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海の中へ

 陽菜がぼんやりと寝返りをうつと、布団が空気を払う音が聞こえた。カーテンの隙間から漏れる光が一直線に壁まで走って、部屋に舞う埃を照らし出していた。

 朝。ぼんやりと身を起こして周りを見ると、黒子達が布団の境界を無視して寝ている。幾らクーラーが利いていたとはいえ、流石の暑さに皆てんでバラバラになったらしい。だからと言って、七海に寄せた心までが離れた訳ではない。ほんの数時間の出会いなのに誰もが七海の事を信頼していた。どうしてだろうと陽菜は考え、夏でテンションが上がっているからかなと結論付けた。

 陽菜は窓へと向かった。暗い部屋の中で寝息が静かに聞こえる。部活の合宿を思い出して何だか楽しくなった。今日はこれから田舎道を自転車で走る事になる。大変な道程だろうが、それもまた合宿の辛い練習を思わせて楽しみだ。

 窓へ向かう途中に傍らの黒子が起き上がった。

「おはよう」

 気怠そうにそう言った。声で佳乃だと分かった。

「ああ、おはよう、佳乃。悪いが私の勝ちだ」

「は? 何よ、勝ちって」

「あたしの方が早起きしたからあたしの勝ち」

「そんな勝負してないから」

 佳乃が勢いよく立ち上がった。多分睨んでいるのだろうが、暗い部屋の中では判別がつかない。陽菜は無視して窓へと向かった。

「もう朝?」

「そうだよ」

 陽菜がカーテンを思いっきりあけると眩む様な光が部屋中に満ちた。陽菜と佳乃は思わず目を瞑る。部屋の中からうめき声が聞こえた。布団がまくれる音がする。きっと瞼を通過した光に起こされたのだろう。

 陽菜はゆっくりと目を開けて窓の向こうの爽やかな朝を見た。佳乃もまたかざしていた手をどけて窓の向こうを見た。

 海が広がっていた。

 窓の向こうに見渡す限りの海が広がり、白く泡立った海水が家に寄せては消えている。陽菜がゆっくりと窓を開くと、潮の香りがどっと流れ込み、さざめく波の音が足元から湧き上がってきた。

「何よこれ」

 佳乃が呆然と呟いた。陽菜は屈みこんで海に手を付けた。冷え切った心地良い感覚が手を包んだ。手の甲を波がゆっくりと押してくる。塩辛い感覚が目と鼻からやって来る。良く見れば、水面の向こうに地面が見える。あまり深くない。顔を上げて辺りを見回すと、すぐそこの海面から自転車のハンドルが飛び出ていた。あの角度からすると倒れている。波に倒されたに違いない。

「海だな」

 陽菜が自信満々に言うと、佳乃がかみついた。

「分かってるわよ、そんな事」

「じゃあ、何が疑問なんだ?」

「それはなんでこんな事に……いいえ、もう理屈じゃないのね」

「理屈はある。海を望んだから海が出来たんだ」

「本当に頭の痛くなる世界だわ。そりゃあ誰だって望むわよ。早く帰りたいから」

「そういう事」

「でもこれで戻れるのかしら。海に着いたなら」

「違うんじゃない? だってまだ戻れてないし。多分、あたし達が行こうとしていた海じゃなきゃ駄目なんだろ」

「そんな気はしていたわ」

 陽菜と佳乃はそれ以上言葉を交わさず、海を眺めた。何も無い海がずっと向こう、空に届くまで広がっている。

「ありゃ、海になっちゃったか」

 七海が陽菜と佳乃の間に割り込んできた。

「あなた、こうなる事を予想してたの?」

「そりゃあ、みんなゴールの海に行きたい訳だし、もしかしたらとは思ってたよ」

「で、案内出来る訳? いきなり海になっちまった訳だけど」

 陽菜の問いに七海は大きく頷いた。

「勿論! その為に私が居るんだから!」

「そっか。なら問題無いな」

 そう言って、陽菜は窓から離れた。

「なんつーか、ホント陽菜って図太いよね」

「そうか? あたし程繊細な乙女は居ないと思うけど」

「どの口がそういう訳?」

 呆れる七海と佳乃を無視して、陽菜は残りを起こしにかかった。布団に手を掛けて、

「おら起きろ!」

の掛け声とともに跳ね除けた。どたんという音がして、更にぐっという呻きが聞こえた。見れば月歩が床に転がっていた。残りの二人も辛うじて布団の上に落ちたものの先程とは違う場所に転がっている。

「ほら、起きた起きた」

 陽菜がぱんぱんと手を払うと、月歩がゆっくりと起き上がり、長い髪を引きずり床の上に垂らしながら、まるで幽鬼の様な暗い声を出した。

「今日が人生で一番最悪な朝よ」

「おお、そりゃあ、良かったな。貴重な日だぞ。記念日だ」

「痛い」

 乙恵が腰を擦りながら辺りを見回している。まだ何が起こったのか分かっていないみたいだ。

 アニューゼも起き上がった。少し恨みがましく陽菜を見つめている。遅れて乙恵も布団を持っている陽菜を見て、誰が自分を痛めつけたかに気付いた様だ。

 だがすぐに陽菜に対する非難は海に対する驚きに変わった。

 唐突に鼻腔に届いた潮の香りに釣られて窓の外へと目をやり、そうして海を見た。窓の向こうの海を見た瞬間、潮の匂いが更に強くなった気がした。三人は三者三様の海にまつわる思い出をぼんやりと思い出してそっと窓へと歩み寄った。佳乃と七海が少し脇に避けて五人は時を忘れて海を眺めた。

 変わらず何処までも続く海を前にして言葉も忘れて遥か遠くを見つめていると、突然微かに地鳴りの様な音がした。五人が振り返るとしんと静まり返った部屋に陽菜が居なかった。

「陽菜?」

 月歩の呼びかけにも答えない。

「まさか、消えちゃったんじゃ」

 佳乃が不吉な想像をして青ざめた。

「陽菜」

 もう一度月歩が呼び掛けた。

「なーにー?」

 すると答えが帰って来て、直後に部屋の襖が開いた。襖の向こうにあくびをする陽菜が立っていた。

「何処行ってたの?」

「お風呂探しに」

 そう言われて、五人ともお風呂に入っていない事に気が付いた。途端に自分の臭いが気になって、部屋に充満している潮の匂いに救われた気がした。

「あったの?」

「あった。しかも沸いてた。それから洗濯機もあった」

「まるで民宿ね」

 泊まる者が心地良いように作られている。

 お風呂はあまり広くなかったので一人ずつ入るという事が決まり、誰が入るかという話になって、全員が譲り合った結果、陽菜が入る事になった。

 陽菜が着替えを持って襖の向こうに消えた。残された五人は布団の上に座って海を眺めた。

「至れり尽くせりな所ね」

「中はそうだけど、外は」

 海が広がっていて、思う様に進め無さそうだ。

「七海さん、あの」

「七海ちゃんだよ、乙恵ちゃん」

「すみません。あの、七海……ちゃん、あの、案内してくれるん……だよね?」

「勿論」

「なら、海の中、どうやって行けば良いの?」

「そうよね。こんな水びだしじゃ自転車で行くなんて無理だし」

 不安がる乙恵と佳乃に向かって、七海がにかっと晴れ晴れとした笑みを見せた。

「心配しなさんな、お二人さん」

「何か良い案があるの?」

「良い案てか、電車通ってるからね。電車に乗ってくだけだよ」

「電車?」

「そ。この家の裏に駅があるからね」

「海の中を進むって言うの?」

 半信半疑の佳乃の問いに、七海は頷いた。

「海の上を走る電車だもん」

 それを聞いて乙恵が夢見る様に手を合わせた。

「素敵。おとぎ話みたい」

「そう?」

 佳乃にはその感覚がいまいち分からない。

「海、走る、電車?」

「そーだよー。おばあちゃんの昔話でもあったよね?」

「あった」

「どんな話なの?」

「海の中を進んでいく電車の話。ま、これから乗るのは海の上を走るから、アニューゼの知ってる物とは違うけれど」

「違いますか?」

「ちょっとね」

「少し……」

 そこに陽菜が帰って来た。

「お風呂良かったよ。あ、後、適当に入浴剤入れちゃったから」

「ホント自分勝手ね」

「まあ、良いじゃん。嫌なら先を譲るなって事で」

 何だか険悪になりそうなのを察して、月歩が割り込んだ。

「それより陽菜、裏に駅が在ってそこから電車で先に行けるみたい」

「電車? この海を?」

「そそ。海の上を走る電車なんだよ」

「へー、で、いつ電車来るの? もしかしてのんびりしてたらヤバい?」

「平気平気、あたし達が駅についたら来るよ」

「そんな訳……無いとは言えない世界なのね」

「そういう事」

 陽菜が持っていたペットボトルを掲げて、中の水を飲み干した。

「ちょっと、あなたそれ何?」

「水だけど?」

「最初から持ってた物じゃないでしょ!」

「そうだけど? 冷蔵庫にあったから」

「あなた、本気? 異界の物を口にして異界の人間になっちゃったらどうするの!」

 悲鳴の様な声に驚いて、全員が佳乃を見た。佳乃は顔を青ざめさせて陽菜に詰め寄りペットボトルを引っ手繰った。ペットボトルのラベルを見ると書かれている項目は元の世界の物と何ら変わりない。だが全く聞いた事の無い会社名と全く見た事の無い地名が書かれている。

「やっぱり明らかに変な物じゃない。悪い事を言わないから、早く吐き出して来なさい」

「大丈夫だって」

「大丈夫な訳ないでしょ! どうするの、化け物になっちゃったら」

「あたしの事心配してくれるのはありがたいけどさ」

「良いからさっさと吐いてきなさい!」

「でもさ」

「良いから!」

「あたしだけじゃなくね?」

 詰め寄っていた佳乃が固まった。

「どういう事よ」

「だってさ山の頂上でラムネ飲んだじゃん?」

「あ」

「あれも異界の飲み物でしょ?」

 佳乃がゆっくりと崩れ落ちた。柔らかい布団の上に尻もちをついて、放心した様子で陽菜を見上げて動かない。

「そんな、それじゃあ、私達みんな異界の人になっちゃうんですか?」

 乙恵が泣きそうな声で呟いた。それを聞いて、陽菜が明るい声を上げる。

「大丈夫! 例え腐っても友達だから!」

「そんなの嫌です。帰りたいです」

「じゃあ、振り向かずに引っ張ってってあげる」

 ゆらりと佳乃が立ち上がった。顔は青ざめていて生気が感じられない。本当に冥界の住人になったようだ。

 またこいつは何か文句を言うのかなと陽菜は身構えた。

「どうしよう」

 佳乃が呟いた。思わぬ弱気な言葉に陽菜は耳を疑った。

「どうしよう、どうしよう」

「おい」

「どうしよう、このままじゃ」

「落ち着けって」

「みんな安心して、私がきっと助かる方法を見つけるから」

 震える口から出た言葉もまた震えていた。佳乃の言葉は気丈であったが、佳乃の態度は風に怯える子供の様に頼りない。

「まずお前が落ち着け」

 陽菜が佳乃の目の前で手を打ち鳴らした。

「別にこっちの世界の物を食べたからって戻れなくなんかならねぇよ。な、月歩?」

「うん、そうだね」

「根拠はあるの?」

「だって実際に食べてきたしな」

「戻って来れてるよね、毎回」

「そう」

 それでも佳乃はまだ不安な様だ。青ざめた顔のまま、うつむきがちに立ち尽くしている。

「とりあえずお風呂入ってさっぱりして来い。次は佳乃の番だろ」

「え、ええ、そうね。入ってくる」

 そのまま無言で襖を開け、向こうへと消えていった。その後ろ姿を見送って、陽菜が溜息を吐いた。

「佳乃の奴、大丈夫かね。まあ、初めての異世界で不安なのは分かるけど」

「本当に大丈夫なんですか?」

 乙恵が聞いた。

「当たり前じゃん。実際今迄あたしも月歩も何ともならなかったんだから」

「そう……ですよね」

 しばらくして佳乃がお風呂から戻って来た。

「さっきは取り乱して悪かったわね」

 湯上りに牛乳を持っていた。皆がそれに注目している事に気が付いて、恥ずかしげに言った。

「もう野となれ山となれよ」

「それは良いけど、牛乳って……胸が欲しいの?」

 陽菜の軽口に佳乃は鋭い眼で返したが、反論はしなかった。そのまま縁側に腰を下ろして海を見ながら牛乳を飲み始めた。

 残りの者も交互にお風呂に入って、人心地ついた。クーラーは消えたが、暑気に文句を言うものは居ない。部屋の中には潮風こそ柔らかく吹いてくるが、日の光はまるで入らず、風通しの良い影になっていて涼やかだ。薄く陰った部屋から外を見ると、強い陽光に照らされた海がちらりちらりと瞬いている。部屋の暗さと外の明るさのコントラストが、海と空を一枚絵の様に浮き上がらせている。それが如何にも夏らしくて、涼しいはずなのに気怠い暑さを感じた。

 また潮風が入って来た。六人の肌を柔らかく撫ぜ上げる。寝転がってぼんやりと天井を見つめていた陽菜が言った。

「洗濯終わったら行くか?」

「良いんじゃない」

 七海が同意した。アニューゼ、乙恵、月歩とトランプをしている最中で山札から一枚カードを引いたところだった。

「じゃあ、準備はしとかなきゃね」

 月歩も手持ちの札を睨みながら答えた。

「乙恵ちゃんとアニューゼも大丈夫?」

 七海の問いに、

「え? あ、大丈夫です」

乙恵は慌てて答えて、その拍子に手札を取り落としてしまった。

 それを拾ってあげながら、アニューゼも答える。

「ダーイジョブでぇす。海の中に行くのですね」

 最後に佳乃へと視線が集まった。牛乳を飲み干した後に台所へと行き、やけになった様に今度はお茶のペットボトルを持ってきて飲んでいる佳乃が答えた。

「良いけど、大分時間が掛かるんじゃない? まさか服は乾かさないで持っていくの?」

「それなら電車で干せるから大丈夫だよ」

「電車で?」

「うん、行ってみれば分かる」

 乾燥機でもあるのだろうかと佳乃が疑問に思っていると、陽菜が勢いよく起き上がった。

「じゃあ、決定! とりあえず布団片付けっぞ!」

 そう言って布団を引っ張り始め、その上に置かれていたトランプが辺りに散らばった。

 悲鳴と非難と謝罪が繰り広げられる室内を見て、佳乃はそっと息を吐いて、それからお茶を飲み干すと、陽菜を糾弾する為に怒りながら嬉しそうに立ち上がった。

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