第一章
Aは古美術店の二階に住んでいた。
部屋には二つ窓があった。小さいほうの窓からは、薄暗い路地裏を見下ろせた。大きな窓は古いアパートに面していた。手を伸ばせば届くベランダには、黄ばんだ肌着が毎日干されていた。時々爺さんが顔を覗かせた。Aと目があうと、うっすらといやらしい笑みを浮かべた。
Aは月に二回買い物に行き、年に三回病院に行った。春の病院では診察を受け、夏の病院へは見舞いに行った。そして秋か冬の晴れた日の朝に電話がかかってくると、おにぎりをこしらえて、壊れそうなボールペンを手に家を出た。
医務室は清潔で立派だった。革張りのソファの端に腰を下ろし、Aは医師免許の継続を申請する手紙を書いた。
医務室の持ち主は、Aが医学生だった時代のひとつ後輩の男だった。若いときから目立ってしかたない、魚のような出目をぐるりと回して、Aを眺めていた。Aはおにぎりの、海苔を巻いていない二つを選んで、置いて帰った。
買い物に行くときには必ずごみ袋を買った。金属用の厚手で取手のついたものだった。しばしば古美術店の夫人を見かけたけれど、目があうことはなかった。夫人が来る日はいつも風がなく、スーパーの裏手のガードレールには痩せた三毛猫が繋がれてぐったりしていた。
Aは買い物のあとにたまに電車に乗った。
二つ目の駅の街には、高い建物と低い建物が波紋のように円く交互に並んでいた。その中でもひときわ低い建物の地下で、Aはいくつかの胎盤を手に入れた。Aはそれをごみ袋に入れて持ち帰った。
四つ目の駅はたくさんの人で賑わっていた。あるときは雑踏を避けるように、人気がないガソリンスタンドの隣の路地へ向かった。少しの時間で三、四人の常連の客を迎えた。
またあるときは高層ビルの受付で黄色い紐のタグをもらい、金持ちのオフィスで心なしの接待を受けた。スーツ姿の壮年の紳士は、Aの差し出した弁当箱の中にスライスした胎盤を確認すると、おもむろに本棚に手を伸ばした。取り出された封筒には紙幣の厚みが表れていて、Aは静かに笑ってみせた。
多くの闇医者は時期の遅い中絶を扱っていたけれど、胎盤の臭みを取る方法を知らなかった。懇意にしている薬剤師を訪ねる者もあれば、寿司屋に入り浸り、解凍直後のマグロを手にじっと考え込む者もあった。
そしてある年の同窓会で、一人の髭面の男が内科医からカメラマンに転職したと吹聴していた。Aは介護のため休職中だと話したけれど、実際は父は他界していたし、母はパートで得た金でお遍路を始めていた。
二人は医師会の話に嫌気がさしてトイレばかり行き、トイレで嘘を打ち明けた(つまり、髭男はあるマンションの一室で開業しているということ、Aは医療から完全に離れていて食いっぷちがないことを)。そして連絡先を交換した。
Aが初めて胎盤を受け取ったのは、その翌月だった。そしてその年の終わりには商売は軌道に乗っていた。二人はすぐに胎盤の仕入れ値の争議で決裂した。
決裂はあとに続いた、契約相手の闇医者たちは度々Aを妬み、またAの態度には蔑みじみたものが増していった。
だから、現在の二年近い契約の継続は、Aにはほとんど奇跡だった。三つの仕入れ先のうち、どの口もAのノウハウを聞き出そうとしなかったし、Aが胎盤で商売をしていることをリークしようともしなかった。
この十余年の間でも住環境は凄惨であるものの、昨年だけ転居をせずにすんでいる。
「住み心地がいいにこしたことはないけれど、一番大事なのは安心なのよね。世間を見下ろせる崖の上よりも、谷間の村の牛小屋の方がずっと豊かだわ」
Aが袋の口を結びながら言うと、闇医者はカルテがわりの大学ノートに目を落としたまま、薄く笑った。
「僕らはずいぶん信頼してもらってるみたいだ」
実際、Aは三人の闇医者を信頼し過ぎているような気もしていた。
しかし、胎盤の収集を任せているこの若い闇医者の部屋に来ると、危機感が働かなくなった。外界の音は遮られ、二人の声と闇医者のペンの音だけが響いていた。電気を点けても薄暗いのに、日の当たる縁側のような、懐かしい匂いがしていた。
Aは軽く頭を振った。
「人を食ったような言い方しないでもらえるかしら?」
「気に触ったならすまないが、しかしこちらもいつ廃業させられるか定かじゃないからね」
闇医者の革靴は、絨毯の浮いた箇所を細かく擦り続けていた。
「客が来るんだよ」
なおも視線を落としたまま、闇医者は言った。
「たぶん堕胎だから、この机で施術するよ。見ないでしょう?」
雑な造りの作業机の縁には、ところどころに暗い紅の斑点が染み込んでいた。
Aは胎盤八枚ぶんの金を差し出しながら、闇医者の、たまに敬語を挟む癖を呪った。
飛び魚用の干し網でAは胎盤を干す。その独特の臭みに、黒やぶちの猫が配水管をつたってやってくることもある。しかし、夫人の痩せた三毛猫は興味を示さない。
古美術店の主人の部屋は東側で、夫人の部屋は西側にある。三毛猫は西の出窓の、腐りかけた柵に繋がれている。長い紐は東奥のAの部屋まで、ゆうに行き渡る。
三毛猫はAがごみ袋を置いている場所で昼寝するのを好む。五匹の子どもが生まれたときは、二、三匹ずつが交互にそこにやってきた。一匹は車にはねられたけれど、そのほかは痩せていながらもよく育った。
子猫のいた春には、店の小さな裏庭で初めてスミレが花をつけた。それがしぼんだ次の春に、スミレはかろうじてつぼみになり、そしてそのまま、時を止めている。
三毛猫は爪先を震わせながら、のそのそと起き上がる。髭の寝癖を直したり、Aの食べこぼしたものを舐めたりする。
スミレを見るために、出窓の上に跳び乗ることもある。濡れた胎盤の雫が水たまりをつくる、その横に陣取って尻尾を垂れている。
Aが猫を嫌がることはなかったけれど、犬は決して触らなかった。また、人に手や指先を差し向けるような動作が苦手だった。
Aは出かける前に必ず竹炭のかすで手を洗った。竹炭は胎盤を食べやすくするために使っているものだった。
Aは一日に一回は胎盤を口にしていたけれど、できれば食べたくなかった。Aは過去に産婦人科医をしていたので、それらが排出される様子を毎日見ていた。
それらは、若い看護婦の手袋につままれては、ポリバケツに放り込まれていた。医療廃棄物の収集車は、夜勤でまぶたが重い明け方に回ってきた。そして、態度の悪いつなぎの男がバケツを引きずっていった。
おいしいんだよ、とか、これがないとね、とか毎回のように客に言われた。そのたびに、Aは首をひねりたくなるのをこらえた。一人の青年からは、新鮮な状態で売ってもらいたいと注文を受けた。もっと柔らかくみずみずしい、烏賊刺しのようにして食べれるんでしょう、と、彼はAの顔を覗き込んだ。
Aは自身の住所でなく、若い闇医者の連絡先を伝えた。しばらくして、青年はAのもとに来なくなり、闇医者からは針で刺すような嫌味を言われた。
若い闇医者は冷徹なくせに、お土産を持たせるのを欠かさなかった。秋は熟れた梨を四、五個ほど寄越した。里は西の田舎だと話したことがあった。
最後の一個で飽きたときは、スープにしてみたらいいよ。闇医者はそう言いながら、紙袋をずっしりとAの手のひらに載せた。古美術店から借りたミキサーはほこりだらけで、Aは何度も中を拭わなければならなかった。熱々のスープは期待されたほど美味しくはなかった。
Aの嫌いな卯の花や乳製品、アスパラ入りの野菜炒めは、三毛猫が食べた。食べ物だけでなく、雑貨を受け取ることもあった。スティックのお香はあの懐かしい匂いがした。古本はどれも十九世紀の海外小説だった。
そしてスズランの鉢二つを、少し多めの胎盤と共に持ち帰った夕方、三毛猫は出窓に伏せていた。神経質に尻尾を揺らしながら、下を覗き込んでいた。
しばらくして夫人の短い悲鳴と泣きむせぶ声が聞こえてきた。遠い踏切の鐘の音が遮られ、隣の爺さんが窓から顔を出した。
そして階段を駆け上がる音がしたと同時に、Aは蒼白な顔の夫人から猫を押し付けられていた。
背中がくの字に曲がった、血まみれの猫だった。
わずかな息は、熱く、とても細かった。夫人は、元医者、とか、手術、とか喚いていた。Aは顔をしかめながら、鮮血で汚れるままのシャツをつまんでみせた。けれど、夫人は口を止めようとしなかった。
死にかけの猫を腕に受け止めたとき、Aの顔は瞬時に引き締まった。その反応はAをまるで誠実な医師のように見せたけれど、単に身体的な反応でしかなかった。確かに、手術室の白熱灯や適正すぎる湿度、女たちの急いた呼吸や、血と汗を混じりあわせる青いビニールのシーツなどは、Aの脳内に染み行くようによみがえっていた。そして少しの間、Aの目をくらませた。けれど結局は、若者ぶった澄まし顔で夫人に応対できた。クリーニング代を気にするそぶりを見せつけながら、
「これはちょっと、明らかに駄目な様子ですから」
などと伝えていた。
そして結局は、Aはしつこい夫人に折れた。猫の首に期限の切れた麻酔薬を注射して、傷口を七針縫った。久しぶりに握った鉗子はやや青く錆びていた。
Aは術中ずっと泣いていた。手術やお産の際の癖だった。この癖に耐えられずに、Aは医者を辞めたのだった。猫でも泣くのだと、Aはぼんやり思った。
古美術店の主人は、妻と仲違いするたびに店先で煙草を吸った。ラークを二本だけ、大事そうに吸った。
たまに、帰宅するAを引き止めて煙草を勧めた。北のほうに嫁いだ娘の話や、妻が入会している宗教団体の話をした。
「母っていうのはきっと、子がいる限りは捨てられる運命にあるんだね」
その日、Aのごみ袋を横目で見ながら、主人はそう言ったのだった。
何故だか、Aの顔は赤くなった。そして捨てられるという言葉に、数時間前に電話をかけてきた老紳士の言葉を思い出した……胎盤は命のゆりかごと呼ぶにふさわしく、それをゴミにせず食ってやるというのは、とても崇高でエコロジカルな行為だと思うのです。
Aはそれを聞きながら、実に効果的なタイミングで相づちを打っていた(胎児は今ごろポリタンクの中に放り込まれているでしょうけれど、などと告げることなく)。
「風が冷たく、なってきたね」
消した煙草を拾おうと屈んでいたので、主人の声はくぐもって聞こえた。初雪も近かった。Aはもうすぐ、掛け布団を日干ししなければならない。
「そういえば、あの猫、死んじゃったね。残念だったね」
主人はつぶやいたけれど、Aの口はしばし固まったままだった。
「ええ……あれから、三毛猫の気も荒れてますね」
猫はこの日の二日前に死んだ。夫人はペットの葬儀屋に頼もうとしていたけれど、受け取った見積もりは高すぎた。猫は煮干しやかつおぶしとともに、裏庭に丁重に葬られた。
Aは仕入れ先のひとつを訪ねたまま、猫の死に際にも、埋葬にも立ち会わなかった。
Aは首を鳴らして、辺りを眺めた。油が浮いたアスファルトをかすめ、スーパーのチラシが飛び去っていく。
「……この間は、ミキサー貸していただいて、助かりました」
「梨のスープ、つくったらしいね。おいしかったの?」
「ええ、もしかすると、おいしく思える日がくるのかもしれませんね」
「そうだねきっと、そういうもんなんだろうね」
主人はゆるやかに煙を吐いた。ラークの甘く濁った香りに、Aは少しだけ目眩を覚えた。そして、この人に父子として出会っていたなら、嫌悪するばかりだっただろうと思った。
陽が傾き始めたころ、古美術店にその日最初の客が来た。主人は三本の煙草の吸い殻を手に、客の後について店に入っていった。
店に客は毎日やってきたけれど、売れるのは安くてまずい掛軸ばかりだった。夫妻は、Aが支払う賃料とわずかばかりの仕送りで食いつないでいた。
店番も掃除も、隔週土曜日の買い付けも、この店ではいつも主人がやっていた。それが張り合いなのだった、そうすることが、健康や長寿、ひいては妻や娘の家族の幸福に繋がると信じていた。そして夫人は、宇宙に満ちる波動が人間の病理に及ぼす影響についての講話がない日、且つ、ゆでうどんのストックがある日は、ずっと居間に座っていた。再放送のドラマをつけっぱなしにしたまま、大小さまざまの寝間着を縫うのに熱中していた。
Aは部屋に戻り、やにわにごみ袋を放りやった。そしてテーブルに突っ伏した。階下からは、かすかに声が聞こえてくる。ドラマでは女が消えた男を探し続け、また掛け軸……描かれている魚は、滝を上っているようですがその実、流れから放り出されているのみなんですよ、と何度か聞いたことのある説明……についての商談も続いている。
干し網がきいきい揺れていた。すきま風が冷たかった。三毛猫は部屋から消えていた。けれど、いくつもの畳のひっかき傷や、水っぽい糞を残していた。
ティッシュを手に取りながら、Aは口のなかで、谷間の村の牛小屋、とつぶやいた。これからもこの家はますます汚れ、粗末に、弱々しくなることを悟った。そしてその変化は、ある瞬間の汗や涙のように、受け止める価値のあるものに違いなかった。
しかしAは、いつかこの家に耐えられなくなることを確信した。これまで、小集団や緊密な共同体から離れていくことは幾度となくあったけれど、予感を抱いたのはこのときが初めてだった。
階段から、三毛猫の足音が近づいていた。猫はしばらく、戸が閉まったままのAの部屋の前に佇んで、戸が開かないことがわかると引き返した。Aは猫の糞を捨ててから、のろのろと、胎盤を冷蔵庫にしまった。食事はとらず、歯も磨かないまま、毛布を身体にきつく巻きつけて眠った。
「このごろは、とても、技術を譲ってあげたい気分を覚えるのよ」
口に出すと、気分が晴れた。けれど、電話の向こうの闇医者は斬り捨てた。
「駄目だよ、夢見がちだと喰っていけないからね」
彼の冷淡な口調には慣れていた。けれどAは、出窓に下唇を噛む自分が映し出されるのを見た。窓ガラスは幾年ものほこりで汚れていた。Aの顔はその表面で、霞がかかったようにぼやりとしていた。
「そんなに心配することじゃないと思うわ。里もあるし……」
Aは気丈を装いながら言い返すと、立ち上がって胎盤の処理を始めた……三週間漬けていた、Aの調合した練り粉を洗い落とさなければならない。ざるの中の萎びたそれは、希少な高級食材の持つ怪しさを、早くもかもし始めていた。水の冷たさに右手がしびれるのを感じた。
水道の機動音のかげで、闇医者の声は小さく、よじれた糸のように耳に伝わってきた。
「わかってるんだろ、君は本当に、するべき仕事をこなしているだけだ。良い仕事だよ。先祖の人骨を香具師に売り払うよりずっとまっとうだ」
闇医者の饒舌はもの珍しかった。少し笑えた。
「あなたそんなことしたの?」
こみ上げた笑いやからかう口調とは裏腹に、Aの胸や喉は痛かった。しもやけのような、鈍いうずきだった。
それは、闇医者が自身の仕事を肯定することはないとわかっていたからだった。闇医者は医局に愛想をつかして病院を辞めた、けれど、その決断にさえ満足していなかった。操業を始めてからのほうが、皮肉な態度が目立つほどだった。
非正規の医療を続ける限りは、闇医者は冷徹な性格でしかいられないだろうとAは思った。彼はAより二回りも若かった。その事実は、Aには時々救いにも見えたけれど、同じくらい不憫にも思えた。
手のひらの下で、血の抜けた胎盤は不自然な金色をしていた。
思わず、穏やかな声が
「いいのよ」
とAの口をついて出た。そしてもう一度、噛んで含めるように繰り返された。闇医者は何も言わなかった。それからほどなくして会話は終わった。
Aはこの日の闇医者の沈黙、そして自身のうわずり気味に言った、
「私の骨なら大丈夫よ、気にする人もいないからね」
そしてこの言葉に対する、
「はい、わかりました」
という、簡潔で丁寧な返事を、ずっと忘れられないこととなる。
けれど、電源ボタンを押したときは、印象が強く残っていたわけでもなかった。Aはただ金色の胎盤を擦り続けていた。手垢で汚れた蛇口の曲面に、鼻を膨らませた自分の顔が伸び広がっているのは見なかった。
ただ意識にのぼっていたのは、変わらず乾いていた闇医者の声だけだった。Aは畳んだ布団の上に電話を投げやった。そして胎盤を干し網に移し、手を洗った。
三毛猫は今日も出窓の上へ向かう。跳びしなに、はん、と、鼻の息が漏れる。
三毛猫は急に太り始めた。脚や背に肉がつくことはなく、腹だけが重く膨れあがった。生ゴミを漁っても食べ足りず、風呂の残り湯を飲んでも飲み足りなかった。
自分の欲求をコントロールできないのは、発情期以来だった。苛立って暴れることも多かったけれど、やっぱり暴れ足りなかった。昨日は初めて、路地裏一帯を牛耳るシャム猫に手傷を負わせた。そして倍の仕打ちを受け、夫人の腕に抱かれて帰った。
出窓に上がると、左前足のみみず腫れを丹念に舐める。首の後ろの傷には夫人から消毒が施されていたけれど、ひりりと痛がゆいのは心地悪かった。それでも、干し網からしたたり落ちる雫で洗い流そうという気はさっぱり起きなかった。
水溜まりを避けるように脇腹をひねりながら、三毛猫は午後の風景を見はるかす。あくびと一緒にげっぷが出る。
誰にともなく、短く鳴いてみる。
これまで、三毛猫が鳴くことはほとんどなかった。いつかの野良猫の乱暴な種付けにも、二回息を止めるだけで耐えられた。それなのに、この数日は喉を震わせずにはいられない。
衝動のきっかけは明瞭だった。三毛猫の産んだ、自動車でひかれて死んだ子猫に、この間の怪我をした猫が似ていたのだった。
三毛猫は、怪我の瞬間を、干し網に鼻を近づけた猫が配水管から足を滑らせたのを見ていた。猫は赤い陽に包まれたまま、柔らかく、しかし風を切る速さで落ちていった。けれどその落下の場面でさえ、三毛猫の視線は猫の右足にあったクローバーの形のぶちにしかなかった。猫の内臓が潰れる音にも気づかないほどだった。
夫人の部屋で寝かされたぶち猫の手術跡を、三毛猫はなめ続けた。三毛猫の舌が触れるたび、ぶち猫は腫れた目を開けた。しかし、三毛猫が久しぶりにごみ袋の上でまどろんだその時間にぶち猫は死に、三毛猫が起きたときには、裏庭からスコップの固い音がし始めていた。
三毛猫は出窓から、すべて目に刻み込むようにして埋葬を見尽くした。
夫人は猫の屍体の上にかつおぶしを散らすと、しばらく黙って穴を覗き込んでいた。その肩に、店主の手が置かれた。日だまりから、ススキの綿毛を連れた風が吹き抜けていった。
三毛猫はその様子を見て、口を頬に引き付けるように開け、粗く乾いた舌を下顎に押し付けた。
けれど、鳴き方はなかなか思い出せなかった。墓土は丸くなめらかに盛られ、店主と夫人が洗濯物を取り込み始めたので、三毛猫も部屋の中へ戻るほかなかった。
けれど、三毛猫が後ろを振り向いた瞬間、出窓に飾ってあったスズランの鉢にぶつかった。白い花が静かに揺れ、甘く苦く、痺れる芳香が放たれた。
香りの粒子は、ひだだらけのプリズムだった。次々と三毛猫の鼻へ、脳髄へと吸い付いて、頭の中に形を映し出した。それは猫の子宮の形だった。その形が分かたれた記憶の糸を巻き取り、ばらばらに散らばっていた、鳴くプロセスのひとつひとつが組み立てられた。そうして三毛猫は久しぶりに鳴き声をあげることができた。
三毛猫が出窓から下を向くと、スミレの花が開いている。 ぶち猫が地面に叩きつけられたとき、尻尾がスミレのつぼみをかすって、花びらがこぼれたのだった。
スミレは咲いているというより、壊れている。茎は根元から傾いていて、もうつぼみをつけることもないかもしれない。墓がすぐ隣に作られたので、土ほこりで汚れてしまってさえいる。けれど花は開いている。服が裂かれたようにして、裸の青紫がしっとりと生まれついている。
三毛猫はその小さな花に向かって一度鳴く。そしてまた、誰にともなく何度か鳴き続ける。