少年と祠
ねぇ、話を聞いてくれるかい?
これは、僕がまだ子供だった頃の、遠い遠い記憶なんだ。
でもね、どれだけ時が経っても、あの日のことは少しも霞まない。
まるで、心に焼き付けられた烙印みたいに、鮮やかなままなんだ。
僕が育った街は、特別大きいわけでも、何か変わったものがあるわけでもない、ごく普通の小さな街だった。
でもね、一つだけ、他の街と違うと言えば、街外れにあった、あの古びた小さな祠のことかな。
本当に目立たない場所にひっそりと立っていて、でも、街の人たちにとっては、何よりも大切な場所だったんだ。
いつからそこにあるのか、誰が祀られているのか、詳しいことは誰も知らない。
ただ、ずっと、ずっと昔から、街の守り神様として、街の人たちみんなで大事にしてきたんだ。
お祭りでもないのに、祠はいつも綺麗だったし。
誰かが毎日、掃き清めて、新しい榊を供えてたんだ。
僕らの街では、祠の前を通る時には、必ず手を合わせるのが当たり前だったし、子供心にも、何か、そこにいるんだって感じるくらい、澄んだ、でも少しだけ厳かな空気が漂っていたんだ。
祠は小さくて空っぽだった、ご神体があるわけじゃない。
代わりに、古びた一枚の札が、祠の壁に貼り付けられていた。
それが神様の依り代なんだって、大人たちは言ってた。
その札は、何年も何十年も、もしかしたら何百年も、雨風に晒されてきたんだろう。
色は褪せて、端っこはボロボロで、触ったら崩れてしまいそうに見えた。
でも、それは絶対に触ってはいけないものだって、僕らの街では、誰もがその札を敬って、決して傷つけたり汚したりしないように気をつけていた。
それは、街の平和と、僕らみんなの安全を守ってくれている、大切なものだったから。
僕も、そのことはちゃんと知っていたんだ。
祠の前を通る時は、友達と騒いだりせずに、静かに手を合わせていた。
心の中では、少しだけ、あの札に触ってみたいっていう、好奇心もあったけど、それよりも、なんだか分からないけれど、それに触れたら大変なことになるんじゃないかっていう漠然とした恐怖の方が強かった。
だけどね、あの日。
あの、僕の人生が大きく変わってしまった日。
いつもの帰り道、友達何人かと一緒に祠の前を通ったんだ。
その頃の僕は、本当に思慮が浅かった。
周りの友達に、すごいって思われたかった。
少しだけ、危険なことや、みんながやらないようなことをして、目立ちたかったんだ。
そんな僕を見て、誰かが言ったんだ。
「なあ、あの祠の札、剥がしたらどうなるんだろうな」って。
その言葉を聞いた時、ゾッとしたんだ。
でも同時に、心臓がドクンと大きく跳ねた。
ダメだって分かってるのに、やってみたいっていう気持ちが、止められなかった。
みんなが僕を見てる。
ここで怖気づいたら、ダサいって思われる。
そんな子供じみた見栄が、僕の心を支配してた。
それに、心のどこかで、「まさか、ただの古い紙切れじゃないか。剥がしたって何も起きるわけないさ」って、高を括っていたんだと思う。
気がついたら、僕は祠の前に立っていた。
友達の視線が背中に突き刺さるのを感じた。
緊張で、手が少し震えていた。
祠の壁に貼り付いた、古びた札に触れた。
思ったより硬かった。
そして、ひんやりとして、何か、ズッシリとした重みを感じた気がした。
それは、紙の重みじゃない。もっと別の、何千年もの時間が凝縮されたような、そんな感覚だった。
一瞬、手が離せなくなりそうになったけど、後ろの友達の視線を感じて、ぐっと力を込めた。
ビリッ、と、乾いた、嫌な音が響いた。街の静けさの中で、その音はひどく耳障りに響いた。札が、祠から剥がれて、僕の手に収まった。
友達は、一瞬、息をのんだようだった。
でも、それだけ。空が割れるわけでもない。
地面が揺れるわけでもない。
何も起こらない。
ただ、祠の壁に、札が貼り付いていた痕跡だけが残された。
「なんだ、何もねえじゃん」
「つまんねーの」
「やーい、何も起きなかったじゃん!」
友達は、すぐに興味を失ってしまった。
僕が特別な何かをするのを期待していたのかもしれない。
でも、何も起こらなかったから、拍子抜けしたんだろう。
彼らは、僕を置いて、先に歩き出した。
一人残された僕は、手に握られた札を見つめた。
それは、祠から剥がされた瞬間から、まるで生気を失ってしまったかのように、みるみるうちに変わっていったんだ。
色がみるみる褪せて、乾いた葉っぱみたいに丸まって、触るとパリパリと崩れてしまいそうなくらいにもろくなった。
そして、僕はそれを、地面に落とした。
札は、音もなく、地面に落ちた途端、あっという間に塵になって、風に舞い上がって消えてしまった。
跡形もなく。
本当に、何も残らなかったんだ。
少しゾッとした。
得体の知れない恐怖が、体の奥底から湧き上がってきた。
でも、すぐに「まあ、大丈夫だろう」って、自分に言い聞かせたんだ。
誰も見てない。
気づかれない。
ただの古い紙切れだったんだから、なくなっても問題ない。
そう思って、僕は家に帰ったんだ。
あの時の僕には、これから起きる恐ろしい出来事を、想像する力なんてなかったんだ。
異変に気づいたのは、それから数日経ってからだった。
学校で、祠の前で一緒にいた友達に会った時のことだ。
いつものように、「おはよう!」って声をかけたんだ。
友達は、僕を見た。確かに、僕の方を見たんだ。
でもね、その視線が、何かおかしかった。
焦点が合っていない。
ぼんやりとしてる。
まるで、僕の後ろの何かを見ているみたいに、僕そのものに焦点を合わせていないんだ。
「…おはよう」
返ってきた声も、どこか力がなくて、感情がこもってない。
いつもの元気な声じゃない。
少年だった僕は、最初はただの寝不足かな、くらいにしか思わなかった。
でも、次の日も、その次の日も、友達の様子は変わらなかった。休み時間、みんなで集まって話していても、僕が話しかけると、彼らはぼんやりとした目で僕を見るだけ。
笑わせようと面白い話をしても、表情一つ変えない。ただ、「ふーん」「へえ」って、上の空で相槌を打つだけなんだ。
まるで、僕の言葉が、彼らの心の奥底まで届いていないみたいだった。
最初は、僕が何か悪いことでもしたのかな?って悩んだ。
友達に嫌われたんじゃないか?って。
でも、どうやらそうじゃないみたい。
彼らは、僕以外の他の友達とも、同じような調子で話してる。
会話は成立してるんだけど、なんだか薄っぺらいんだ。
感情が通い合ってない。ただ、言葉を交換してるだけ。
最初は、あの時祠の前にいた友達だけだった。
彼らは学校に来る。
授業を受ける。
友達と話す。
でも、その全てが、どこか機械みたいなんだ。
瞳の奥に、何も宿っていない。
心がないんだ。
笑うべき時に笑わず、怒るべき時に怒らない。
ただ、そこに「いる」だけ。
彼らは確かにそこにいる。
僕のすぐ隣にいる。
触れることもできる。
でも、心は、ずっと遠い場所にいってしまったみたいなんだ。
彼らが僕を見ているのに、僕の存在を認識していないような、そんな感覚。
彼らが話しているのに、言葉に感情がこもっていない、そんな感覚。
僕は、その異変が怖くてたまらなかった。
一体何が起きているんだ? みんな、どうしてしまったんだ? 僕だけが、この状況を「おかしい」と感じているみたいだった。
他の子たちは、まるでそれが当たり前であるかのように、変わり果てた友達と接している。
いや、もしかしたら、他の子たちも、気づかないうちに少しずつ変わっていってるのかもしれない。
僕は、友達に話しかけるのが怖くなった。
彼らの、あのぼんやりとした、僕の心を写さない瞳を見るのが怖かった。
彼らの、感情の宿らない声を聞くのが怖かった。
彼らはそこにいるのに、僕にとっては、もう彼らじゃないみたいだったから。
最初は、どうにかして元に戻そうと思ったんだ。
話しかけ続ければ、昔みたいに笑ってくれるんじゃないか。
一緒に遊べば、あの頃みたいにふざけ合えるんじゃないか。
そう思って、必死だった。でも、何をしても駄目だった。
彼らは、ただ僕の目の前に「いる」だけ。僕の言葉も、僕の気持ちも、彼らの心には届かない。
彼らを見ていると、自分までおかしくなってしまいそうだった。
彼らの、感情のない顔。平坦な声。
その「普通じゃない」様子が、僕の周りの空気を歪ませていくみたいに感じたんだ。
ゾワゾワとした、不気味な感覚。
彼らは、僕にとっては、もう友達じゃなかった。
何か、得体の知れない、別のものに変わってしまったみたいだった。
ある日、学校からの帰り道。変わり果てた友達が、ぼんやりとした顔で僕の方を見ていたんだ。
何かを言おうとしているみたいだけど、言葉にならない。
ただ、焦点の合わない目で、じっと僕を見つめている。
その様子が、あまりにも不気味で、僕は体が硬直してしまった。
彼らから発せられる、何もかもが「空っぽ」になったような空気が、僕を締め付けてくるみたいだったんだ。
耐えられなかった。
僕は、友達に背を向け、走り出したんだ。
全力で。
彼らから離れたくて。
あの、不気味な空気から逃げ出したくて。
後ろから、彼らが何か言ったような気がしたけど、怖くて振り返れなかった。
ただ、息を切らして、がむしゃらに走った。
家に帰っても、安心できなかった。
あの友達の顔が、目に焼き付いて離れない。
ぼんやりとした瞳。
何も映していない視線。
あれは、人間じゃなかった。
そう思ってしまった。
その異変は、街中に広がっていった。
本当に、ゆっくりと。
でも確実に。
まるで、静かに広がる毒みたいに。
最初は僕の友達だけだったのに、いつの間にか、他のクラスメイトも、学校の先生も、近所の大人たちも、少しずつ変わっていったんだ。
八百屋さんのおばさん。
いつもなら「あら、坊や、今日は何? 元気だったかい?」って、笑顔で声をかけてくれるのに、ある日、僕が店先を通っても、ぼんやりとした目で僕を見ているだけだった。
まるで、僕の存在が目に入っていないみたいに。
声をかけても、返事はするんだけど、心がこもってない。ただ、言葉を繰り返してるだけ。
お肉屋さんのおじさん。
いつも豪快に笑ってたのに、ある日、店先で肉を切る手は動いてるのに、顔は能面みたいだった。
お客さんと話してる声も、ただの音みたいに聞こえた。
街の人々みんなが、少しずつ、少しずつ変わっていくんだ。
見た目は、何も変わらない。
同じ服を着て、同じ道を歩いて、同じように仕事をしてる。
でもね、決定的に違うんだ。
彼らには、もう「心」がないんだ。
喜びとか、悲しみとか、怒りとか、そういうものが、彼らの表情にも声にも、全く宿らない。
彼らは、そこにいるのに、いないんだ。
街全体が、なんだか変な空気になった。
活気がなくなった。
子供たちの笑い声が聞こえない。
夕暮れ時に、大人たちが井戸端で話してる声も聞こえない。
聞こえるのは、風の音と、規則正しい生活音だけ。
カチカチと時計が進む音みたいに、街の時間が進んでいく。
でも、そこに「生きている」っていう感覚がないんだ。
街の人々は、僕を見ても何も感じない。
まるで、僕がそこにいないみたいに。
僕が話しかけても、彼らの心の壁に阻まれて、言葉が届かない。
彼らは、僕にとっては、不気味な人形みたいだった。
精巧に作られて、動くことはできるけど、魂がない。
僕は、街の中で、完全に浮いた存在になってしまった。
周りの人たちは、僕とは別の世界にいるみたいだった。
彼らは彼らの「普通」の中で生きてる。
でも、その「普通」が、僕には全く理解できない、不気味なものだったんだ。
時間だけが過ぎていった。
街の人々は、相変わらず「そこにいるのにいない」まま。
彼らを見ていると、僕の心まで歪んでいくような気がした。彼らの、あの空っぽな目に吸い込まれてしまいそうで。
だんだん、僕の周りの「普通」が、分からなくなってきたんだ。
太陽が昇ること。
お腹が空くこと。
眠くなること。
そういう当たり前のことが、なんだか奇妙に感じられるようになった。
言葉も、おかしくなっていった。
頭の中で考えてることが、うまく言葉にならないんだ。
話そうとしても、途中で詰まってしまったり、全く関係ない言葉が出てきたり。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになっていくみたいだった。
まるで、何かが僕の脳みそを掻き回しているみたいに。考えがまとまらない。
一つのことを考えていても、すぐに別のことに飛んでしまう。
夜、眠ろうとすると、あの変わり果てた友達の顔が浮かんでくるんだ。
そして、街の人々の、あのぼんやりとした目。ゾワゾワとして、眠れない。体が熱くなるのに、心は冷たいまま。
僕は、だんだん、自分がおかしくなっていくのが分かった。
街の人々みたいに、僕も「そこにいるのにいない」存在になってしまうんじゃないか。そんな恐怖に怯えた。
でも、一番恐ろしいことは、避けられなかったんだ。
おとうさんとおかあさんも、かわっちゃったんだ。
いつものあさ、ごはんをたべてるとき。
おとうさんも、おかあさんも、目の前にいるのに、ぼくのこと、見てないみたいなんだ。
めは、ぼくを見てるんだけど、そのおくが、からっぽなの。まるで、ガラスだまみたい。
「…おはよう」
こえも、へんてこりん。
おとうさんもおかあさんも、いつもはもっとあたたかいこえなのに。
いまは、きかいみたいに、ただこえを出してるだけ。
いっしょにごはんをたべたけど、おしゃべりはなかった。
お皿にあたる、カチカチって音だけ。
もぐもぐ、ゴクンって音だけ。
そこにいるのに、そこにいない。
おとうさんも、おかあさんも。
ぼくが、いちばん大すきなひとたちなのに。
ぼくは、どうすることもできなかった。
ともだちがかわっていくときも、まちのひとたちがかわっていくときも、何もできなかった。
おとうさんとおかあさんが、目の前で「そこにいるのにいない」ひとになっていくのを、ただ見てるだけだったんだ。
そのひから、ぼくのいえも、まちとおなじになった。
しずかで、へんてこりんな空気。
おとうさんもおかあさんも、ぼくのとなりにいる。
てをのばせば、さわれる。
でも、こころがとおいの。
どんなに大きなこえでよんでも、とどかないの。
ぼくは、いえのなかで、ひとりぼっちになった。
おとうさんとおかあさんはいるのに、いない。
彼らと話そうとしても、へんてこりんな返事がかえってくるだけ。
ときどき、なんだかわからない言葉を、つぶやいてる。
まちのひとたちも、みんなそうだった。
あるく、はたらく、わらう、おこる… そういう「ひと」がすること、見ためはしてるんだ。
でもね、ぜんぶ、にせものみたいなんだ。
そこに、なにもないの。
ぼくは、このまちが、へんてこりんだって、ずっと思ってた。
みんながかわっちゃったんだって、おもってた。
でもね。
でもね、あるとき、ふと、おもったんだ。
もしかして。
かわったのは、まちのひとたちじゃないんじゃないか?
かわったのは、ぼくのほうなんじゃないか?
あの祠のふだを、ビリッてしたとき。
あのとき、なにかが、ぼくのなかにはいってきたんじゃないか。
だから、ぼくのめには、みんながからっぽに見えるんじゃないか。
ぼくの耳には、みんなのこえが、へんてこりんに聞こえるんじゃないか。
ぼくが、みんなのことを、もう「ふつう」に見ることができなくなっちゃったんじゃないか。
ぼくの心が、こわれちゃったから、みんなが「そこにいるのに、いない」って見えるんじゃないか。
まちをあるく。
みんながいる。
でも、みんなの顔が、なんだか、ぐにゃぐにゃして見えるときがあるんだ。
めが、たくさんあったり。
くちが、おおきかったり。
きっと、そんなはずないのに。
ぼくのめがおかしいんだ。
あたまのなかで、声がするんだ。
へんてこりんな声。
だれかの声? ちがう。ぼくの声? わからない。
言葉も、うまくつかえなくなるんだ。
おもってることと、くちからでる言葉が、ちがう。
話そうとすると、ぐちゃぐちゃになっちゃう。
あれ…? ぼく、なに話してたっけ?
ここは、どこ…?
まちの名前、なんだっけ…?
おとうさん… おかあさん… だれ…?
なんだか、ぜんぶが、とおくなっていくみたい。
手が、とけるみたい。あしが、きえるみたい。
そこに、ぼくは、いるのかな…?
みんながいるのに、だれもぼくを知らない。
だれも、ぼくの声をきいてくれない。
ぼくが、ここにいること、だれもわかってくれない。
…ぼくは、ほんとうに、ここにいるのかな?
あの、祠のふだを、とってから。ビリッって音がしてから。
ぼくは、このまちから、このせかいから、きりはなされちゃったのかもしれない。
からだは、ここにある。でも、こころが、どこか遠くにいっちゃった。
だから、みんなのことが、わからなくなった。
みんなも、ぼくのことが、わからなくなった。
へんてこりんなのは、まちじゃない。
へんてこりんなのは、みんなじゃない。
へんてこりんになっちゃったのは、ぼくだ。
ぼくの、あたまが。
ぼくの、こころが。
あのふだみたいに、ビリッてされて、くちて、なくなっちゃったんだ。
だから、ぼくは、もう、ふつうに見えない。
ふつうに聞こえない。ふつうに感じられない。
ぼくは、ここにいる。
みんながいる。
でも、だれも、ぼくのことを見てない。
ぼくも、だんだん、自分でも自分がどこにいるか、わからなくなってきた。
ぼくは、どこにいるんだろう?
ねぇ。
ねぇ、きみは。
ぼくの声、きこえてる?
ぼくのいる、この、へんてこりんなせかいに、きみもいるの?
それとも、きみは、あの、ふだをとるまえの、ふつうの、あのまちにいるの?
ねぇ。
きみは、どっちのせかいに、いるの?
…ぼくは、ここにいるけど。