝入っているように思えた。ナターシャはどうしようかと悩みながら、眠るラインハルトの端正な美貌をじっくりと眺める。
ラインハルトとナターシャは政略結婚である。
だが、ナターシャの方は一目でラインハルトに恋してしまい、数回あった顔合わせの時も緊張してばかりだった。
ラインハルトの無防備な寝顔に胸が締めつけられ、ナターシャは片手を頬にあてて吐息をもらした。
(……きっとお疲れなのだわ。今日はこのまま寝かせておいてあげましょう)
ナターシャにとっては記念すべき日だったが、ラインハルトの健康の方が大切である。
今日は隣で横になれるだけで満足しよう、とナターシャはドキドキしながら寝台の空いている場所に潜り込んだ。
ラインハルトはそれにも気付かぬようで、寝息すらほとんどたてずに寝入っている。
まるで死んでいるかのよう――そう感じたナターシャはふいに不安にかられ、躊躇いがちに手を伸ばした。そっと掛布の上からラインハルトの厚い胸板に手を置くと、確かな鼓動が感じられる。
ほっと安堵したナターシャはとたんに赤くなって手を離し、ラインハルトの体温を感じた手のひらをもう片方の手で掴み、悶えるのだった。
しかし、彼女は知らなかった。
ナターシャにとって幸せだったこの時から、すでに事態は動いていたのである。
*****
異常が発覚したのは翌日の昼過ぎであった。
眠ったまま起きないラインハルトにナターシャはさすがに不審を覚え、医師に診てもらったのだ。
医師は固唾を飲んで見守るナターシャとラインハルトの両親に向かって、難しい顔で診断結果を述べた。
「意識不明の状態ですが、これといって原因は見当たりませんな。ひょっとすると、都で流行っている奇病かもしれませぬ」
「き、奇病? それはどのようなものなのです」
「エリザ、落ち着きなさい」
青白い顔で医師につめよったのはラインハルトの母エリザで、それを嗜めたのは表情を固く強張らせている父のヴィッセルだった。
二人の後ろからナターシャが無言で医師を見つめると、老齢の域に差し掛かった医師は一つ咳払いをして話を続けた。
「奇病とは、都を騒がせている新種の病でしてな。今のところ若い男性にのみ発症がみられ、病にかかった者は皆昏々と眠り続けております」
「……助ける手立ては?」
「残念ですが……不明ですな」
ヴィッセルの言葉に医師は首を横に振る。「そんな!」と小さく悲鳴を上げたエリザが倒れ、場はにわかに騒然となった。
そんな中、ナターシャは固く両手を握り締め、唇を引き結んで立っていた。その顔は義母のように倒れそうなほど青いが、深い緑色の瞳は爛々と光っており、まるで何かに挑むかのように宙を睨んでいた。
数日後、ナターシャは従者を一人つけただけで街に降りた。まだ形ばかりの夫婦ではあるが、愛しい旦那様のために奇病を治す手段を探すつもりなのである。
心当たりはあった。
薄暗い裏通りにぽつんと出ている看板、《魔術屋》。怪しげな風体のそこへ彼女は臆した様子もなく乗り込み、店主に向けて堂々と言い放った。
「カシュー、あなたが必要なの。力を貸してちょうだい」
「……いきなりやってきて、なんだよそりゃあ」
目を丸くする店主は二十代後半のまだ若い男で、痩せ気味の体にくたびれたローブを着ている。やや垂れ目の瞳は鳶色で短めの髪は薄い紅茶色。身なりはだらしないが顔立ちは整っている。もう少し身嗜みに気をつけさえすれば若い娘に騒がれそうな男だった。
「ナターシャお嬢さん……あんたは確か伯爵家に嫁いだはずだろ? なんだってこんなところに来てるんだよ」
「ええ、嫁いだわ。でも大変なのよ、カシュー。ラインハルト様の一大事なの! ああ、もうなんてことなの……!」
「おいおい、落ち着けよ。まずは座って、んで、最初から話せ」
古ぼけた椅子に座ったナターシャは促されるままカシューに事のあらましを語った。
この男、カシューはもぐりの魔術士で、以前ナターシャが誘拐されかけた時に助けられた。それ以来、何かと力になってもらっているのだった。
「……と、いうことなの。ねえ、カシュー。ラインハルト様をお助けできないかしら?」
「奇病ねえ……」
カシューはうっすら生えている髭を擦り、しばらく考えていたかと思うとおもむろに椅子から立ち上がった。
「まずは見てみねえとわからん。おい、ナターシャお嬢さん、あんたの旦那に会わせてくれ」
「じゃあ、なんとかしてくれるのね?」
「まだわからんって。まあ、なんとか出来そうなら力を貸すさ」
冴えない風体の魔術士の言葉にナターシャは大きな安堵を覚えた。カシューは頼りになる男なのだ。外見からはちっともそうは見えないが。
「じゃあ、行くわよカシュー! ラインハルト様との甘い初夜のために!」
「お嬢様が、いや、女が初夜なんて大声で言うな!」
ぐっと片手を握り締めて宣言したナターシャに、カシューが叫ぶ。
ナターシャに影のように付き従う従者も、この時ばかりはカシューの言葉に頷いていたのだった。
*****
「ああ、こりゃやばい。魂抜かれかけてる」
屋敷に戻り、未だ昏睡状態のラインハルトを見たカシューは開口一番そう言った。
ぎょっとしてナターシャはカシューを見る。
「た、魂が!? 何故!?」
「それは調べてみねーとわからねえよ」
カシューは渋い表情で呪文らしき言葉を口ずさむ。ナターシャはあわてて魔術の邪魔をしないように口をつぐんだ。
高く低く、不思議な抑揚でカシューは呪文を唱えると、閉じていた目を開いた。
「……魔女だな、こりゃ。女の気配がする」
「魔女ですって!?」
ナターシャは愕然と叫んだ。魔女。彼女の愛しい旦那様をこんな目にあわせたのは魔女だというのか。よりにもよって、他の女がラインハルト様の魂を!?
「許せないわ!! どこの魔女なの!?」
「まあ落ち着けって。心当たりはある」
「落ち着けないわよ! ああ、ラインハルト様……魔女にどんな事をされているのかしら。も、もしかしてあんな事やこんな事までも!? きゃー! 駄目! わたくしのラインハルト様に何をするの!! カシュー、早く助けにいくわよ!!」
「……だから落ち着けって」
混乱するナターシャを宥め、その晩カシューが彼女と共に足を運んだのは、エリーバウムの街の中心に建つ古びた時計塔だった。
「この街の一番高いとこから気配がしてた。多分ここだな」
「ここに……魔女が?」
緊張に喉を鳴らしてナターシャは時計塔を見上げた。蔦のからんだ古い時計塔は、見るからに不気味な雰囲気を漂わせている。
時計塔を上りはじめたカシューの後ろを恐々とついてゆくと、細い歌声が聞こえてきた。
「歌……」
そういえばあの晩も歌を聞いた気がする。
「魔女の歌だ。あまり聞くな」
綺麗な歌声だと聞き惚れかけていたナターシャはカシューの忠告に急いで耳を塞ぐ。螺旋階段を上り終えると、満月に照らされた最上階の鐘の下で、一人の女が歌を口ずさみ静かに佇んでいた。
「……あんたが最近この街にやってきた魔女だな」
「……どなた?」
カシューの問いかけに女は物憂げに視線を向ける。
美しい女だった。
腰ほどもある長い髪は月光を梳いたような銀色で、肌は透けるように白い。白のドレスを纏った魅惑的な肢体は清楚でありながら妖艶で、淡い色彩の中、ただその瞳だけが鮮やかな翠だった。
「……ラインハルト様を返して!」
一瞬見惚れてしまっていたナターシャは気力を奮い立たせ一歩前に進み出た。女は不思議そうに首を傾げる。
「ラインハルト様……?」
「とぼけないで! あなたがラインハルト様の魂を奪っているのはわかっているんだから!」
「魂……ああ、この方ね」
女が白い手を宙に差し伸べると蛍のように小さな光が浮かんだ。そして次の瞬間光は人間の形となる。
「ラインハルト様!」
揺らめく陽炎のような姿だったが、それは確かにラインハルトだった。ラインハルトはナターシャの呼び掛けにわずかに揺らめいたものの、その視線は銀の女に注がれている。
初めて見るラインハルトの切なげな眼差しに、ナターシャの胸がぐしゃぐしゃに掻き乱される。
「ラインハルト様を返して!!」
「……この方も、他の方も、皆わたしを慰めるために来てくださったの。わたしの意思ではないわ」
「慰めるために? ――それはあんたの歌に惑わされたんだろ?」
カシューは皮肉げな調子で笑った。
「男を惑わす歌を歌う魔女、イーリス。都の男では飽き足らず、この街でも男漁りかい?」
「下品ね。わたしは、ただ哀しみを歌っているだけ。わたしの歌に魂を奪われた人は優しい方達なのよ。わたしを慰めてくださるの」
「慰める……なにを慰めているというの?」
眉をひそめたナターシャに視線を向け、イーリスはそっと呟いた。
「魔女は永い時を生きる。愛した人に置き去りにされて。親しんだ何もかもに取り残されて。わたしを忘れてゆく全てが憎い。そして哀しい。わたしは一人きり。わたしはずっとずっと一人きりなの」
「……それは」
「かわいそうでしょう? わたしを慰めてくださる?」
「……かわいそう、ね」
「やめろ! 聞くな!」
カシューの叱咤にナターシャはハッと目を瞬いた。イーリスは哀しげにカシューを見る。
「どうして邪魔をするの? せっかくお友達が出来ると思ったのに。ひどいわ」
「術で捕えた友達なんて糞食らえだ。おい、大丈夫かお嬢さん」
「え、ええ。今のは?」
「魔女の魅了だよ。放っておいたら魂取られるとこだ」
ナターシャは青ざめ、一歩後退る。そんな彼女を庇うように前に出たカシューは、さて、と鋭く目を細める。
「魔女イーリス。悪いがそこの男を返してもらうぞ」
「……好きにしたらいいわ」
「なに?」
「わたしはただ歌を歌っていただけ。歌に惹かれてきた方を傍に置いていただけ。どうでもよいわ」
「……!」
イーリスが冷たく横を向いて言い放った時、それまではおとなしかったラインハルトが身動ぎをした。
「……! …………!!」
ラインハルトはイーリスに詰め寄り、声無き声で何かを必死に訴えている。イーリスはラインハルトから目を逸らし、俯いた。
その宝玉のような瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
唐突にナターシャは理解した。
どういう経緯かはわからない。だが、目の前の二人は愛し合っている。イーリスの言葉が嘘である事は、その表情を見ればすぐにわかった。そしてラインハルトの表情を見れば彼の想いがわからないわけはなかった。
「……ラインハルト様」
力なく呟いたナターシャをカシューは痛ましげに見つめ、そしてラインハルトに言った。
「あんたは身体に戻ってもらう。自分の妻を忘れてんじゃねえよ」
ラインハルトはカシューの言葉にナターシャを見やり、唇を噛みしめ俯いた。
カシューは無造作に片手を上げ、魔術を編む。
魔術によって消える瞬間、ラインハルトとイーリスは見つめ合っていた。
「……これで魂は身体に戻ったはずだ。ついでに、他のやつらもな。帰るぞ」
「……待って」
震える声でナターシャはイーリスに尋ねた。
「どうして、ラインハルト様だったの?」
他の誰かじゃ駄目だったのか。その問いかけに、イーリスは儚く微笑み、答える事はなかった。
*****
ラインハルトは無事に目を覚ました。喜びに沸き立つ両親や屋敷の者達に混じり、ナターシャも控えめに喜んだが、当の本人はめっきり塞ぎ込んでいた。
そして、ある日のこと、ラインハルトはナターシャに言った。
「離婚して欲しい」
ナターシャは目を閉じた。
予想していた言葉だった。
ナターシャはラインハルトの望みを受け入れ、彼と離婚した。政略結婚であるというのに愚かな選択を押し通したラインハルトは激怒した父親に勘当され廃嫡となったが、何一つ言い訳せず家督を弟に譲るとウィンコット家を出た。
彼がどこに行くのか、ナターシャにはわかっていたけれど止められなかった。ナターシャに出来たのは、涙を溢さないようにするだけだった。
*****
「……あー、と。その、なんだ。……いい夜だな」
事実上夫婦の関係ではなかった“白い結婚”だった事から離婚が許されたナターシャは実家に戻っていた。
ある晩のこと、眠れずにぼんやりと中庭を歩いていたナターシャは、気まずげな顔をしたカシューに会った。
「カシュー……お久し振りね」
「……おう」
挨拶を交わし、沈黙が落ちる。
門番が守る屋敷の中庭に、何の用もなく忍び込むわけはない。だが、カシューはガリガリと頭を掻くばかりで何も話さない。
しばらくして、ぽつり、とナターシャは呟いた。
「……ラインハルト様は、お元気かしら」
「……ああ、たぶんな」
「そう……」
再び沈黙が落ちる。
「だー! もう!」
突然カシューが叫んだかと思うと、ナターシャを抱き締め、その肩に彼女の顔を押し付けた。
「な、なにを……」
「泣け!」
「え?」
「いいから泣け! ここにゃあ俺しかいない。泣いてあんな男忘れちまえ!!」
カシューの怒鳴りつけるような言葉に、ナターシャはしばし唇を震わせ――そして声を上げて泣き出した。
ナターシャの失恋の痛手を慰めるために、カシューはやってきたのだった。
泣いて泣いて目が腫れあがるほど泣いたナターシャは、カシューにお礼を言って離れた。
「もういいのか?」
「ええ……ありがとう、カシュー」
「……いや、これくらい別にいつだってやってやるけどよ」
「あら。それはまたわたくしが失恋をしたら、ということかしら?」
「い、いや、そうじゃなくてな……」
「ふふ、冗談よ」
ナターシャは小さく微笑み、目の端に残っていた涙をそっと拭った。気遣しげに見つめるカシューから目を逸らし、月を見上げる。
「もう大丈夫よ。わたくし、これくらいで挫けやしないわ」
「ん?」
「ラインハルト様とは無理だったけれど――いつか、愛し合える方と巡り合って、そして迎えてみせるわ! 今度こそ甘い初夜を!!」
「だから、女がそんな事口にすんじゃねえ!!」
カシューは「ったく」と溜め息をつき、傷付きながらも健気に立ち直ろうとしている少女を見つめ、優しく目を細めた。
その瞳に安堵以外の感情が含まれているのをナターシャが知るのは、まだ当分先のことであった。




