前編
ふわふわとした光のもやが、闇の中にうずくまっている。
鮮やかなライム色の輝き。しかし、まぶしくはなく、温かみもない。不定形なそれが徐々に凝縮し、輪郭を持ち始める。
二本の手が、胴体が、頭が生じる。それらはどんどん具体化し、五本ずつの細い指先、白いワンピース・ドレスをまとった、起伏の少ない華奢な体、やや幼げな少女の面影が確認できるようになる。もっと待てば、さらにピントが合い、それが誰であるのか、個人名を指摘できるまでに鮮明な映像になる。
髪型は、肩までの長さのマッシュルーム・カット。眉ぐらいの長さになるよう切られた前髪には、うねるような強いくせがあった。目はくりくりと丸く、リスを思わせる。小さな鼻、小さな唇。歳の頃は十二、三歳ぐらいだろうか。見覚えのある――とても、見覚えのある顔だ。色調とコントラストが異常であっても、見間違えようがない。
彼女は最も鮮明になる瞬間に、にこりとこちらに微笑んでみせた。そして、次の瞬間には、これまでの過程を逆再生するように、あっという間にぼやけていき、あいまいな薄い輝きになり、ついには、ふっ――と、消え去る。
出現から消失まで。おそらく、二秒にも満たない。
私が手を伸ばし、名前を呼ぼうとしても、その前に彼女は消えてしまった。
まるで、追いつくことのできない蜃気楼のように。
■
暗闇の中で、さらに言うと寝室のベッドの中で。私は小さな悲鳴を上げて飛び起きた。
混乱した頭で、辺りをきょろきょろと見回す。静寂。額に手をやると、ぬるりと脂汗をかいていた。部屋の中には、灯りはひとつもない。天井灯は消えているし、ナイトテーブルの上のスタンドもスイッチを切られている。窓も厚いカーテンで閉ざされていて、月明かりも星明かりの入ってくる気遣いはない。ロウソクほどの微かな光も見当たらず、目を凝らしてようやく、壁や天井、家具の輪郭が見えるようになる程度だ。あの鮮やかな燐光の雲が存在していた形跡は、どこにもない。
夢か、と思い込んで、再び布団をかぶることもできた。しかし、本当にそうしていいのか。
もう五回目なのだ。昨日、一昨日、その前日、前々日と続いて、今夜で五回目だ。寝るためにベッドに入り、うとうとし始めた頃を見計らうように、目の前にあの光のもやが現れ――私はその中に、緑色に輝く少女の姿を見る。
一回きりなら、明らかに夢だ。二回なら、気のせいとも言えよう。だが、三回以上はどうだ。何らかの原因があって、連続してそれを見る羽目に陥っている、と考えるのが、適当ではないだろうか。
心当たりはある。私は、あの少女の姿を見ることを、切に望んでいる。
強い願望が私の精神を変調させ、あのような夢とも幻ともつかないモノを見ることになった、という可能性は、充分にあり得る。
ああ、あの文字通り光り輝く笑顔。あれの本物を、この目で見ることができたなら。
きっと私は、夜中にこうして、たまらない気分で目を覚まさなくても済むのだろうに。
――光の中にいた、緑色の少女の顔。
それは、今も病院で生死の境をさまよっている、我が娘の顔だった。
■
私の娘、椎野灯が『ランズマン=高峯型』の遺伝子障害を患っていると判明したのは、八年前のことだ。
今でも、昨日のことのように思い出せる。西暦三千六年、二月八日。べとついた雪の降る、憂鬱な日だった。K大学病院の診察室は、エアー・コンディショナーによって快適な気温を維持されていたが、娘の受けた遺伝子検査の結果を聞かされたばかりの私にとっては、そこは屋外と何も変わりはしなかった。
「ご存知の通り、『ランズマン=高峯型』の癌(cancer)に、有効な治療法は存在していません」
灯の担当医であるチャールズ・ユン博士は、世界中の苦痛をその身に背負っているかのような声で、厳かにそう告げた。顔中に無数のしわを刻んだ、白髪白眉の老医師――その眉間に刻まれた、ひと際深いしわに、私は彼が軽い気持ちで発言しているのではない、ということを思い知らされた。
「菌糸治療が発達し、ほとんどの病気が治療可能になった現代でも、変わらず人類の前に立ち塞がり続けている壁なのです。
通常の癌であれば、問題なく治せます……それこそ、注射一本で。癌細胞を破壊する機能と、癌細胞によって占められていた部分を補う機能を付加した菌糸溶液を、静脈に注ぎ込むだけでいいのです。過去に、その方法で末期癌の患者を治療したこともあります……その患者は、全身に八十五ヵ所も致命的な病巣を持っていながら、ただ医者嫌いだという理由で治療を受けずにきた人でしてね。あと数日、説得が遅れていれば、確実に死亡していたでしょう。
……ええ、そうです。椎野さん、おたくの娘さんの病状は、それよりはるかに悪い。
今の時点でも、先行して発病した箇所を菌糸と交換してあります。両手両足、さらに肝臓と腎臓の一部、肺のほぼ全体……しかし、それで終わりではない。『ランズマン=高峯型』の恐ろしいところは、癌化する運命が、生まれつきDNAに記述されているという点なのです。全身の細胞が、健康で正常なものとしてふるまっていながら、ある日突然癌化する。この運命は、けっして止められるものではない。『そうなれ』と、遺伝子自身が命じるのですからね。
体の悪くなったところを、菌糸治療で交換しても、限りがない。全ての細胞が癌化するからには、癌化する部分を取り替え続けていけば、最終的には娘さん本来の細胞は、椎野灯さんという人間の肉体は、ひと欠片も残らないことになる」
診察室で、ユン博士と向かい合って座り、話を聞いていた私は――正直に言おう――あまり現実感が湧かなかった。かけがえのない自分の娘が、死の淵に立たされている。しかも、その運命は避けようがない、などというのは、簡単に受け入れられることではない。ただただ、漠然とした恐怖と、胃をぎゅっと締めつけられるような不安が、背後に立ったのを感じただけだ。
「どうにか、ならないのですか、ユン先生。菌糸医療は万能のはずだ……糖尿病だって、エイズだって、脳腫瘍だって治せるのでしょう! 私の娘ひとり助けるぐらい、できないはずがない!」
私の訴えに対し、博士は唇をすぼめ、よりつらそうな表情をした。
菌糸医療――それは、現代医療の最先端であり、医療の終着点とも呼ばれる技術だ。
その基本は、菌糸である。微生物である菌が糸状をなしたもので、これが集まり、絡み合って、大きな構造を形成する。自然界では、キノコが代表的な菌糸構造物だろう。
西暦二千二百十三年に、M大学のロバート・マキューンが、キノコの多様性に目をつけ、菌糸を医療用に改造することを思いついた。菌の細胞そのものをハードウェアとしてとらえ、遺伝情報の根幹であるA、T、G、Cの四つの塩基を、どんな些細な突然変異も起こらないよう完全デジタル化し、プログラムによって人体内で望み通りのふるまいをするよう、カスタマイズしたのだ。
この発明は、三十年かけて研究と実験が繰り返され、二千二百四十五年に実用化された。それ以来、人間は体の悪いところをどこでも、菌によって治療してもらえるようになった――まず、病化した細胞を破壊する性質を持った菌が、病巣を取り除く。次に、破壊された部分に修復機能を持った菌が入っていき、健康な細胞と同じ機能を持つ構造物を、菌糸で構成する。それだけで、人体は健康になる。
肝硬変になった肝臓を、手術することなく治せる。菌糸液を注射すれば、肝臓組織が菌糸でできた新しい肝臓へと、あっという間に作り変えられる。重度の心臓病を患い、移植をしなければ生き残ることができなかった人も、菌糸製の心臓に作り変えてもらうことで、命を永らえることができるようになった。
菌糸の活用法は、病気だけに留まらない。事故で腕を切断してしまった人がいたとする。彼の腕の切断面に、菌糸を培養して作った人工の腕をくっつける――すると、菌糸がちぎれた血管や神経と接合し、生身の腕と同じように動く、新しい腕として定着する。
この菌糸医療技術によって、世界からほとんどの病気は追放された。怪我も、即死でなければ確実に助かる。菌糸は脳神経もケアできるので、認知症やパーキンソン病、アルコール中毒なども絶滅しつつある。人類全員が、安定した健康を享受できる時代が来たのだ。
「今現在の人類の平均寿命は、二百二十歳です。老いた細胞を菌糸と取り替え続けて、二百五十歳まで生きた人だって私は知っている。それに対して、灯はまだ十二歳だ……あと二百年以上は生きられる子供なんだ……治療法がない、で納得して、諦めるわけにはいきません。
もう一度聞きます、ユン先生。どうにかなりませんか。灯が助かるなら、どんな方法だって構いません。ひとつ、無理を通して下さい、お願いします」
血を吐くような気持ちで、私は迫った。ユン博士は――しばらく、二、三分も沈黙していたが――やがて、覚悟を決めたように、口を開いた。
「ひとつだけ、方法があります。非常に難しく、冒険的な方法になりますが、これ以外に完治させる手段はない……」
「それは? いったい、どんな方法です?」
彼は、あまり気が乗らない様子で、ぼそぼそと提案を口にした。
それを聞いた私は、判断に困った――それを是とするか、否とするか、容易には決められない、そういう種類の提案だったのだ。
■
ユン博士との対話のあとで、私は灯のところへ見舞いに訪れた。
彼女は、白く清潔な病室の中で、大きなベッドに横になり、文庫本を読んでいた。仰向けに寝て、本を持った両手を、顔の上に差し上げている。すでに菌糸と交換されているその腕は、人間本来のものより、少しばかり青白いように感じられた。
「あ、お父さん」
灯は、私が入ってきたことに気付くと、顔をこちらに向けて微笑んだ。前髪にだけくせのある、淡い褐色の髪がさらりと流れる。輪郭には丸みがあり、それほど不健康そうには見えない。そう、放っておけば遠からず命を落とすようには、とても、見えなかった。
「やあ、灯。具合はどうだ」
「悪くないよ。でも少し退屈。本のストックが尽きてきちゃって」
「そうか。じゃあ、明日にでも図書館で適当に借りて、持ってきてあげよう」
「うーん、嬉しいけど、ジャンルはちゃんと選んでね。お父さんの趣味はちょっと合わないよ……私、夢のあるファンタジーが好きなの。学者さんがエイリアンとかコンピュータ相手に難しい理屈こねてるのとかは、ちょっとニガテかな」
「そうなのか? 面白いと思うんだけどなぁ、ハードSF」
他愛もない会話を交わしながら、私は娘との穏やかな時間を楽しむ。入院している彼女と会える時間は、一日の中で限られている。それを大事にしなければならない――いつ失われるとも知れない時間。失いたくないという思いが、私の笑顔の裏に、切実に存在している。
「早く治して、自分で図書館に行きたいな」
本をたたみ、枕元に置いて、灯はため息混じりに言った。
「普通の日常に帰りたい。具合悪くする前から、私、あんまり元気いっぱいの子じゃなかったけど……大人し過ぎるし地味過ぎだって、友達にも言われたことがあったなぁ……でも、自分の足で自由に歩いて、好きな時に好きな本を本棚から選ぶぐらいのことはしたいんだ。
伊豆にキャンプにも行きたい。私が小学一年生の時、一度行ったよね。お父さんとお母さんと一緒に、山の中に寝転んで星を見たの、覚えてる。お母さんはもういないけど……お父さんと、またあの星空を見に行きたい。
でも、まだしばらく無理なんだよね……はぁ……病気って嫌だね、お父さん」
その言葉は、諦めを含んだ響きであったが、私は灯の目に、わずかに光るものが浮かんでいるのを見てしまった。
彼女の諦めの中には、なかなか元気になれない悔しさと、生きることへの切望がある。
私も灯も、死と病気に対しては、ほんの少したりともロマンチックな感情を抱いていない。それはどちらも、ただ単純に不快なものだ。灯が十歳の時、妻が――灯の母親が、灯と同じ病気で死んだ時に、私たちの死への印象は定まった。
私は灯を死なせたくない。灯は、生きたいと思っている。
ユン博士から聞いた、灯を治すための唯一の方法が、現実味を増してくる。
それを採用するかどうか。博士は、決断を私と、灯の判断に委ねていた。
「……灯。ユン先生が言ってたんだがな。お前の病気を治せるかも知れない方法が、ひとつあるんだそうだ」
私がそう言うと、灯はじっと、無言でこちらを見つめた。
「オーヴァーライト(上書き)法というらしい。ひと言で言うとな、お前の体の、悪さをする細胞を、ひとつ残らず、菌糸に置き換えるというやり方だ。
手足とか、内臓とか、悪くなったところをひとつひとつ変えていくんじゃない。これから悪くなっていくところも、全部取り換える。脳細胞も、ひとつ残らず、だ。それしか……お前が元気になる方法は、ないらしい」
博士は、この方法を提案する前に、すでに結論を言っていた。『全ての細胞が癌化するからには、癌化する部分を取り替え続けていけば、最終的には娘さん本来の細胞は、椎野灯さんという人間の肉体は、ひと欠片も残らないことになる』と。
つまり、言い換えれば――灯の細胞をひとつも残さなければ、健康な灯は成立するのだ。
「理論上は、全身を菌糸に置き換えても、個人の性質は継続可能――らしい。菌糸細胞は、人間の病んだ細胞と交代する時、まったく同じ性質を持つよう、自分を作り変えるから。
ユン先生の話では、脳の五十パーセントを菌糸に交換した人がいるそうだ。その人の菌糸脳は、完璧に健康な神経細胞としてふるまっていて、記憶も人格も施術前と変わらないらしい。つまり、灯。お前の体が、全部菌糸になっても、お前が別人になるとか、そういうことはない。キノコでできた体に、お前の魂が宿る、という形になるのかな」
「それ。これまでに誰か、やった人いるの? 五十パーセントじゃなくて、百パーセント。脳みそを取り換えて、うまくいった人って、いるの?」
「いない。この試みは、やるとしたら、お前が世界で最初ということになる。
五十パーセントの人と、同じ結末になるかどうかも、正直わからない。だが、今のところ、そのオーヴァーライト法が、お前を治せる可能性のある、唯一の方法なんだ」
私が見返すと、灯は少し困ったような、そんな表情をしていた。
もしかすると、私も同じ表情をしていたかも知れない。確率は実際のところ、未知数。不安はどう頑張っても、打ち消せない。
失敗したら、どうなるか? 意識のない人間大のキノコになったりはしないか? また、成功しても、それは椎野灯という人間なのか? 考え方が、人間と全然違うものになったりはしないか? 記憶は本当に失われないのか? 灯が灯として生きてきた十二年、それを継承できなければ、たとえ生物学的に生き延びたとしても、それは治ったとは言えない。
「お父さん。私、このままだと、あとどれくらい生きられるのかな」
「……………………」
「知ってるんでしょ。正直に、答えて」
「……あと二年。正確には、七百二十五日。その日が来た瞬間、お前の全身の細胞は、一斉に、ひとつ残らず癌化する」
ユン博士は、灯のDNAの自殺プログラムを完全に解析していた。このスケジュールは、灯の体内のDNAがすべて捨てられない限り、変わることはけっしてない。
灯は、それっきり黙り込んだ。私も、あえて声をかけなかった。彼女は考えている。是か非かの結論、私はすでに出している。あとは、灯自身が決断するだけだ。
「……少し寝て、考える。今日はたぶん、答え出せない」
「そうか」
疲れのにじんだ灯の言葉を聞いて、私は退室することにした。
「明日は、ファンタジーの本を持ってくるよ」
「お願い。……ね、お父さん。お父さんは、私に生きていて欲しい?」
「もちろんだ」
私は当然即答した。
灯は、「そっか」と、短い感想の言葉を漏らし――それで、その日の会話は終わった。
■
翌日。灯はオーヴァーライト法の手術を受ける決意を固めた。
私もそれに同意し、ユン博士に意志を伝えた。それから一ヵ月間、さまざまな検査を経たのちに、とうとう灯の全身を菌糸に置き換える治療が開始され――。
八年後の今も、その施術は続いているのだ。
■
ビニール製のカーテンに囲まれた、特別治療室の中に。その中央の、さまざまな機械によってモニターされている寝台の上に。
椎野灯――であるはずの塊が、もっさりと存在している。
「脳神経以外の上書きは、ほぼ完全に成功しています」
ユン博士は、私にそう言った。
「灯さんの全身を覆っている、フカフカの綿のようなものは、人で言うとカサブタのようなものですな。治療が順調に進んでいるという証で、死亡した場合には生じないものです。ですから、あの中で彼女が正常に生命活動を続けていることは、間違いないと――ええ、断言できます」
「施術を開始した時は、およそ五年で完治する見込みだと仰いましたね、博士?」
「ええ……その点に関しては、お詫びしなければなりません。まさか、脳の完全置換が、こうも時間のかかるものだとは。しかし、なにぶん世界初の試みです。予想外の出来事が起きるのは、どうしても避けられません。
あとは菌を信じ、待つしかないのです――すでに生身の脳細胞はすべて排除され、今はゲル状の菌糸がお互いの組み合わせを模索しながら、新しい脳神経回路を形成しようとしています。灯さんの記憶と人格をトレースした、健康な脳が完成する日がいつになるかは、生きた菌糸のみが知ることなのです。どうか、どうか信じる気持ちを捨てることなく、お待ち下さい」
「もちろんです。私も灯も、いくらでも待つつもりで、誓約書にサインをしたのですから」
だが、そうは言っても、私の心には不安が降り積もっていく。
日が経つごとに、灯が本当に目覚めるのか、疑いが増していくのが感じられる。灯と永遠に会えない恐怖が、灯の命が失われる悪夢が、雪のように降り積もる。
白い綿毛に覆われた灯の姿。私は毎日、見舞いに来てこれを見ている。
今日は――やはり連日、あんなものを見ているから、不安になったのだろう――仕事に行く前に、朝から灯に会いに来てしまった。
寝室で見た、ライム色の輝きの中の、灯の微笑み。あれは、早く灯に目覚めて欲しい、という、私の願望の表れなのだろうか。
五日も連続で見た、あの幻影。
それだけ、渇望しているということなのか。これ以上の不安に、私の精神が耐えられないところまで来ているのか。
いや、いや――そんなことはないはずだ。私はそこまで弱くない。希望を捨てるつもりはない――けっして。
■
病院を出ると、私はその足で職場へ向かった。
時刻は、午前十時。スケジュールが確定しているのは、午後からの会議だけなので、急ぐ必要はまったくない。
西暦三千十四年、六月七日。梅雨の季節に相応しく、空は渦巻くねずみ色だ。雨が降り出しやしないか、と危惧しながら、石畳敷きの道を進む。やがて、病院の敷地の外に出る門が見えてくるが、私はそれを潜ることなく横手に逸れる。
娘の入院しているK大学病院の敷地から出ることはない。同じK大学のキャンパス内に、私の職場はあるのだ。
K大学理学部棟三階、通称理論物理学フロア。
そこにある七つの研究室のうち、『教授 椎野正胤』というネームプレートの貼られた扉を、私は開いた。
「おはようございます、椎野先生」
「ああ、おはよう、アマニタ君」
中に入ると、いつもの通りの挨拶と、いつもの通りの笑顔が、私を出迎えてくれた。
それは私の助手の、アマニタ・ムスカリア君のものだ。二十代半ばぐらいの背の高い女性で、ショート・ボブスタイルにした白い髪に、カバノキの穂をモチーフにした髪飾りをつけている。ほんわかとした雰囲気の、実に穏やかな気性の持ち主で、いつも笑顔を絶やさない。殺風景な我が研究室を彩る、一輪の花である。
彼女はいつも、私より先に来ていて、仕事の準備を整えてくれている。とても気がきくし、仕事の面でも極めて有能な、なかなか得難いパートナーだ。
「来週の講義の資料、まとめておきました。データは先生のタブレットに、印刷したものはデスクの上に置いてあります」
「ありがとう、いつも助かるよ。磯貝先生から、何か連絡は?」
「三十分ほど前に、伝言を頂きました。今回は素晴らしい進展があった、十四時からの会議できっと驚かせてみせる……と」
「ふうん? そうか。うん、了解」
私は自分のデスクに着くと、アマニタ君の作成してくれた資料をチェックし始める。彼女の仕事は丁寧で、特に書類はとても読みやすい。
十五分ほどでこれを片付け、あとの時間は午後からの会議のための予習に使う。月に一度行なわれる、教員同士の発表会のようなものだが、その重要性は非常に高い。参加する以上は、他の参加者の高等かつ複雑な理論の応酬に追随し、発表される成果をことごとく吸収し、自分も結果を出していかなければならない――研究の世界は、競争原理が強くはたらく場であるし、シビアに歩合制でもある。
いやらしい話だが、灯を治療し続けるためのお金を稼ぎ出すために、私はできる限り大きな仕事に取り組み、成功させねばならないのだ。
「アマニタ君。杉浦博士の【ヤルネフェルト予想と超時空間干渉体について】という論文を読み返したいんだが、あれが載ってたのは『サイエンス・ヒューマン』誌の第何号だったっけ?」
「ああ、それでしたら、確か四百二十一号ですわ。ええと……こちらになります」
アマニタ君は、研究室の壁を一面占領する本棚から、一冊の雑誌を迷いなく引き出し、私のところへ持ってきてくれた。
「ありがとう。相変わらず、君の記憶力は大したものだね」
「うふふ。キノコ人間は、全身が脳ですから。蔵書の検索ぐらい、お手の物ですわ」
柔らかに笑うアマニタ君の瞳が、ルビーを思わせる鮮やかな真紅に輝く。カラー・コンタクトレンズを入れているわけではない――もとから、こういう瞳の色なのだ。アマニタ・ムスカリア君は、人間ではない。全身が菌糸でできた、キノコ人間なのだ。
――マキューンが万能医療菌糸を実用化したのちも、菌糸についての研究は盛んに行なわれた。その中で偶然に生まれたのが、人間と同じ知性を持ったキノコ。通称キノコ人間だった。
彼らは最初こそ、犬とかオウム並みの知能しか持たなかった。教えられた言葉を繰り返す形でしか話せず、一桁の足し算を、ぎりぎり理解できる程度。形状も、普通のキノコにマッチ棒のような手足が生えただけのもので、とても人類と肩を並べる知性体になるとは期待されなかった。世間的にも、ただ、興味深い動物が生まれた――ぐらいの認識しかされていなかった。
しかし、世代を経るごとに、キノコ人間たちは急速に進化していった。
彼らは全身の菌糸を脳神経として使用することで、とてつもない学習能力を獲得した。記憶力も応用力も、わずか二十世代――時間にしてほんの五年――のうちに、爆発的に発達し、やがて十ヵ国語を話し、高等数学を、物理学を、歴史を、芸術を理解する天才的な個体が登場した。
この急成長の最大の要因となったのは、自由に変形、組み替えのできる脳神経菌糸の存在である。菌糸で構成したネットワークを脳の代わりにしているキノコ人間たちは、ある意味コンピュータと同じくらい、情報の扱いに融通がきいた。古い個体が積んできた記憶を、新しい個体にアップロードする形で移すことができるので、学習という行為に関して、世代間のロスがまったくない。日常の記憶や経験も完全に受け継ぐわけだから、古い個体の死によってその人格が失われることもなく、実質上の不老不死を実現していた。長く生き、さまざまな経験を蓄積するということは、精神の成長を促し、理解力や判断力、感性、美意識をみがく。
そんな無限の記憶力と成長性を持つ遺伝子データを受け継ぎながら、彼らはひたすらに上を目指した。
形状、機能を複雑化させ――五本の指を持つ両手、走ることのできる両足、ものを見るのに適した目、匂いを嗅げる鼻、音を聞きやすい耳、声を発しやすい口など、人間の形質を模倣した専門的な器官を分化させていき、より外界の情報を学習しやすく、より身を守りやすく、より生き残りやすくを追求し続ける。
いつしか、キノコ人間たちの知性、身体機能は、人類に勝るとも劣らないレベルにまでなっていた。そのまま発展を続けていれば、あるいは地球上における、人類の覇権を脅かす存在にもなれただろう。
実際、近い未来に、彼らによって人類は征服されることになるのではないか――と、危惧されたこともあったが、もとがキノコという、闘争心の欠片もない存在であったからか、今のところ、キノコ人間たちは、人類を屈服させようとか、生態系の頂点に立とうとか、そういった野心を表明せず、ごく自然に、平和的に、人類社会に混じって、ほのぼのと暮らしている。
街に出てみれば、アマニタ君以外のキノコ人間も、そこかしこで発見できるはずだ。レストランで料理人をしていたり、テレビのショーでダンサーとして活躍していたり。田舎に行けば、農家としてキノコ栽培をしているキノコ人間にも出会える。
まあ、もっとも、体のあちこちを菌糸と取り換えるようになった人類も、ある意味でキノコ人間と言えるのかも知れないので、いちいち分けて考える必要もなさそうではあるのだが。
「……そうだ。アマニタ君、君に少し聞きたいことがあるんだが」
「はい? 何でしょう、先生」
本を渡し終えて、自分のデスクに戻ろうとしていた彼女は、私の新しい呼びかけに、見返り美人のように振り返った。
「いや、大したことじゃないんだが。キノコ人間としての君に、確認してみたかったんだ。
菌糸体で思考するというのは……全身を脳神経として使って考えるというのは、どんな感覚なんだい? 私にはいまいち、ピンと来ないんだが」
「どんな、と言われましても」
頬に手を当て、困り顔で虚空に視線をさまよわせるアマニタ君。
「説明しようがありませんわ。先生は、脳だけでものを考えるというのがどういう感覚か、説明できますか?」
「ああ、それもそうか……やはり愚問だった、忘れてくれたまえ」
アマニタ君の答えを聞いた私は、納得すると同時に自己嫌悪を覚えた。頭を振り、自分のろくでもない問いかけを振り払おうとする。
彼女はそんな私を見て――身をかがめて、穴でも空けようとしているかのように、じぃっと真正面から私の顔を見つめて――探るようにこう言った。
「娘さんのこと、考えてらしたんですの? 確か、全身を菌糸化する治療を受けておいでだと聞いておりますけれど。
娘さんがお目覚めになった時、どのような感覚でものを考えなさるのか、それを確かめておきたかったんですか?」
――まったく、この子は本当に頭がいい。
「当たりだよ。うちの子が目覚めたら、その時は私のような人間より、君たちキノコ人間に近い存在になっているはずだからね。どういう違いがあるのか、今のうちに見当をつけておきたい、と思ったんだが……」
「ふふふ。あまり難しく考えなくても大丈夫ですよ。
私と先生が普通に会話しているように、人間もキノコ人間も、メンタリティはそれほど変わりませんわ。
娘さんも――灯ちゃんも、治療に入る前と、全然変わらない灯ちゃんのままでいると思います。ええ、きっと」
「……………………」
そうなのだろうか。きっと、そうなのだろう。
ユン先生も、その点は保証してくれていた。記憶も人格も、欠けることはないと。それはつまり、変質することもあり得ない、ということだ。
治療が成功すれば。目覚めれば。
昔のままの、もう八年も言葉を交わしていない灯と、話せる。
治療が成功すれば――目覚めれば。
私が、灯と昔のように話をすることができる日は――いつ来るのだ?
■
十四時。K大学第三講堂で開かれた会議に、私はアマニタ君とともに出席した。
今回の発表者は、我が大学の名誉教授であり、物理学界の大長老とも言われる、百九十八歳の磯貝宗右衛門博士。
「……さて諸君。我輩の重力ビーム化理論は、このたび理論の枠を超え、実体を獲得した」
禿頭、無髭、金縁の丸眼鏡がトレードマークの老科学者は、壇上でしゃんと背筋を伸ばし、居並ぶ聴衆を鋭い目つきでじろりと見渡してから、存在感のあるバスで語りかけてきた。
「ユーリ・フラトコフが重力子の観測に成功したのが二千二百五十五年。それから大きく飛んで、この我輩が重力子を捕獲、蓄積するシステムを開発したのが、二千九百七十九年のことだ。
無数に重なり合ったブレーン・ワールドの彼方へ、無限に漏出していく重力子を捕獲するこの技術は、発表した当時からワープ航法、時間移動などのおとぎ話じみた利用法への期待がされていたが……今だから言おう! 我輩はそもそも、そういったおとぎ話じみたことを現実にしたくて、重力という厄介なエネルギーと取り組んできたのだ! それこそ、百年以上も前からな!
ご存知の通り、重力は空間を歪める性質を持つ。子供に聞かせるような例え話で恐縮だが、薄いゴム膜が水平に張られているのを想像して欲しい……そこに重量のある物体Aを乗せる……すると、物体Aの重さ分、ゴム膜は沈み込み、すり鉢状に変形する。そのすり鉢の中に、さらに新しい物体Bを置けば、沈み込んだ傾斜に従って、AとBは引き寄せられ、ぶつかり合うことになる……これは二次元上での話だが、三次元空間で同じことを行うのが重力であり、重力子だ。重さによって引き寄せるという現象は、互いの間にある空間を傾斜させるということであり、また縮めることなのだ! あくまで、ごく大雑把に言うとだがな。
つまり重力が発生するということは、換言すれば特定の物体間の距離が縮まっているということでもあるわけだ。A・B間の距離が縮まるならば、その間を移動する場合の時間も当然、短縮可能になる。これは極めてロマンティックな推定であり、しかし確かな理屈だ! ワープと呼ばれるサイエンス・フィクションのギミックは、A・B間の距離を排除することで成立する。ならば、その現象を起こし得る重力を用いて実験を試みることは、当然の帰結であろう。
重力とは質量と距離の関係性の中ではたらく力だ。F=G(mM/rの二乗)の式は知っておるな? 知っておるに決まっとる……質量mとMにはたらく重力は、距離rの二乗に比例して弱くなる……なら、mとMの質量が一定であるなら、重力Fを強くすれば、距離rの値は曲げられぬ公式に従って、小さくならざるを得んっちゅう道理だ。
さあさあ、ここからが本番だぞ。我輩はすでに、重力を溜め込むグラビトン・バッテリーを発明してある。しかしこれは他のブレーン・ワールドからかき集めた重力子を、無限に循環させて蓄積しておくだけのものに過ぎんかった。重力子観測を、非常に安価に、確実に行えるようになるというだけで、他には特に何の役にも立たん。
だが、このたび、かねてから交流のあった葦原技術開発研究所との共同研究により! 蓄積した重力エネルギーをビーム化し、一直線に放出することのできる装置を開発することに成功したのだ!」
講堂内の照明が落とされ、講壇上のスクリーンに、まるでSF映画に出てくるレーザー砲のような装置が映し出された。
台形の台座から、斜め四十五度の角度で空を狙っている、細長い銀色の砲身。それを取り巻くように、金色のリングが等間隔で、三つ取りつけられている。その物体の下に、テロップで説明が表示された――名称:DDG13型重力子線放射装置。全長二十三メートル、総重量九十三トン。使用電力量、三ギガワット毎時。電源として核融合発電施設『タンギー』も併設――。
「すでに試験稼動は行なわれている。先月の二十八日、午後八時三十分、葦原技研の屋外実験場において、我輩の立会いの下、重力ビームは正常に発射された。光学的な実験ではあるが、観測の結果、三百三十万キロメートル中の四百キロメートルが、理論通り縮められたことが確認された」
この言葉に、客席からざわめきが生じた。それは無論、驚きと敬意、そして期待を含んだものであった。他ならぬ私も、身を乗り出して呻き声を漏らしてしまった――それだけ、この発表には大きな魅力があったのだ。
「わかるかね、諸君! ワープという技術は、ついにこの磯貝宗右衛門の手に、人類の手に掴まれたのだ! 現在の旅客ロケットでは、火星に行くのにも一ヵ月近くかかってしまう。太陽系外へ出るとなると、十年以上の時間が必要だ。だが、この装置をさらに洗練していけば――そう、極端な話、ロケットの一機一機に、小型の重力ビーム装置を搭載することができれば――目的地までの距離を自由に縮めて、ほぼ移動時間ゼロで長距離宇宙旅行が楽しめるようになるかも知れんのだ! ベガに、シリウスに、アルファ・ケンタウリに、美しきアンドロメダ星雲に、大小マゼラン星雲に、我々自身の手が届く! 素晴らしいことではないかね!」
滔々と、まるで上等な酒でもきこしめしたかのように上機嫌な様子で、磯貝博士はまくし立てる。
気持ちは非常によくわかる。確かにこれは夢の技術である。おそらくこれから一年は、人類にとって大きな変革の時間となるだろう。
それからも、磯貝博士はペースを落とすことなく、重力ビーム装置について話し続けた。それらの詳しい内容は、極めて専門的な言葉で描写されるべきものなので割愛するが、要するに彼が言いたいのは、ワープ技術に関してはすでに理論が確立しており、あとは機械の性能向上以外には追求すべきことはない、ということだった。
「さて、今後の課題についてだが。三次元上のワープ移動については、今言うた通り、すでに完成した。となると、だ。新しい地平を求めるならば、次は四次元上での重力の利用法を模索するべきじゃろう。
そう、最初に言った、ワープ航法と並ぶロマンに満ちたおとぎ話の技術。時間移動の実現を目指すのが、野心ある科学者の務めじゃ。タイム・マシンの理論を完成させた時、我輩の重力研究はフィナーレを迎えると言っていい!
理屈の上では、重力をうまく使えば、過去や未来に対して直接的に干渉することも可能になる。距離と時間は、本質的に同じものだからだ。距離を操作できるということは、時間もまた操作できなければおかしい。
フォン・パステルヴィッツの『アニメーション時空仮説』という論文を読んだことのある者は、この中にどれくらいおるかね? ……ふむ、半分ぐらいか。知らん奴のために説明してやると、これはかの有名なブレーン・ワールド……膜宇宙論を一歩進めたものでな。膜宇宙論は、我々の住む四次元宇宙は、他の無数にある平行宇宙と一緒に、より高次元の大きな枠組みの中で、薄い膜として重なり合って存在している、というものだが、パステルヴィッツはこの説を、時間にも採用してみせた。
かいつまんで言うと、こんな感じじゃ――世界というものは、それぞれプランク・スケールの歴史しか持たない、ほとんど時間の止まった三次元空間としてのみ存在しており、それが四次元上で、過去の世界から未来の世界まで、無限にずらりと整列している。そして、その時間が止まった宇宙の中を、我々人間の『認識』が、過去から未来に向かって、順番に移動しているんじゃ。ひとつひとつの世界は止まっているが、隣り合う世界同士は重力によって影響を与え合っているので、一貫して観察すれば、ひとつひとつの世界の微妙な違いを、滑らかで自然な変化、すなわち時間の流れとして感じることができる――と、パステルヴィッツは述べておる。要するにまあ、我らが住む世界は立体のアニメだと、彼は言うとるんじゃね。無数のセル画を重ね合わせて、パラパラめくることで動きを表すテレビ・アニメーションの原理とそっくりじゃから、名付けて『アニメーション時空仮説』というわけじゃ。
我輩個人としては、少しどうかと思う仮説なんじゃが……しかしこの考え方を参考にすると、重力を用いた時間移動が、非常に単純な原理として見ることができるようになる。
いいか、重力は空間を縮める。厚みをいくらでも無くすことができる。それを踏まえた上で、時間の流れをアニメーションとして考えてみるんじゃ。
今現在いるこの時間から、過去に向かって振り向く。積み重なったセル画の向こうに、通り過ぎてきた過去がある。そこで、重力を使って、過去と現在の距離を縮めてみるがいい。セル画の重なりに、重力ビームという針で穴を空けて、少し前のセル画を覗き見してみるがいい。その穴を通じて、我々は過去の自分を見ることができるじゃろう……過去からも、穴を通して覗き込んでいる未来の自分が見えることじゃろう。言葉を交わすことができるかも知れぬ。物を送ったり、送られたりできるかも知れぬ。向こうに行ったり、向こうから来たりすることができるようになるかも知れぬ。ただ単に、『過去』という方向に重力ビームを向けるだけで、ワープと同じ原理で容易に移動が可能になる……もちろん、『未来』側にビームを当てても、期待通りのことが起きるじゃろう」
もはや、講堂の中は完全に静まり返っていた。興奮が限界を超え、限りない集中と思索に姿を変えたのだ。
「もうわかるじゃろう? 今後の課題というのは、それだ。『過去』とか『未来』に、重力ビームを向ける方法を考えにゃならん。
右とか左とか、上とか下なら、いくらでも自由自在に砲身の向きを合わせられる。しかし、時間という四次元的な軸に向き合うことは、今までなされたことがない。我々は時間を認識することはできるが、三次元上での等速で一方通行な移動しかできんからの。
もちろん数式の上では、我々物理学者は、千年以上も前から、四次元どころかそれ以上の高次元とも取っ組み合いを繰り広げてきておる。その歴史と経験を武器にすれば、案外遠くないうちに、このブレイク・スルーは実現するんじゃなかろうか。期待値の高そうなアプローチを挙げるとするならば、そうじゃな、まずミンコフスキー空間を……」
――と、まあ。
そんな感じで、この日の会議は磯貝博士のひとり舞台であった。
実際、そうなるのが当然なくらい、彼の出した成果は圧倒的なものだった。それを聞かされた我々の頭で、フロンティア・スピリッツという名の熱病が発症したのは、至極当然のことだっただろう。
会議終了後、私とアマニタ君が磯貝博士の研究室を訪ねた時、彼はヴィジュアルフォンの応対をしているところだった。会議の内容を知った耳の早いマスコミ関係者たちが、さっそく取材を申し込んできていたのだ。机の上にずらりと並ぶ、十七もの立体映像の顔。我先にとアポイントメントを争う彼らに、磯貝博士はとても愉快そうに、「よかろう、よかろう」と頷いていた。
「どちらにせよ、記者会見は開くつもりだったのだ。もちろん、葦原技研の葦原所長や木村主任とも打ち合わせをせねばならんから、今すぐというわけにはいかんがな。そうじゃのう、これから向こうさんに相談するとして……明日の朝八時までには、詳しいスケジュールを諸君らにお伝えできるじゃろう。
それまでの間に、質問をたくさん考えておくがいい。我輩の重力レーザー理論について予習したければ、『サイエンス・ヒューマン』誌の三百八十号と三百八十五号と三百八十八号に寄せた論文を読み込むといいぞ。……おっと、客が来た。悪いが諸君のお相手はこれまでじゃな。また明日の朝にお目にかかろう……んじゃあの」
ヴィジュアルフォンのキーボードを操作し、通話を終了するとともに、机の上の記者たちの顔を消していく博士。最後の顔をオフにして、ようやく回転椅子を回してこちらに向き、彼らしいニヤリとした笑みで、我々を歓迎してくれた。
「よう、椎野。それにアマニタ君。ご覧の通りじゃ、我輩の仕事は、なかなかご好評を得られたらしい」
「そのようですな。先生のなされた仕事そのものもそうですが、会議の最後に与えてくれた課題の内容も、反響の大きさにひと役買っておりましょう」
私がそう返すと、磯貝博士は膝を叩いて、けらけらと笑う。
「その通り、その通り。あの課題をクリアできた奴は、我輩の横に並ぶ名誉を得るじゃろうて。
椎野、貴様はあの講堂にいた奴らの中では、唯一、我輩の教え子と呼べる男だ。他の連中も死に物狂いで取り組むじゃろうが、一番最初に『過去』の方角を指し示すことができるとすれば、それは貴様じゃろうと思うておる。いいか、なりふりを構うな。休みとか返上してでも、問題を片付けろ」
「ええ、ご期待に沿えるかどうかはわかりませんが、全力は尽くしますよ」
「阿呆、そういう弱気な表現を使うな。物理学者たるもの、目の前の問題には自信を持って取り組まねばならんぞ。アマニタ君、そっちの両開きの戸棚に、コーヒーメーカーが入っとるから、出して沸かしてくれんか。このしょぼくれた中年親父に、とびきり濃くて熱いのを飲ませて、気合いを入れさせるのじゃ」
「ふふ、かしこまりました、大先生。……大先生も、濃くてお熱いのがお好みですか?」
「無論じゃ。うっすいアメリカンなどをありがたがるのは、小学生ぐらいのもんよ」
ふん、と尊大に鼻を鳴らし、冗談を言ったアマニタ君を睨む博士。こういうところは、三十年以上まったく変わっていない。
――私にとっての磯貝博士は、学生時代からの恩師である。今の私の知識とノウハウは、ほとんど全て彼に叩き込まれたものだ。
大学院を出てからは、助手として彼の研究を手伝うこともしていた。重力レーザー理論の内容も、きっと磯貝博士自身に次いで、よく理解しているだろうと思う。
だがそのことは、必ずしも磯貝博士の出した問題を解く上での有利を意味しない。何しろ、その問題の答えを、博士自身も知らないのだから。答えを出すことが、物理学の新しい段階に踏み込むことを意味するような種類のものに取り組むのだから、そのスタートラインは全人類共通であろう。
そう思っているからこそ、私は博士を訪ねたのだ。重力レーザー理論の提唱者であり、世界最高の理論物理学者である磯貝宗右衛門から、個人的なアドバイスを得るために。
この行動は自信のなさの表れではない。平等なスタートを良しとせず、少しでも他者を出し抜いて有利を得ようという、やる気の表れと捉えて頂きたい。
それを博士に宣言すると、彼は呆れたのか、それとも感心したのか、それともアマニタ君の淹れてくれたコーヒーがよっぽど苦かったのか、眉根を寄せて下唇を突き出してみせた。
「こすっからいことを考えるようになったのう、椎野。うちの大学に来たばかりの頃のお前は、もう少し融通のきかん鼻垂れ小僧じゃったのになぁ。お前、今いくつだっけか? 白髪はだいぶ出てきとるようじゃが」
「今年で、五十六になります」
「ふん、やっぱりまだまだガキじゃないか。それはそれでいかんぞ、百も生きてないうちから、他人を出し抜こうなどと考えるのは。
まあよい、我輩も頼られること自体は嫌いじゃあないからな。出来がいいのか悪いのか、ようわからん貴様を少しだけひいきしてやろう。んで? いったい、どんなアドバイスを期待しておる?」
「まず、重力ビームの性質について、磯貝先生のご存知の限りのことをお聞かせ願いたい。数式になっていない、実際にご自身の目で観測して、お気付きになったことを。ビーム自体の見た目はどうだったのか? 空間が縮むという現象は、あなたの目にどう映ったのか? 要するに、ビームを取り巻く光がどのようにふるまってみせたのか? 葦原技研との合同記者会見で、詳細な映像データが発表される前に、知っておきたいと思います」
「ふむ……」
磯貝博士は、記憶を辿るようにしばらく虚空を見上げていたが、やがて私の注文した通りの情報を、極めて詳細に説明してくれた。
私はアマニタ君に、それを記録してもらい、次の質問を繰り出した。今度は完全に数学的なアプローチで、アバウトな最初の質問よりは、博士も答えやすそうにしていた――しかし、そこで終わりではない。みっつめの質問、よっつめの質問と、引き出せる限りの情報を、この機会に獲得しにかかった。得られた答えの全てが役に立つのか、今の段階ではわからないが、持っておけるパズルのピースは、多いに越したことはない。
この会見には、かなり時間をかけた。途中で二度、休憩を挟み、アマニタ君にコーヒーを淹れ直してもらった。最後は質問というより、仮説とそれへの反駁のぶつけ合いになっていたが、それなりに収穫はあった。問題に取り組むための手掛かりは、少なからず得られたように思う。
私の質問が尽きた時には、窓の外はすっかり暗くなってしまっていた。半ば喧嘩するような形で、お互い立ち上がって議論を戦わせていた私と磯貝博士は、アンティークの壁掛け時計(西暦二千十四年製造)が七度鳴ったことで、ようやく時間に気付き、驚きに顔を見合わせた。
「なんとなんと、もうこんな時間か。熱くなり過ぎたわい……椎野、今日のところはここまでにしといてやる。続きがしたけりゃ受けて立つが、最低でも一週間以上あとにしろ。しばらくは我輩も忙しいでな」
「ふう、いいでしょう。ご都合が良い時にいつでも連絡を下さい。私も次までに、もう少し武器を揃えておきますよ。
しかし、少しご迷惑をかけましたね。明日の朝までに、記者会見の日時を打ち合わせないといけないんでしょう? そのための暇を、ずいぶん削ってしまったようですが」
「ふむ? ああ、あのヴィジュアルフォンでの話か。大丈夫大丈夫、葦原技研とはとっくに、記者会見の日時は打ち合わせ済みなんじゃよ。回答を遅らせたのは単なる見栄じゃ……マスコミの取材依頼に、ハイハイと食いついておったら威厳に欠けるでな。少し焦らした方が期待感も高まるじゃろ? ひえっへっへっへ」
意地悪い高笑いを上げる磯貝博士に、私とアマニタ君はお揃いの苦笑を浮かべ。丁寧に礼を言って、彼の研究室を辞去した。
「ううん、しかし、本当に遅くなったな。アマニタ君、すまん。こんな時間まで無理につき合わせてしまって」
私たちの研究室に戻るまでの、廊下の途中で。窓の外の闇に沈んだ景色を横目に眺めて、アマニタ君にそう謝った。
「いえいえ、かまいませんよ。私も、今回のお仕事には少なからず興味を感じていますし。先生、今の大先生とのお話で、得るものがたくさんありましたでしょう?」
「ああ、それはもちろんだが……」
「なら、私も同じだけ多くを得たということです。有益なお話を聞くことを、楽しいとこそ思えど、迷惑だなんて思いませんわ」
くすくすと微笑し、私の謝罪を巧みにはぐらかす彼女は、その愛らしい表情と仕草に反し、とても大人びて見えた。
私の研究室は、もちろん真っ暗だった。うちの大学は建物自体が古いので、壁を手探りして電燈のスイッチをプッシュしなければ、部屋を明るくできない。音声認識スイッチとか、最近流行の電磁パルス個人識別センサーでもあれば、入室するだけでピカリと明るくなってくれるのだが。
「よし、電気ついた。今日はもうこのまま帰って、明日また詳しく、今日のことについて話し合うとしよう」
「そうですね。あ、少しお待ち頂けますか。先程の先生と大先生の問答をレコードした音声データ、文字変換ソフトにかけて文書化して、先生のメールアドレスに送っておきます。どうせ、今夜のうちに見直したいとお考えでしょう?」
「ああ、そりゃ助かる! ぜひやってもらいたいな」
「了解です。二分ほどで片付きますので、その間にお帰りの準備をどうぞ」
私がカバンに、必要な書類や何やらを詰め込んでいる間にも、彼女はてきぱきとパソコンに向かって作業を行なっていた。本当に二分ほどで、私の携帯端末はアマニタ君からのテキスト・メールを受け取っていた――本当に仕事の早い人だ。
「はい、これでおしまいです。どうもお待たせしました……それでは、帰りましょうか」
「ああ。お疲れ様。それじゃあ電気を消すよ――」
と。
カバンを片手に提げ。ドアのすぐ横の、電燈のスイッチに再び手を伸ばし。
アマニタ君が、部屋の出口に――私の方に向かって、歩いてくるのを確かめて。
ぱちり、と。電気を切った。
その瞬間。
「きゃっ……」
アマニタ君の、小さな悲鳴が、すぐ耳元で聞こえた。
ぎゅっ、と、二の腕を掴まれる感触。しかし、それをまったく感じなくさせるほどの衝撃的なものを、私の目は捉えていた。
アマニタ君も、それを見たはずだ。彼女の驚いたような反応は、私と同じものを目撃したから、という他には、説明をつけようがない。
真っ暗になった、研究室の真ん中で。
薄ぼんやりとした、ライム色の輝きを放ちながら。八年前と同じ姿をした灯が、微笑んでいた。
■
ふわふわと、ゆらゆらと。
陽炎のように、微妙にその身を揺らめかせながら、灯はそこにたたずんでいる。
二秒、三秒。彼女の手が、徐々に持ち上がる。そして、私に呼びかけるように、ひらひらと手のひらが振られた。
「あ、あかり――」
そして。
私が、彼女に駆け寄ろうとした瞬間に、またしてもその像は――ばっ――と、蝶の群れが一斉に飛び立つように、無数の光の粒へと分解して、消えた。
あとには、何も残らない。
すべての輝きは半秒もしないうちに失われ、研究室の中は、何の変哲もない闇に復する。
私は呆然と、やり場のない手を空中にかざしたまま、固まっていた。
「せ、先生……今のは、今の、女の子は」
震えるアマニタ君の声で、私はハッと正気に戻った。見ると彼女は、今も私の腕を掴んだまま、混乱に目を瞬かせていた。理解できないものを見た人間と同じ反応――みもふたもない表現をするならば、『幽霊を見た子供』と同じ表情だ。
「見たのだね、君も」
私は、つとめて冷静な声で、彼女に問いかける。
「は、はい。見ま、した。緑色に光る、女の子が、そこにいました。
あ、あれは、その、見間違いでなければ……えと、先生の、お子さんですよね? 灯ちゃん……デスクの上のスナップショットで、お顔、見せて頂いたこと、あります」
途切れ途切れの言葉は、アマニタ君の受けた衝撃を如実に表していたが、それでもキノコ人間としての優れた判断力が、今見たものと過去の記憶を正確につなぎ合わせ、適切な答えを導き出していた。
そう、その通りだ。あれは、私の娘。椎野灯だ。
そして、確信した。私とアマニタ君が見たのは、まったく同じものだ。
光の中の灯は、第三者からも視認可能な状態で、目の前のこの空間に存在していた。
夢でも、幻でもない。
あの子は、私の前に本当に現れていたのだ。
私の脳が作り出した、架空の存在に過ぎないと思っていたが、違った。
外部に原因がある。私個人の精神作用でなく、私以外の何者かの意思によって、彼女は現れるのだ。
それは、何だ?
どっ、どっ、どっ、どっ、と、心臓が早く、大きく鳴っている。
私の精神の異常――娘と会えないストレスが原因の夢だとか、幻だとかの方が、よほど良かった。
「何なんだ……? 灯。今見えたお前は、何なんだ?
何のために現れる? 何が言いたい? どういう原理で、出てこれる……お前はずっと、病院で眠り続けている、はずだろう?」
虚空へ呼びかける。自分でも、驚くほどかすれた声だった。
「まさか……幽霊だとは言わないよな、灯?
病院にいる、お前の体は、すでに取り返しのつかない死体で……抜け出した魂が、化けて出ているとか、そんなことは言わないよな?」
言い終えた途端、私の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち始めた。
口に出したことを、これほど後悔するとは思わなかった。それは恐るべき想像であり、予感だった! ずっと考えないようにしていたこと、内心で恐れ続けていたこと! オーヴァーライト法は、まだ誰も受けたことのない手術だったのだ――結果がどうなるか、ユン博士でも確かなことは言えないのだ! あの、あのフカフカの菌糸の綿の中で、灯の脳がすでに活動を停止していたとしたら? もう二度と、動き出すことはないとしたら? あの輝ける、精霊か幽鬼のような雰囲気をまとった灯が、そのことを暗に告げようとしているのだとしたら?
私は、私はいったい、どうすればいいのだ?
ただひたすらに望み続けた娘の生を諦め、死を受け入れなくてはならないというのか?
「あかり……あああ、あかり……」
私は、男泣きに泣いた。白髪混じりの頭の、目じりにしわも目立ってきた中年男が、三つか四つの子供のようにむせび泣いた。
足が力を失い、膝をつく。膝立ちのまま、泣き続ける。
不意に、背中が暖かさに包まれた。夕方の森の中のような、落ち着く香りがほんのりと漂う。
アマニタ君に抱かれているのだと、数秒間は気付かなかった。彼女は後ろから、崩れ落ちそうな私を支えるように抱きしめて、耳元で優しく、落ち着いた声で励ましてくれていた。
「先生……椎野先生。しっかりして。
お気を確かに……大きく呼吸をして……どうか、冷静になって下さい。あの少女は、私たちに、何もしていませんし、何も言っていません」
彼女のその言葉のおかげで、私は多少なりとも、理性を取り戻すことができた。
言われた通りに、深呼吸をしてみる。すると、心臓の鼓動が、緩やかに落ち着いてくる。涙を手のひらでこすれば、悲しい予感もいくらかは和らいでいった。
そうだ、あの光の像は、灯のように見えた何かは、ただ微笑んで手を振っただけで、何もしていないのだ。誰かの死を宣言したわけでも、怨みつらみを語ったわけでもない。どのような害ももたらされておらず、その予兆すら、見せていなかった。
だが、同様に、その出現が何を意味しているのか、ちっとも明らかにしていない。
「アマニタ君。彼女は……あの子は、いったい、何がしたかったのだろう。
私たちの前に現れて、何を伝えたかったのだろう。なぜ、すぐに消えてしまったのだろう。
私にはわからない。怖れたり、悲しんだりするのが間違っているのは、わかった。だが、どんな気分になればいいんだろう。
わからない。私にはわからないんだ、アマニタ君……」
私の虚ろな呟きに、彼女も答えるすべはなかった。無言で首を横に振り、私を包み込む二本の腕に、少しだけ、ぎゅっ、と力を込めてきた。
しばらくの間、ふたりでその場に座り込んでいた。
磯貝先生の研究成果を聞いて感じた驚きなど、完全に吹き飛んでしまった。大きなショックは、過ぎ去ったそのあとに、ただただ虚無のみを残したのだ。