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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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ボツの墓場

今日はDaddy Day

作者: 輪形月

本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。

 着慣れないスーツの両肩にアンテナをつきだした男性が、すれ違いざまおどおどした様子で頭を下げてきた。同時にその頭上に企業広告が浮かび上がる。アンテナに見えたのはLEDアドライトだ。高速でワイパーのように左右に動いて映像を表示する旧世代の携帯型広告装置である。いっそPOPデータを発信するだけだったら、眼鏡型端末(グラスィーズ)は非表示設定にしてあるのに。内心舌打ちしながらも、ぴりかはにこやかに挨拶を返した。

 今日はDaddy Dayだ。父の日という贈答品商戦のための企業設定はともかく、現行の教育行政上はかつて授業参観と言われた催しをさす。DDayともいうが、Dの一つはDeadlyの謂という噂もある。教師側からすればあながち冗談でもない。アドライト全盛期に某大企業の城下町にある小学校では、参加者全員が同じ映像ばかり垂れ流すので発狂した担任が出たという。立派な都市伝説だが光感受性発作で倒れる危険性を考えるならばリアルでもある。定年を過ぎた再雇用教員によれば、かつての授業参観は一時限ぶんの授業と懇談会のセットだけという、実にのんびりしたものだったというが、さすがに懐古談というより冗談だろう。でなければそれこそ都市伝説だ。

 とりあえず偏光モードに眼鏡型端末(グラスィーズ)の設定を変えておく。先ほどの男性と同型のアドライトが多いと視神経を痛める可能性もあるからだ。とはいえ、偏光性が高すぎると「子どもの目を見て指導できないコミュニケーション能力不足の教師がいる」というけったいな苦情が来ることもあるので、ほどほどにしておかなければならない。いっそのこと相手側からは素通しに見える両面投射タイプにしてくれないか、などと埒もないことを考える。公費貸与タイプからは数世代進化しているぶん高価なので、導入が見送られているのも知っているのだが、つい不満がたまる。声に出して言うわけにはいかない。学校での教育活動はすべて眼鏡型端末(グラスィーズ)が記録しているのだ。

 教室に入る。気をつけ、礼。

「みなさん、おはようございます」

 おはよぉございます、と絶叫に近いほど力み返った合唱に笑顔をつくりながら教室の四隅を見る。

 眼鏡型端末(グラスィーズ)に0.01秒程度でモスキートゼロを示す表示が投影された。直径10㎝ほどの超小型ラジコンにカメラを搭載する技術は以前からあったが、いまや最新型は3mmサイズだという。1cm未満のものは基本的に個人所有が非合法となっており、どこの学校でも排除には神経質になっているが、どうしても来校者が通常の数百倍に膨れあがるDDayだけはセキュリティが甘くなりやすい。かつては手が離せない仕事だから滞りなくDDayに参加させるため、モスキートでライブ映像の配信をしろと保護者がねじこんでくるのはよくある話だったという。むろんどこの教育委員会も個人情報非公開を盾につっぱねたが、我が子の映像だからと犯罪意識なく盗撮に走る者はまだマシな方だろう。中には8mm弱のモスキートを虫に偽装して、ローアングルから我が子どころか見も知らぬ女児のスカートの中身を撮った盗撮魔もいた。データを売ろうとして逮捕されたこともあって、企業所有のモスキートもDDayに持ち込みは禁止されたが、企業城下町にある資本100%の株式会社法人の私立などでは水面下でデータのやり取りが発覚したこともある。らしい。表沙汰にはなっていないから、あくまでも噂ということになっている。公立ではそこまでひどくはないのがありがたい。

 後ろの壁際には、昨日の放課後にぴりかが貼った子どもたちの絵を背に、スーツ姿の男性が数人並んでいる。もちろん全員が手ぶらである。一昔前には運動会などでプレスよろしくカメラを構えた保護者が押し寄せたこともあり、モスキート以外の撮影記録機器の学校内への持ち込みも教育省が禁止した時には最高裁まで争われたそうだ。だが全企業にDDay参加義務が課されてからは、この手の騒動は減少した。レンズ越しの画像を見るのではなく、きちんと子どもと向き合って家庭内の対話ができなければコミュニケーション能力養成の意味が失われるという主張が教育評論上の中心となったのも、その流れを後押ししたのだろう。

 全世界で同時多発的に進行した超少子高齢化に伴う労働人口の急激な減少が社会問題化したのは10年ほど前のことだ。いちはやく東南アジア諸国を中心とした労働者の囲い込み(エンクロージヤー)に着手した欧米に対し、外国人労働者の受け入れ制度などの立ち上げで遅れをとった日本は、医療や介護、物流・外食といった第三次産業から農林水産業などの第一次産業に至るまで、すべてにおいてすさまじく深刻な人手不足に陥った。国内のあらゆる就労可能な人材の有効活用と人口再生産の社会的促進について即時対応しないことには、150年後には国として消滅の危機を迎えると言われるまでに追い込まれたのだ。そこで暫定的な人手不足を法改革による成年齢満18歳への引き下げと飛び級制度の一般化による人材促成で補う一方でマイナス金利による設備投資が進められ、高度情報化および自動機械化が徹底された。定年齢の引き上げが一部の専門職をのぞいてされなかったのは、再雇用対象とすることで人件費を低減し、そのぶん設備投資に費用を回されたのだろう。

 その状況下において数代前の政権は家庭のみならずすべての企業や団体、官公庁に至るまで教育参加義務を課し、不履行に対する罰則を定めたが、無論大きな批判を呼んだ。だが数代前の政権は支持率の急落にも強硬な姿勢を崩さなかった。単純労働における人手不足は機械化で解消されるが、知識や能力を持つ人材の不足は教育でしか解消されないという主張のもと、罰則に違反企業名の公表を盛り込んだのだ。従わなければ社会問題の解決協力に消極的とみなされ、雇用者側もイメージダウンは避けられない。

 そこで逆転の発想をしたのが当時の経済連合会だ。それまでも個々の企業がイメージアップのため、講師や機材を派遣するかたちで学校教育に参加することはあったのだが、経済連合会は企業による「教育に男性が参加する機会の確保」として、男性のみの授業参観=DDayを盛大に展開したのだ。平日のまる一日業務を免除する代わりとして各教育行政に認めさせたのが、学校の敷地内における企業広告の持ち込みである。企業が学校教育に協力する以上、学校教育も企業に配慮しろということだ。撤去する必要の無い広告のみという限定がなされたため、初期には参加者全員が肩に広告表示用の液晶シートディスプレイを乗せていたり、スマートフォンというスマートではない分厚い携帯端末に、学校の敷地内にいる間のみ広告を表示させたりしていたらしい。

 そして、学校の敷地内における企業広告の持ち込みと男性のみの授業参観日の実施は、女性労働人口の98%が就職している現在も続けられている。


 短い休み時間も教員たちは休めない。慌ただしく打ち合わせをする声が交錯する教務室で熱中症予防のドリンクチューブを咥えながら次の授業の準備をしていたぴりかの頭上から、同じ学年の担当教員の声が降ってきた。

「あれ、今日はぴりか先生だけ?大変ですね。アスラン先生は」

「お子さんのDDayで……」

「うわちゃぁ、かぶっちゃってましたか。どこでしたっけ」

「保育園ですよ。N区の」

 複担任の子はまだ三歳だ。とはいえ、幼児期教育への寄与という名目があるため、就学前の園児が対象であってもDDayへの参加機会は保障されている。

 今や単純作業はむろん、施設管理やメンテナンス、ルーティンワークの多い事務や経理、庶務はほぼ業務用AIが処理している。技術革新を期待される研究者や創造性を求められる芸術分野に才能を発揮する人は尊敬されているがごく一部にすぎない。最も多いのは、機械ではとれない管理責任を負う高度管理職か、機械化が不可能な伝統技術の職人や精密工、もしくは高いコミュニケーション能力や感情労働を求められる職種だろう。

 特に教育分野へは比較的多くの人材が投入されているのがありがたい。百年の計として初等教育段階の教師と児童生徒の割合を大学レベルの2:10以下の比率にするという目標を前政権が掲げてくれたおかげだ。複担任制及び教科担任制も小学校中学年から導入されるようになり、DDay参加が有給扱いだったのが専念義務免除扱いになったのが数年前。DDayに父親として教師が参加できないという笑い話のような笑えない状況は、ほぼ消滅した。とはいえ、短時間管理職などを活用して、スリーマンセルが常態である一般企業に比べたらまだまだ遅れている。人材の集中運用により人間同士の相互チェックシステムを構築することで、人が機械を監視するだけでは防げないミスも致命的なものにせずにすむ。同時に業務内容を把握している代替要員をつねに確保することで24時間業務に対応する人間を置くことも可能になり、出産育児や介護による離職によるロスを低減することもできる。加えて休養時間の保障と充実がさらに人口の再生産可能性を高め、ひいては人手不足の長期的解決策ともなっている、はずなのだが。

 遠距離からの盗撮防止用シールドが張ってある屋外運動場を見れば、いつもの大学生ボランティアに加えスーツ姿の父親たちが、子どもたちといっしょに遊んでいる。これも教育参加のひとつなのだが、そのうちの一人が宙に手を伸ばしている姿に眉が寄った。さすがに撮影機能は稼働していないのだろうが、仮想キーボード入力で仕事をこなす片手間に遊んで「やって」いるのだ。教員が見ていないだろう所で抜ける手は抜く、ということか。それでもDDayに参加している、という主張が通るだろうことが腹ただしい。

 保護者が加わることが条件になっている教育参加には、放課後や休日は学校施設を開放して行われる学童保育プログラムもある。複数の教室が設けられているので、子どもの適性に応じ教科学習をしたり、身体能力や職業や技術に対する興味関心を伸ばしたりすることができる。保護者自身にも出産や育児に携わるほど評価が上昇し、高度社会保障が無償で受けられるようになるなどのメリットがあり、同時に雇用している企業の評価も上昇するのだが、そのぶん見る目も厳しい。そこで同じことをしていたら他の保護者から総スカンをくらうだろう。公教育は結局のところなめられているのだと感じるのはこんなときだ。

「あれは…4組の茉莉花(じやすみん)さんのお父さんですね。佐々先生に一言お話ししときましょう」

「そうですね…」

 ぴりかと同じ表情になった同僚が、ああそう、と隣の椅子に座ってきた。

「そういえば、N小から高齢者話しかけ事案が報告されてたのは見ました?」

「いえ、まだです。それにしてもまたですか?」

「ええ、しかも暴行被害が出てるそうです」

 ぴりかは溜息をついた。これで今月に入って三件目だと思うと、ますます眉間の皺が深くなる気がする。

 かつて企業経営の中核を担う40代から50代が親などの介護で退職してしまうのを防ぐ保険や施策が採用されたのを前例に、出産や育児にも休暇や給付など、相応の社会保障が充実している。若年層だけに限られないのは、冷凍保存を行った精子や卵子を用いて、収入が安定した定年間近になってから出産に挑む女性も増えたからだ。

 同時に労働人口維持のため、70歳以上の高齢者雇用も進められている。認知症などの予防医療がきわめて高度になり、人材の有効活用な年齢層がより幅広くなっているためだ。とはいえ、精神の老化は止めようがない。集中力も注意力も低下するため周囲の情報は耳に入らず、とんちんかんな受け答えが増えるのはしかたがないが、それを決して認めようとはしない。思い違いを指摘すれば大声を出してキレるか聞こえないふりをするとあっては、とうてい全人格能力ともいえる対人関係能力を求められる高度管理職としては雇用できない。たいていは定年前に機械の遠隔操作や監視が主な下位管理職に再就職というかたちになる。それをよしとしない高齢者が問題になっているのは、身体機能がそれほど劣っていないのに家にいて暇をもてあますからだ。

 時間が余っているならボランティア活動などで地域コミュニティに貢献すればいいものを、高齢者、特に高度管理職経験者の中には肥大したプライドが邪魔をするのか、それすらしないで他者とのコミュニケーションを一方的に求める者が多い。しかし超少子高齢化による人手不足が社会問題となっているということは、対人関係の構築にもコストがかかるということだ。

 だが、彼らは対価を支払おうとはしない。有償の対話サービスのPOPデータを見ない日はないが、それを利用する高齢者は少ない。茶飲み話に出す金と暇はないというのが言い分だ。そのくせコンビニなど客商売の店員や企業のサポートコールセンター、市役所窓口などの公共サービスなどに長時間絡み、業務妨害や暴行、傷害の現行犯で逮捕されるという事件が多発したため、真っ先に完全自動化されたのはそれらの人的サービスだった。

 設置されたロボットには不思議と高齢者は絡まない。おそらくは自分よりも弱いもの、小さいもの、経験の浅いものを選んで攻撃することで自己を守ろうとする自己承認欲求のなせる行動だろうと高齢者心理学の研究者は推測している。器物損壊ともなれば、残りの生涯賃金どころか年金数十年分まですべて失うほどの損害賠償が請求されると理解がすすんだせいでもあるだろう。

 そこで、彼らが眼をつけるようになったのは子どもである。

 しかし、笑顔で近づく見知らぬ大人を子どもは警戒する。安全教育として下手な親切心が被害をもたらしかねないことは学校でも重点的に指導している。そのマニュアル通り、大声で助けを呼んだり、逃げようとしたりする子どもに対し、高齢者はとたんに手のひらを返したように罵声をあびせたり、手を上げたりするという。

 これが高齢者話しかけ事案だ。

 家族の知り合いや近所でつきあいのある場合は「莫迦にしやがって」などと家に怒鳴りこんだり、暴れたりするなど被害も重篤なものになりやすい。地縁がしがらみとなり、しつこく粘着されても隔離することが通常の不審者対応に比べ困難になることも少なくないのだが、残念ながら暴行事件でも初犯では懲役刑にはなりづらい。再犯性が高いことは量刑にまだ考慮されていないのが現状だ。精神的セラピー効果を謳った家庭用の対話用ロボットも昔から開発がすすめられているが、「人のぬくもりとは比べようもない。金銭の媒介なく、生身の人間とふれあいたかった」という加害者の発言などからも有効性は低いのだろう。ならば高齢者同士で完結していればいいものをと思うのだが、自己が脅かされそうな場を徹底して避けているということなら。

「傾聴者、もっと増えてくれませんかねぇ……」

 つぶやきは愚痴に化けた。

 かつて地域カウンセラーと言われた傾聴者は、公的無償サービスにはきわめて珍しい人的サービスである。各地域に配属されてはいるが数が少ない。教員以上に高い人間性をつねに求められ社会的責任を担う高度専門職であるためだけではない。他者の意見を求めず、自分の意見だけを押し通す高齢者の、しつこくくどくどした屁理屈に延々と耳を傾けるという、きわめて精神的に疲弊する職務だからだ。おまけに執着を転嫁される危険性の高さもあり、緊急連絡用モスキートの常時携帯を義務づけられているほどだ。現在のところもっとも有効な対処法には違いないのだが、職業として選択する人間が少ないのも無理はない。


 午前中の授業が終わり、礼を終えたタイミングで配膳用の自動機械(サンバ)が教室内に入ってきた。DDayは給食試食会も兼ねている。事前に申し込みのあった保護者の分までひとまとめになっているため、さすがに大量だ。そのせいもあってか、自動機械(サンバ)の動きもいつもよりゆっくりである。

「危険でスカラ離れテクだサイ」

 ディスプレイの後始末をしていたぴりかが振り返ると、自動機械(サンバ)の前に男子が二人立ちはだかっていた。人工音声の注意とともに人感センサーが機能し、子どもを避けて移動しようとしているが。

「やーだよ、のろのろロボー」

「抜けるもんなら抜いてみなー」

 サッカーのGKにでもなったつもりか。ディフェンスの格好でニタニタ笑う子にぴりかはつかつかと近づいた。

阿羅塵(あらじん)さん!久遠少年(ピーターパン)さん!あなたたちのしていることは非常に恥ずかしいことですよ」

 ちらりと親に目をやるのも忘れない。眼鏡型端末(グラスィーズ)には指導時の児童だけでなくその親の反応も記録しておくことになっている。気まずそうな顔でこちらに会釈をしたのを確認しておく。親の道徳性(モラル)とコミュニケーション能力はそれほど低くはないようだ。ムっとした顔でただ目をそらすだけの親であればモンスターペアレントの素質ありということで、対応には注意が必要とされる。指導に対する抗議が理不尽なものであれば、抗議者は一定期間DDayには参加できなくなる。ひいては企業イメージダウンに繋がったということで企業内制裁が加えられるが、逆上して学校に怒鳴りこみに来るようであれば、いっそう問題が拗れるからだ。

 あらためて二人の子どもに向き直る。ようやく自分たちのしたことが相当にまずいことだったと気づいたらしい。幼児の頃から自動機械(サンバ)に慣れている子どもたちはこんなふうにいたずら半分でちょっかいを出すことが多いが、今のうちにそれは決してしてはならないこと理解させなければならない。数ヶ月前にも「当たり屋チャレンジ」と称して、バスや自動車の鼻先に寝転び、無人運行システムが何メートルで止まるかを自撮りして動画をネットに載せた愚か者がいた。模倣犯は後期になるほど過激になり、数十センチ前で飛び出して轢かれ死亡するという自業自得を絵に描いたような事件も生じた。一人が死亡すると遺伝子多様性は国全体の0.000002%失われる。流通や交通だけでなく様々な産業に活用されている自動機械(サンバ)への妨害は、社会生活の維持に重篤な障害をもたらす。考えなしのいたずらで社会的損失を生じさせるのはみんなが食べる給食に毒を入れるようなものだと強調してでも、小学校のうちに自動機械(サンバ)に対する健全な道徳性(モラル)を身に付けさせなければ。義務教育化した高校を卒業したら、即座に社会人として戦力になる程度には伸長させなければならぬのだから。


 さて、とぴりかは気合いを入れ直した。

 ようやく最後の時限だ。本日のメインイベントでもあるため、教室の後ろには男性の保護者がぎっしりと並んでいる。飛び抜けて年配のため、一瞬部外者かと思った男性は眼鏡型端末(グラスィーズ)で確認したところ児童の祖父だった。母子家庭の場合、DDayに母方の祖父が出席することもまれではない。その場合は、祖父の給与手当や、母親の特別給付が加算される。経済的に困窮している母子家庭の場合はフードバンクの優先利用などの配慮もされる。もっとも、働けずに収入が低くても、産めば産むほど保障が累進優遇されるのだし、卵子バンクや代理母派遣会社の登録者であれば、なお生活に困ることはないだろう。かつて海外で盛んに行われていた代理出産は法制度の難解さと円安の進行につれて諸経費が跳ね上がったこともあり、法改革により国内における出産産業が認可されたとたん爆発的に広まった。給与の男女差を生涯収入額が逆転させた一因ともいう。経済的理由で子どもを持つことを諦める選択をする人は減り、おかげで合計特殊出生率は近年上昇傾向にある。「それではみなさん、身近な働く人たちについて調べたことの発表を始めます」

 この時限では子どもと保護者が協力して発表を行うことになっている。DDayのスタイルを参観から参加への転換を図り、「家族」をテーマとしたDDayマネジメントがキャリア教育の主流となったのは、ここ数年のことだ。何がどうでもDDayには種々雑多なPOPデータが教室内を侵食するのだから、それを活かさない手はない。ただ翻弄されているばかりでは、今日びの教師などやってはいられないのだ。複担任ともしっかりと打ち合わせ、事前準備はとうに済ませてある。その発表の際に参観者のPOPデータをともに流すことになっている。一人5分程度だから9人以下の学級ではちょうどいい。

「それでは、はじめましょう。王子(プリンス)さん、お願いします」

 緊張した顔で一人目の子が立ち上がると、その父親がこわばった顔で脇に進み出た。彼らの目は一様に冷たく厳しい。ぴりかにとっては、「児童が成果の発表を家族にどうアピールするか」という児童を評価する場であるが、彼らにとっては子どものできの良さ、あるいは悪さが露呈する場であり、その評価は企業の教育貢献評価のみならず、自分自身の社内考査に響く大問題なのだ。産前医療の高度化もあって、パーフェクトチャイルド願望が社会全体において脅迫観念化しつつあるらしいが、保護者の殺気だった表情を見ると可能性は高い。

「ぼ、ぼくの、おとうさんは…」

 作文をたどたどしく読み上げる声よりフライング気味に、派手なCG満載のPOPデータが流れだした。それなりに力を入れて作成したのだろうが、大企業から個人株式会社として起業した六次化農家まで、多様な職種の保護者が集まっているわりにはあまり代わり映えがしないのは予想通りだ。流通も建築業も農業も、共通するのは無人の広大な区域を黙々と動く無数の自動機械(サンバ)の姿と企業のロゴばかり。親が仕事をする様子といっても、管理責任を持つ職種ならば企業機密上、たいていは端末越しの似たようなアングルからしか撮れないだろうと単調なのは覚悟していたが、さすがに一時限ぶんも微笑みを維持していると口角の筋肉が引き攣れてくる。

 いよいよ最後の子の番になってほっとしたくらいだが、隣に立った父親の姿に、教室がざわついた。彼はスーツ姿ではなかった。投影不許可にしていたが、眼鏡型端末(グラスィーズ)でPOPデータを誰が発信しているかはぴりかも確認していた。しかし、彼はそれまで発信していない。通常仕事を持っていればありえないことだ。無職かと周囲のスーツからも軽侮の目が向けられたが、チノパン姿からはせっぱつまった様子はまるで伺えなかった。

 ごく自然な様子で肩に手を置くと、それだけで堅かった頬がかすかにゆるんだ。父親の顔を見上げて、頷き返した子どもが原稿用紙を広げた。

「ぼくのおとうさんは、ひとのはなしをきいています」

 それを待つように、ようやくPOPデータが発信される。

『あたりまえのことを、あたりまえに』

 黒字のデータだけがディスプレイに表示され、それがグレーアウトすると落ち着いた彩度で顔をマスキング処理した高齢者を相手にしている保護者の姿に変わった。介護施設かと思ったが、EPAにより雇用が必須とされる外国人介護者の姿がない。複数雇用が求められるのは、高齢者は外国人や女性に対する差別や偏見でたやすく暴力をふるう傾向があるからだ。

 しかし、これは……。

 はっきりと教室に動揺が広がった。異様なのは、この映像がモスキートのような極小レンズで撮影されたと思われることだ。これは合法的なものだとしたら、傾聴者の特権だ。だが傾聴者は執着の転化をおそれ、通常アバター越しであることも多い。これほど無防備に対象に身をさらすのが本当に傾聴者なのだろうか。何より、最高のエリートである傾聴者は誰でも好意を寄せずにはいられない秀麗な容姿かつ鋭利な頭脳の持ち主なはずではなかったか。清潔だが洗練されてもいない、こんなもっさりした休日の父親のような服装の男性が本当に傾聴者なのだろうか?

 しかし、映像の中で彼が向かい合っているのはディスプレイではない。確かに生身の人間だ。職場において人と人が直接一対一で接することはない。医師ですら遠隔診療が主体となっている以上、生身の人間と相対することはほとんどないはずだ。

 落ち着かない様子の高齢者は、ぐるぐると部屋の中を徘徊する。時に睨み付け、怒りを露わにし、男性の胸ぐらに掴みかかる。そうかと思えば突然号泣する。男性は、高齢者のくどくどと要領をえない堂々巡りの話にただ長時間つき合わされているだけのようだ。傾聴の技法など、何も使っていないように見える。

 だが、彼は高齢者の言動の一切を否定しない。ひたすらその目を見つめる。そしてそばを離れない様子は忠実な大型犬のようですらある。その態度そのものが心を安らがせるのか、相手が駒落としのようにみるみる態度を軟化させてゆくさまに子どもたちも釘付けになった。最後には画像処理でぼやけているが、たしかに笑顔で男性にお辞儀をする様子が映し出された直後、また次の高齢者との対話が始まる。そしてまた。そしてまた。

 しかも、他のPOPデータと違い、たった一日だけの画像を編集したもののようだ。服の様子とタイムスタンプからわかる。

 ぴりかは動けずにいた。映像は帰宅後の様子に変わっていた。

 映像の中では、子どもが満面の笑みで玄関へ廊下を走ってくる様子、そして「ただいま」と男性の口が動き、我が子に微笑みかける様子が映っていた。その笑顔は、傾聴者として高齢者に向けるものと同じだった。

 それは、「親が子を見る目」のあたたかさで他者にまなざしを向けており、子を「人間として対等に存在する者」として尊重することを表している。しかも、それは彼にとって「あたりまえ」のことなのだ。

 父としての役割を演技するのではなく、一人の人間として我が子に、最も身近な他人に接したことがどれだけあったろうか。自分の所有物とみなすのではなく、本当にこれほど対等に向かい合っているだろうか。

 ああ、そういえば、他の保護者はみな子の隣に立ってもPOPデータにばかり意識を向けて、我が子と眼をあわせることすらしなかった。彼らにとってDDayへの参加は権利ではなく義務でしかなかったのだろう。

「お父さんは、ぼくのもくひょうです」

 子どもが読み上げるのとほぼ同時に、白地に、シンプルな字体の文が浮かび上がった。

 『家族が、わたしの働く力の源です。』

 教室は、いつしかしんと静まりかえっていた。

 ひっそりと一人一人がPOPを切ってゆく。ぴりかもそっと眼鏡型端末(グラスィーズ)をはずし、やわらかな笑みを浮かべた。

父の日ということで。

とある賞の最終選考で「選外」となった作品。

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