後編
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時間は過ぎる。何も解決していなくても、たとえ無益であっても、一秒たりともその場に立ち止まったりはしない。
「ああ、なるほど。つまり、ディレイ=ラモス場を四次元空間に適用するんだね?」
「ええ、そうです。こうすれば縦、横、高さの三つの三次元ベクトルをゼロにできますから……三次元上でどこも向いていなければ、あとは時間軸に向くしか、選択肢を持てませんでしょう?」
灯の幽霊のようなものを見てしまった翌日。恐るべき衝撃に心揺さぶられた日の、次の日。
それでも私とアマニタ君は、きちんと研究室を訪れ、取り組むべき仕事に取り掛かっていた。
完全に気持ちを落ち着けるのに、私は結局ひと晩かかってしまった――帰宅してから、もらいものの上等なブランデーをあおって(私は酒に強い方ではない。お歳暮に贈られたはいいものの手をつける気になれないまま、一年ほど台所のキャビネットにしまいこまれていたものだが、このたびようやく日の目を見た)、十時間ほど夢も見ずにぐっすり眠って、やっと仕事に行く気になれた。
さすがに、研究室に入るその瞬間だけは、少し恐怖がぶり返したが、扉を開けて、中にいるのがアマニタ君だけだと知ると、だいぶ気が楽になり、デスクに着けば、ほぼ完全にいつもの自分に戻れた――と、己に言い聞かせることができた。
少なくとも、頭の中を物理学の数式で氾濫させていれば、余計なことは考えずに済んだ。そう、私はあの幻影についての問題を、保留することを選んだのだ。実際、あれに納得できる解釈など出しようがあるだろうか? 無理だ。もし、オカルト的なものであったとしたら、どう頭をひねっても説明のつけようがない。解けない問題は、放置しておくしか仕方がない。
アマニタ君は――私ほどのショックはなかったのか、それとも私が察せないほど巧みに、自分の感情を包み隠しているのか――まったく誇張抜きで、いつも通りであるように見えた。昨日と変わらぬ明るい笑顔、普段通りの気のききよう、相変わらずの頭の切れ。
そんな彼女と接していると、意識しないように努めていても、昨夜のことが思い出されてばつの悪い思いをする。正体不明のものに動揺して、あのような醜態を晒すとは、我ながら情けない。アマニタ君に慰められていた自分の姿を客観的に考えると、赤面を禁じ得ない。
その恥ずかしさをごまかすように、私は研究に集中する。そんな余計な動機がなくとも、磯貝博士の時間軸方向問題は強く興味を惹かれるテーマであった。
「ふうむ、しかし数式上でいくら時間軸を突き詰めても、三次元上のビーム装置で狙うには、具体性に欠けるな……」
「ええ、何しろ、高次元をひとつ下の次元に降格させる試みですからね。二次元世界で、高さの概念を認識するぐらい途方もないことですわ」
「君のディレイ=ラモス場を使う発想は、悪くないと思うんだ。問題はそれを三次元化する手段だが――ん、もう十四時を過ぎたのか。どうも集中し過ぎると、時間の感覚がなくなっていけない……ここらで少し休憩しよう。ご飯を食べないと、頭も働かないしね」
偶然目に入った壁掛け時計のおかげで、昼食の時間を逸しそうになっていたことに気付いた私は、研究ノートを畳んで椅子から立ち上がった。
今日の昼食は何にしようか。学食の日替わり定食にするか、それとも大学の外のコンビニに行って、季節物のお弁当を買ってみようか。前者は少し食べ飽きてはいるが、安くてお腹いっぱいになる。後者は味のレベルが高いのだが、金額のわりに量が少ない。さて、どうしたものか。
「あの、先生」
財布を持って部屋を出ようとしたところで、アマニタ君に呼び止められた。
「今日のお昼は、何にするかもう決めてらっしゃいますか?」
「いや、歩きながら考えようと思っていたところだが。どうかしたかい?」
「いえ……その……お食事、先生の分も作ってきましたので……よろしければ、ご一緒にいかがですか」
その言葉を聞いた時の自分が、どんな表情をしたのか、まったくわからない。
ただ、少なからぬ驚きを得たことは確かだと思う。
「いいの?」
「ええ。というか、もし断られたら困ってしまいます。ふたり分作りましたから、ひとり分余っちゃうことになりますし」
となると、私は義務として、その申し出を受けなければなるまい。
いや、もちろん、嬉しいことは確かなのだが。義務などと言ったが、受け取りたいと思う理由がそんなものでは全然ないことも、よく理解しているのだが。
なぜ、今日に限って、そんなことをしてくれるのだろう?
そんな困惑を、頭の隅に浮かべたまま。私はアマニタ君の差し出してきた、小さなお弁当箱を受け取った。
――開けると。中はとてもシンプルな、和風のお弁当だった。
大きなおにぎりが四つ。おかずには、根菜とこんにゃくの煮物、焼き鮭、だし巻き玉子、ほうれん草のおひたし。とても、美味しそうだ。
手を合わせて、「頂きます」をして、箸をつける。ちら、とアマニタ君の方を見ると、じーっと食い入るようにこちらを見ていた。どきどきしながら、まずは煮物から口に入れてみる。
「……あ、美味い」
もぐもぐと四、五回咀嚼してから、私は素直な感想を口にした。
お世辞でなく、本当に美味しかった。大ぶりに切った大根や人参に、旨みの豊かなだしが深く染み込んでいる。
鮭も塩味控えめで、舌に優しい。素材の風味が楽しめる味付けだ。だし巻き玉子もほうれん草も、上品なだしの味わいが生きていて、食えば食うほど食欲を湧かせてくる。
おにぎりのお米は、ふんわり柔らかめ。中の具は、梅干しとおかかだった。これも素朴で、幸せになる味。
ゆっくり噛んで、飲み込んでを繰り返し。気がつくと、弁当箱の中は空になっていた。
「ふう……ごちそうさま、アマニタ君」
「ふふ、お粗末さまでした。お口に合いましたかしら?」
「ああ、美味しかった。とても……とても、美味しかったよ。
特に、そうだな、旨みがしっかり染みてたというか。うん、煮物とかに使われてただしが、とてもいい仕事をしてた気がする。あれ、何のだし? 昆布?」
食後の熱いお茶をすすりながら、何気なく尋ねてみると、アマニタ君は悪戯っぽい微笑を浮かべ、こう答えた。
「おだしですか? 実はですね……ベニテングタケの煮汁を使ったんです」
ぶふっ、と、私はお茶を噴き出しそうになった。
「聞いたことありませんか、ベニテングタケに含まれるイボテン酸のこと。これ、かつおや昆布のだしよりずっと美味しい旨み成分なんですよ」
「そ、そりゃ、聞いたことぐらいはあるがね。その、確かベニテングタケって……イボテン酸って、毒じゃなかったかね?」
美味いことは美味いが、そのまま食えば普通に中毒症状の出る成分だったはずである。
私がおろおろしていると、彼女はにこにこと笑ったまま――というか、その笑みをより深くして――こう付け足した。
「冗談ですわ。少しだけ、お茶目してみたくなったんです。すみません。
お弁当に使ったのは、普通に昆布とかつお節のおだしですよ。普段より少し、丁寧に取ってみましたけど……ビックリしました?」
「……すごく驚いたよ。でも、君がその冗談を言うのは、シャレにならない」
ふう、とため息をつき、驚き、戸惑った分と同じだけ、深く深く安堵する。
――個々の人間に、皮膚の色や骨格などの点で先天的な差異があるように、キノコ人間たちにも、それぞれの個体で大きく違った特徴がある。
原因は誕生の際に使用される遺伝子、いわゆる母体遺伝子の違いだ。キノコ人間たちは自然のキノコ遺伝子に、キノコ人間のベース遺伝子を掛け合わせて培養することで生まれてくる。その際に、基になった自然のキノコの形質が、個体の個性として発現してくるというわけだ。
たとえば、マツタケを母体にして生まれたキノコ人間は、体からマツタケ特有の爽やかな香りを漂わせる。また、ナメコを母体にしたキノコ人間は、全身から絶えずゼラチン状のぬめりを生じている。
同様に、毒キノコを母体にした者ならば、それに相応しい毒性を身に宿すことになる。
キノコ人間アマニタ・ムスカリア君は、名前が示す通り、Amanita muscariaという学名で知られるキノコの性質を有している。
Amanita muscariaは、日本語で言うとずばり『ベニテングタケ』。おそらく、世界的に見ても最も有名な毒キノコだ。赤地に白い斑点模様の傘に、白い軸。美しく艶やかだが、同時に妖しくもある。そして、イボテン酸やムシモールといった有毒成分を複数持つ。
アマニタ君の菌糸遺伝子は、このキノコに酷似しており、成分も共通したものを多く含んでいたりする。もしもどこかの愚か者が、彼女の肉を食べようとしたなら、ベニテングタケを食べたのと同じ中毒症状を起こして、ぶっ倒れることになるだろう。
アマニタ君も、見た目からは全然毒性など連想できないが、それでもベニテングタケ由来のキノコ人間であるのは確かだ。言わば、動き回って話のできるベニテングタケであり、他の誰よりも、ベニテングタケに思い入れがあるはずなのだ。そんな彼女が、料理のだしにベニテングタケを使った、などという冗談は、うん、その、冗談かどうか、ちょっと判断しにくい。
「驚かせてしまって、申し訳ありません。何か冗談でも言って、先生のお心を和ませられないか、と思ったんです。
少し、その……落ち込んでおられるようでしたので」
その言葉に、私は意表を突かれた思いで、アマニタ君を見返した。
「落ち込んでる? そう、見えた?」
「はい。少し、ぴりぴりしたご様子で。自然にではなく、意識して、数式に没入しておられるようでした。
昨日の帰り際も、かなりおつらそうでしたが、今日もそれが続いているように感じられましたわ」
「……………………」
そう、見えるのか。
だとしたら――深く、ぐっすり寝たことは、私の精神の均衡にとって、それほど大きな成果を出さなかった、ということになる。
「お弁当も? 心配してくれたから、作ってきてくれたの?」
「はい、正直に言うと、そうです。先生って、いつもお昼は、学食かコンビニのお弁当かでしたから。お疲れの時はもっと、バランスのいい食事をしてもらいたくて」
私は無言で頭を抱えた。
アマニタ君が、私なんかのことを心から心配してくれている、とてもとてもいい子だというのはわかった。
だが、私のような年寄りの領域に一歩足を踏み入れている奴が、彼女のような若者に気を使わせる、というのは、情けないにもほどがある。
「あー、そのだね、アマニタ君。いろいろ、すまん」
「あ、謝っちゃダメです! そこで謝っちゃダメですよ! 私、先生を余計に落ち込ませたことになっちゃうじゃないですか!」
残念だけど、その通りかも知れない。いや、アマニタ君は何にも悪くないのだけれど。
それからしばらく、ふたりで謝り合って、とにかく私は元気を出すべきだという結論でお互いの意見が一致したのが、食後三十分経ってからのことだった。
「でも、実際のところ、先生は何も気にしなくていいと思いますよ。確かに、あの灯ちゃんの姿には、私もびっくりしましたけど……」
「君でびっくりしたんだ。あの子の状態を知ってる私は、もっと驚いたよ」
「もう。だからって、悪い方に取らなくてもいいでしょう。凶兆じゃなくて瑞兆ぐらいに考えてもいいと思いますよ。可愛かったですもの、灯ちゃん。
それに、もしかしたらですよ。あれは超常現象の類じゃなくて、ちゃんと科学的に説明できる現象かも知れないじゃないですか。おばけじゃなければ、怖くない。違いますか?」
「違わないよ。違わないけど……あれを納得できる形で説明するって、ちょっと無理じゃないかね」
「そんなことないですよ。私、いくつか、思いついた仮説がありますもの」
さらりと、アマニタ君は驚くべきことを口にした。
「昨日の夜、一生懸命考えたんです。可能性がありそう、というだけで、確認はこれからしないといけませんけど」
「本当かね? い、いったい、どういう」
私は椅子から立ち上がりかけながら、アマニタ君に問いかけた。彼女はふふっと余裕たっぷりに笑い、名探偵のように「さて」と言いつつ、人差し指を唇の前で、一本立ててみせる。
「まず、一番可能性のありそうな仮説を検証させて下さい。いつも先生がお使いのデスクの上に、3Dスナップショットのフォトフレームがありますね? それを調べさせてはもらえませんか?」
ああ、と、了承と感嘆のふたつの意味のこもったため息が、私の口から漏れた。彼女の考えていることが、なんとなくわかったのだ。
「いいだろう。これだ……自由に調べてみなさい」
「ありがとうございます。では、拝見」
小さなレンズがいくつもついた、四角いプラスティック製の機械装置を、アマニタ君に手渡す。
3Dスナップショットは、西暦二千百年代まで主流だった2D写真に取って代わった、人々の思い出の形である。
レンズを向けた光景を、二次元の絵として切り取る写真と違い、3Dスナップショットは三次元空間を三次元のまま、立体映像として保存する。数メートルから数十キロメートルまでの立体の中を撮影でき、縮小したそれを映像のジオラマとして、机の上や棚の上にちょこんと飾ったりできる。
私も人並みの感傷は持ち合わせているので、家族のスナップショットを収めたフォトフレームを、普段からデスクの上に飾っている。データがたくさんあるため、一定時間で映像が切り替わるように設定してあった――ある瞬間には、亡き妻の面影がデスクの上で微笑み、また別の瞬間には、灯の姿が浮かび上がり、さらに他の時には、私も含めた家族三人の様子が現れる、といった具合だ。
「私が真っ先に思い浮かべましたのは、このフォトフレームが故障していて、灯さんのスナップショットを思いがけない時に、思いがけない大きさで表示したのではないか、という可能性でした」
フォトフレームをひっくり返したり、表示を確かめたり、データを連続再生させたりして、機械の調子を確かめるアマニタ君。
「色調とかも、ある程度は編集できるはずですし……グリーンに偏った灯さんの立体映像が、等倍サイズで暗闇の中に投影されたら、あんな風な幻想的な現象も見られるのではないか、と、そう、思ったんですけれど、ねえ……」
「違ったかね?」
「ええ、どうも違いますね。機械に異常はないですし、ここに記録されている灯さんのスナップショットは、私の見た緑色の灯さんより、ずっと幼いものばかりです。これとか、すごく似てますけど……やっぱり違いますね。服装も一致してませんし」
そう言って彼女が再生したのは、両手を上げて笑う、小学校低学年ぐらいの灯の映像だった。
夜の、山の中の光景だ。長袖の服を着て、ズボンを履いた灯が、地面にぽつぽつと散らばっている緑色の光に包まれてはしゃいでいる。その色調は、確かにあの幻の灯によく似ていた。
「何でしょうね、この緑色のきれいなの? 遊園地のアトラクションか何かでしょうか」
「ああ……その光はね、シイノトモシビタケというキノコの光なんだ」
私は、懐かしい思い出に引かれて話し始めた。
「灯が、小学一年生の時だったかな。家族で伊豆の山にキャンプしに行った時に、見たんだ。
朽ちた椎の木に生える、小さくて地味なキノコなんだが、周りが暗闇になると、そんな風に緑色に光るんだ。
普通はなかなか見つからない、珍しいものなんだが、運良く土地の猟師さんに群生地を教えてもらえてね。夜になるのを待って、スナップショットを撮ったんだよ。まるで、地面に散らばったエメラルドのようだった……うっとりするような美しさだ。
特に灯は夢中になってね、何時間もその場を離れようとしなかった。とてもとても、楽しそうな表情をしていた……」
「そうでしょうね。このスナップショットからでも、はしゃいでる声が聞こえてきそうです」
私たちは微笑ましい気持ちで、シイノトモシビタケの輝きの中に立つ灯のスナップショットを眺めていた。
やがて、アマニタ君はフォトフレームのスイッチを切り、私に返してきたが、その表情は意外なほどニコニコしていた。
「ふふ、いいもの見れました」
「ああ。少しはさっぱりした気分になったよ。たまには、昔のことを思い出すのもいいもんだ」
「でも、3Dスナップショットの容疑は晴れてしまいましたねぇ。一番自信のある仮説だっただけに、残念です」
それはまあ、仕方のないことだ。きっと違うだろうとは、最初から私は思っていた。
なぜって、灯の幻影は、この研究室だけでなく、私の家の寝室にも、たびたび現れているのだから。寝室には、スナップショットのフォトフレームは最初から置いていない。
「となると、もうひとつの仮説を確かめねばなりませんが、これは少々難しいかも知れません。灯ちゃんの主治医の方にお話を聞ければ一番いいんですけど、果たしてその人にも答えられるかどうか怪しいので……」
「ふむ? まあ、一応聞かせてくれ。内容によっては、私からお医者さんに尋ねてもいいし」
「わかりました。では、申し上げましょう。ふたつめの仮説は……キノコ人間化した灯さんの菌糸が、胞子のような微小な姿のまま、この研究室にまで飛んできた……というものです」
意味がよくわからず、私は少し首を傾げた。
「えっと、つまりですね。私たちキノコ人間って、今の私みたいに人型を取っていなくても、ちゃんと意識があって、行動もできるんです。
キノコ人間の『代替わり』はご存知ですよね? 私たちは人間の皆さんのように、活発な新陳代謝機能を有しているわけではありません。個体によって期間に差はありますが、だいたい二年から三年で肉体の限界が来ちゃうので、そこで一度全身を崩壊させて、記憶や経験を保存した胞子から、新しい体を作り直します。
胞子はとても小さいです。それこそ、風に乗って飛ぶくらい。そんな、細かい胞子になっている間、私たちは空中を舞いながら、周りを見て、ずいぶん高いところまで来ちゃったなー、知り合いが下を歩いてるなー、とか考えたりしてるんです。
灯ちゃんは、もう何年も、キノコ人間になる治療を受けているんですよね? それが、実はもう完了しているとしたら、どうでしょう? 目を覚まさないように見えて、実は覚醒しているとしたら、どうでしょう? 肉体ではなく……胞子という形で、活動を行なっているのだとしたら、どうなるでしょう?」
「……………………」
「意識が、病院のベッドの中の肉体を置き去りにして、目に見えないほど小さな胞子に宿って、病院からふらふらと抜け出してしまったのだとしたら? 空中を漂いながら、この研究室にまでやってきていたのだとしたら? 塊の菌糸体を形成せず、無数の胞子のまま集合して、ひとつの形を作って我々の前に現れたのだとしたら?
たとえるならば、イワシがたくさん群れ集まって、自分たちを大魚のように見せようとするみたいに。我々が見たのは、煙のような胞子でできた、半実体状の灯ちゃんだったのではないか……私は、そう思うのです。この可能性、先生はどう思われますか?」
「ど、どう思うか、って……そんなことがあり得るのか、って、聞き返すしかしようがないよ。
実際、可能なのか? 君たちキノコ人間は。そんな風に、雲にでも化けたかのような状態で、人前に姿を現すということは?」
「私は無理です。でも、できる個体がいても不思議はないと思います。キノコ人間は、ベースとなったキノコから受け継いだ特徴をそれぞれ持っていますから。環境によっては、超能力としか思えないような不思議なことができる人たちもいます。
だからもし、キノコ化した灯ちゃんが、胞子の状態で活動することを得意とする性質を獲得しているならば、昨夜のようなことも起こり得るんじゃないでしょうか」
「ふーむ……」
私は、腕組みをして考えてみる。もし、灯が実体のない微細な胞子集合体として、風の中に流れるように生きているのだとしたら。
私の寝室に現れたのも、昨日研究室に現れたのも、ごく無邪気な動機によるものということになる。つまり、自身の覚醒と生存を、私に伝えるために出現したのだ。
しかし、だとしたら、あの子はなぜ、言葉によってそれを伝えようとしてくれない?
どの時も、灯はただ微笑んでいただけだ。ひと言も声をかけてくれなかった。意識があるのなら、何か言ってくれてもいいだろうに。
いや、待て。そもそも、実体を持たない存在が喋れるかどうかを、私は考えていない。人の輪郭を持っていても、実体がないのなら、肺も声帯もないだろう。声を出せるとはとても思えない。
身振り手振りでは? これも難しそうだ。灯が、私の前に姿を現すのは、長くてもほんの二、三秒の間だけ。これは、人間の輪郭を維持していられる時間に限界があるためではないか? それだけの間しか現れることができないのに、しかも喋ることができないのに、いったいどうやって人に情報を伝えられよう?
「……今度、灯の主治医の先生に会ったら、その可能性について尋ねてみることにしよう。アマニタ君、君の説は、もしかしたら私の悩みを、きれいに解決してくれるものかも知れない。
だが、もしこの説が正しいとすると、ひとつ気になることがある。胞子として浮遊している灯は、今どこにいるのだ? 病院のベッドに横たわっている肉体は、もう灯ではないのか? すでに自由に飛び回るほどの行動力を手に入れているなら、なぜ菌糸を繁殖させて実体の肉体を作らない? あの子はいったい、どういうつもりでいるんだ?」
「さあ……そこまでは私にも。本人を見つけて問うてみないことには、わかりません」
アマニタ君は困ったように、首を横に振る。
しかし、確かに彼女の案は、私にとってひとつの希望となり得るものだ。あの子が、実体のない姿とはいえ、ちゃんと意思を回復して生きていてくれるのなら、私の心配と不安は一気に解消されるだろう。これまでの不可思議な行動の意味を知ることや、意思の疎通をはかることは、後回しでもいい。
数々の疑問はあるが、まずはユン博士にアマニタ君説の正否を尋ねなければ。
こうして、ひとつ希望が芽生えると、私の心はあからさまなまでに活力を回復した。美味しいご飯を食べたこともあり、それ以降の研究は午前とは比べ物にならない進捗を見せた。
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「いや、残念ですが、その可能性はまずあり得ませんな」
眉間に深く深くしわを寄せて、チャールズ・ユン博士は私の希望を一刀両断した。
「ミクロン・サイズの胞子体であろうと、この集中治療室から、灯さんが出ていけるはずはないのです。
なにしろ、全身を菌糸化するという、慎重の上にも慎重を要する治療を行なっているのですからな……たった一個の雑菌が外部から侵入してくるだけでも、致命的な悪影響が出ないとも限らんのです。その危険を徹底的に排除するため、治療室内の空気は高性能のエアー・コンディショナーで管理しております。この機械の作用によって、外から中に汚れた空気が入ってこれないのと同様に、中から外へも、ウイルス一個として出て行くことはできないのですよ。
それと、今朝のPETスキャンの結果を見る限りでは、灯さんの脳はまだ八十パーセント以上、ゲル状のまま固まっていません。これが菌糸として固まらない限り、思考能力が再生することもあり得なく、つまり意思を持って椎野さんの前に姿を現す、ということはできないということになります。あなたがご覧になった幻のようなものは、少なくともキノコ人間として再起した灯さんの姿ではありません」
「そう……そうですか。いや、妙な話をしてしまって、申し訳ない」
「いえ、むしろ謝るべきはこちらでしょうな。灯さんの治療が長引いていることが、椎野さんを不安にさせているのは確かでしょうから。もしよろしければ、良いセラピストをご紹介しますが」
「ありがとう、ユン先生。でも、まだ結構です。また同じものを見た時は、お言葉に甘えさせて頂きます」
「ええ、ぜひ、そうなさって下さい。……しかし、あなたのご覧になった灯さんの幻が、緑色に輝いていたというのは、非常に興味深いですな」
灯の経過を記したカルテをたたみながら、ユン博士はぼそりと、付け足すように言った。
「実を言いますとね。灯さんの遺伝子を上書きするのには、シイノトモシビタケというキノコの遺伝子をベースにした菌糸を使用しているのですよ。そのベース遺伝子が、灯さんの遺伝子と最も相性が良く、他の遺伝子を使うより、スムーズに細胞を置き換えることができるだろうと思われたもので。
このシイノトモシビタケには、暗闇で緑色に発光する性質があります。ですから――灯さんが目を覚ました時、その肉体がシイノトモシビタケの性質を受け継いで、体細胞を発光させることができるようになっていても、おかしくはないのです」
「……………………」
「そのことを、私はまだ椎野さんにお伝えしていないはずです。通常の菌糸治療でも、それぞれ患者の遺伝子に合った性質を持つキノコ菌糸を使用しますが、治療後に遺伝情報に手を加えて、キノコ本来の性質が表に出ないよう調整します。灯さんが目覚め、治療が問題なく終わった場合にも、最後にはその調整処置を取って、普通の人間に近い性質の肉体にする予定でいたのです……発現する前に消えるであろう遺伝子の性質まで、細かく患者に伝えたとは思えません……ええ、間違いなく言っていません。
それなのに、あなたの見た灯さんの幻は、シイノトモシビタケのように緑色に輝いていた。いったいどういうことなのでしょう? ただのストレスによる幻覚とは違う、予想もつかない何かがあるような気がします……」
私は、そんなユン博士の独白に、どう答えればいいのかわからなかった。
博士との会談と、灯への見舞いを終えて、私が病院を出たのは、夕方の六時だった。
夕日に変わりつつある太陽を真正面に、力ない足取りで家路をたどる。結局、灯は今でも、ほんわかとした菌糸の綿毛にくるまれたまま、ベッドの上で昏々と眠り続けているのだ。私が見たものは――私とアマニタ君の前に現れた、あのライム色に輝く灯は――灯本人ではない。
では、結局何なのだ? 3Dスナップショットではない。胞子集合体ではない。アマニタ君も目撃した以上は、幻でもない。となると、どうしても超常現象に結論を求めるしかなくなる――幽霊の実在を信じるしかなくなってしまう――いやいや、それも違うはずだ。灯は目を覚まさないだけで、まだ死んでいないのだから。
結論を出せない私の頭。夢の中にいるような心地で、血のような赤に染まった街並みを眺める。苔むした石垣に、赤いおべべのお地蔵様。真っ黒な葉を風に揺らす柳の木。板塀と漆喰の塀に挟まれた、狭い石畳の道。そこを抜ければ、木製の格子窓が美しい、日本古来の商家の並びに出る。街灯代わりのグラスファイバー製提灯に明かりがともり始め、小料理屋さんや居酒屋さんが暖簾を出し始める。そんな中で、千年以上続く伝統あるおまんじゅう屋さんが、ほのかな甘い匂いを通りに漂わせていた。
悩んでいても腹が減るのは、人間の美徳であろうか、その逆か。とりあえずスーパーに寄り道して、夕飯を買っていこうと思い立つ。でも、何を買おうか? 何を選んでも、昼に食べたアマニタ君のお弁当と比べると見劣りしてしまうだろうし。
そんな、灯のこととはまったく方向性が違う、くだらない悩みをしばしこね回している時に――そのことを咎めるように、彼女はまたしても、私の目の前に現れた。
「灯」
夕日も届かない、細い真っ暗な路地に、彼女は潜んでいた。
淡く、神秘的なライム色の輝きを身にまとって。穏やかな笑みを、こちらに向けて。
「お前……こんなところにも……。
何なんだ? いったい、父さんに何を求めてるんだ? 黙っていないで教えてくれ、灯」
私は耐えかねて、その輝ける幻影に訴えた。
いつもであれば、彼女は何も語りかけてくれないまま、消えてしまう。ただ笑顔を浮かべているだけで、意思の疎通を一切拒絶するように、ばらばらに散って去ってしまう。
しかし、この時は違っていた。
彼女はすでに、五秒以上消えずに、私の前に佇んでいた。
そして、これまでにない動きを見せた。どこから取り出したのか、二冊の本を左右の手に一冊ずつ持ち、私の目の前に差し出してきたのだ。
ぼんやりとした光のもやに邪魔されて、書名を確かめるにはよほど目を凝らさなければならなかったが、それでも何とか読み取ることができた――それは、私の研究室にもある書籍だった。右手にあったのは、磯貝宗右衛門博士の【重力エネルギーと膜宇宙】、左手にあったのは、二千百年代のイギリスの科学者、ナイトリーの【四元ベクトル変換と特別な場合の定義】である。
これがいったい?
私が首を傾げるのとほぼ同時に、二冊の本は光の粒となって、ぼろぼろと崩れ去っていった。
灯の指も、手も、同じように散っていく。顔を上げると、彼女の全身が崩壊していた。そう、いつものように。
私はそれを食い止めたくて、手を伸ばした。小さな灯の体を、抱きしめようとした。
しかし、私の両腕は、何も捕まえることなく、ただただ空気を掻いた。消えゆく灯は、実体をともなっていなかった――見えるだけで触れない、完全な幻影であったのだ。
やがて、彼女を構成していた輝きの、最後の一片まで消えていき、真っ暗な路地に私は取り残された。
いつもと同じく、彼女は消えた――だが、いつものような虚しさや、恐怖はない。今回、彼女は初めて、こちらに何かを伝えようとしてくれたのだ。
正体はわからない。だが、少なくとも意思はある。こちらに、何かを語りかけようと接触してきている。それがわかった。
だが、それは何だ? あれは何を言いたいのだ?
遠くに見えるお寺の五重塔で、カラスがのどかに鳴いていた。六月の空は、徐々に赤から群青に移り変わろうとしていた。
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それから一年ほどの間は、何事もなく過ぎ去っていった。
路地裏で灯の幻影を見た翌日に、私は彼女の指し示した二冊の本を確認した。それぞれの本を二、三度読み返してみたが、すでに頭に入っている内容なので、特に新しい発見もなかった。誰かのメッセージが書き込まれているとか、そういうこともなかった。あの子は、いったい何を私に伝えたかったのだろう?
正式に発表された、磯貝博士の重力ビーム装置は、多くの人たちの予想通り、世界的なセンセーションを巻き起こした。複数の国家と研究施設、数え切れない数の企業が出資と協力を申し込んできて、ワープ航法を現実にしようとする博士の夢を、大きく後押しした。
すでに原理が完成している技術の発展はめざましかった。私が会議で、博士のビーム装置のことを聞かされたのが六月だったのに、わずか五ヵ月後の十一月七日には、早くも小型ワープ装置を搭載したスペースフライヤー『ぶどう摘みの月』号の試作機が飛行実験を行い、地球から火星までの約八千万キロメートルを、わずか三十二分で駆け抜けるという離れ技を成功させた。SF小説の世界が、人類が太陽系外に拡散していく未来が、誰の目にも身近なものとして感じられるようになった出来事だった。
私は、そんな磯貝博士の大躍進を祝福しながらも、彼が出した課題である時間軸への重力ビームの向け方を研究し続けていた。当然だが、一朝一夕に答えなど出ない。数式と格闘し、数式と格闘し、数式と格闘し、まれに他の研究者たちと情報を交換し合って、得た武器でまた数式と格闘する。しかし、敵は強く、なかなか答えを私の前にさらけ出してはくれない。
そして、この間にも、私は何度も何度も、緑色に光る灯の姿を目撃した。
私の寝室に出現することが、もっとも多かったが、夜遅くまで研究室で頑張っていると、まるでそれを労うように、ぼんやりと出てくることもあった。アマニタ君も、三回ほど研究室で彼女を見た。一度など、私がいない時に、デスクの下の薄暗がりにうずくまっているのを発見したりすることがあったそうだ。
それらの目撃状況、時間帯、場所などを総合して考えると、どうやら灯は私の行動範囲の中に、しかもある程度の暗さがある時を狙って現れるらしい、という予想ができた。出現時間の平均は、やはり二、三秒。いつも穏やかに微笑んでいて、特に何かするわけではない。こちらに手を振ることも、ほとんど稀だし、あの路地裏でしたような、本を差し出してくる、などということは、他に一度もしてこなかった。
最初の頃こそ、あの子を見るたびに胸が締めつけられるような恐怖と不安を味わっていた私だが、さすがにこう何度も繰り返されると、いい加減慣れてくる。その正体と、意図はまったく不明のままだが、邪悪なものでないということは雰囲気でもわかるし、そもそも愛する娘の姿を、幻影とはいえ嫌うことはできない。今では3Dスナップショットに代わる、私の心の癒しとして、疲れた時には顔を見せてくれないかな、などと願うようになってしまった。
――頻繁に会いに来てくれる緑色の灯とは逆に、病院のベッドにいる灯は、相変わらずうんともすんとも言わない。
秋が終わり、冬が来て、新年を迎え、雪解けの季節も過ぎ去った。西暦三千十五年三月――状況、変わらず。前にユン博士がかさぶたと表現した、ふわふわの菌糸の綿毛がすっかり取れて、きれいな傷ひとつない肉体が完成している灯なのだが、脳の構築に相変わらず手間取っているらしい。私は待つ――じっと、何年でも待つ気でいる――が、ピクリとも動かない娘の、青白い顔をビニールのカーテン越しに見つめていると、不安で息苦しくなってくる。その鬱屈を、緑色に輝く灯の幻影で癒すという、なんだか間違っているサイクルが、いつの間にかできあがっていた。
――癒しといえば、もうひとつ。アマニタ君が、ほとんど毎日お弁当を作ってきてくれるようになった。
「なんだか、最近の先生は放っておけないので」
というのが、アマニタ君の言い分だ。自分ではそこまでまいっているような気はしないのだが、彼女のように気のきく子には、そうは見えないのだろうか。
お昼になると、温かいお茶とともにお弁当箱を差し出される。滋養たっぷりで彩りも豊かな、とっても美味しいお弁当。いいものを食べさせてもらっているおかげか、最近は体の具合がとてもいい。体重も微妙に増えてきたが、もともと少し痩せている方だったので、一応は良い変化であると言えよう。
もらってばかりではさすがに気まずいので、休みの日に一緒に出かけてみないか、と彼女を誘ってみた。お礼として、何かプレゼントのひとつでも買ってあげたかったのだ。彼女は「こちらがやりたくて勝手にやったことなので、お礼とかいいんですよ?」と困り顔だったが、ちょっと強引に拝み倒して連れ出してみた。普段から遠慮がちな子なので、たまには押しつけるような形ででも感謝の気持ちを返しておかないと、ずるずる依存しっ放しになってしまう。
六日末日、梅雨の終わりの、よく晴れた暖かい日。大学の前で待ち合わせた私たちは、とりあえず街に出て、いろいろなお店を見て回ることにした。
やはりアマニタ君も女の子だ、ウインドゥ・ショッピングはとても楽しいらしく、いつにも増して華やかな笑顔を見せてくれた。これだけでも、誘ったかいがあったというものだ。
で、彼女へのプレゼントは何にしたかというと――雑貨屋の店先にあった、妙に派手な模様の日傘をうっとりと見つめていたので、それを買ってあげることにした。真っ赤な生地に白い斑点をあしらった、まるでベニテングダケのような傘。やっぱり彼女のベースであるキノコに似ているから、親近感を覚えるのだろうか。
輸入品の一点モノで、思ったより値の張るものだったが、ここでためらうようでは大人として面目が立たない。胸を張ってその商品をレジに通し、その場でアマニタ君にプレゼントした。彼女はものすごく慌てていたが、最後にはおずおずと受け取ってくれた。
店を出ると、アマニタ君はさっそく買ったばかりの傘を差してみていた。彼女のこの日のコーディネートは、フリルのついた淡いピンク色のブラウスに、白のフレア・ロングスカートだ。そこにヴィヴィッドでメルヘンな傘が合わさると、意外なことにとてもバランスが取れていた。ゴシック・ロリータスタイルとでも言うのだろうか、まるで童話に出てくるお姫様のようだ。
上機嫌でスキップなどしてみせる彼女と、しばらく街中を歩いた。二千年以上の歴史を持つ神社をお参りし、境内に広がる森の中を通る遊歩道をぶらついて、爽やかな空気を肺に取り込んだ。
そうしているうちにも、日は傾いてくる。少し時間が余りそうだったので、夕食も一緒に食べていかないかと提案した。
「あ、でしたら、前から気になっていたレストランがありますので、そこに行きませんか」
そう言ってアマニタ君が案内してくれたのは、郊外の小さなイタリアン・レストランだった。
ヤマドリタケのキノコ人間がシェフをしているというお店で、中に入ると、なるほど、キノコ料理と思しきいい香りが、フロアいっぱいに満ちていた。
意外かも知れないが、キノコ人間たちはわりと普通にキノコを食べる。共食いとかそういう感覚はないようで、むしろ「自分たちの仲間はこんなに美味いんだぞ!」と誇りを持って、料理に使用している感があった。
私たちは同じコース料理を頼み、期待を裏切らないその味を楽しんだ。フレッシュなチーズとトマトのサラダ。ブラウン・マッシュルームのスープ。ポルチーニ茸の入ったカルボナーラ。パセリ・バターを塗って焼いた、香りのいい牛肉。デザートは、アーモンドとチョコレートのしっとりとしたケーキだ。イタリア・ワインも少しだけ頂いて、大満足の夕食となった。アマニタ君の素朴な家庭料理も素晴らしいが、このお店の料理は、言うなれば、スペシャルな機会を狙って食べるのに相応しい種類のものであろう。
「ふむぅ、美味しかったな」
「ええ、本当に。ここにお誘いして正解でした」
食後のエスプレッソを飲みながら、私たちはくつろいだ気分で語らう。
「今日はありがとうございました。素敵な傘を買って頂いて、食事にも付き合って頂いて。とても充実した一日でしたわ」
「いや、お礼を言うのは私の方だよ。今日、君を連れ出したのだって、普段かけている迷惑を埋め合わせるためだったんだからね。
なのに、逆にこんな素敵なレストランも教えてもらっちゃうし、どう考えても損得のバランスが取れてない」
「もう、先生! それは間違った考えですよ。私は充分、楽しかったんですから。
……でも、そうですね。どうしても先生の気が済まないと仰るんでしたら……またいつか、今日みたいにお出かけをなさる時に、ぜひお声掛け下さい。私、喜んでお付き合いしますから」
コーヒー・カップ片手に、にこりと穏やかな笑みを浮かべるアマニタ君に、私も微笑みを返した。
心落ち着く時間だ。恩返しとしては、あまりに不充分に終わったけれど、こういう時間を日々の中で持てたことは、素直に良かったと思う。
明日にはまた、時間軸ベクトルを三次元上に探す作業に戻らないといけないのだ。やりがいはあるが、過酷な時間。その間に、栞として今日のような時間を挟むことは、必要なことだろう。
薫り高いエスプレッソを、口に含む。その時ふと、二十代の頃、学会に出席するために、カリフォルニアのバークレーに行ったことを思い出した。なぜそんな連想が起きたかと言うと、その地でも私は、同じようにエスプレッソを飲んだのだ。賑やかな大通りに面したオープン・カフェで、買ったばかりの本をめくりながら。
読んでいたのは、そう、ナイトリーの【四元ベクトル変換と特別な場合の定義】だった。それを思い出すと、関連する苦い思い出も、ドミノ倒しのように頭の中に蘇ってくる。あの時私は、うっかり手を滑らせて、エスプレッソのしずくで本を汚してしまったのだ。買ったばかりのきれいな本の、しかも真ん中ぐらいのページを。
あれは本当にもったいない失敗だった。ナイトリーの最大の業績と言われる、COF特殊変換式の後ろ半分、運動量を表す部分が真っ黒に染まって――。
「……待てよ」
ばちりと、頭の中で火花が散ったような感覚が生じた。
COF特殊変換式は非常に強力で、論理の上ではまったく矛盾がない。しかし、ある大きな弱点を持っており、考案者が死んで九百年近く経った今でもまだ、完全な証明には至っていない『仮説』だ。その弱点とは、かつてのM理論や超ひも理論のように、物理的な観測が技術的に不可能であるゆえに、検証自体ができない項目を含んでいるという点である。
逆に言うと、科学がその検証を可能にする技術を手に入れれば、証明可能になる理論なのだ。その項目には重力が関わっていて、自然には発生し得ない歪んだ空間において、距離と時間が――。
「す、済まないアマニタ君! 少し、電話を掛けてきてもかまわないかね?」
私は椅子を蹴るように立ち上がりながら、大慌てで中座する失礼を詫びた。アマニタ君は私の突然の行動にぽかんとしていたが、小さく了解の頷きを返してくれたので、急いで店の入り口のロビーに移動し、携帯端末で磯貝博士に連絡を取った。
「……あ、磯貝先生、ご無沙汰しております。今、お時間よろしいですか? ……三十分間なら大丈夫? それ以降は……『ぶどう摘みの月』号に乗って火星へ? 一週間ほど向こうに滞在するんですか? 弱ったな。その予定、延期できませんか? ……ええ、ええ、要点を先に、ですね。申し訳ありません。実は、先生と葦原技研さんにご協力頂きたいことがあるんです。例の重力ビーム装置を使う実験を至急行いたくて……ナイトリーのCOF特殊変換式なんです。あれを証明する方法を思いついたんですよ。
はい、わかっています。重力ビームによって発生する空間の歪みだけでは、あの仮説を証明するには足りないことはわかっているんです。でも、それを補う方法があるとしたら、どうです? やり方は簡単なんです……ナイトリーの組み立てた式の、運動量を表す部分を、フィー=磯貝予想の数式に置き換えるんです。……ええ、そうです。先生が【重力エネルギーと膜宇宙】という本の中で発表した予想です。どうです、このふたつの未証明の仮説を組み合わせれば、お互いの理論を補い合って、よりエレガントな形になると思いませんか? 証明に必要な実験も、ナイトリーが言うような大規模なものでなくて済みます。五百トン弱のスペースフライヤーを、三十分程度で火星に到達させられるようなワープ装置があるなら……ええ、同じものが十二機もあれば……充分に結果を出せるでしょう。
そして、おわかりですね? COF特殊変換式と、フィー=磯貝予想がつながり、両者が同時に証明されるならば……そうです、そうです……コンピュータを使って、時間軸の方向を具体的に計算することができるようになります……先生がお望みになった、過去や未来への重力ビームの向け方が、数式で求められるようになるんですよ!」
すべてを言い終えた時、携帯端末の向こうの磯貝博士は沈黙していた。こちらの耳に届くのは、がさがさ、ごそごそと動き回る音、かりかりかりかりという、細かい文字を書く音。実際に書いてみて、式を確かめている。おそらく頭の中でも、試算を繰り返している――やがて、三分ほど経って、彼は結論を出した――『火星行きは中止だ。よくやったぞ馬鹿弟子』。
通話を切ったあと、私はしばしその場に佇み、深い達成感を味わっていた。
証明作業自体はこれからだ。だが、天から降ってきた思いつきを逃すことなく、筋道の通ったアイデアとしてまとめることができたのは、非常に嬉しいことだった。ただバークレーのカフェでエスプレッソを飲んだことを思い出しただけでは、きっとそのまま天啓は通り過ぎていっただろう――【四元ベクトル変換と特別な場合の定義】に意識が向くだけでも駄目だ。【重力エネルギーと膜宇宙】という本についても、同時に思い出すのでなければ。
この、まったく何の関係もない二冊の書籍が、どこでつながっているのか。私はちゃんと覚えていた。
「……そうか、あの時お前は、このことを言いたかったんだな」
店の玄関扉の方を見つめて、私は呟いた。
よくみがかれたガラス扉。その向こうの、薄墨を引いたような暗闇の中に。緑色に光る灯が立っていた。
にこにこと、いつものように楽しそうに笑っている。
「二冊の本を見せたのは、このためだったのか。このアイデアを私に閃かせるために。
でも灯、どうしてお前は知っていたんだ? 私自身も、この世の誰も知らなかったようなことを……」
例によって、灯はその問いかけに答えることなく、姿を消した。
大きな謎を解く手助けをしてくれたのに――彼女はいつまで経っても、謎のままだ。
いっそ、知識の女神が、灯の姿を借りて、私に微笑んでくれていたのだと考えるべきなのか――。
ため息をつく。神のしわざという結論で満足できるならば、私は科学者ではなく宗教家になった方がいい。
踵を返し、アマニタ君のいるテーブルへ戻る。とにかく彼女にも、この数分間の成果を伝えなくては。同じ喜びを分かち合う権利が、彼女にもある。
■
西暦三千十五年六月三十日、午後六時三十分。レストラン『porcino』の玄関扉の外。
私を一年以上も悩ませてきた灯の幻影は、この時、この場所で会ったのを最後に、ぷっつりと姿を見せなくなった。
■
幅、奥行き、高さの三ベクトルが、数式の中でねじ曲げられ、引き伸ばされ、押し縮められ、ひとつの規則的なパターンを表し始める。
無事に証明されたCOF特殊変換式とフィー=磯貝予想(ふたつを合わせて、最後に私の名前を付け加えて、ナイトリー=フィー=磯貝=椎野定理と呼ばれる)によって、空間は時間へと変換させられる。我々は時間の長さを距離として目視することができるようになり、その時間通路の通じる場所、過去あるいは未来という行き先を、我々は超極小の(十のマイナス三十五乗メートル以下)の、量子のトンネルの中に見出すことになった。
もちろん、そんな小さなトンネルを通じて、向こう側を見ることなど思いも寄らない。穴を広げ、もののやり取りができるようにしなければならない――そのためにはやはり、重力が使われる。複雑に折り畳まれた十一次元の結び目をほどき、三次元上に形を持つワームホールとして形成するのだ。
ただ、この結び目がややこし過ぎる形をしているがために、重力ビームの当て方を相当に細かく計算しなくてはならない。あらぬ方向から引っ張ってしまえば、結び目はほどけるどころか、逆に絡まってしまう。
そのための精密な計算を、葦原技研のスーパー・コンピュータ『NoA』が実行してくれている。現在、世界第一位の演算速度を持つ『NoA』であるが、それでも全行程の計算完了までには、三ヵ月以上の時間が必要との見積もりだった。
西暦三千十六年一月十八日。ついに計算が完了したという知らせを、私は磯貝博士から受け取った。時刻は深夜の二時だったが、その三十分後には、私は彼の研究室を訪ね、詳細な報告書を受け取る光栄に浴していた。
「半ば予想していた結果ではあるがな。おっそろしく面倒臭い結論を、『NoA』の奴ははじき出したぞ」
磯貝博士はそう言って、ぶ厚い書類の束を、机の上に放り出した。
私はそれを引き寄せ、適当にめくってみる――確かに細かい。二次元化されたビームの組み合わせは、それ自体が超精密な絵画だった。コンピュータ制御された重力ビームが形成する、空間の織布。それも、複雑極まる模様のペルシア絨毯がそこにあった。
「計算の過程なんぞ読んでも面白くなかろう。結論だけ言おう。
そのポンコツが言うにはな、過去、あるいは未来への扉を開くには、直径一ピコメートルの重力ビームを、約八千兆本、空間の一点に集中させる必要があるようだ。しかも、それはたとえて言うなら、ドアの鍵穴に鍵を差し込んだ段階に過ぎないらしくてな。そのあとで八千兆本のビームを、完全に同期させて操作し、ぐりん、と鍵を回す調子で、膜状の空間構造をこじ開け、ワームホールを作り出す。そして初めて、時間を超えた世界へお目通りが叶うというわけだ」
「それはそれは……理論はできましたが、今度はタイム・マシンを建造することに、大きな困難が伴いそうですね」
「ああ、実際ものすごい苦労になるだろう。必要な数の重力ビーム装置を揃えるだけでも、何兆円かかることやら。さらに、それらを完全に制御する高性能コンピュータを用意せにゃならん。そう、だいたいNoA十八台分のスペックがいるな。ついでに言うと土地も必要だ。空間が複雑にねじれるから、辺り一帯に潮汐力が生じることになる。その効果範囲内に人家でもあろうもんなら、大惨事になるな。じゃからめちゃくちゃ広い空き地の真ん中に、機械を置くのでなくてはまずい……」
聞けば聞くほど、タイム・マシンが実現不可能なものに思えてきた。
そして、この予感は、次の磯貝博士のひと言で、確信に変わった。
「まあ、ぶっちゃけた話、な。この重力ビームを使う磯貝=椎野式の原理でタイム・マシンを作るとなると、その装置自体が日本の国土と同じくらいのサイズになるという結論が出た。潮汐力を逃がすための余剰空間も、その七倍ぐらいの面積がいるらしい。
あくまで単純な見積もりじゃがな。それでも、実際の値がその半分とか倍になったりすることはなかろう……NoAはそういうところはきっちりしておる、なにしろコンピュータじゃからな、はっはっは!」
「それはなんというか……ご愁傷様です、と言うべきでしょうか、それとも無念です、と言うべきでしょうか」
まるで空元気のように大げさに笑う博士に、私はそうとしか返せない。苦笑もできなかった――タイム・マシンは私にとってもロマンだったのだ。科学を志した人間であれば、皆がそうであろう。一応は可能であるという理屈を立てられたのに、その実践が不可能であるとなれば、私とて落胆せざるを得ない。
「なぁに椎野よ、そんなに落ち込むことはないぞ! いくら条件が厳しかろうと、物理的に可能なら作っちまえばいいんじゃからな」
「ええ、あくまで可能ならば、ですね。ですがあいにく、我々はそれを実現するほどの資金も、土地も持ってないのですよ」
おそらく、全地球上の、どんな大富豪にだって無理だろう。
失意の私を、博士はデスクの向こうから、頬杖をついて眺めていた。その表情は、まるでからかっているかのようなニヤニヤ笑いだった。
――この悲しい会見は、午前五時にはお開きとなり、私は肩を落として帰路についた。
しかし、この時は気付かなかった。博士の笑い声が、空威張りなんかではなかったということに。
私は忘れていたのだ。彼がロマンに忠実な人間であり、ロマンを叶え続けてきた人間であるということを。ロマンを現実のものとするために、あらゆる努力を惜しまない人間であるということを。
■
六月になった。また灰色の雲とともに、しっとりとした梅雨がやってくる。
ここしばらくの間、穏やかな日々が続いていた。緑色に光る灯の幻は見なくなったし、重力ビームからタイム・マシンの可能性を模索するような、大きな仕事もない。そして、灯は目覚めない。
ひと言で言うと、二年前以前、灯の幻影が現れるようになる前のような状態に戻っていた。
もちろん、時間が巻き戻ったりしているわけではない。ただ、先に進んでいる実感がないだけだ。灯はもう十年間、眠りっ放しだ。研究の最大の成果も、あくまで数式上のもので(それでも充分に名誉ではあるが)、実際にタイム・マシンを製造するところまではいかなかった。白髪が増えただけで、私は結局、何も変われていない。
「そんなことないですよ。変わらないように見えても、時間はどんどん進んでるんです。そして、それに相応しい結果も出てるんです――本人が気付く、気付かないに関わらず」
私の右手を握り、引っ張っていくアマニタ君が、いつも通りの穏やかな笑顔で言う。
「先生はこの二年間、充分頑張りました。みんな、先生は凄いって褒めてくれてます。先生が結果を出したからですよ。タイム・マシンができなくったって、その結果は覆せません。
灯ちゃんだってそう。何も変わってないように見えても、変わってるはずです。意識のない世界にいるとしても、頑張り続けてるはずです。それは信じてあげましょう」
「ああ、そうだな……そうだとも。でも、そんなに先を急がなくてもいいんだよ。入院患者への面会時間は六時半までだから、まだまだ余裕がある」
最近、休みの日はしょっちゅう、アマニタ君と過ごしている気がする。
今日も、彼女と一緒にランチを楽しんできた。思い出深いあのレストラン、『porcino』で。それから街を散策して、なんでもない日常の会話を交わして。いつも通り、穏やかで幸福な時間だった。
そして、いつも通り遅くなる前に、彼女を送って帰ろうとしたのだが――まだ病院の面会時間が過ぎていないことに気付いてしまったのが、大きな失敗だった。私がぽろりと口から滑らせたその情報を、アマニタ君のよく気がつく耳は、敏感に聞き取ったのだ。
――もしよろしければ、今から灯ちゃんのお見舞いに行かせてくれませんか。
彼女はそんなことを提案してきた。お世話になっている先生の娘で、将来はキノコ人間の仲間になる少女に、ひと目会いたいのだそうだ。
私は少しためらった――だが、結局は了承した。アマニタ君の表情が、興味本位などではなく、真剣そのものだったからだ。
K大学病院のエントランスに、初めてアマニタ君と一緒に入る。受付を訪ねると、顔見知りの事務員さんに「朝にも来られたのに、二回目とは珍しいですね」と驚かれた。後ろに女性を連れているのを見られて、二度驚かれた。職場の部下だと説明したが、なぜか信じてもらえていないような表情をされた。
許可をもらい、灯のいる集中治療室へ向かう。五階にあるその場所へは、特別なエレベーターでなければ行くことができない。
エレベーターのドアが開くと、何キロもの奥行きがあるトンネルのような、冷たい静寂に支配された場所に出る。空気はまるで、新品の冷蔵庫のようなにおい。白く明るい廊下が長く続いていて――ここにはいつ来ても、厳粛な気分にさせられる。
させられる――はずなのだが――今日この日、この瞬間だけは違った。エレベーターの扉の向こうに現れた、白く明るい廊下や、新品の冷蔵庫のような無機的なにおいはいつも通りなのだが、今回は静寂がなかった。機関銃のようにまくし立てる男の声が、集中治療室の廊下を演説会の会場のようにやかましいものに変えていたのだ。
「いいかユン博士、我輩はちゃんと誓約書も書くと言っておるんじゃぞ! お前は素直に我輩の望む治療をしてくれればそれでいいんじゃ。手術代も、たっぷりイロをつけてくれてやる――それで何が不満なのだ? ただ頷くだけで、誰もが幸せになれるというのに!」
「し、しかしですな、磯貝さん! 何度も言う通り、オーヴァーライト法はまだ成功例のない技術で――」
「そんなクソ下らん弱音を吐くな! 我輩はな、成功すると確信しとるから頼んどるんじゃ! お前の実績をよく調べて、腕前を充分なものと見込んだからこその判断だ。それともなにか、お前は我輩の言うことが間違っとるというんか、え? 自分が取るに足らんヤブ医者だと大声で叫ぶつもりか?」
「だ、だから、そういうことは問題ではなくて! あくまで私の新治療法は、従来の菌糸医療では再生できない病気に対してのみですな……」
廊下の真ん中で言い争いをしているのは、なんと、チャールズ・ユン博士と磯貝宗右衛門博士だった。
どちらも私の知った顔だが、両者に接点があるとは今まで思ったこともなかった。特に、磯貝博士がここにいるということが意外だった――確かに歳は取っている人だが、まだ病院に縁があるとは、とても思えなかったのだ。
「とにかく磯貝さん、お話は医局の方でゆっくり……おや、そこにおられるのは、椎野さんではないですか」
ユン博士の困り顔が、ふとこちらを向き、まるで地獄に仏を見たような表情に変わった。
私は、どう反応していいのかわからなかったが、それでも勇気を振り絞って「こんばんは」と挨拶をした。医学博士と理論物理学の名誉教授、両方にだ。
「んん? おお、確かにそこにいるのは、我が不肖の弟子の椎野ではないか。子供のお見舞いか? しかしアマニタ君まで連れているというのは、少し判断を早まっとるな。お前の娘が目を覚ました瞬間、お前の横にアマニタ君のいるのを見てしもうたら、あらぬ誤解を招くぞ」
「それはさすがに余計なお世話ですよ。それよりも、先生ご自身はどうしてここにおられるんですか? まさか、どこか具合を悪くなさったとか……?」
「ああいや、そんなことはない。今度始める実験計画のために、必要な医学上の手続きを、このユン博士に依頼しに来ただけでな」
「…………?」
どういうことだろう。この破天荒な磯貝博士が、なにか新しいプロジェクトを始めるというのなら、それはとても興味深いことだが――なんだか不穏な気配がする。助けを求めるようなユン博士の眼差しが、警告に近い意味合いを表現しているように見えるのだ。
「あら、何を始められるおつもりなんですの? アメリカがフォーマルハウトへの長距離ワープを計画しているそうですけれど、それに関連することでしょうか?」
私に代わって磯貝博士に尋ねたのは、にこにこ笑顔のアマニタ君だった。ああ、君は気をきかせ過ぎる。相手が話したくてうずうずしている顔をしているからといって、すぐに聞いてあげる必要はないのだ――そう、少なくとも、心の準備をする時間ぐらいは用意しておかなければ。
「おう、聞きたいかね。もちろん喜んで教えてやろう。――おい椎野、お前は覚えとるじゃろう。一月の終わりに、NoAがタイム・マシンを作るための方法をはじき出してくれたことを」
「は、はあ。覚えております。確か、物理的には可能でしたが、予算と土地の問題で、制作は現実的でない、という結論に落ち着きましたな」
「そうじゃそうじゃ。じゃがな、だからといって、マジで作らんでおられるか? え? 科学の徒として、手のひらに乗った技術を興味ないと放り出せるか? 我輩には無理さ……」
「……………………」
「あの時も言ったろう、いくら条件が厳しかろうと、物理的に可能なら作っちまえばいいと。だから、我輩は作ることにしたんじゃよ。
この半年、ずーっとそのための根回しに費やしとったんじゃ。葦原技研から設計部の連中を借り切って、タイム・マシンの完全な設計図を作らせた。具体的な建設計画も立てさせ、見積もりを出させた。我輩自身は、連中の作った書類片手に、世界中の財産家どもを巡って金をかき集めた……親交のあるロックフェルド一族と、ロングチャイルド財団、中東のティーリーク王家は比較的楽じゃったな。さらに香港七大財閥のうち、周家と文家と頼家と輝家にも協力を約束させた。百年以上の分割払いという形ではあるが、全部で二京円ちょいの資金を出させることに成功したわい。たった五ヵ月の仕事にしては、見事じゃろう、はっはっは!」
豪快に笑う磯貝博士だが、その前にいる私、アマニタ君、ユン博士は、ぽかんと口を開けて沈黙するしかなかった。
「装置を建造する土地も、ちゃーんと確保したぞ。我らの頭上の赤い星、火星じゃ。あそこはまだ、ロケット時代の小さい観測基地が十二、三個あるだけじゃが、これから一気に開けることになる。我輩たちのタイム・マシン製作チームが乗り込んで、開拓しまくるからな! 地球からワープ航法で大量の重機を送り込めば、東京クラスの都市程度なら、あっという間にできあがるじゃろう! ああもちろん、メインの制作物はタイム・マシンじゃがな。日本と同じぐらいの巨大な機械を、優秀な技術者をかき集めて作らせる――月のティコ・クレーターの底にある巨大地下都市『マイクロフト』を建造したチームに声をかけておるんじゃ。まだ本決まりはしていないが、交渉した感じでは有望そうじゃったよ。今のところ、笑えるほど順調にことは進んでおる――意外と皆、本気で欲しがっておるらしいぞ、タイム・マシンという面白げなものをな!」
ここまで話が進んだところで、ユン博士がうーんと唸ってぶっ倒れた。磯貝博士は気付いていないようだが、ことはスケールが大き過ぎて、ショッキングに思える段階まで進んでいたのだ。
「おやおや、どうしたユン博士。立ちくらみでもしたかな? 医者というのは案外、体が弱くていかん。
これから我輩の計画に協力してもらわにゃならんのだから、しっかりしてくれんと困るぞ、まったく」
「ま、ま、ま、……待って下さい、磯貝先生! ど、どういうことです! 私はそんな話、聞いていない!」
倒れたユン博士を、のんきに起き上がらせようとしている磯貝先生を、私は近年発したことのないような大声で問い詰めた。
「あのタイム・マシンの理論は、あなただけでなく私にも権利があるはずだ! どうして私に相談せず、そ、そ、そんな大仕事を始めようとしているんです! 二京円の資金? 火星の開拓? 馬鹿げている……知っていたら、絶対に止めていた!」
「ああ、お前ならそう言うじゃろうな。だから、もう後戻りできんまでにお膳立てを整えてから、話そうと思ったんじゃ。
実際、もう中止とかできんぞ。金は集まり始めとるし、必要な重力ビーム装置も製造ラインに乗っておる。ここで止めようもんなら、我輩は裁判を起こされるじゃろうな。お前が恩師を刑務所に放り込みたいというのなら話は別だが、そうでないなら協力せねばならん。何、難しいことは言わん、素直にチームメンバーに加われ。そうすりゃ、完成の暁にはお前も、タイム・マシンが使い放題じゃ。その権利、魅力的ではないか?」
「いや、いや……そんな問題では、そんな問題ではないのです。そこまでして……科学的好奇心はわかりますが……そこまでして、危険を冒して、作らねばならないようなものではないでしょう……困難過ぎる計画じゃないですか。失敗すれば、あなたの名声が地に落ちるだけでは済まないのですよ?」
「成功するさ。そういう運命にあるのだ、失敗なぞあり得ん」
ふん、と胸を張って、磯貝博士は断言する。
なぜなのだ? なぜ、彼はここまで迷いなく、多くの人を巻き込んでこの計画を進められる?
彼の目は、タイム・マシンを無事に完成させられると、本気で確信していた。普通はどれほど自信のあるプランを立てることができても、ある程度は失敗の可能性も考えて準備をしておく。大規模で困難な計画であればあるほど、フェイル・セイフは充実しているものだし、計画者自身の性格も慎重になる。だが、磯貝博士はこれにまったく当てはまらない。
私のことをまったく蔑ろにしていたし、計画の進め方も、躊躇というものが感じられない。後ろや足下を確かめるつもりさえなく、前だけを見据えて全力疾走しているような有り様だ。
単に磯貝宗右衛門という人物が、有能で自信家であるというだけのことでは説明できない。どうしてだ? 彼の精神は何に裏付けられて、このような行動を是認している?
「なぜ、そうも自信を持っておられるんですの? 磯貝先生」
喉がカラカラで、とても問い詰めることのできない私に代わって。
またしても磯貝博士に、決定的な質問を繰り出したのは、頼りになるアマニタ君だった。
「正直なところをお答え下さい。それほどの大事に、事後承諾で巻き込もうというんですもの。それ相応の保証がなければ、椎野先生とて素直に頷けはしませんわ」
今回ばかりは、彼女の表情も引き締まっていた。まるで、わがままを言う子供を叱る母親のような、断固とした態度で詰め寄っていく――その迫力は、問われた博士の方が、ばつ悪げに肩をすくめるほどだった。科学界の大長老、政界にも財界にも太いパイプを持つ、誰もが頭の上がらない磯貝宗右衛門博士の方が、だ!
「……保証は、ある。吾輩の頭の中にだがな。タイム・マシン計画は成功し、将来、我々人類は過去や未来に、情報を伝達することができるようになる。
それを確信できる理由は……もちろん、椎野の理論の正しさを信じているから、というのもあるが……もうひとつ、絶対的な証拠が、あるにはあるんじゃが……うーん……」
「そこで煮え切らないのはよして下さい。椎野先生の同意を取りつけたいのなら、是非にでも胸襟を開いてもらわなくては」
悩む磯貝博士に(ここにきて初めて、私は博士が悩む姿を見た)、攻めの姿勢を崩さないアマニタ君。やがて博士は押し負けたか、それとも決心を固めたのか、私の方をちらりと見て、言った。
「……最初に注意しておくが、これから言うことは嘘じゃないぞ。正真正銘の本当だ。聞いたあとで、信じられない、とかふざけたことを言うんじゃあないぞ。
実はなぁ。我輩はすでに、未来からメッセージをもらっておるんじゃよ。タイム・マシン建造に成功したという、時を越えた知らせをな」
ぱちくり、と。
私もアマニタ君も、目を瞬いたのは、仕方のないことだっただろう。
「もうな、百年以上前から、我輩は未来からの通信を受け取り続けてきたんじゃ。
最初は、夢を見とるのかと思った……寝室でうとうとしとる時に、真っ暗な部屋の隅っこにな、ランタンを持った我輩の姿が、ぼんやりと浮かび上がったんじゃ。何じゃろな、と、注視する間もなく、それは消えた。
その一回だけなら、やはり夢だろうと片付けることもできた。じゃが、その幻の我輩は、ちょくちょく現れよった。ほとんど毎夜、部屋の明かりを消して、ふとんに潜り込もうとした時を見計らって、な。こりゃあいかん、勉強のし過ぎで、とうとう幻覚を見るようになったか、と危ぶんだよ。しかし、何度も何度も、何度もそいつを見とるうちにな……何やら、その幻は、我輩に何かを伝えようとしておるらしい、ということに気付いたんじゃよ。
最初はランタンしか持っていなかったそいつが、いつしか、大きな紙を反対の手に持って差し出してくるようになった。
二、三秒で消えてしまうし、変にぼんやり輝いておるんで、その紙に何が書いてあるのか、なかなか読み取れなんだが、ぼんやりと『未来』だとか『タイム・マシン』だとかいう単語のあることは読み取れるようになった。
他にもそうさな、『三千十五年』とか『時間逆行理論成立』だとか、『音声不可』、『精度不完全』、『デジタル・データは欠落』などなど、無数の単語をこちらに提示してきおった。それらを統合した結果、一応意味の通る情報を組み立てることができた。
まず、その幻は未来の我輩の像であるということ。完成したタイム・マシンによって、映像データのみを過去に送り込んでいるということ。次に、どうやらタイム・マシンはあまり精度の高いものではなく、複雑だったり鮮明だったりする情報を、欠落させずに過去へ送ることはできないらしいということ。デジタル・データは、途中の0や1がいくつか吹っ飛ぶだけでも意味が全然違ってくるので、時間移動には向かない……全体で大まかに意味を捉えることができる、アナログな映像データなどが送信するのに向いているらしい、ということ。
音も送れない。空気の振動は、時間を越えては移動できない。光であれば可能。やはり映像データが、時間移動には最適。ゆえに、一方的な筆談によってのみ、我輩は未来からのメッセージを受け取れた。それも、情報がかなり減衰しているために、何度も出現してもらって、何度も同じ情報を見せてもらうことで、ようやく理解できる有り様だ。
もちろん、未来に何が起きるかも教えてもらえた。椎野、お前が三千十五年に、タイム・マシンに必要な時間軸を捉える理論を完成させることも、我輩の幻はしっかり予言しておった。我輩が、タイム・マシンの建造に着手し、成功させることもちゃんと伝えてきたぞ。他の誰でもない、我輩がそれをやる、ということを、断定しておったのじゃ。
繰り返すが、これはお前たちの気を引くための嘘なんかじゃない。夢でも妄想でもない。決定した未来からの、決定した事実を教えられた、それだけのことだ。タイム・マシンが完成すれば、そういうことは必ず起こるはずだと、お前たちも理解はできよう。
ゆえに、我輩はタイム・マシンを作るのだ。成功するとわかっている計画を実行することに、何の不安があろうか? たとえ、やるなら自分の首を賭けてやれ、と言われても、我輩はためらいなどせんぞ。未来の我輩自身が、心配ないと言うてくれとる以上はな。いくら金がかかり、いくら労力がかかろうと、目的は必ず達成される。されざるを得ない。なら、素直に足を止めずに進めばええじゃろう――それが運命というもんじゃ」
私とアマニタ君は、磯貝博士の告白を黙って聞き――聞き終えた時には、互いに目を見合わせた。
おそらく、彼女も私と同じことを考えているはずだ。磯貝先生は今、私(とアマニタ君)にとっての、個人的な謎を実に気軽に解いてくれた。
「すべてはもう決定しておる。未来の我輩は、お前がこの計画に加担してくれると言うておったぞ。今は、まだ我輩の言うことを信じられんかも知れん。我輩のやることが無茶だという思いを、拭えぬかも知れん。じゃが、いずれは賛同することになるさ。それが運命というものじゃ。
……ま、その辺は、これからゆっくり考えてくれればいいさ。あとで詳しい事業計画を、お前んとこの端末に送ろう。それを読んでから、なるべく早くYESの返事を持ってくるといい。
我輩はお前だけでなく、このユン博士にも協力を頼まねばならんからな……おいこら博士、まだ気絶しとるんか。さっさと起きろ。まったくこれだから医者ってのは、ナイーブでいかん」
まだ正気に返らないユン博士の肩を揺すぶって、勝手なことを言う磯貝博士。
そういえば、彼はなぜユン博士に協力を頼もうとしているのか? 彼はあくまで医学博士であり、タイム・マシンの理論はまったくの専門外のはずだ。体にも不調はないというし、いったいどういう形で関わらせようというのか?
「いやなに、こいつの研究している、オーヴァーライト法に用事があってな」
私の視線で聞きたいことを察したのか、磯貝博士はニヤリ、と不敵に笑い、話してくれた。
「あとで、事業計画書を見てもらえればわかると思うんじゃがな。火星でのタイム・マシン建造は、とにかく大工事になる。時間もめちゃくちゃかかっちまう。
葦原技研設計部の計算によると、どんなに手際良く建設を進めたとしても、工期がだいたい六百五十年ほどになっちまうんだそうじゃ。想定し得る作業ロスを勘定に入れると、七百年が妥当なところになるな。アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアも、着工から完成までおそろしく長かったが、そのさらに上をいくことになるわけだな。
優秀な医療技術である菌糸治療が、人類の平均寿命をずいぶんと延ばしてくれてはおるが、さすがに七百年もは我輩も生きることができん……そこで、ユン博士の提唱する革命的な技術、オーヴァーライト法の出番というわけじゃ。
全身の細胞をひとつ残らず、菌糸と入れ替えるというこの方法。人間をキノコ人間に生まれ変わらせるこの手術を受ければ……デジタル化された遺伝子を持ち、自己の崩壊と再生を繰り返すことで、永遠に生きられるキノコ人間になることができたなら。我輩は七百年間を生き延びて、タイム・マシンの完成に立ち会える。
実際、未来の我輩がタイム・マシンを使って、情報を過去に送ることができたからには、我輩はタイム・マシン完成後にその行為を実行するまで、死ぬわけにはいかんし、死ぬこともあり得ないのだ。今の技術で、我輩の精神を損なうことなく未来に持っていけるのは、オーヴァーライト法だけじゃった。もちろん、これがまだ成功例もない未実証のものであることは知っとる。じゃが、さっきも言ったように、我輩はタイム・マシンの完成まで生きていられることは確定しておるわけで、だとしたら手術が失敗して、我輩が死んじまうこともあり得ん、という理屈になるな? だから、まだ成功例が出てなくても、オーヴァーライト法手術を受けることにためらいはないんじゃが、このわからず屋のユン博士はそのことをまったく理解してくれようとせんで、延々とできんとか反対だとか、意味のない繰り言を……こうなったら我輩も意地じゃ、何年かかってでも説得して、こやつに手術の実行を認めさせてみせるぞ。ほれ、起きろ、起きろって……」
磯貝博士は、そんな勝手なことを言いながら、ユン博士を乱暴に揺さぶり続ける。
ああ、かわいそうなチャールズ・ユン博士。彼の職業倫理的な抵抗は、おそらくこの退くことを知らない精力的な科学者の前に敗れ去ることになるだろう。
そして私は、その闘争について、ユン博士の手助けをすることはできないのだ! なぜならこの時点で、私も確信し、熱望していたからである――磯貝博士のいうことが、一言たりとも偽りなく、真実であるべきだと。
■
目を覚ましたユン博士は、磯貝先生に引きずられて、医局の方へ去っていった。
私は初めて、担当医であるユン博士の同席なしで、灯を見舞っていた。隣にはアマニタ君がいる。彼女は薄いビニールのカーテン越しに、静かに灯の寝顔を見つめていた。
「どんな風に思った?」
私は尋ねてみた。アマニタ君は、少しだけ考えて、微笑みとともにこう答えた。
「ええ、あくまで感覚ですけれど……ちゃんと、生きておられるように思えます。
私たちキノコ人間と同じ雰囲気が、灯ちゃんから感じ取れますわ。静かで湿った、山の中の空気に触れたような感じ……」
「そうか。なるほど、そんな感じなのだな。ならば、やはり心配はいらないか」
「ええ。心配など、いりません」
私とアマニタ君は、顔を見合わせて、同時に笑みをこぼした。
彼女が小さく、ふふふと声を潜めて笑い。私もあはは、と、声を出して笑う。まったく、何年ぶりだろうか。灯の前で、こうして笑うことができたのは。
「気付くべきだったんだ。ユン先生から、灯にシイノトモシビタケの遺伝子が導入されてると聞いた時点で。
路地裏に現れた灯の幻影が、二冊の本を差し出してきた時も……時間ベクトルを算出する方法を思いつくことができた、あのレストランでの夕食の時も。チャンスは何回でもあった。
私と、君が見た光り輝く灯の正体が……未来から撃ち込まれた3Dスナップショット・データだって、気付くべきだったんだ」
まったく、どうして思いつかなかったんだろう。
あんなに、あんなに、時を越える手段を考え続けていたというのに。
研究が成功すれば、過去や未来に情報を伝達することができるようになると、そう信じて知恵を絞っていたというのに。
「灯があんなに緑色に輝いてたのは、シイノトモシビタケ・ベースのキノコ人間になったからだ。あれは、キノコ人間になったあとの灯なんだ。
磯貝先生とナイトリーの本を差し出してきたのは、それが新理論を生み出すために必要だと知っていたからだ。私がそのふたつから、理論を完成させるということを知っていたから、見せてきたんだ。
残念ながら、にぶい私はその場では気付くことができなかったが、結局は理論を組み立てることに成功した。だからそれ以降、灯は出てこなくなったんだ……タイム・マシンの建造に必要な仕事を、運命が私に割り振った役目を、無事に終わらせたから。それ以上、過去に干渉する必要がなくなったんだ。
おそらく、私が気付いた時以外にも、たくさんのスナップショットが、もっと直接的な情報が、繰り返し繰り返し私のところに撃ち込まれてきていたのだろう。だが、磯貝先生も言っていたように、タイム・マシンの精度と情報伝達能力は、かなり低いものらしい。私は、灯が笑顔を浮かべた数秒しか目撃できなかったし、伝聞らしい伝聞も受け取れなかった。未来でこの結果を観察しているとしたら、灯はさぞがっかりしただろうな! それとも、最低限の役目を果たすことができて、ほっとしているかな?
まあ、その辺はどうでもいい……どうせ、灯が将来目覚めた時に、タイム・マシンが完成して、灯のスナップショットを過去に送る日が来たあとに、尋ねることができる問題だからな。それよりも、それよりも重要なのは、うん――灯が、未来から映像を送ってきてくれた、という事実だ!
あの子は生きていた。緑色に光る、キノコ人間になって。目を覚まして、立って、こちらに手を振ることもできるんだ……そして、笑顔を浮かべることもできていた! あんな幸せそうな、素敵な笑顔を!
アマニタ君、確定したんだよ……灯は目覚める! 死ぬことなんてあり得ない……人類の平均寿命二百二十年どころか、七百年先でも、楽しく笑って暮らしているんだ! ユン先生のオーヴァーライト法は、遠からず最初の成功例を世界に発表するだろう! そしてそのずっとあとに、磯貝先生のタイム・マシンが完成する……しかし、その恩恵を、私はもう受けた! 灯が生き延びて、笑顔で暮らせるという保証を得られた! それ以上に求めるものなどあるものか!」
肩を震わせ、は、は、は、は、と、私は笑う。笑い続ける。涙が出るくらい笑う――嬉し泣きだ。
アマニタ君が、ハンカチを貸してくれた。私はそれで目もとを拭った。目を閉じたまま微動だにしたい灯の姿が、鮮明になる。
私はもう、眠り続ける灯を、寂しい気持ちで見なくてもいい。いつ目覚めてくれるのかとか、もしかしたらもう目覚めないのかもとか、そんな不安に心を騒がせなくてもいい。
ただ安心して、楽しみに待てばいいのだ。目覚めてくれるその日を。おはようと声をかけてあげることのできる、その日を。
■
■
ザク、ザク、ザクと、落ち葉を踏む音が重なる。
辺りは墨を流したような暗闇だ。だがその中を、私たちは怖れることなく進む。左耳の内側に形成された音波反射式形状識別器官は、数十メートル先までの地形をまるで、太陽の下で見ているようにはっきりと知覚させてくれたし、もう何百回も崩壊と再生を繰り返した両足は、二、三十キロメートルを歩いた程度では疲労しない。目で見るのとは違う自然の風景を楽しみながら、私たちはゆっくりと進む――山腹のあるポイントを目指して。
「しかし、サミュエル・ロックフェルドも、ずいぶん思い切りましたね。彼の追加資金がなければ、『ナイト・カフェテラス』一号の完成はあと、三十年は遅れるところでしたよ。
しかも、巨費を投じて完成したタイム・マシンは、最初の予想以上に精度の低いものだったのに、文句ひとつ言わなかった。他の出資者たちの反応も、似たり寄ったりだ……やはり、あれくらい大らかな心根の持ち主でないと、お金持ちにはなれないんでしょうかね?」
「いやいや、そんなことはないとも。連中が金を出したのは当然さ。自分がその建設に金を出す運命だと、我輩に話を持ちかけられる前から知ってたんだろうからな。
椎野、お前まさか、奴らが過去の自分に、通信を試みないなどと馬鹿げたことは考えちゃいまいな? 奴らの一族は七世紀もの間、ことによっちゃ千年とか二千年以上前から、『ナイト・カフェテラス』の撃ち込んでくる未来の情報を頼って、財を成してきたんだよ。まあもっとも、これまでの実験から、未来から過去にどんな情報を送ろうが、歴史の流れを変えることはできないと判明しているが――何度試しても、三回あった世界大戦は阻止できなかったし、お前がナイトリーの式を解くのは、三千十五年六月三十日より早まることはなかったからな――それでもサミュエルや彼のご先祖たちは、未来からのご託宣によって、迷いなく、強い安心を持って、事業に励むことができただろう。その心のゆとりを得られた、という事実を否定しないためにも、奴らは是非にでもタイム・マシンを完成させなくちゃならなかったのさ」
私の左隣を歩く磯貝博士が、きっぱりとした声で私の呟きに答える。世界最高の物理学者であり、世界で二番目のオーヴァーライト法手術の成功例としても知られる彼と顔を合わせるのは、実に三十年ぶりだ。ここしばらく、彼はずっとアンドロメダ星雲の植民惑星を旅し続けていたので、この登山の直前に連絡が入った時には、とても驚いた。
「おとうさーん! おーそーいーよー。早く行こー? おいてっちゃうよー?」
五十メートルほど先に、ぼう、と、淡いライム色の光球が生じ、そこから幼い声が呼びかけてきた。
まるで妖精のように幻想的な輝きを放っているのは、娘の椎野灯である。シイノトモシビタケの遺伝子をその身に宿した彼女は、ユン博士の予想通り、暗闇で緑色に発光する性質を獲得していた。
通常ならば、そのキノコとしての個性を抑える処置も施されるのだが、灯はもったいないと言ってそれを拒否した。実際、光る彼女はきれいだったし、特に害があるわけでもないので、ユン博士も強くは処置を勧めなかった。
だから今日も、灯は元気に輝いている。太陽の下では、正直少しだけ地味だが、闇の中は彼女のステージだ。ロング・ワンピースドレスのすそをふわりとひるがえし、木々の隙間を浮遊するように進んでいく。
「おい、待ちなさい灯。そんなに急ぐと危ないよ。まだまだ夜は長いんだから……あのキノコが輝いているところを見れる時間は、しばらく終わらないから。だからゆっくり……」
「ふふ、いいじゃないですか正胤さん。キノコにとっては、山の中はとても落ち着ける場所なんですから。ああいう風にはしゃいじゃうのが、自然な反応です。ゆっくり行こう、なんて言ったら、かわいそうですよ」
「しかしだね、ムスカリア。あの子はどっちかというととろい方だから。飛び跳ねてるのを見ると、少し心配だよ」
右隣を歩くムスカリアの言葉に、私は反論する。しかしもちろん、彼女の言うことも正しいということは、内心でわかっていた。このしっとりとした空気、植物たちのにおい。老化した体を捨て、菌糸製の肉体に完全移行した今、この環境には確かに、自室にいるような安らぎを覚える。人によっては、落ち着きよりも高揚感を覚える場合だってあるだろう。今まさに、灯がはしゃいでいるように。
「お前は慎重過ぎるよ、椎野。灯ちゃんのように駆け出せとは言わんが、ちったあ何も考えずに進んでもええんじゃないか」
ムスカリアだけじゃなく、磯貝博士も私の味方ではないようだった。
「どうせ我輩たちは、全員無事に山を降りられることがわかっとるんだ。未来からそういう通信が来とるからな……それならとっととあれの繁殖地まで行って、見物の時間を長く取ろうじゃないか。手足から地面に菌糸根を下ろして、自然の栄養分を吸ってみるというのもいいかも知れんな。この体になってから、色々な地面の栄養を吸って味わってきたが、やはり腐葉土の多い山の土ほど元気が出るもんはない。栄養の経口摂取にこだわる、人間習慣保全主義者どもの言うこともわかるが、この新しい食習慣は……」
「磯貝先生。それもいいですが、今回の登山の目的は、あくまでスナップショットの撮影なんですからね。私が最初の二年で目撃した、灯のスナップショットをここで撮って、過去に送るんです。重要な実験でもあるんですから、忘れてもらっちゃ困りますよ」
「わかっとる、わかっとる! だが、わざわざ言う必要もなかろう? 大切なのは、これから何をするかを決めることじゃ。決定されていることは保証にはなるが、楽しみは常に決まってないことの中にあるもんじゃからな」
「しかし……」
「ええいうるさい。お前、最近本当に細かくなってきとるぞ。そんなだから再婚を決めるまでに、五百年もだらだら悩むことになるんじゃ。我輩はその間に四回結婚して、三回離婚したぞ。お前も我輩を見習ってちゃっちゃか行動せい!」
「ちょ――そ、それとこれとは関係ないでしょう! というか見習いたくありません、離婚がどうとかだけは絶対見習いませんからね! な、そうだろう、ムスカリア?」
「ふふ、ふっ。ええ、ええ、もちろんですよ、正胤さん。さんざん待たされたんですもの、もう、望まれても離してあげませんわ」
ムスカリアはくすくすと笑いながら、左腕を私の右腕に絡めてくる。その様子に、なぜか磯貝博士も笑い始めた。
「椎野よ、お前より嫁さんの方が、断然ユーモアのセンスはあるぞ。毒キノコの女ってのは、こうと決めたら一直線じゃからな……ま、末永く仲良くやるがいいさ」
「は、はあ……?」
最新の高等数学理論より、ずっと意味のわからない言葉を投げかけて、博士はどんどん先へ進んでいく。
勝手にペースを上げられ、腕を組んでいる私とムスカリアは置いていかれる形になったが、別にいい。迷いはしない自信があるし、彼らがペースを上げる自由があるのと同様に、私たちにものんびり歩く自由があるはずだ。
「もうすぐですねぇ」
私の顔のすぐ横で、ムスカリアのうっとりとした声がした。
「ああ、もうすぐだよ」
私も返事をして、ゆっくり、着実に、梢を掻き分けて進む。
やがて――少し開けた場所に、私たちはたどり着いた。
朽ちた木が、細かいチップのようにばらばらになって散らばっている。まるで植物の墓場だ。しかし、そこに息づく者たちもいる――私は、ソナー器官を一時的にオフにし、視覚のみでその光景を捉えた。
ぼう、と。
地面に現れた星空のように。動かない蛍の群れのように。数え切れないほどのライム色の輝きが、闇の中に浮かび上がった。
何百年ぶりだろう。前に来た時は、灯と、最初の妻との三人でこれを見た。静かな夜で、灯だけがはしゃいでいた。
メンバーは多少変わってしまったが、この場所の静謐さと、灯の無邪気な喜びようだけは、変わらない。
「着きましたね。この景色ですよ、私たちが見たの」
「ああ、この景色だね。間違いない」
美しく光る仲間たちに混ざって、灯もその身を明るく輝かせる。両腕を広げて、くるくると独楽のように回っている。
可愛らしい笑顔。幸せそうな笑顔。灯は短からぬ不遇の時期を乗り越え、今日という時間を迎えることができた。
私とムスカリアは、静かな感動とともに、その光景に見入った。灯の人生は、まだまだこれからも長く続く。だが、これはひとつの到達点だ。
「おい、椎野。お前もスナップショット・カメラの準備を手伝え。やると言ったのはお前だぞ」
その声に振り向くと、すぐ近くで磯貝博士がしゃがみ込んで、リュックサックから取り出したいくつかの機械装置を組み立てようと頑張っていた。
「この部品にこの部品をセットすればいいんじゃよな。んん? フラッシュはどうした? 取扱説明書によると、別付けのようじゃが。お前ら、もしかして忘れてきたんじゃあるまいな?」
「そんなわけないでしょう。もちろん、わざと持ってこなかったんですよ。過去に送るのは、灯のデータなんですから。
フラッシュなんか焚いたら、逆にきれいに写りません。シイノトモシビタケもそうです……あの子を撮るなら、暗闇の中でなくてはね」
「ああ、そうか、そうじゃよな。光は……」
そう。光は目の前に、存分にある。
「お父さん、見て見てーっ。まわり一面、とーっても! きれい!」
長い長い人生の旅路を、ゆっくりと歩いて。
私たちはとうとう、光源にたどり着いた。